道
改めて考えてみると――。
いい暮らしだなあと、しみじみ思う。
一軒家に住んでいて、自分だけの部屋があって、そんなにないけど小遣いももらえてて。家族はそれなりに仲がよくて、飯の準備は母さんが、風呂の準備とかは父さんがやってくれて。
洗濯物を脱ぎ散らかしてても、次の日にはきちんと洗濯されて干されてる。至れり尽くせりとはこのことで、なんで不満を持っていたのか分からない。
「なんだ? なんか言いたいのか?」
「いや、さあ」
「小遣いならやらんぞ」
「違うって。ほら、いつも世話になってて、ありがたいなって」
「………………熱でもあるのか?」
朝食の席、じっと父さんを見ていると、そんなことを言われた。
まあ、そうなるよな。いきなりこんなことを言われても困るよな。
でも、言っておきたかった。伝えておきたかった。ありがとうのひとつくらいは、ちゃんと言ってみたかった。
とにかく今は、そんな気分だった。
「げっ、バカヒロ」
いつもより早く家を出ると、スポーツバッグを提げた蓮華と出くわした。
「なんでこんな時間にいるのよ。時計、見間違えたんじゃないの?」
相変わらず生意気なやつだ。いつもツンツンしてて、ハリネズミみたいなやつだとずっと思ってた。
でも、今日はこいつが可愛らしく思える。憎まれ口だって、トゲのある態度だって、なんだか無性に微笑ましい。
「ちょっ、なにすんのよっ!」
妙に胸が温かくなって、自然と手が伸びていた。蓮華の頭に手を置いて、この生意気な幼馴染を優しく撫でてやる。
「やめて~! やめてってば!」
昔は自分でせがんでいたのに、今はもう、こんな感じだ。さすがに撫でて喜ぶような歳じゃなかったか。
そうか、そうだよな。蓮華ももう高校生だったんだ。あのチビが、大きくなったよな……。
「今日のあんた、ちょっと変よ」
唇を尖らせて文句を言うも、俺の隣に自然と並ぶ蓮華。
それがまた、やけにうれしかった。
「見た? 昨日のアレ!」
「すげー作画だったよな! やっぱ手書きだって!」
昼休み、教室でぼんやりとしていると、周りの会話が耳に入ってきた。
「AIに任せればいいんじゃねえの?」
「ちっげーよ! 分かってねえなあーっ! やっぱ人間じゃねーと質感ってやつがだな」
「出たよ質感」
アニメの話でもしてるんだろう。あいつらは飽きもせずに、いつもそんなことばかり話している。
「うっそ、ほんとぉ?」
「ほんとほんと。先輩が見たんだって!」
「いや、でも、接点なくない?」
女子は噂話が本当に好きだな。誰と誰がくっついたとか、誰と誰が破局したとか、そんな話ではしゃいでる。
どいつもこいつも、くだんねえよな。たまには他のことを話せばいいのに、習慣みたいに、まあ……。
でも、これもまたいい。こんな雰囲気、俺は好きだ。
わいわい、がやがや、能天気に好きなことを話しているのが――。
うん、やっぱり、好きだな。もうしばらく聞いていたいと、そう思った。
「今日もどっかに寄る?」
「俺はどっちでもいいよ」
「俺もどっちでもいいんだよな~。さあ、どうすっか」
放課後はいつもの三人で帰り道を歩いた。
今日は蓮華はいない。俺とれんちゃん、優介の三人だけだ。
中学に入ってからはいつもこの組み合わせ。腐れ縁もここまで来ると立派なもので、気の置けない関係を、俺は心地よく感じていた。
「貴大はどうだ?」
「ん?」
「どこか行きたいところ、ある?」
優介とれんちゃんが話しかけてきた。
「行きたいところかあ」
「そうそう」
「貴大が決めなよ」
少し悩む。
定番は駅前のマックだ。あそこで駄弁るのもいい。
家に帰ってVRで合流、なんてのもいい。仮想現実でたっぷり遊べる。
誰かの家に集まるのもいいな。途中で菓子とか買ってさ。三人でだらだら過ごすんだ。
どれを選んでもいいな。この面子なら、何をしたって大概楽しい。だから俺は、いつものように――。
「別にどこでもいいって」
ぞんざいな言葉を返す。
それを受けた優介とれんちゃんは、
「そっか。そうだね」
「まあ、な。別にどこでもいいよな」
そう言って、笑ってうなずいた。
ずっと続く日々。繰り返される日常。急いで何かを決める必要なんてなくて、ただ漫然と流れていく時間。
それが俺の高校生活だった。17歳、高校二年、中だるみと言われる時間。大切な時期とは言われるものの、そんな自覚はなくて、俺たちはただ、その日その日を生きていた。
きっとこんな日は明日も続く。明後日も明々後日も、そのまた次の日も、きっとずっと、卒業するまでずっと。
だから、別にどこだっていいんだ。行く先なんて、別にどこだって――。
「……貴大?」
「どうしたんだ?」
いつもの三叉路に差しかかったところで、俺は足を止めていた。
不思議そうに振り返るふたり。きょとんとするあいつらに向かって、俺は、
「夢を見たんだ」
「夢?」
「そう、夢。ここじゃないどこかで、俺が働いてる夢」
とつとつと話し始める。夢のことを。いつか見た、景色のことを。
「グランフェリアって街で、俺は働いてたんだ。店を開いて、メイドを雇って、何でも屋として働いてた」
「…………」
「でも、俺はそんなことしたくなかった。だってそうだろ? 働くとか面倒臭いし、楽しくも何ともないし、厄介事ばっかりだし」
「…………」
「だ、だけど、あいつらひどいんだ。俺に働けって言うんだ。いつも面倒事を持ち込んで、俺を巻き込んで、俺を働かせようとするんだ。なあ? ひどいだろ?」
「…………」
「俺がイヤだって言っても聞いちゃくれないし、メイドはいつも口うるさいし、他のやつらだって……」
話しているうちに涙がこぼれた。
拭っても拭っても涙は止まらなくて、話を続けることも出来なくなった。
でもそんな俺を、ふたりは優しく見守ってくれた。まるで大人みたいに。高校生らしくない、落ち着いた微笑みで――。
「…………なあ、これは幻なんだろ?」
「そうだよ」
「退屈で面倒で、優しくて温かくて……だけど、全部、過去なんだ」
「そうだ」
「俺たちだって、もう子どもじゃない。高校生じゃないんだ……」
「貴大……」
「分かってるじゃないか」
うなずくふたり。穏やかな顔のれんちゃんと優介は、夕焼け空の下、うっすらと微笑んだ。
「気づいたんだな、貴大」
「そうだ、ここは悪神が作った幻の世界だ」
「何もかもが偽物で……本物の俺たちは、ほら」
「病院で寝たきりだ。植物人間ってやつだな」
れんちゃんが手を滑らせると、ブロック塀に映像が浮かんだ。
そこには別々の病室で、静かに眠る俺たちの姿があった。チューブに繋がれ、痩せ細り、ただ生きているだけの「21歳の俺たち」が――。
「ここは優しい世界だけど、やっぱ現実じゃないんだな」
「うん。現実って、ほら、大変なことばかりだからね」
「そーそー! やれ受験だとか、やれ就職だとか、考えただけで頭が痛いわ!」
「うちもそうだな。妹たちが泣いてばっかりで、フォローが大変そうだ」
「このリア充が!」
「ははは……」
大変な状況なのに、俺たちはいつもの俺たちだ。
それが無性にうれしくって、俺たちは顔を見合わせて笑い合った。
それから少しだけ、口を閉じて――。
「行きたいところ、本当はもう、決まってるんだろ?」
「え?」
「今すぐ〈アース〉に戻って、悪神をぶっ倒したいはずだ! だよな?」
「そ、それは」
そうだ。もう決まってる。すぐにあの世界に戻って、悪神を倒したい。この四年にけりをつけて、何もかもを決着させたい。
だけど――。
「大丈夫。お前にはそれがあるじゃないか」
「俺たちと別れて二年、お前だけが結んだ絆がある」
「ほら……」
指をさされた右手を見る。
すると右手の小指、その中ほどに、青く光る糸が結ばれているのが分かった。糸は三叉路の右手に通じ、長く長く、どこまでも続いているように見える。そしてその道の先からは、あいつの声が――いや、もっと多くの声が、聞こえてくるような気がした。
「【妖精種の加護】……」
いつかユミエルと交わした絆だ。
それが俺の行くべき道を教えてくれていた。
「俺たちは無理だ。絆もなければ縁もない」
「悪神の支配を振り切って、そっちに行くことは出来ない」
「ごめん、貴大。迷惑をかけるね」
「でもな、ぜってー力になる。大丈夫、任せとけ!」
優介とれんちゃんが、力強くうなずいた。
俺に行けって言ってるんだ。心が決まったのなら、動き出せと言っている。そのための手段がある。絆をたどれば、きっと戻れる。
だけど、だけど、俺は――俺は――!
「大丈夫。また会えるさ」
「世界は繋がってるって言ってただろ?」
「だから……うん、きっと会える」
予感があった。
悪神を倒したら、俺は向こうで、ふたりはあっちだ。俺たちの魂は、いるべき場所に、いたいと思う場所に行く。そんな予感があった。
そして、それきり、長い別れになることが――。
「……約束だぞ。また会うって、約束だ」
「うん、約束だ」
「その前にしくじるんじゃねーぞ?」
「うるせー」
声が震える。また、涙がこぼれそうになる。
だけどふたりの前では精一杯に強がって、俺は三叉路の右手、【妖精種の加護】が指し示した道を歩き出す。
「あんなの、すぐに片づけてやる!」
「おお、その調子だ!」
「頑張れよ、貴大」
そうだ、歩くんだ。進むべき道を、自分の意思で、歩くんだ!
何度も振り返りながら、名残惜しく思いながらも――足だけは、前に、前に――。
「お前ら!」
「なんだーっ!?」
「……またな!」
「……ああ、また!」
「またな~っ!」
最後にそれだけを交わして、俺はもう、前だけを見た。
夕焼け色に染まる街。大事でかけがえのない、俺の故郷。そこから出て行く道を、俺はひとりで歩き続ける。
きっとこれが、大人になるということなんだろう。二十歳になったら、自動的に大人になるんじゃないんだ。自分で道を選んで、自分の足で歩くことが、大人になるってことなんだ。
多分、きっと、多くの人がこの道を歩いた。故郷から巣立つために、きっと、俺と同じようにこの道を歩いた。
だから、これは悲しいことじゃない。きっと喜ばしいことで、誇るべきことなんだ。
「うっ、くっ、くそっ」
だけど、涙はもう、どうしようもなかった。
次から次へとぼろぼろとこぼれ、そのたびに俺は涙を拭った。
だけど、前へ。そう、いるべき場所へ。
やがて街の景色がにじんで消えても、涙で顔がくしゃくしゃになっても、俺は前へと歩き続けた。




