私は楽しく水遊びしました
「素敵な場所ですね」
「ああ。知る人ぞ知る名所って奴なのかもな」
私達が降り立った場所は山間部へと続く小道の途中、勾配が出始めた辺りでした。そこから林を抜けますと小川が見えてきました。岩場もありますが石や砂利、砂がほとりを占めています。 耳をすませますと小鳥の囀りや木の葉がかすれる音、川のせせらぎが聞こえてきます。こちらの心が洗われるようです。
天気も晴れ渡っています。少し登ったからでしょう、下流の方には平野が広がっていました。壮大な景色と言わずしてなんと表現しましょう?
「ちょっとキアラ、一体何を……!」
「だって勿体ないですよ。これ程の清流を目の前にしてただ眺めるだけなんて」
私は靴を脱いでスカートの裾を持ち上げつつ川の水に足を入れました。まだ涼しい季節なのもあって水は冷たく、身体が震えてしまいました。それでも慣れれば心地よい冷たさですし水が私をくすぐるようでした。
裾を腰元で括ってから手で水を掬い上げます。汚れも無くとても透き通っており、このまま自分の顔を付けたくなる程でした。さぞ気持ちがいいでしょうね。せめてと口を付けて水を味見してみます。……味無し、普通に水ですね。
「それっ」
「うわっ、何するんだよ!」
「何って、掬った水をチェーザレに放っただけですが? それっ」
「だから止めろって……!」
私は両手で放った水をチェーザレはやや慌てながらも華麗に避けました。今度は手で水鉄砲を作って勢いよく水を飛ばしましたがまたしても回避されてしまいます。例えは悪いですが彼はまるで珍獣を見たような眼差しを送ってきました。
「チェーザレもどうですか?」
私がいらっしゃいと手招きしてもチェーザレは苦い顔をするだけでした。
「いや、遠慮しておくよ……。着替えも持ってきてないし」
「別に泳ごうとまで言ってませんよ」
水着は持参していませんし濡れていい服でもありません。乾かそうにも火を起こす手間をチェーザレにかけさせられませんし。また今度、もっと暑い季節になったら泳ぎに来てもいいですね。さぞ気持ちが良いことでしょう。
「いくらなんでもはしゃぎすぎだろ……」
「そうですか? チェーザレは池や川があったら飛び込みたくはなりませんか?」
「いや、別に……。何か、意外だ」
「言われてみれば確かにチェーザレにはこんな風な姿は見せたことありませんでしたか」
確かに聖女として生きた前の私からは考えられませんね。そしてもし私が前世の記憶など無いただの貴族令嬢でしたらもっと落ち着こうと心がけたでしょう。しかし大学院生として生きたわたしは祖父母の家に遊びに行った時はこうして遊びました。ついはしゃいでしまいます。
「こっちに手を出して。転んでずぶ濡れになったら大変だ」
段々とチェーザレの表情が不安に彩られていきました。彼の言葉に甘えて手を差し出し、尖った石を踏まないよう気を付けつつほとりに上がります。
私は手で水滴を払ってからハンカチで軽く拭き、靴を履き直しました。服を汚さないように片足立ちになって上手く靴に脚を入れられました。チェーザレの眼差しが私の脚に釘付けだったのは黙っておきましょう。
「水遊びをしたかったから私をここに連れてきたのではないのですか?」
「いや、さすがにその発想は無かった」
「水遊びをしたことはないのですか?」
「……せいぜい身体を洗うために井戸の水を浴びたぐらいだ」
それは勿体ない。いかにチェーザレの少年時代の境遇が恵まれていなくても遊び盛りだったでしょうから少しはそんな思い出があるかもと思ったのですが。母親の看病と生活を両立させるためにきっと私が想像しているよりはるかに過酷な生活を送っていたのでしょう。
チェーザレは敷物を広げてその上に座り込みました。二人が座ってもまだ余裕のある面積がありましたので、私も腰を落ち着かせます。さすがに履いたばかりの靴を脱ぎたいとは思わなかったので脚は前に放り出します。
それからチェーザレが私達の前に持ってきたのはバスケットでした。上掛け布を取りますと中からパンが姿を現します。そう言えば太陽はほぼ昇り切っていますから、今は丁度お昼時なのでしょう。
「帰った頃には夕方になるからこれでも食べてくれ。小腹に収める程度になっちまうけれど無いよりはマシだ」
「あー……そう言えば昼食をどちらが準備するかは決めていませんでしたっけ」
私も馬車から持ち出した風呂敷、とでも言いましょうか、で包んだ荷物をチェーザレとの間に置き、結び目を解きます。三段重ねの箱を解体して並べますと中には色とりどりの料理が敷き詰められていました。
「私もお弁当を準備してきちゃいました。一緒に食べましょう」
「……」
「チェーザレ? どうかしましたか?」
私がナイフとフォークを差し出してもチェーザレは受け取らず、弁当と私へと交互に視線を走らせます。
「ベン、トー?」
「調理が済んだ食べ物を携帯するなんて珍しくないでしょう」
「いや……携帯食ぐらいは知ってるけど、こんな凝った感じなのは見た事無いぞ」
「確かに安く簡単に早くって本来の目的からは外れていますね。ですが折角ですから美味しく食べたいので。ほら、これとこれ、それからこれは私が作ったんですよ」
「キアラが料理したのか!?」
弁当を持参すると決めたのはいいのですが、うちの料理人に準備しておくよう命じるだけでは芸がありません。食費を削減しようと努めた学生時代の前を思い出しながら腕を振るいました。キアラとして生まれて初めてでしたので少し緊張してしまいましたよ。
チェーザレはまたしても私と弁当の中身を交互に見渡し、ようやく差し出されたナイフとフォークを受け取りました。そしてまず私の料理を口に運び、何回か噛んで味わいます。すると目を軽く開いて呻りました。
「美味い……!」
「そう言っていただけると朝早く起きたかいがありました」
チェーザレはかき込むように料理を口にしていきます。よほどお気に召したらしく彼は美味い美味いと連呼しながら一心不乱な様子でした。あまりの速さに自分の分まで取られかねなかったので私も食べ始めるとしましょう。
手を組んで目を瞑り祈りを捧げます。主よ、あなたの慈しみに感謝しこの食事を頂きます。我らの心と体を支える糧としてください。……神に祈って意味があるのかも疑問ですが、聖女だったかつての私の生涯に渡る習慣は死んでも抜けないものですね。
「キアラが料理出来るなんて知らなかったぞ。俺が知ってるキアラはキアラのごく一部だったんだな……」
「そう仰るチェーザレだって王子になる前は自炊していたのでしょう? 今度私にも料理をふるまってくださいよ」
「……俺の飯は料理なんて呼べたもんじゃない。酒場とかの残飯をかき集めたりしてたからな。教会の炊き出しは俺達にとっては救済だった」
「……失礼。些か軽率でしたね」
結局チェーザレは私の手料理のほとんどをたいらげました。あまりに褒めちぎるので最初は嬉しさが込み上げたものの次第に恥ずかしさが勝りましたよ。彼は食欲旺盛だったのかきちんと自分が用意したパンまで残さず食べ切りました。おかげで私の方は腹八分目で済みました。
しばらく穏やかな時間が流れます。毎日登下校を一緒にしているので今更改まった話などありません。交わされるのは本当に他愛ない話ばかりです。それでも彼は私が飽きないよう時には面白おかしく、時には勇ましく語りました。
……私がこんな風に殿方と二人きりで過ごすなんて思いもよりませんでした。
「チェーザレ、貴方に感謝を」
「いや、礼を言うのは俺の方だろ。ベントーとやらに料理を敷き詰めてスープまで水筒に入れて来てたしさ」
「それは私がやりたかったからやっただけです。それより私はチェーザレがこのような機会を設けて下さったのがとても嬉しいのです」
「……そうか」
私とわたし、二人分の記憶を引き継いで生を受けた私は聖女にならないことばかり考えていました。前回は他者への奉仕に自分を費やしたのだから今度は自分のために生を謳歌したい、と。だから神託に耳を貸さず、聖女の執拗な勧誘を跳ね除けたのです。
ですが、その実どのように人生を送るべきかはあまり思い描けていませんでした。せいぜい貴族の娘として家をますます繁栄させるように良家に嫁ぐ程度だったでしょう。もしかしたら学院を無事卒業出来たところで燃え尽きていたかもしれません。
聖女でも貴族令嬢でもない私だけを見てくれたのは貴方が初めてです。
「私は、チェーザレと出会えて良かったと心から思いますよ」
「……っ」
私は自然とはにかんでいました。するとチェーザレは何故か口元を押さえて私から目を逸らします。それでも目じりの変化から恥ずかしいやら照れているのやら、とにかく混乱していると窺い知れました。
「可愛すぎ……反則だろ……」
「すみません、何か仰いましたか? よく聞こえませんでしたが」
「い、いや。何でもない。そう言ってもらえると俺も嬉しいよ」
彼の呟きが聞こえなかったのは本当です。ある程度想像出来ますがそれを語るのは無粋でしょう。それより彼がその後で放った独り言はきちんと聞き取れましたよ。喜びと嬉しさを湛えていましたからとても印象深かったです。
「出会えて良かった、か。キアラ、それは俺の台詞だって」




