歌姫の憂鬱
普段なら、すぐに旅立っていたのに、まだ日本を離れられなかった。
まるで、ジプシーのように世界を旅する歌姫。
その旅に終わりはなかった。
いや、最初から始まりも終わりもなかったのかもしれない。
自分の生まれた町の近くに来て、香里奈はそう感じていた。
世界中旅しながら、日本のこの土地だけは、香里奈は近寄らなかった。
できる限りは。
自分の心の奥にある思いの終着駅であり、始まりでもある場所。
香里奈は、ダブルケイに戻ることもなく、ホテルの一室を数日貸し切っていた。
お金は、あった。
いやらしい話。アルバムは売れていたので、自然とお金は振り込まれていた。
物欲もないので、ライブの為に買う服か…生きる為のご飯しかお金を使わなかった。
現金も持ち歩かなかった。カード一枚あれば、事足りる。
便利な世の中を、不便に過ごす。それが、香里奈かもしれないけど…自由は目の前に、広がっていた。
(でも、何でも自由ということは…あたしは、孤独だということ)
誰かがそばにいるなら、何でも自由はあり得ない。
自由は、自分勝手なものだ。
香里奈が思う自由は、対話と調和だった。
(対話…)
香里奈はかつて、隣にいてくれた人物のことを思い出していた。
自分から離れたはずなのに、自分から別れたはずなのに。
どうして、愛しいのか。
雪の降る日。
目標を失い、生きることに絶望していた自分をわざわざ訪ね、再び音楽へと導いてくれた人。
自分から、離れた癖に…今も近づけない癖に。
香里奈は、会いたかった。
(ナオくん…)
だけど、直樹は、香里奈の姉ともいうべき志乃と恋人同士になっていると、風の噂に聞いていた。志乃の会社で働いているようだ。
勿論…会えるわけがなかった。
いっそのこと…すべてを伝え、終わった方がいいのか。
いや、終わりもない。
もう何年も前に、終わった恋を今さら、どうにかできるはずがない。
人は過ぎ去った年月に、忘れ物をしたとしても、それを取りには戻れない。
だからこそ、大切に生きないと駄目なのだ。
だけど、人がそれに気付いた時には、もう遅すぎる。
そういう生き物なのだろう。
後悔をする…生き物なのだ。
香里奈はため息をつくと、ダブルケイの近くまで来たのに、引き返すことにした。
坂を下り、近くの駅に向かっていると、逆に坂を小走りに登ってくる高校生に気付いた。
最初は、和恵かと思ったけど、違った。
長い黒髪を靡かせ、一目散に上だけを目指して歩く少女の目の輝きに、香里奈は心を奪われた。
(この子は?)
ダブルケイより、さらに上にある住宅街に帰るのではない。ダブルケイにいくのだ。
香里奈は、そう確信した。
かつての自分と同じ匂いがしたのだ。
音楽を習う者…やりたいことに真っ直ぐに熱中する情熱。
香里奈は足を止め、上がってくる少女の顔を見つめてしまった。
その視線に気づかないはずがない。道には、2人にはいないのだ。
ダブルケイに向かっていた少女は、ゆうだった。
ゆうも、足を止めてしまった。
それは、視線に気付いたからだけではない。
その視線の優しさに、明日香と同質のものを感じたからだ。
ゆうは、香里奈を知らない。
現在最高のボーカリストと言われ、明日香と啓介の娘である彼女を。
(綺麗な人だ)
大きな瞳と、ショートカットでありながら、きらきらと輝く髪に、ゆうは見とれてしまった。
ちょうど、今は夕暮れ。
香里奈の向こうに、夕陽が沈んでいく。
だけど、夕陽より、香里奈の方が目を惹いた。
(…)
何もできなくなったゆうに、香里奈は頭を下げると、微笑みながら、歩き出した。
坂の途中で、すれ違う2人。
香里奈が通り過ぎても、しばらく動けなかったゆうは慌てて、振り返った。
しかし、もう香里奈の姿は視線の先にはなかった。
(誰だったんだろう?)
ゆうは首を傾げた。
感じからいって、絶対明日香の関係者だと思うけど…。
ゆうは後ろ髪をひかれながらも、ダブルケイを目指すことにした。
「おはようございます!」
もう夕暮れだけど、こういうとこでは、最初に会った時の挨拶は、おはようございますと決まっている。
ゆうが分厚い扉を開けると、もの凄く太い音が鼓膜を震わした。
それは、うるさい訳でなく、鼓膜よりも、心を震わせた。
「な!」
ゆうは音に圧倒され、店内に入ることができなかった。
奥のステージの上で、たった1人でアルトサックスを吹く男。
黒のタイトなスーツに身を包んだ男の名は、速水啓介。
天才安藤理恵と、阿部健司の間に産まれた天才サックス奏者。
彼がいたから、明日香は世界的な歌手になれたとも言えた。
ゆうは本能的に、ステージの男が啓介だと直感した。
音の感動よりも、嫉妬が込み上げて来た。
なぜなら、啓介はゆうが望んでも、手に入れられない幸せを掴んでいたから。
嫉妬が、ゆうを動かした。
ドアを閉めると、カウンターを目指す。
「おはよう」
里美が、笑顔で出迎えた。
カウンターには、1人先客がいた。異様に背が高いおじさんだ。
年はわからなかったけど、ゆうよりは年上だろう。
ウィスキーの入ったグラスを、傾けていた。
「もうすぐ終わるからね」
里美はちらりと、ステージを見た。
啓介は、店内に入ってきたゆうに気づいていた。だからこそ、最後のフレーズを吹くと、ステージを降りた。
そして、サックスを首から下げたまま、カウンターに向かって歩いていった。
「君が、和恵の友達の加藤さんだね」
笑顔をゆうに向け、啓介は言葉を続けた。
「はじめまして、私は和恵の父です。いつも、娘がお世話になって…」
「べ、別にお世話はしてません!」
ゆうはなぜか、突っかかるように言葉を発した。
そして、啓介を睨みながら、
「はじめまして!加藤美咲です!よろしくお願いします!」
なぜか、声を荒らげてしまった。
「あ、ああ…こちらこそ、よろしく…」
初対面の女子高生に凄まれて、啓介は思わずたじろいでしまった。
そんな啓介の様子に、カウンターに座っていた男が、大爆笑した。
「ハハハハ!あの啓介が、女に凄まれるかあ!昔じゃあ、考えられないなあ!年は取りたくないねえ〜!!ハハハハ!」
なかなか笑いがおさまらない男を、啓介は睨んだ。
「からかわないで下さいよ!おじさん」
カウンターの男の名は、阿部大樹。啓介の父親の弟だ。
「ア、ハハハハ………」
何とか笑いを抑えると、阿部はゆうに体を向けて、頭を下げた。ゆうも釣られて、頭を下げた。
阿部はまじまじと、ゆうを見つめた後、体を正面に向け…再び、グラスの中身を口にした。
そして、視線を上に上げながら、話し出した。
「…やっぱり、若い子が、店にいるのはいいなあ…。あの頃を思い出すよ。姉さんがいて…明日香ちゃんがいて…」
またグラスを傾け、
「ダブルケイらしいよ」
一気に飲み干して、カウンターの上に置いた頃には、阿部の瞳に涙が溢れていた。
「おじさん…」
阿部の予想外の反応に、啓介は驚きながらも、何も言えなくなった。
里美は空になったグラスを取ると、新しい氷とウィスキーを注いだ。
「いやあ〜!ごめん!ごめん!」
阿部は涙を腕で拭うと、笑顔を作り、
「初対面の子がいるのなあ〜ごめん!なんか、昔を思い出してさ…。俺はもう歳だから仕方ないけど…この店は、いつまでも、若さで輝いてほしいんだ。姉さんの残したこの店は…」
阿部は、里美からグラスを受け取ると、ゆうの方を向いた。
「でも…珍しいねえ。今は、ヒップホップやダンスが主流で、楽器を習いたいなんて、あまりいないよ!それに、ここは売れ線の音楽は、やらない。通の店だからね」
阿部の言葉に、里美はため息をつき、
「それは…若い子がいなくって…阿部さんみたいな頑固なミュージシャンしかいないからですよ」
煙草を取り出すと、口にくわえた。
「仕方ないだろ!俺達のような音楽屋が、やれる場所はなくなってきた。バンドを雇えるようなキャバレーもなくなったし、ラウンジで演奏しょうにも、最近は著作権著作権と、曲を演奏するだけで、金を取りやがる!」
阿部はカウンターに、グラスを置くと、拳を握り締め、
「もう…ミュージシャンの居場所は、ないんだよ。今の世界にな」
毒づいてから、ちらりと後ろの啓介を見た。
「こいつのように、スタジオミュージシャンとして、引っ張りだこなら…いいがな」
「おじさん」
「すまん!」
阿部は、グラスの中身を一気飲みすると、カウンターに置いた。そして、席を立つと、
「辛気臭いな!折角、若い子がいるのにな!すまない…今日は帰るわ」
阿部はポケットから、お金を取り出すと、カウンターに置いた。
「明後日、演奏するよ」
阿部は里美に告げると、じゃあと手を上げて、店を出ていった。
その後ろ姿を見送った後、里美はゆうに言った。
「世の中は変わるわ。今は、ミュージシャンには不毛な時代かもしれないけど…。人がいる限りは、音楽はなくならない。ただ変化する時代に、人間が対応できるかの…問題だけど」
そんな難しい話をしてから、里美ははっとした。
「ご、ごめんなさい!加藤さんには、わからないわね」
「いえ…」
ゆうは首を横に振り、
「なんとなく…わかります」
ゆうも変化していなかった。居場所もない。変えられない。だけど、今を存在している。
(俺こそ…時代から、取り残されている)
少し暗い影が、ゆうの瞳に落ちるのを察した啓介は、カウンターに座ると微笑みかけた。
「無理に変える必要は、ないよ。きちんとした個がある人は、必ず居場所が見つかる。そこが例え小さな場所でも…何よりもかけがえのない場所がね」
啓介の言葉が終わると同時に、扉が開き、和恵か帰ってきた。
「ただいま!」
和恵の声に、里美と啓介が返事した。
「お帰りなさい」
和恵は、ゆうに気付き、頭を下げた。
ゆうも頭を下げた。
まだ2人は教室では、話すことはない。
和恵は話そうとしてくれていたけど、ゆうはやんわりと断っていた。
あたしのせいでいじめられたという和恵の真相を、ゆうは聞いていない。
どうして、何があったと当事者である美咲から聞くのは、おかしい。
それに、クラスの状況を見ると、まだ美咲と話さない方がいいと判断していた。
大体、未遂に終わったとはいえ…自殺して、記憶喪失にまでなったクラスメイトにあんなことをするやつらがいるのだ。無理することはなかった。
(俺も…今の学校がわからん)
ゆうは軽く、肩をすくめた。
「ところで…加藤さんは、何を習いたいの?楽器?それとも…ボーカル?」
里美は、ゆうと和恵にオレンジジュースを出しながら、ゆうにきいた。
「え!?」
ゆうは驚いたけど…そりゃあそうだ。
音楽をやるといっても、いろいろある。
一瞬、絵里香から優一がギターをやっていると聞いていたから、ギターが浮かんだけど、ゆうは首を横に振った。
(俺は、優一とは違う!)
本当は歌をやりたかったけど、愛香のことを思い出した。
悩んでいると、啓介がカウンターに置いたアルトサックスが、目に入った。
ゆうの頭に、トランペットを吹く明日香と、サックスを吹く啓介…ではなく、自分の姿が浮かんだ。
「サックス!」
と口走ったゆうに対して、里美は目を丸くして、
「加藤さん…サックス持ってるの!?」
「あっ!」
ゆうは、サックスを持ってなかった。
管楽器は高価だ。
その事実を知る前に、啓介が口を挟んだ。
「俺が使っていないやつがある。それなら、あげてもいいよ」
啓介はカウンターから、立ち上がると、ステージの横にあるドアから、奥に入った。
しばらくして、楽器ケースを手にして戻ってきた。
そのケースを、ゆうの前に置くと、開けた。
「一度は、壊れたけど…直してはある」
「そ、それは!」
里美は目を見開いた。
そのケースの中にあるサックスは、数年間封印されていたものだった。
かつて、音のドラッグといわれた全米を震撼させた音。
それは,記憶を失った謎のミュージシャンKKこと…啓介が奏でたメロディーだった。
人を狂わす音。
その時、彼が使っていたサックスである。
一度は、パーフェクト・ボイス…ジュリア・アートウッドに勝負を挑み、敗れ去った時、ステージ上で破壊された。
その後…啓介は、自分が行ったことに対する戒めとして、その時のサックスを残していた。
「別に…こいつに罪はないんだ」
啓介は、ケース内で眠るサックスを撫でた。
「こいつを吹いてた…俺が悪かったんだ」
そう楽器に罪はない。
健司が置いていったトランペットを、恵子が明日香に渡したように、啓介はサックスを、ゆうに差し出した。
「こいつを、使ってやってくれないかい?こいつは、なかなかいいサックスなんだが…俺は、よく扱ってやれなかった」
啓介は、ゆうに微笑みかけた。
「君なら…このサックスを使うのに、相応しい」
「…」
啓介の言葉に、ゆうは無言になった。
優しい啓介の瞳から、サックスへと目を落とした。
きちんと手入れされ、新品のように輝くサックス。
それはあたかも…ゆうを待っていたように見えた。
サックスを見つめるゆうの様子を啓介はただ見守っていた。
幼き日、恵子は啓介に言った。
音楽は一人ではできない。
一緒に奏でる仲間がいるし、独奏でも…聴いてくれる人がいる。
だから、音楽をやる者は、人に優しくしなければならない。
そして、音楽を始めようとする者には、優しく手を差し伸べなければならない。
それが、音楽を…音を紡いでいくことになる。
音楽は繋がりなのだ。
自然と吸い込まれるように、ゆうはサックスへと手を伸ばした。
それは、幼き赤子に触れるように、気をつけて…優しく震えるように、ゆうはサックスの表面に触れた。
魂の共振というものがあるのだろうか。それは、命なき楽器に。
ゆうは一瞬、触れた指先が、サックスに吸い付いたように感じた。
あまりの感覚に、思わずサックスから指を離した。
その様子に、和恵は心配気な表情を、里美に向けたが、里美は首を横に振った。
啓介は、ただゆうだけを見守っている。
指先が離れたことに、ゆうは驚き…その瞬間、堪らなくなった。
離しては駄目だ。
心の奥底が、そう思った。
ゆうが気付いた時には、サックスを掴んでいた。
あとは、ただ…ケースから取り出すだけだ。
サックスはずしりと重くて、片手では落としそうになった。
無意識に、ゆうはサックスを抱きしめていた。
そして、知らぬ間に…ゆうの頬を涙がつたっていた。
「え…」
それは、予想もしない出来事だった。
ゆうは、涙が流れたことに驚いた。
そして、その涙が心の奥の奥から溢れてくる思いから、流れてきているのがわかった。
(美咲!?)
ゆうは涙を流しているのが、美咲であると感じた。
だからこそ、ゆうはぎゆっとサックスを抱き締め、さらに涙を流した。
今度は、美咲だけでない。
ゆうの分も入っている。
(俺の選択は間違っていない!)
ゆうは確信した。
音楽をやることが、美咲への癒しになると。
和恵も泣いていた。
里美もだ。
啓介は微笑んでいた。
ゆうは三人と、ダブルケイの店内を見つめた。
ここなら、この場所なら…美咲を救うことができる。
人に傷つけられた心は、人の温かさでしか癒せないから。




