帰還
きっかけは、疑問を持ったことだった。
悪神は死なない。滅ぼされても討たれても、何度でもよみがえる。
以前と同じ力のままで、まったく変わらない自我を持ち、永遠にこの世に在り続ける。
――本当にそうか?
本当にそれは自分なのか? 本当にそれは同じ個体なのか?
もしかして――もしかすると、再誕しているだけなのでは? 多くの下等な魔物と同じように、ただ「減ったから、新たに生まれた」だけなのでは?
そんなはずはないと思った。仮にも神を冠する存在だ。魔王や混沌龍には敵わないものの、他の魔物とは明らかに違う、特別な存在だと思った。
だけど、疑念を持ってからしばらくの間、他の悪神を観察していると――気がついた。気がついてしまった。
悪神は確かによみがえる。よみがえるが、それは別個体としてよみがえるのだと。
ささいな違和感、わずかな記憶の欠損、話すほどに増していく「違い」に、死への恐怖が膨らんでいった。
死ぬのだ。悪神も死ぬ。死んで新しい悪神が生まれる。それは以前の悪神と同じ顔、同じ力を持っているが、決して同じ存在ではない。
そんなの嫌だ! 死にたくない! 私は私のまま、唯一無二の存在でいたい!
私以外の私が私になるなんて嫌だ! 今の私が消えるなんて耐えられない!
神たる私が滅するなんて、そんなこと、許容出来るはずがない――。
いっそ気がつかない方が幸せだった。なんの疑いも持たず、人間を【衰弱】させて遊んでいた方が良かった。勇者に討伐されても、自分は死なない、またどこかでよみがえるだなんて――そう思えた方が、よっぽど良かった。
絶望と焦燥感に心身を疲弊させ、自分を倒しうる存在の影に怯える日々。こそこそと逃げ回り、森の奥や、迷宮の底に身を隠す毎日。
尽きない寿命は呪いのように思えた。ずっとこんな生活を続けるのかと、鬱々としていた。
そんな折のことだ。とある迷宮の奥深くで、不思議な穴を見つけたのは。
ここではないどこかに通じる、小さな、本当に小さな穴。そこからこぼれ落ちた欠片を、私は手ですくい、そっと口に運んで――。
「その日、私は枠を超えた」
「異世界のものを取り込むことによって、この世界から少し『外れた』存在になったの」
「決まり事が意味を成さなくなっていく」
「法則が望むままに捻じ曲がっていったわ」
「レベルの上限がなくなっていく」
「新しいスキルだって覚えたわ!」
「超越者になるのは気持ちがいいことなの」
「いつか本当の神にもなれるわ」
「この世界を飛び出して」
「別の世界にも、きっと行けるの」
イースィンドの首都、グランフェリア。
花の都と謳われた街、その大通りを、一人の女が朗々と語りながら歩く。
周囲に人の姿はない。黒い霧が立ち込めて、話し声のひとつも聞こえない。
だから女は――いや、女たちは、誰にもはばかることはなく、ただ悠々と街を歩いた。
「私はもう、死んでも私のままでいられる」
「私以外の私が私になるんじゃない」
「私が私以外の私になるの」
「私はメアリー・コープス。これも私」
「私は千川舞子。これも私」
「私はモーリス・クライム。これも私」
「私はモルタビア・チェンバス。これも私」
ドレス姿の女の姿はぶれ、幼女の姿に、芸者の姿に、老女の姿に、戦士の姿になっていく。
そして悪神の姿に戻っては、また違う誰かの姿になって、また悪神の姿に戻る。
「今はまだ、予備の体は少ないけれど」
「きっといつか、みんな私になるわ!」
「この世界のみんな、私になるの」
「もしかすると、不滅の存在になれるかもしれない」
「夢が広がるわ」
「希望に満ち溢れているの」
「ねえ、あなたたちも……そう思わない?」
悪神は振り向きながら、そう問いかける。
そこには特に濃い霧に体を縛られ、うめき声を上げるメリッサ、ルートゥーの姿があった。
「なんてことを……」
ここまで連れて来られたメリッサは、すべての事態を目にしていた。
広がる黒い霧。【衰弱】に蝕まれる人々。倒れ伏す衛兵。静寂の街並み。
「なんで、こんなこと……」
メリッサには理解出来なかった。この悪神は、なぜ、このようなことをするのか。なぜ、それを自分たちに見せつけようとするのか。
彼女にはまるで理解出来なかったが――。
「楽しいから」
答えはシンプルなものだった。
「今、この場では、私だけが唯一自由。何でも出来るわ」
「歩くことも出来る。踊ることも出来る。歌うことだって、自由なの」
「それを存分に感じられるのが、私、好きなの」
うれしそうに顔をほころばせる悪神。
メリッサは逆に、信じられないとばかりに目を見開いていた。
「たかが悪神が……よくも貴大を……」
ルートゥーは終始、憎々しげに悪神をにらみつけていた。
「許さん……許さんぞ! いますぐ貴様を引き裂いて……!」
そうは言うものの、霧を振り切れないルートゥー。
もがく少女を楽しそうに見つめ、悪神は彼女に問いかけた。
「怒っているわね? そんなに獲物を横取りされたのが悔しいのかしら?」
「なにを……!」
「貴女は本能的に気がついていた。異世界のものを取り込めば、今よりもっと強くなれると!」
「なっ……!?」
「だから佐山貴大を求めた……違う?」
「違うっ!!!!」
【衰弱】しながらも髪を逆立て、ルートゥーは叫んだ。
「我はあの三人のうち、唯一、タカヒロだけを求めたのだ! タカヒロだから好きになった! タカヒロだけを想っていたのだ!」
悲痛なまでの叫び声。
それをくすくすと笑い、悪神は自分の腹部を撫で回した。
「だけどその貴大君も、今は私のお腹の中。他の二人と一緒に養分になって、私をまた強くしてくれたわ」
「……っ!」
「美味しかったわ。ええ、とても美味しかった」
「じっくり育てた甲斐があったわ。熟成させただけの味がした」
「貴女の愛しの貴大君ね? 本当に美味しかったわよ?」
悪神はぺろりと可愛らしく舌なめずりをして、
「ごちそうさま♪」
「貴様ァァァァァァァァアアアアアッ!!!!」
ルートゥーの瞳が、手が、足が、龍のそれへと変わっていく。
口からは炎があふれ出し、咆哮は石畳にヒビを入れ、爪は悪神に向かって鋭く伸びた。
だが、それだけだ。それ以上は何も出来ず、悪神を傷つけることも出来ない。それほどの力量差が、今のふたりにはあった。
「あはっ」
「うふふっ」
「ふふふ、うふふふふふふ……!」
霧にまとわりつかれ、何も出来ない混沌龍。
膝をついて、涙を浮かべることしか出来ない聖女。
死んだように静まり返った街。広がる【衰弱】の霧。太陽さえもかすむ暗黒。
その中にあって、唯一、自分だけが自由だ。そのことを再確認した悪神は、笑いながら、踊りながら、清々しい顔で天を仰いだ。
「なんていい気分」
うっとりと目を細め、自分の体を抱きしめる悪神。
この世に生まれた喜びを、生きるという幸せを、全身で受け止める彼女を、もう誰も止められず――。
「………………?」
陶然としていた悪神は、ほのかに立ち昇る光に気づき、目を開いた。
これは――なんだ? 自分の体が仄かに光っている。青く淡い光に包まれて、それは段々と強さを増している。
「これは……」
自分の両手を見つめ、原因を探る悪神。
しかし、彼女が思い至るよりも先に、青い光は爆発的に輝きを増した。
「っ!!」
たまらず目を閉じ、腕で顔を覆う悪神。
更に強くなる光。黒く染まった街が、一瞬、光に満ち溢れたのち――。
その青年は、再び、〈アース〉の地に立っていた。
「タ、タカヒロ……?」
「タカヒロくん……!」
信じられないとばかりに戸惑うルートゥー。
ぽろりと涙をこぼし、再会を喜ぶメリッサ。
貴大。そうだ、貴大だ。悪神に喰われたはずの貴大が、彼女たちの元に戻ってきた。
そればかりか彼は燃えるような目で悪神をにらみつけ、闘志を体にみなぎらせている。
「M.C」
貴大は短くつぶやくと、
「決着だ」
今までにない態度。必殺の意思。
それを受けた悪神は――。
「あら――」
「おかえりなさい」
それだけを口にし、微笑んだ。




