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解放者

 夢を見ていた。


 遠い日の記憶。すぐそばにいた弟の思い出。


『兄さん! 待ってよ、兄さん』


 三つ下の弟、ケツ・ベイン。


 彼は兄であるゲイリーをよく慕い、いつも彼の後を追いかけていた。


『ほら、見てよ兄さん。ボクも兄さんの手伝いができるんだ』


 ケツはゲイリーの力になろうと一生懸命だった。


《聖戦士》の一員として、次期当主の弟として、兄を支えようと励んでいた。


『呪いにだって負けないよ。ボクもベインの男なんだ!』


 細い体で無理をして、それでも健気に笑うケツ。


 そんな弟をゲイリーも大事に思い、時には助力を願いながらも、彼のことを守り、その成長を誰よりも楽しみにしていた。


『兄さん。きっと悪神を倒そうね』


『この呪いを解いて、一族で聖都に帰るんだ』


『そのためなら、この命だって惜しくはないよ』


『ボク、頑張るよ。もっともっと修業に励むよ』


『だから見ていてね、兄さん。呪いに負けないでね』


『ねえ、兄さん』


『兄さん……』


「……………………」


 ゲイリーはギュッと目をつむり、こみ上げてくる何かをこらえた。


 涙ではない。怒りでもない。もっと大事な感情を、溢れ出さないように目元を押さえるゲイリー。


 今朝は久方ぶりに弟の夢を見た。目が覚めても、何をしていても、何度でも浮かび上がってくるそれを抑え込みながら、ゲイリーは再び周りに目を向けた。


「殺してしまえ! もうあやつはベインの者ではない!」


「そうだ! 悪神の手先になり下がるなど、言語道断だ!」


「恥知らずな奴めが……! 《聖戦士》の誇りを忘れおって……!」


 一族の野営地、その中央に建てられた天幕には、多くのベインが集まっていた。


 ハイ・ベイン。シュク・ベイン。ベイン・ジョウに、ベイン・キー。いずれも名だたる一族の重鎮は、しかし、普段の落ち着きを欠いている。


「我が氏族はハイ・ベインの意見に同調します」


「我らもだ! 自ら剣を持ち、裏切り者を討つ覚悟がある!」


「一度ならず、二度までも……! この失態は血によって贖うべきだ!」


 天幕の柱をぐるりと囲み、輪となって議論を交わす十一名。


 ベインに連なる各氏族の代表者たちは、ケツを討つべしと怒髪天となって叫んでいる。


「よりにもよって、《ノグ・ソール》の眷属などに……!」


 彼らを怒りに染めているのは、ただひとつ、怨敵に寝返った同胞のことだ。


 あいつは、ケツ・ベインは、一族の凋落を招いた悪神に、すがり、泣きつき、生き永らえたのだ。自分から望んで禁忌に触れ、悪神の穢れた血を自らの体に取り込んだのだ。


「やはり殺すしかない!」


「ああ、奴は討たねばなるまい!」


「二度と黄泉返らぬよう、血の一滴まで浄化してくれる!」


 激昂するベインたち。


 愚かなケツを討つべく、彼らは今にも立ち上がらんとして、


「まあ、待たないか」


 今まで口を閉じていた長老に止められ、少しの間ためらって――。


 いかにも不服そうに、男たちはどすんと腰を下ろした。


「フンじい」


 ゲイリーは意外そうな顔で祖父を見た。


 何を待てと言うのだろうか。長老格とはいえ、この流れは止められない。


 ケツはしてはならないことをしたのだ。いくら可愛がっていたからといって、庇いたくても庇いきれるものではない。


 では、何か。フン・ベインは何を言うつもりなのか。


 ゲイリーたちが見守る中、フンはため息をつくように口を開いた。


「お前たちの怒り、もっともだ。刃傷沙汰ならまだしも、あの子は越えてはならない一線を越えた。わしも許せぬ。許すことはできぬ。同胞とはいえ、生かしておくことまかりならぬ」


「ならば……!」


「だが」


 老人は悲しい目をして言葉を止めた。


 しわに埋もれかけた瞳が、暗く濁って揺れている。


「お前たちにあの子が止められるか? 悪神の加護を受け、より力を増したケツ・ベインを。呪われたその身で、あの俊才と渡り合えるというのか?」


 誰もがみな、口を閉ざした。


 そしてそれが、ベインの男たちの答えだった。


「できんじゃろう? わしもできん。ダイもできん。発作が起きれば、みじめに這いつくばるしかない」


 フンは呪いのことを言っている。


 枷をつけられた状態で、どうしてケツに勝てるというのか。解き放たれた獣を前に、いったいどのようにして抗おうというのか。


「できはせんよ。誰もできはせん。それは悪神も同じこと」


「親父殿!」


 座して黙するダイ・ベインも、さすがに声を張り上げた。


 それは一族の存在意義。否定してはならないものだ。


 悪神に呪われた《聖戦士》は、これを倒して汚名をすすぐ。それができなくて何が《聖戦士》か。何が神に選ばれし一族か。


《ノグ・ソール》だけは自分たちの手で倒さなければならない。勇者でもない。聖女でもない。ベインの一族が果たさなければならない。


 そうでなければ、今まで何のために――。


 何のために、自分たちは――!


「もういいのだ。認めよう。我らは無力な存在なのだと」


 フンの声は、ダイとは対照的に穏やかだった。


 長老の声。達観と諦観が複雑に混ざり合った老人の声。優しげにも思える声で、フンはとつとつと語り続ける。


「開祖カイ・ベインが《聖戦士》となり、その後呪われ、聖都から追放されて百年。わしはもう疲れてしまった。果たせぬ使命を追いかけて、放浪し続けることに飽いてしまった」


「聖都での暮らしを知るわしの父、そしてその祖父カイは、取り戻すことだけを考えていた。誇りを、名誉を、そして十全に戦える力を。悪神に奪われたすべてを取り戻すべく、彼らは悪神を追い続けていた」


「しかし願いは虚しく、老いて病床についたとき。彼らは何と言ったと思う?」


「帰りたい、じゃよ。みな、聖都に帰りたいと言って死んでいきおった」


「《聖戦士》だなんだと言ったところで、結局はみな、人間だったということじゃ」


「最後の最後に自分のことしか考えられない、ただの人間……」


「きっとわしも、今際の際には人間臭いことを言うじゃろう」


 うつむくフン。


 その顔は老成した《聖戦士》のそれではなく、ただのくたびれた老人のものだった。


「実は、古い友人を通じ、勇者に悪神討伐を依頼しておいた」


「っ!?」


「《ノグ・ソール》が討たれれば、ケツも邪悪な力を失うじゃろう。わしらにかかった呪いも解け、何もかもが上手くいくはず」


「長老、それは!」


「このような個人的なことで勇者を動かすわけには!」


「個人的なことなどではない」


 フンは疲れた目をして言った。


「もう個人的なことでは済まされない……分かるな?」


 あのケツが眷属と化した。


 血の惨劇を起こしたケツが、悪神ノグ・ソールの力を得たのだ。


 もはや内々で済ませていい話ではない。勇者の力を借りてでも、可及的速やかに問題を片づける必要があった。


「もう何もせずともよい。ただ座して、報告を待っておれば……」


 陰鬱とした声が続く。


 そこから逃げ出すように、ゲイリーはそっと天幕を出た。


(悪神が討たれる……)


 星空を見上げながら、ゲイリーは悪神のことを想う。


 怨敵が討伐されるのだ。一族の悲願が遂に果たされる。しかしそこに喜びはなく、あるのは漠然と広がる敗北感と、やり切れない空虚な思いだけだった。


(《聖戦士》も結局は人間)


 そうかもしれない。


 そうなのかもしれない。


 神のごとき存在であるのなら、きっとこのような想いは抱かなかったはずだ。


 妙なこだわりを持ち、意固地になって、百年も彷徨うこともなかっただろう。


(だが)


 堅苦しいと笑われようが、無駄なことだと言われようが、決して譲れないことはある。


 それは悪神のこと。いや、悪神に惹かれた弟のことだ。


(私は、ケツを……)


 ゲイリーは厩に足を向け、歩き出した。


 目指すは悪神の遺跡。一年前、ケツが惨劇を起こした場所だ。


 行かなくてはならない。行って、決着をつけなければならない。


 それは勇者にもできない、ゲイリーだけの――。


「……行かれるのですね」


 ゲイリーが手綱に手をかけると、厩の陰からナンが静かに姿を見せた。


「止めても無駄だ。私は行く」


「どうしても、ケツくんのところに行くのですね?」


「ああ。ケツが待っている」


「そうですか……」


 ベインの巫女、ナンはそれきり口をつぐんだ。


 しかしどかない。厩の出口に立ち塞がったまま、ナンは黙って立ち尽くしている。


 どういうつもりなのか。ゲイリーが声をかけようとすると、


「分かりました」


 ナンはうなずき、


「わたしも連れていってください」


 そう言って、自分の手をゲイリーの手に重ねた。


「……本気か?」


「はい」


「生きて戻れないかもしれない」


「はい」


「すべて徒労に終わる可能性もある」


「はい」


「それでもついてくると言うのか?」


「――はい」


 ナンは真っ直ぐにゲイリーの目を見つめ、言った。


「わたしは《巫女》で、兄さんは《聖戦士》。この先、一族がどうなろうとも、わたしは最後までそうあろうと思います」


 病弱な従妹。


 儚く脆い、ナン・ベイン。


 その彼女の目に、確かな芯と、決意の光を見て取って――。


「……分かった、行こう。私を支えてくれ、ナン」


「っ! は、はい!」


 果たして、ゲイリーはナンとふたり、草原の野営地を出ていった。


 決着をつけるべく。因果の鎖を断ち切るべく。ふたりは一路、ケツが待つ地へと向かった。






 その遺跡は、かつては悪神が住まう迷宮だった。


 とぐろを巻く蛇のような螺旋構造。ピラミッドにも似た禍々しき塔は、主を失い機能を停止し、今は人の気配も魔物の痕跡もない。


 だというのに、最上階、渦巻き状のドームの中は――。


「待ってたぜぇ、兄貴ぃぃぃ……!」


 複雑な紋様、壁や床に描かれた魔法陣は、まるで呼吸をしているかのように明滅していた。


 淡く赤く光るいくつもの刻印。その中心に立ち、薄暗闇に顔を浮かび上がらせているのは、悪神の眷属と化したケツ・ベインだった。


「ケツくん……!」


「なんだ、ナンもいるのか。相変わらずお兄ちゃんっ子だよなぁ、ええ?」


 不敵に笑うケツ。


 その変わり果てた姿に青ざめて、ナンは足をよろけさせる。


「お前、それは……」


「ああ、これ? いいだろう、悪神様直伝のルーンだぜ」


 ゲイリーも言葉を失っていた。


 白髪が赤く染まり、瞳の色も深紅に染まっている。


 それは以前と同じだが、今のケツには、彼の皮膚には、おぞましい紋様が浮かび上がっていた。


 床や壁に描かれているものと同じだ。悪神の遺跡にあるものと同じ。それが何を意味するのか、ゲイリーは考える必要もなかった。


「こいつが俺に力を与えてくれる。こいつが《ノグ・ソール》様との繋がりを強化してくれる。オレはもっと強くなれる。兄貴より、聖都の奴らより、もっともっと強くなれる!」


 興奮気味にそう話すケツ。


 粗暴な口調、力への渇望、今の彼には在りし日の俊英の面影もない。


「なぜだ」


「ああ?」


「なぜ、そうまでして力を求めた」


 何度目かの問いかけ。


 ゲイリーは分からなかった。ケツはそのような少年ではなかったはずだ。よしんば力を求めたところで、それは悪神を討つための力だったはずだ。


 それなのに、なぜ――。


「そういやあ、話してなかったな。ゲイリー」


「何を……」


「あの日のことさ。あの日、ここで何があったのか。お前は何も知らないだろう」


 あの日。ケツとゲイリーにとってのあの日。


 それは他でもない一年前、ベイン一族が聖職者たちを伴って、この遺跡の調査に来た日のことだった。


「オレは張り切っていたよなあ。聖都の人たちに良いところを見せるんだって、道中ずっと気を張っていた。ここに着いてからもそうさ。万が一があっちゃいけないって、ずっと奴らを意識していた」


 ケツはここで言葉を切った。


 そして、こらえきれずにくつくつと笑うと、


「だから、聞かなくていいことを聞いたんだよ。知らなくていいことを知ってしまった。あれがなけりゃ、今も呑気に《聖戦士》やってたかもな」


「何を……聞いたんだ」


「それがさあ」


 へらへらと笑いながらケツは言った。


 聖職者たちの言葉を。あの日聞いた、決定的な言葉を――。


「クソみてえな奴らだってさ!」


「……な」


「ベインの一族は聖職者の汚点だと! 《聖戦士》なんて名乗って欲しくないんだと!」


「…………」


「悪神に呪われるような奴らはこの世から消えて欲しいし、たとえ呪いを解いたところで、聖都には戻ってきて欲しくないんだってさ!」


 笑い転げながら、ケツはなおも続ける。


「本当はうんざりなんだって! ベインの呪いを解く手伝いもしたくなかったんだって! だから魔物しかいないところを放浪させてるのに、しぶとく百年も生き残って、まるでゴキブリみたいだって……ふふっ、あいつら、笑ってたんだ」


 それは遺跡の調査に同行した聖職者たちの言葉だった。


 ケツは聞いたのだ。休憩がてら、外で用を足していた彼らが、そのようなことを口にしたのを。ベインは穢れた一族なのだと、悪しざまに罵っていたのを。


「もちろん、信じられずに詰め寄ったさ。なのにあいつら開き直って、オレを突き飛ばし、ますます悪く言うんだぜ?」


「まさか……ロガン師は、そのような人では……」


「そりゃそうさ! 聖人なんかになる人は、心根が清らかなお人だよ? 後から駆けつけたロガンの爺さんは、オレを必死に庇ってくれたさ」


「なら!」


「だけどさ、ゲイリー。考えてもみろよ。人間が全員聖人か? オレたちに偏見を持たない人間がどれくらいいる?」


「…………!」


「一万人いたらひとりかふたりか? それとも百人、二百人はいるかもなあ? だがなゲイリー。そうすると残りは全部オレらの敵だ。オレらを汚物扱いする、無知蒙昧な輩ばかりだよ」


「………………!!」


 ゲイリーの脳裏に、先日の光景がよみがえった。


 呪いに苦しむ自分。それを置いて逃げ出す人々。差し伸べられる手はない。境遇を哀れんでくれる人もいない。まるで悪神そのものであるかのように、村の人たちは自分のことを恐れていた――。


「オレたちは! オレたちは《聖戦士》として人々に尽くしてきた! 呪いに苦しみながらも、ただ人のために、平和のために戦い続けてきた! それなのに奴らがベインにくれたのは何だ!? 恐れと忌避と悪評と! 人も寄りつかねえ魔物の住処だ!」


 そしてそのうちのいくつかは、聖職者たちが意図的にそうしむけたものだった。


 それを知ったケツは、許すことができなかった。剣を抜く手を抑えることができず、どうしても彼らを斬らずにはいられなかった。


 そうして起こったのが血の惨劇と呼ばれる事件だ。聖職者たちは全身を切り刻まれ、止めに入ったベインの者さえ切り傷をつけた。


 幸いにして同行していた聖人、聖ロガンが治療を施したことで、かろうじて死者は出さなかったが――。


 結果として悪神の遺跡は血に染まった。そしてその血が、ケツの怒りが、眠れる《ノグ・ソール》を呼び覚ましたのだ。


 だからこそ、死んだと思われていたケツは生きていて――こうして、悪神の眷属として振る舞っている。


 明らかとなった真実に、ゲイリーも、ナンも、うめき声さえ上げられなかった。


「オレは知ったんだ。人間はクソだとな。聖職者の方こそクソだとな。知ってるか、ゲイリー? 聞いたことあるか、ナン? 聖都の地下には魔物がいるんだぜぇ? それも大司祭様が魔物に変じた、冗談みてえな魔物だ」


「そのようなこと……!」


「嘘だと思うか? オレが間違っているとでも? でも、それがさ、本当なんだよなあ……」


 にやにやと嗤うケツは、彼の言う真実を語り続ける。


「オレは傷を癒しがてら、色んなところを回ったさ。《ノグ・ソール》様に導かれ、普通じゃ見られないものもたくさん見てきた。それこそ自分でも信じられないようなものも目にしたのさ。言っても信じちゃくれないと思うがな」


 ベインを捨て、悪神と共に、この世の裏側から世界を見てきたケツ。


「オレはそこで知ったのさ。絶対的な真理を。ゆるぎない真実ってやつを!」


「それは……なんだ」


「力さ!」


 ケツは吠えた。


 目を見開き、口角を上げ、けたたましいばかりに天へと吠えた。


「しょせん、この世は力なんだよ! 力さえあればどんなことでもまかり通る! 力さえあれば、どんなことだって自由にできるんだ!」


 それはケツが至った結論。


 力の法則。弱肉強食の理。万古よりこの世を支配する、絶対的なひとつの答え。


「オレたちが侮られていたのは、力がなかったからだ! 呪いをかけられ、《聖戦士》の力を思うがままに扱えずにいた! だから厄介者扱いされてたんだよ!」


「違う! それは違うぞ、ケツ!」


「違わねえ! 力さえありゃあ、あの日、オレたちが笑われることはなかった! 力さえありゃあ、百年も彷徨い続けることもなかった!!」


 脈動するように光を増していく遺跡。


 ケツの昂ぶりに合わせ、不気味なルーンは輝きを増していく――。


「だからオレは力を求めた! 中途半端な力を捨てて、より強い力を求めた!」


 叫び、ケツは上着を脱ぎ去った。


 露わになった上半身には、やはり、悪神の赤い紋様。


「だが足りねえ! もっと! もっとだ! もっともっと力がいる! それにはぁ!」


「ケツ! まさか、お前!」


「そのまさかさ!」


 この魔法陣は何のためのものなのか。


 何のために描かれて、何のために光を放っているのだろうか。


 それは――。


「悪神召喚……!」


 禁忌中の禁忌、悪神召喚。


 滅びをもたらす悪なる神を、邪法によってこの場に招く。


 それは禁じられた召喚術。聖職者が知るはずのない、邪教徒さえ恐れおののく忌まわしき技。


「止めろ! そのようなことをすれば、お前の体は!」


「もつさ! そのために一年も待ったんだ! 一年かけて、この力に馴染んだのさ!」


 魔法陣から漏れ出る瘴気は、黒き風となってゲイリーを圧する。


 近づけない。止められない。ケツの悪行を、兄であるゲイリーはどうすることもできない。


「分かるか、ゲイリー!? 【猛毒】を司る神、《ノグ・ソール》様は不浄を好む! 血肉を好み、螺旋に惹かれ、汚泥をまとって降臨する! だからこの場所、この体なんだ!」


「【猛毒】の血……!」


「それに、兄さま! あれは!」


「そう、そうさ! 他のは全部、補助にすぎねえ! 本命はこれ、これこそ中心だ!」


 部屋の中心、もっとも濃く、血のように妖しく光る場所は――!


「【アナル・ルーン】」


「ケツゥゥゥゥゥ!!!!」


「今、神は降臨する」


 ブピィィィィィィ!!


 ブッチッパ!!!!


 ブリブリブリブリバリバリバリバリィィィィィ!!!!


「ふばぁぁぁぁぁああああああっ!!!!」


 不浄の門より、出でよ悪神。


 ケツのデリケートな部分を押し広げ、大蛇が広間に現れる。


 その太さ、邪悪さ、いずれもケツが操っていた黒蛇の比ではない。


「ああああああああああああああああっ!!!!」


「あ、あああ、ケツくんのお尻が、ケツくんのお尻が……!」


 裂けていた。


 限界を超えたケツの尻は、無残にも裂け、血を噴き出していた。


 悪神はその血をまとい、その黒い体を赤く染めているのだ。まるで血便、いや、それ以上の禍々しさ――。


『シャァァァァァァァァッ!!』


「くぅぅっ!?」


 身の丈十尺、その長き体で螺旋を描き、邪悪なとぐろを巻く《ノグ・ソール》。


 その異様、その瘴気に中てられて、ゲイリーの体に残る呪いが活性化する。


「ぐううう……!」


 すぐにも膝をつくゲイリー。


 そんな兄を、息絶え絶えな弟が嗤う。


「おいおい、だらしないんじゃないか、兄貴……」


 悪神召喚の影響で、多大な負担を受けたケツ。


 しかし彼の体は、悪神が発する瘴気を吸って調子を取り戻していく。


「は、はは、見ろ。これが悪神の力だ。怪我をする以前よりも力がみなぎる。より深い繋がりを全身に感じる」


 ぼたぼたとこぼれ落ちていた血が、みるみるうちに量を減らしていった。


 癒されているのだ。邪悪な力が、ケツの傷を癒している。


 いや、それどころではない。彼の言う通り、その体には今まで以上に黒い力がみなぎっていて――。


「これが力だ、ゲイリー! 絶対的な、神の力だ!」


 全身から悪神と同じ瘴気を発し、ケツは兄と従妹に吠えた。


 同じ血筋でありながら、片方は勝ち誇り、片方はこうべを下げている。


 これが力の差だ。明々白々な、力の有無による差なのだ。それをより分からせようと、ケツはゲイリーたちに近づいて、


「くっ!?」


 反射的に手を引いた。


「ゲイリー、お前……!」


 警戒するケツ。


 彼の前では、ゲイリーが剣を持ち、立ち上がっていた。


 聖なる光をまとって。絡みつく瘴気を吹き散らして。


「ナン! お前の仕業か!」


 ケツはゲイリーの背後に目をやった。


 そこではナンが膝をつき、天の神へと祈りを捧げていた。


 一時的に《聖戦士》としての力を活性化させ、呪いを打ち消すための技だ。自身は瘴気に苦しみながらも、ナンは《巫女》としての役割を果たそうとしていた。


「はあっ!」


「ちっ!」


 光の剣が穢れを祓う。


 飛び退き、それをかわして、ケツは忌々しげに悪態をついた。


「悪あがきは止めろ! お前も悪神の力を受け入れるんだよ!」


「冗談にも聞こえんぞ、ケツ! そのようなこと、できるはずがない!」


「オレにはできたんだ! きっとお前らだってできる!」


「可能、不可能の問題ではない! 悪神の力など、願い下げだ!」


「なんでだよ! なんでそんなこと言うんだよ!」


 平行線のふたりは、ひらり、ひらりと広間を飛び回り、その度に強く鋭い剣を交わした。


「もう《聖戦士》の力なんて捨てろ! 楽になれよ、ゲイリー!」


「断る!!」


 ひとりは誘い、ひとりは拒絶する。


 分かり合えないふたり、ゲイリーとケツの兄弟は、このまま死闘を演じると――。


 思われたが――。


「あ……」


 ケツは不意に思いついたような顔をすると、


「もしかして、知らないのか?」


「……何をだ」


「そうか! 兄貴、知らなかったのか!」


 一転して嬉しそうな顔になり、ケツははしゃぎ、剣を収めた。


「そうかそうか! 兄貴は真面目だもんなあ。外を飛び回ってばっかりで、知らないのも無理はないよなあ」


「何だ。お前、何を言っている!」


「おい、ナン!」


 呼びかける声。


 それに反応し――ナンの肩が、びくりと震える。


「教えてやれよ! お前の秘密を! 何も知らない《聖戦士》様にさ!」


「止めて!」


「どうしてだよ。身内なんだぜ? 正直に話してやれよ?」


「お願い、それだけは言わないで!」


 ゲイリーを置いて、ふたり通じ合うケツとナン。


 彼らは言え、止めてと何度か繰り返し、それをゲイリーは唖然として見ている。


(秘密とは……なんだ?)


 このようなときに話すことなのだろうか。


 そもそもあのナンに、それほど重要な秘密などあるのだろうか。


 慕い、慕われ、将来を誓い合った《聖戦士》と《巫女》。その間で隠さなくてはならないこととは、いったい――。


「じゃあ、オレが教えてやるよ」


「ケツくん!」


「いいだろ? お前は言えないみたいだもんなあ」


 あのにやついた顔で、ケツはゲイリーの近くに寄った。


 そして、昔のような気やすさで、固まるゲイリーの耳元で――。


「教えてやるよ、ゲイリー。ナン、あいつはな、とんでもない女なのさ」


「いやああっ! 止めてぇぇ!!」


「ああやって清純ぶってるけどな……」


「いやああああああああっ!」


「本当は……悪神の力を使うのが大好きな女なんだよ!!!!」


 秘密の暴露に、ナンはとうとう泣き崩れた。


 ゲイリーは動けず、かかしのように突っ立ったまま動けない。


 そこにケツが蛇のように絡みつき、その耳元に秘密の続きをささやきかける。


「ベインの野営地、あの周りは魔物だらけだよなあ? 誰かが退治しないといけないし、それは昼も夜もなかったよなあ? しなくちゃいけない、みんなのためになる。そんな大義名分を盾にして、この女は……」


「うっ、うううう……」


「漏れ出る呪いを魔物にぶちまけていた!! そうだよなあ、ナン!」


「ああぁぁ……!」


 そんな――。


 はずは――。


 なぜなら、ナンは一族の《巫女》で――。


 誰よりも清らかで、悪神の呪いに人一倍苦しんでいて――。


「ナンだけじゃねえぜ? 他のやつらも同じさ。何かしら言い訳を用意しては、【猛毒】の力を使ってやがる。最近の話じゃねえ。多分、ずっと前からそうさ」


「そんな……はずは……」


「あるんだよ! そうじゃなきゃおかしいじゃねえか! なんで《聖戦士》のオレが悪神の眷属になれた? なんでトグロより深く、悪神と繋がることができたんだ?」


「それ、は」


「百年かけて馴染んでいったのさ。「かみさま」の力よりも強く。聖なる光とやらよりも深く。ベインの血に【猛毒】の呪いは馴染んでいた」


「………………」


 ケツの言葉は真実だった。


 ベインの一族は悪神に惹かれ、【猛毒】を操ることに快感を覚えていた。


 そのさがを否定し、無理に抑え込もうとするから苦痛を覚えるのだ。自分は《聖戦士》だ、聖職者なのだと言い聞かせるから余計に苦しむ。


「そんな姿、もう見ていられねえよ」


 ケツはゲイリーの肩に手をかけて言った。


「《聖戦士》だなんて言ったって、良いことなんてひとつもなかったじゃないか。人に蔑み、嫌われて、そのくせ便利な道具のように使われるんだ」


 優しい声。そこに敵意や悪意はない。


「ねえ、兄さん。ナンも、兄さんも、こっちに来なよ。ボクと同じ、悪神の眷属になろう。汚らしい人間はもう見限って、一族だけで自由に生きるんだ。《聖戦士》なんて枷は外し、これから本当の人生を送るんだ」


 それは心からの言葉だった。


 苦痛にまみれ、果てしないいばらの道を行く。


 そんな人生からは解放してあげたい、これからはもっと良い目を見させてあげたいという――。


 ケツ・ベインの本心だった。


(ケツ、お前は……)


 変わっていなかった。


 ケツはあの頃のケツのままだ。


 健気で、優しくて、いつも人のことを考えていたケツ。その心根は、悪神に傾いた今も変わらない。ゲイリーが知っているケツと、何の違いもありはしない。


(なのに)


 なぜ苦しむのか。なぜ悲しんだのか。


 なぜ怒りに我を忘れ、聖職者たちを切り刻んだのか。


 そしてなぜ、敵である悪神に帰依し、その力に頼ろうというのか。


(ベインだからだ……)


 そう、彼もまた、ベインだからだ。


《聖戦士》の一族。その血を受け継ぐ者。だからこそケツは悩み、苦しみ、やがて狂って魔道に落ちた。


「うっ、うっ、ううう……」


 ナンも同じだ。


 ナンもまた、苦しんでいる。ベインの血に。《巫女》として生まれ持った力に。


 だからこそこうして悲しんでいる。ベインにあるまじき姿を明かされ、それを恥だと嘆いている。


(なぜだ……なぜ……なぜ)


 なぜ、ケツが、ナンが――。


 フンが、ダイが、ショウが――。


 苦しまなければならないのか。


 なぜベインの名を持つ者たちは、十字架を背負わなければならないのか。


(《聖戦士》だからだ)


 そう、《聖戦士》だから。


《聖戦士》であるからこそ思い悩み、苦しみ嘆き、死んでいく。


 だから彼らの痛みは自分の痛みだ。ベインの痛みは自分の痛み。一族に科せられた罪と罰は、ゲイリー・ベインの罪と罰でもあった。


 こんなことなら、《聖戦士》の力など捨てたい。《聖戦士》など辞めてしまいたい。その気持ちも痛いほどに分かった。


 そうすることができたなら、違う道を見出すこともできるだろう。それはベインであり続けるよりも、どんなにかいいことかもしれない。


 しかし――。


 しかし、ゲイリーは、それでもゲイリー・ベインだった。


 空虚な放浪を続け、諦観の中で育ち、嫌悪で遠ざけられる日々を送っても――。


 浮かんでくるのは、ただ、


(救いたい)


 という感情だけだった。


「っ!?」


『シュァァァアッ!』


 静観していた悪神が、この日、初めて警戒の声を上げた。


 同時に飛び退くケツ。光に包まれていくゲイリー。


「これは……!?」


 なんだ?


 こんな光、ケツは知らない。


《聖戦士》のものではない。それよりも強く、優しく、柔らかく――。


 すべてを包み込むような清浄なる光だ。


「まさか……!」


 可能性があるとすれば、それだけだ。


 いや、しかし、そんなはずはない。長い《聖戦士》の歴史の中で、その領域に到達できたものはいない。開祖カイ・ベインさえ不可能だった。武芸に長けるハイ・ベインさえ、未だに《聖戦士》のままだ。


 だが、しかし。ゲイリーを包む光、いや、ゲイリーが発する光を説明するものは――。


「《神聖戦士》……!」


 今まで誰も到達できなかった、幻とも呼べる《聖戦士》の位。


 限定的ながら神の力を振るうと言われる戦士は、これまでに古文書「アートウィキ」の中でしか存在が確認されなかった。


 その伝説の戦士に、兄は、ゲイリーは、なったというのか。信じがたい現実を前に、今度はケツが固まる番だった。


「ケツ……」


「っ!」


「ナン……」


「に、兄さま」


「私は、お前たちを救いたい」


「…………!」


「救いたいんだ……!」


 顕現した《神聖戦士》、その足元から清らかな水がほとばしる。


 それはゲイリーのでん部に当たり、翼のように広がっては悪神の居城を清めていく。


『キィァァァアアアアッ!』


 瘴気が、汚濁が、ケツの血が。


 そのすべてが洗い流され、光となって消えていく。


 これが《神聖戦士》。これがゲイリー・ベインの新たな力だ。


 彼の体の中に、悪神の呪いはもうない。悪神に対抗し得る力は、何もかもを浄化していく。


『シィィィィ!』


 穢れそのものである《ノグ・ソール》が、浄化の水に身をよじる。


 ささやく蛇。たぶらかすもの。ティル・ナ・ノーグの追放者。楽園から追いやられ、それを否定する名を自らにつけた邪悪な毒蛇。悪神ノグ・ソールに対するは、聖なるベイン、ゲイリー・ベイン。


「悪神よ、今こそ決着のとき」


 ベインは古代エルフ語で「解放者」を意味する。


 そしてゲイリーは「まことの」という意味を持ち、合わせて「まことの解放者」。


 一族を苦しめる呪いから。どうしようもない人の業から。ゲイリー・ベインは一切を解放する。


 それが《神聖戦士》として目覚めた彼の使命だ。ずっと心に秘めていた、愚直に《聖戦士》であり続けた青年の願いだ。


「なんだよ、そりゃ! そりゃねえよ!」


「ケツ」


「あんたはいつもそうだ! オレが選べなかった道をたやすく通る!」


「ケツ……」


「遅えんだよ! 今さら《神聖戦士》がなんなんだよ! なるならもっと早くなっててくれよ!」


 ケツは涙をこぼしていた。


 今さら遅いのだと。自分は取り返しのつかないことをしたのだと。


 泣きじゃくりながら、ケツは兄へと剣を向ける。


「兄さま……」


「ああ、分かっている」


 取り返しのつかないことなどない。


 ゲイリーはケツも救いたい。たったひとりの弟を、見捨てることなく助けたい。


 だからゲイリーは悪神を倒す。諸悪の根源たる悪神を討ち、百年の因縁を今こそ断ち切る。


「ゲイリィィィィィ!!」


『シュアアアアアアアッ!』


 悲痛な叫びが聞こえる。


 悪神の雄たけびも聞こえる。


 それに向かい、ゲイリーは真正面から向き直り、


「《神聖戦士》、ゲイリー・ベイン!」


「……いざ、参る!!」


 名乗りを上げ、剣を正眼に構え――。










「とりゃー! 勇者セイバー!」


『グエーーーーーッ!?』








「「「……………………は?」」」


 ゲイリー、ケツ、ナン。


 ベインの者たちはみな固まった。


 ありえない光景を前にして、氷像のように凍りついてしまった。


 今、なんか、窓から――。


 女の人? が、飛び込んできて――。


《ノグ・ソール》が、なんか――。


 なます切りにされたっぽい――?


「いやー、危ないところだったね。間一髪間に合って良かったよ」


「お、おい、馬鹿! 空気読めよ!」


「空気? ええ?」


「これって、いかにも『長きに渡る一族の因縁に終止符を打つ』的な現場だろ!? お前がさっくり倒してどうするんだよ!」


「うーん、最近、調子が良くってねえ」


「あ~、も~!」


 乱入してきた黒髪の女と、後から入ってきた黒髪の男。


 堂々と胸を張る女とは対照的に、男は背中を丸めてこそこそと、なるべくゲイリーたちの視界に入らないようにしている。


「あ、あ~、いや、どうも、すみませんねえ」


 愛想笑いまでしている。


 とことんバツが悪そうな男は、周囲をきょろきょろと見回し、やっぱり背中を丸めていた。


「ほら、貴大君。次行こう、次」


「まだあんのか!?」


「今日は三本立てだよ~」


 結局、男女ふたりは何事もなかったかのように去っていった。


 転移魔法を使ったのだろう。一瞬に消え去ったふたりは、もう気配さえも残ってはいない。


 去り際に女が、やたら爽やかな顔で「それじゃ!」とか言っていたが――。


 どう反応すればいいのか、それさえゲイリーたちは分からなかった。


「……ねえ、兄さん」


「……なんだ」


「あれ、なに?」


「おそらく……勇者」


「勇者に頼んでたんだ……」


「フンじいがな……」


「早く言ってよ……」


「すまない……」


 呆然としたまま交わす言葉。


 文字通り毒気を抜かれたケツは、髪の色も目の色も、元のものへと戻っている。


「これから、どうしよう……」


「とりあえず、お茶でも飲みます……?」


「うん……」


 魂が抜けたようなゲイリー、ケツ、ナン。


 彼らはナンが淹れてくれたお茶を飲み、夜が明けてもずっと遺跡で呆けていた。

ダークでシリアスな話で本当に申し訳ありませんでした。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんかもう色々最悪ですね
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