集まれ温泉郷
二日目の温泉郷、俺とユミエルは揃って寝坊してしまった。
風呂に入っては寝て、風呂に入っては寝て、夜にご馳走をたらふく食べて、そんでもって風呂に入って布団に潜る。長旅で疲れていたのと、やっぱり日頃の疲れもあったんだろうな。自分でもびっくりするくらいに眠たくて、結局、目が覚めたのは、昼に差しかかろうという時分だった。
「んあ~……すげー寝た」
「……そうですね」
寝ぼけ眼をしょぼしょぼさせながら、宿の部屋でコーヒーを飲む。
いつもは紅茶党のユミエルも、今朝に限ってはブラックコーヒーがいいようだ。どこかぼんやりとした表情のまま、ちびちびと熱くて苦いコーヒーを飲んでいる。
「これじゃブランチって時間でもないな。普通に昼時だ」
「……朝が来れば、自然に目が覚める方なのですが」
「それだけ熟睡出来たってことだろ。慰安旅行みたいなもんだし、そっちの方が来た甲斐があるってもんだ」
「……そうですね」
目をしぱしぱと瞬かせ、大きめのマグカップに再び口をつける。
うちのメイドのユミエルさん。思えば今まで、こいつが寝坊をしたことなんてあっただろうか? 平日はもちろん、休みの日にもなかった気がする。休みの日と言ったって家事があるし、物ぐさな俺の面倒を見るのも大変だっただろう。
俺もたまに手伝ったりはしちゃいたが、そんなの気まぐれみたいなもんだ。ユミエルの苦労とは比較になんてならないし、休日はここぞとばかりに惰眠を貪っていたりもした。
(ううっ、今さらながら罪悪感……!)
いくらメイドだからって、甘え過ぎていたな。今回の言い出しっぺは俺だけど、ユミエルにもたっぷりとリフレッシュしていってもらおう。
「そうと決まれば、まずは飯だな。どうする? ここで食べるか?」
「……少し離れた場所に、地元の人も通う名店があるそうです」
「またそのパンフレットか」
起きてからずっと持っていたのか、ユミエルは一冊のパンフレットを広げていた。
ここに来る前、王都で買い求めたものだ。俺はザッと読んだだけだけど、ユミエルは道中、ずっとそれを手放さなかった。
「お前がそういう本に弱いとは知らなかったな」
「……いえ、そのようなことは」
ほんのわずかに動揺し、パンフレットを閉じようとするユミエル。
苦笑しながらそれを止めて、俺はイラスト付きのそのページを指先でなぞった。
「なるほど、伝統料理を王都の技で洗練! 温故知新の名物料理! か」
「……はい」
「良さそうじゃないか。近いんだろ? 行ってみようぜ」
「……よろしいのですか?」
「よろしいも何も、お前が行きたいんだろ?」
伺うようなユミエルの頭に手を置いて、ぐるんぐるんと軽く回す。
「こういうところで遠慮はなしだ。やりたいこと、行きたい場所があったらどんどん言えよ?」
「……はい」
少し乱れた頭を手で押さえ、ユミエルはこくりと小さくうなずいた。
そうそう、それでいいんだ。プライベートな旅行中、やりたいことがあればどんどんしてみればいい。特にユミエルは控えめだからな。ここぞとばかりに俺を振り回して欲しいもんだ。
「それじゃ、支度が済んだら出かけるか。俺は軽く風呂に入ってくる」
「……かしこまりました」
席を立ったユミエルに見送られ、俺はバッグ片手に大浴場へ向かった。
時刻は十二時、今日という日はもう半分過ぎてしまった。だけど焦りは全然なくて――でもユミエルをあんまり待たせちゃ悪いなと思い、俺は鼻歌混じりながらも廊下を急いだ。
「ぷはあっ!」
なんて声を上げたのは、昼間から酒を飲んでいたからじゃない。
むしろその逆、とても健康的なことをしていたからだ。
「いや~、気持ちいいな~!」
そう言って髪をかき上げて、周りをぐるりと見回してみる。
ここはアースティア温水湖。その名の通り温水が流れ込む湖であり、国内どころか大陸屈指の天然温水プールなんだとか。
見渡す限りの湖が、どこまで行っても温水プール。そこには百人くらいの人がいたが、それを十倍、いや、百倍にしても、まだまだ湖は広く見えるんじゃないかと思えた。
笑えるくらいのスケール感。やっぱり大陸は違うなあ。
(それに泉質だって)
熱いってほどじゃないけど、ぬるいってほど気持ち悪くはない。春先でもほんのり温かい水は、なるほど確かにこの気温で泳ぐには最適だった。
加えて、温泉同様の効用もあるらしい。湖底からすくった泥は美容にいいらしいし、なんと、ろ過したら美味しいミネラルウォーターにもなるみたいだ。
いくら何でも万能過ぎるだろ。こりゃ神と関わりがある土地だってのも、あながち間違いじゃなさそうだな。ひょっとすると、そこらへんに神様がいたりして――。
「……ご主人さま」
「うおっ!」
不意の遭遇に身構えていたら、後ろからぼよんとぶつけられた。
「って、なんだ、ユミィか」
「……申し訳ありません」
浮き輪を使って漂っていたところ、うっかり俺にぶつかったみたいだな。
ぺこりと頭を下げるユミエルに、俺はどうってことないと短く返事をする。
「それより、どうだ? 温水湖での遊泳ってやつは」
「……素晴らしいです。まるで童心に帰ったような気がします」
「そりゃ良かった。時間はまだまだたっぷりあるから、楽しんでいこうぜ」
「……はい」
俺は潜水したり泳いだり、ユミエルは浮き輪で漂ったり湖底の泥をすくったり。
つかず離れずの場所で遊んでは、たまに合流してあれこれ話す。そんなことをしているうちに、あっという間に二時間くらい経過してしまった。
だけどまだまだ湖から出られず、俺たちはまた分かれて好きなことをした。
(たまに泳ぐのもいいもんだよな)
俺はやっぱり泳ぐのがいい。潜ったまま泳いだり、息継ぎをしながらクロールをしたり、とにかく延々と泳いでいたい。
昨日ぐーたらした分、今日は思いっきり遊ばないとな。浮き輪を気に入ったユミエルは何時間でも漂っていそうだし、俺はもっと沖まで、湖の中心まで行ってみるかな――。
「わーっ!?」
「ん?」
ボンッ!
大きな声がしたかと思うと、頭にボールが直撃した。
怪我はしなかったが地味に痛い。ギリギリ【緊急回避】が発動しないレベルだ。役に立つのか立たないのか、融通が利かないスキルに不満を抱いていると、バシャバシャとこちらに近寄ってくる若者たちがいた。
きっとさっきの声の集団だな。水球みたいなことでもして遊んでいたんだろう。まあ、わざとやったわけじゃないし、ボールだけ投げ返してさっさと――。
「って、フランソワ!?」
「先生!?」
駆け寄ってきたのは、どこの誰でもない、大貴族のお嬢様ことフランソワだった。
「うおっ、クラスの奴らまでいる……」
フランソワに続いてやってきたのは、アベル、ヴァレリー、ベルベットなど、二年S組に所属するエリートな奴らだ。後ろの方にはまだまだ残りの生徒が控えていて、そのどれも学園で見たことがある顔だった。
「なんだ? どうしてお前ら、ここにいるんだ?」
「春休みに旅行に行こうという話になりまして。あのような事件がありましたが、だからこそ余裕を見せる必要があるとお父様に勧められましたの」
「なるほどな。貴族の子どもまでオタオタしてたら、下が落ち着かないわな」
「はい。ですが、先生こそなぜここに? まさか温泉郷にいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「俺は慰安旅行だよ。ちょっと最近、疲れることが続いたからさ。ユミィを連れて湯治に来たんだ」
「まあ……お察しいたします」
うわ、出た。ちょっと前から見せるようになった「お察し顔」だ。
また何か勘違いしているな? おおかた、ここしばらくの怪事件と俺を結びつけているんだろう。俺が陰ながら働き続け、この国に平和と安寧を取り戻したとか、どうせそんなことを考えているんだ。
(……否定できないっ!)
こ、今回ばかりはその通りだったな。
いや、もう、ほんとにハードだった。向こう百年は悪神やら教皇やらの顔は拝みたくないな。
「ご安心ください。先生のプライベートを邪魔するつもりはありませんわ。他の生徒も含め、必要以上に近づかないようにいたします」
「そうしてくれると助かる」
「もちろん、お誘いいただければやぶさかではありませんが……」
「ま、また今度な」
そっと耳打ちし、ついでに胸を押しつけてくるフランソワ。
制服姿でもスキャンダラスな行いは、水着姿だと一気にインモラルな香りが増してくる。
ほら、遠くで生徒が騒いでる。バルトロアの姫様が汚物を見るような目で俺を見ている。あああ、やめろベルベット。ここで感心されると、かえって立つ瀬がなくなってしまう――。
「じゃあ、連れを待たせているから!」
「あっ、先生!」
名残惜しそうなフランソワを残し、俺は元いた場所へと泳ぎ出した。
必殺の潜水泳法だ。もう生徒たちの声も届かず、その視線も感じなくなった。
(ふ~、奇縁ってのはこういうことを言うんだろうなあ)
まさか旅先でフランソワたちに出会うとは。
まあ、ここは有名な観光地だ。ここほどの場所なら、行き先が被るというのもあり得るだろう。なんせ商店街の福引でも旅行券が当たるくらいだからな――。
(……って、あれ?)
なんか水が濁ってきた。水面が揺れているのも感じる。
どっかの馬鹿がドタバタはしゃいでんのか? これじゃそのうち踏んづけられそうだ。
(仕方ない。浮上するか)
今の俺の肺活量なら五分か十分ぐらいは余裕で潜っていられるが、そこまでしても怪しまれそうなところだ。これをいい機会と思って、息継ぎついでに顔を出そう。
(そうと決まれば、ザバーっとな)
手をかいてグンと上昇。そのままの勢いで、俺は水面に浮上して――。
「ひんっ!?」
ぷにょんという妙な感触を頭に受けた。
「なんだ? 今の声?」
おかしな声だった。それにやっぱり感触だよ、感触。
ぷにぷにのスライムでもいるみたいだ。いや、それよりかは少し硬いな。芯があるけど、でもやっぱり柔らかくて、どうにも上手く伝えられない感触だった。
声があるってことは人間なんだろう。しかし、人間のどこにぶつかったんだ? そんなことを考えながら、髪をかき上げ、顔を拭うと――。
「…………………………」
「ア、アルティ!?」
目の前に立っていたのは、真っ赤な顔をしたアルティだった。
もちろん水着姿だ。セパレートタイプだけど、ちょっと競泳水着っぽくもある。そんな露出多めのアルティが、なぜかぶるぶると震えながらお尻を抑えている。
ははあ、さてはこいつの尻にぶつかったんだな。それであの声と感触が生まれたんだ。
よくよく頭に物がぶつかる日だ。たまったもんじゃないな。しかし今回は俺が悪かったし、ここは素直に謝っておこう。
「すまなかったな、アルティ」
「すまなかったなじゃねーよ!!」
俺をにらみつけていたアルティが、風船が弾けるように怒声を上げた。
「いきなりなんだ! なんでここにいるんだ! こんなことして遊んでたのかよ!」
ギャンギャンとがなり立てられて、耳がツーンとしてしまった。
失敬な、俺にそんな変わった趣味はない。広い世の中にひとりぐらいはいるだろうが、あいにく俺はそのひとりじゃ決してなかった。
「ちげーよ。泳いでたらたまたまぶつかったんだよ」
「たまたまぁ? ウソつけ! どうやったらたまたまぶつかるんだよ!」
「よく見ろよ。なんか濁ってんだろ? だから周りがよく見えなかったんだよ」
「うっ……」
この一帯だけ湖底の泥が舞い上がってしまっている。
こんな状態で狙って尻なんか狙えるわけがない。それを遠回りに指摘してやると、アルティは赤面したまま言葉に詰まった。
「だ、だいたい、なんでここにいるんだよ」
照れ隠しに憎まれ口を叩くアルティ。
お尻を抑えたままのこいつに、俺はフランソワにも伝えたことを繰り返した。
「いや、慰安旅行でさ」
「慰安旅行ぅ?」
疑わしげな目だったが、納得はしてくれたんだろう。
ゆるゆると警戒を解いていくアルティに、俺はほっと息をついた。
しかし、そうなってくると気になるのはこいつのことだ。こいつこそ、なんでここにいるんだ? まさかフランソワみたいに学生旅行じゃあるまい。
「お前こそなんでここにいるんだ?」
「え?」
「冒険者ギルド、大変だったんだろう?」
なんでも、教会の信者が紛れ込んでいて大騒動だったとか。
久しぶりにキリングがブチ切れて、ギルドホールが半壊になるまで暴れただの、王都にある教会を軒並みぶち壊しただの、信者を濡れタオルみたいに振り回していただの――。
ウソかほんとか分からないが、不穏な噂は聞こえてきていた。
「後始末もまだ終わってないんじゃないか?」
組織が大きければ大きいほど影響を受けやすい。
今回の事件はそういう類のものだったし、だからこそ、後始末も大変だと思っていたんだが――。
「いいのか、こんなところにいて?」
「それは……」
言いよどむアルティ。
説明に困っているこいつが、迷った末に口を開けると――。
「グボオオオオオオオオオッ!!」
「うおおおおおおおおおおっ!?」
濁った湖から黒い影が飛び出してきた!
そしてその黒いのは、べちゃべちゃと音を立てて湖底の泥をまき散らしている。
「ザンブル、ざいじゅぜいごうだぁぁぁ……!」
何事かを口走り、泥の中から貝殻か何かをつまみ上げる化け物。
その恐ろしい姿と声に、俺は思わず凍りついてしまい――。
「って、エルゥじゃねーか」
「あいたーっ!?」
濡れ女か水死体か、化け物じみた風貌の女に拳骨を落とす。
衝撃でぽろりと手から落ちたものは、すかさずキャッチしておいた。
「ん? 珍しいな。虹色の貝殻か」
「そうだよ! それを採取しに来たんだ!」
「で、アルティはその護衛をしていると」
「ああ。お前んちで会ったときに、つい依頼を受けちまってな……」
「なるほどな」
うちの居間は女たちのたまり場になっているからな。エルゥなんて俺の揺り椅子を占領してるし、アルティはいつの間にか炬燵に入っているし。その縁で依頼を受けたはいいが、相手はマイペースかつ強引過ぎるエルゥだ。世俗の忙しさなど理由にならないと、ここまで連れて来られたんだろうさ。
「まあ、大変だろうが頑張れ」
「ちくしょう……!」
さっきはエルゥが湖底を這いずり回っていたから水が濁っていたんだろう。
だけど変人エルフのことだ、これくらいで「サンプル採取」とやらが終わるはずがない。きっと契約を盾にあちこち連れ回されるぞ。
(ご愁傷様……)
後悔で肩を落としているアルティに、心の中で慰めの言葉を送る。
エルゥの相手は大変だろうが、まあ、頑張って依頼を完遂してくれ!
「しかし、変な土地だな」
「あん? 何がだよ」
「いや、お前に会ったりエルゥに会ったり、フランソワや生徒たちに会ったり……なんか、旅行先にいる気がしないな」
「は? あいつも来てんの?」
「ああ、いるぞ。ほら、向こうにいる集団がそうだ」
「なんかボンボンがはしゃいでると思ったら……」
顔をしかめるアルティ。
こいつとフランソワは犬猿の仲だからなあ。いつも張り合っては引き分けている。
そんなふたりが同じ旅先、同じ湖にいるなんて、やっぱり奇縁を感じてしまうが――。
「これでカオルとクルミアがいたら、オールスターって感じだな」
まさかそんなことはないだろう。
そう思って笑っていると――。
「こっち! こっち!」
「ちょっ、ちょっと、クーちゃん! 引っ張らないで……」
「ほら、いた! わう~♪」
「あれ? タカヒロ?」
「…………………………………」
この場にいないはずの人の声がした。
リゾート地とは縁のなさそうなふたりが、こんなところにいるはずがない。
しかし、現にカオルとクルミアはこの場にいて、水着姿でゴーグルなんかを頭にかけていらっしゃる。
「なんでここに?」
「いや、福引で四人分の旅行券が当たったから、お父さんとお母さん、余った枠でクーちゃんを誘って遊びに来て……」
「タカヒロ~♪」
「言ってなかったっけ?」
聞いた気がする。聞いていた気がする。
だけど最近、忙しすぎて、世間話の類が一切頭に入っていなかった。
(そういや、そんな話もあったっけな)
嬉しそうに話していたのを覚えている。
そして、その行き先が温泉郷であることも――。
(でも、日時まで被るかぁ!?)
もはや縁という言葉で片づけられない気がする。
何やら大きな力が働いて、必然的にここに集められたような錯覚さえ感じる。
いや、この際、それには目をつむろう。目をつむるが、しかし、これじゃ――!
(王都にいるのと変わらねえじゃねえか!!)
色々言いたいことはあったが、その一言に尽きた。




