帝都へ向けて
「ううむ......」
あぐらをかき腕組みをした姿勢で、一也は唸り声をあげていた。その目は彼の前の畳――正確にはその上の紙幣に注がれている。
長方形に整えられたそれが僅かに扇状に広げられている光景は、特に金銭欲の強い者でなくても心惹かれる光景であるはずだが、何故か一也の表情は浮かない。
一也は自分の財布を開けた。
千円札が四枚、それにコインがそこそこの数だ。勿論平成のお金であり、この明治時代では使えないお金である。
そういう意味では彼の眼前に広げられた紙幣は、れっきとしたこの時代のお金だ。先刻、彼が所有権があると告げられたこと自体は嬉しい。一文無しの状態から脱出出来たのだから。
なのに何故、三嶋一也の表情が冴えないかというと。
「時代が違うって思い知らせてくれるよな」
ばらりと紙幣を手にとる。
先程数えたそれは全部で六十枚。全て同じ一円札だ。
つまり――今のところ、六十円が彼のこの時代の全財産である。
知識として明治や大正の一円はそれなりの価値があったと知ってはいても、野犬討伐の報酬が六十円では一也としては釈然としなかった。
もっとも本人も頭では"これは現代なら数十万円に匹敵する"と分かってはいるのだが。
"慣れるしかないか"
見慣れぬデザインの一円札をまとめてポーチに入れながら、一也はやれやれといった感じで首を一つ振った。
もうじき夕方という時間であり、そろそろ小夜子が夕御飯に呼びにきてくれるだろう。
******
バカでかい頭領格の犬を倒したその後の数日間、バタバタと一也の周囲は忙しくなった。
まず村の人間全員に感謝された。ほとんど顔を合わせる暇も無かったので蔑視されるということも無かったが、それにしても見ず知らずの人間をよくここまでというくらいの感謝っぷりであった。
村を歩けば頭を下げられ、農作業の合間に紅藤家を訪ねてくる者も多かったのだ。
その殆どに対応してくれたのは小夜子であり、一也は隣で「いえ」とか「それほどでも」とか小声で言いながらやり過ごしていただけであったが。
神奈川県知事名義で報奨金が届けられたのは、そんな熱狂が冷めかけてきた頃である。どうやらあの野犬討伐の件を村長の木戸が報告していたらしく、県知事の使いと名乗った男は、害獣駆除の功績についての賞状と総額百円の報奨金を木戸に預けていったのだ。
そのまま村の物にしてしまう程には木戸も悪辣な男ではなく、報奨金は一也と小夜子の二人に託されたという次第であった。
「これ、いただいてもいいんでしょうか」
「いいんじゃないかな。命懸けだったのは確かだし」
「そ、そうですけど......大金ですよね」
目を白黒させる小夜子とは対照的に、一也はどこかしらっとした顔だった。
取り分を六対四で一也が多め、と決まった時もさほど嬉しそうな顔では無かったので、機嫌が悪いと勘違いしたのか小夜子がおそるおそる「七三、いえ、八二でもいいんですけど」と言い出したくらいである。
「ん、いえ、金額の大小は別に。ただ、現実味が無いなと思ってね」
どこか浮世離れした反応に深くは突っ込まなかったが、小夜子は"不思議な人だな"という一也への印象を強くした。
出会った当初から感じている違和感であったが、どうも一也は常識が薄いような――頭はいいようだが、当たり前のことを知らない節があった。厠の使い方もまごまごしていたので、見かねて教えたくらいである。
「それは私もこんなにたくさんのお金見たことないですから、現実味ないですよ?」
「多分、小夜子さんの言う意味とは違うと思うよ」
一也と小夜子の会話はどこか噛み合わない。それが小夜子にはもどかしい。何か大事なことをはぐらかされているような――そんな感じがするのだ。
小夜子から見た三嶋一也という人間は、基本的に善性であり命の恩人ではあるのだが――どこかしら掴み所が無く、底が知れない男であった。
そして困ったことに、それが不気味とか得体が知れないという訳でも無く、不可思議な魅力に繋がっているのである。
惹かれているか、と言うとそこまでハッキリとした感情では無い。ただ、今すぐ一也が去っていけば、少しは寂しいと思う程度には小夜子は一也には親近感を持ちつつあった。一也がどう思っているかはまったく分からないのだが。
「東京に行くという意志に変わりはありませんか」
ふと小夜子がそう問うた時、一也は何とも言えない表情で「ええ」と頷いたのである。
男には珍しい僅かに茶色がった髪をかきあげつつ、些か物憂い表情で。
「前にも言ったけど、確かな目的があるわけじゃないですが。とりあえずはね」
「私も別にはっきりとした理由は無いですけど」
少しはにかみながらの小夜子の返事を、一也は笑わなかった。「行けば分かるかもしれないし、それに小夜子さんはこの村に戻ろうと思えば戻れる。俺とは違う」と励ますようにも、あるいは突き放すようにも聞こえる言葉に、小夜子は何と答えていいか迷った。
困ったような小夜子の表情に気がついたのかどうかは分からないが一也はそこで会話を打ちきり、日課となっている銃の手入れを始めたのである。
それが昨日――四月二十一日に二人の間で交わされた会話であった。
*****
山間の春は来るのも遅い代わりに去るのも遅い。
"四月下旬にもなれば、東京ではもう完全に葉桜しか見当たらなかったのだけど――ここではまだ山桜が咲いているんだな"
その日の夕御飯が終わりしばし時が経過していた。
陽がとっぷりと暮れた宵闇の中、一也は半分だけ開けた障子越しに夜の庭を眺めていた。柱に寄りかかりながら膝を崩した楽な姿勢である。
紅藤家に最初に来た時にもらった藍色の着物にどてらを羽織った姿は、すっかりこの時代に馴染んでいた。ぬるく燗をした日本酒をちびちび猪口でやりつつ、ほろ酔い気分で明日からのことを考えている。未成年であることは都合よく忘れていた。
とりあえず野犬討伐の報酬のおかげで、当座の路銀は確保した。東京までは車も電車も無いので徒歩になるが、一日あれば行けるだろうとのことだ。
JR中央線さえあれば四十分で行けるじゃないかと文句の一つも言いたくなるが、今更そんなことを言っても始まらない。郷に入っては郷に従えである。
小夜子の話によると、東京といえども街として開発されているのはそれほど広くは無いという。
考えてみれば当たり前で、徳川幕府が支配していた時代から二十年しか経過していないのだ。
いわゆる大名屋敷があった麹町、信濃町などの一帯、文化人が住まう本郷から根津の居住区、商人達が店を並べる銀座から浅草界隈が人が多いとのことである。
逆に言えばそれ以外の地域――例えば平成における渋谷から代官山、恵比寿などの小洒落た若者エリアや池袋近辺などの幾分ざわついた喧騒が漂うエリアには、それほど民家が無いという。
絶望的なまでに開発されていないわけでもないらしいが、少なくとも高層ビルが立ち並びショッピングとグルメには事欠かない風景とは程遠いらしい。
どうしたものかなあ、と小さく呟きながら一也はグイ、と猪口を飲み干した。
日本酒はあまり飲んだことは無かったが、なにせこれしか酒が無い。小夜子の父に勧められおそるおそる飲んでみたところ、意外に口当たりが良かったので飲み始めた次第であった。
多摩にも銘酒はあろうが、小夜子の父がくれた酒は特に名も無い地元の酒である。それでも初心者なりに旨いと思えるのは、恐らく水が綺麗だからであろう。
「そんなに呑んで大丈夫ですか」
「ん。二日酔いしない程度にはしておく」
背後からかかった小夜子の声に、振り向かず答えた。寝たかと思っていたが、まだ起きていたようだ。
腕時計を見ると九時を少し回ったところ。いくらこの時代の人間が夜が早いとはいえ、起きている者は起きている。
背後の気配が動き、一也から少し離れた場所にトン、と座った。蝋燭の小さな炎が視界の一隅を明るく染める。そこでようやく一也は小夜子の顔を見た。
「眠れないんですか」
「ええ、早く寝ようとは思っていたんですけど。わくわくしちゃって」
夜着の上に上掛けを羽織った姿の小夜子は照れ臭そうに笑った。こうして見ると、歳相応の幼さがある。
先日聞いた話だと十六歳と言っていたが、背が低いせいもありもう少し小さく見えた。しかしこれは一也自身がまだこの時代の平均に慣れていないからだろう。
「仮に東京で働く機会があったら、小夜子さんは定住したいですか?」
「え......どうでしょう、行ってみないと分からないですね。楽しそうだなと思ったらそうするかも。それに」
「それに?」
「......縁談とかも関係してきますし」
「あ、ああ、なるほど」
面食らった一也だが、考えてみれば当然である。
女性の初婚年齢が、自分が想定しているよりもかなり若いのだ。高校生が結婚すると考えてはいけない。
しかしそう思うと、近い将来に小夜子が赤ちゃんを抱いて母親となっている可能性も十分にあるのである。それを想像するとどうにもむず痒い。
「一也さんはご結婚されているんですか?」
いきなりの質問に一也はむせた。含んでいた酒を危うく吹き出しそうになる。
「ま、まさか! 俺が結婚?」
「え、そんなに変ですか。ご家族の話とか全然されないので、多分まだかなとは思っていましたが――十九歳でしたら別におかしくないですよ」
「それは――まあ、そうなんだけど」
「まだなんですね、なるほど」
何となく得心いったように頷きつつ、小夜子は持ってきていた座椅子に座り直す。
何がなるほどなのか分からないまま、一也は何となく落ち着かなかった。
どうせ自分は非モテ組だという卑屈さは、まだまだ彼に染み付いているのである。結婚どころか彼女すら縁遠いように思える。
そしてそれ以前に、この世界での自分の居場所すら無いのだ。少なくとも今は。
「東京に着いてからの話ですけど」
「一也さんのお嫁さんを探すんですよね」
「そうそう......違う、絶対に違う!」
「何でそんなに嫌がるんですか!? はっ、もしかして一也さんは男色家......じ、冗談ですよお」
一也が傍らに置いていたM4カービンを掴みかけていたのを見て、小夜子は急いで否定した。
もう唐辛子弾は抜いてあるが、例えBB弾でも撃たれるのは勘弁である。
そんな小夜子の様子を見てから、ため息と共に一也は懐から一枚の封書を取り出す。上質の和紙のそれは丁寧に折り畳まれており、墨書きの文字が踊っていた。
「とりあえずは警視庁を訪ねよう。木戸さんの推薦状がどの程度効果があるかは不明だけど」
「ですよね。お仕事になるかもですし」
そう、二人とも全く伝手が無い訳でも無いのだ。
野犬討伐の実績と魔銃が使えることを木戸が推薦状にしたためてくれたのである。
神奈川県知事からの賞状も二人は受け取っている。
これらを使い自分達の実力を売り込みに行くならば、警視庁か陸軍くらいしか思い付かなかった。
「軍隊よりはまだ警視庁の方が馴染みがあるかな......」
「そうですね、あっ、でも女の人でも警官になれるんでしょうか」
「それは聞いてみないと分からないけどね」
婦警という職業はまだ明治には存在してはいないだろう。ただし小夜子が呪法士ということを考えれば、何かしら適職はあるのかもしれない。とりあえずは行ってから考えることにする。
一也は夜空を見上げた。
春の闇にぽかんと半月がその姿を浮かべている。
白々とした月明かりに照らされる紅藤家の庭へ視線を下げた。
名も知らぬ花が月光に濡れている。
「あまり遅くなりませんように。ではお休みなさい」
「うん、お休みなさい」
先に小夜子が立ち去り、ぽつんと一也は取り残された。明日への想いを酒に託し、最後の一口を飲み干した。
******
抜けるような青空、という使い古されたフレーズが一也の視界に重なる。竹刀袋に入れて偽装した二挺の銃の重みも、今の彼の足取りを重くはしない。
「それではお世話になりました。お達者で」
「行って参ります!」
一也と小夜子の別れを告げる挨拶に、小夜子の両親は笑って手を振ってくれた。
「東京で悪いこと覚えるんじゃないぞ」と小夜子の父が真剣に言う一方、「色々と見てきなさい。うちらのことは心配ないからね」と小夜子の母は最後まで穏やかであった。
迷彩柄のBDUは余りに目立つからということで、結局一也は餞別にもらった着物をそのまま着ている。
そのままでは夜は寒いので、途中で外套を購入する予定であった。足元はコンバットブーツのままだ。
「小夜子さんを危険な目には会わせないので、ご心配なく。落ち着いたら手紙書きます」
身長差もあり保護者のようであるが、娘が一人都会に行くとなれば心配にもなろう。
それを配慮しての一也の気遣いを感じたのか、小夜子の両親は嬉しそうであった。それを見て、一瞬だけ一也の胸に刺さる物がある。
――うちの両親達は元気にしてるかな。
まだまだ健在の父と母は、自分が帰ってこないことに心を痛めているだろう。弟も塞ぎこんでいるかもしれない。
こうなったのは自分のせいではないとはいえ、それが心残りであった。
大学の単位やバイトも心配ではあったが......まあ、それらはどうにかなると努めて楽観視している。
「電車があればなあ」
「えっ、何か言いました?」
「いや、こっちの話だよ」
吉祥寺村を出てすぐにぼやきが一也の口から漏れた。小夜子をごまかしながら、フイと背後を振り向く。
彼の知っている吉祥寺ならば東急が立っており、ハモニカ横丁があり、井の頭公園の池にはボートが並んでいるのだが――そのどれも存在しなかった。
池があるにはあったが、休日ごとに人が集まる華やかさはそこにはなく、未だ人手の入らない雑木林が鬱蒼と茂っていたのみだ。
――都心もだいぶ違うんだろうな。
一也がよく知る東京は、この時代には無い。
時を遡ること約百三十年、一也と小夜子が向かう先は文明開化の息高らかな明治の帝都である。そこには彼がよく知る者はいないのだ。
――サバゲー部の皆どうしてんだろうな。
中西、毛利ら頼りになる先輩の顔が。
中田、寺川らフラットな付き合いが出来る同級生の顔が。
土井を初めとする可愛い後輩達の顔が。
春風に散り行く山桜の花びらの彼方に――ポウと浮かんで消えた気がした。
「行こうか、帝都に」
視線を前へと転じ、一也は力強く一歩を踏み出した。「待ってくださいよー」と小夜子がその後をとてとてと追いかける。
彼と彼女が歩む先に何があるかは、まだ誰も知りようが無かった。




