私達は劇を観ました
演劇と一口に申しましても正装を求められる格式高い演目から大衆向けの娯楽まで様々あります。貴族の一員かつ学院の生徒である私は相応の格好をすればどこにでも入れたでしょうが、あいにく今日は目立たないよう町娘風の格好ですので大劇場には行けません。
「ほらお姉様、これです。皆さんから評判が高いんですよ」
「へえ、それなりに値は張りますが出せない程でもありませんね」
ですが今日は違うようです。当然席の良し悪しは変わってくるでしょうが聖都市民なら誰でも入れると立て看板に書かれていました。午前の部と午後の部があるらしく、午後の部を観る為に並んでいた客達が劇場へと足を踏み入れます。
これだけ人気なら満員御礼ではとも心配しましたがまだ幾ばくか空きがあるとの事でしたので入場券を購入しました。セラフィナは自分の分は自分で払うと言い張りましたが一蹴しました。どうせ私のお小遣いは実家からの仕送りです。気にしなくて結構ですよ。
開演間近だったのもあって私達の席は二階の端。舞台上の俳優達が指の先ぐらい小さく見える遠さです。一階の舞台真正面の席はやはり正装に身を包んだ方達ばかりですか。それに対して二階席はお忍びな私達と似たような服装をした者達がほとんどでした。
「それにしても意外ですね。セラフィナが私を劇に誘うだなんて」
「どうしてですか?」
「演劇や演奏では長時間拘束されるでしょう。そんな事に時間を潰すぐらいならもっと相手と語り合いたって親密になりたいと考えているとばかり……」
「その通りですけど、これだけはお姉様と一緒に見たかったんです」
どうも妙でした。先程までの繁華街での買い物や公園での休息とは打って変わってセラフィナからは笑顔が失われています。あえて表現するなら、何か困難や苦難に立ち向かわなければならない、そんな覚悟が前面に現れているかのようです。
セラフィナの組まれた手はかすかに震えていました。怯えか恐れか分かりませんが、私は少し身を乗り出して自分の手をその上に添えます。初めは固いままだった妹の表情が徐々に和らぎ、呆けたように私を見つめてきます。
「どうかしましたか? 具合が悪いなら席を立ちましょうか」
「い、いえ。大丈夫です」
「少し顔が青いですよ。私なんかに構わず自分を気遣ってください」
「本当に大丈夫ですって。わたしは……ちゃんと向き合いたいですから」
「向き合う……? 何に――?」
問い質す前に開幕をつげる鐘の音が場内に鳴り響きました。これまで雑談で賑わっていた空間が段々と静まり返ります。係員が会場の両脇の照明を落としていき暗闇に包まれました。それから天幕が上がり、主演女優らしき愛くるしい女性が姿を現します。
彼女の声は遠くの席にいる私達にもはっきりと聞こえる程に大きく透き通っていました。ですが決してうるさくはありません。自分の葛藤を観客一同に伝える台詞はまるでこちら側に正解は何かを問いかけているようでもありました。
聖女としての使命か、それとも禁じられた恋心か。
そのどちらを選べば良いのか、と。
それは一人の聖女の生涯のお話でした。決して裕福ではない環境で育った主人公はある日教会からの使いより聖女となる素質があると伝えられました。親と離れ離れになり聖女候補者として教育を受ける主人公は、親の死に目にも会えませんでした。
主人公を始めとする聖女候補者となった少女達の心の支えとなったのは三人の聖女達でした。彼女達が人々を救済する姿は尊敬を超えて崇拝にまで至っていました。聖女達は大いなる神の名の下に共に全てを救いましょうと優しくも頼もしい言葉を送りました。
そんな主人公は自分に仕える新米の神官に段々と心を許すようになっていきます。時には彼女の身を按じ、時には厳しく叱る。親を既に失ってしまった主人公にとっては彼だけが心を開ける相手になったのです。
「どうか、聖女にならないでと言ってください」
主人公は聖女に任命される前夜にとうとう自分の想いを神官に告白します。ですが神官は葛藤に苦しんだ末に芽生えていた愛情を押し殺し、己に課せられた聖女に尽くすとの使命を優先させます。愛を拒絶する形で。
主人公の悲哀と神官の慟哭は我々観客の心を打ちました。愛を諦めさせた神の残酷さを怨み、しかし人々を救済するとの大義の尊さも感じ、それが悲しみになって溢れ出てきます。おそらく主人公達の成り行きを見守るこの場の何割かが涙を流した事でしょう。
結局主人公は聖女となりました。神官は引き続き主人公に仕えます。二人の付き合いは表面上事務的なものとなり淡白でしたが、両者とも一人きりになればますます大きくなる恋心に苦しみ悩むばかりでした。
そんな時、世界を揺るがす事件が起こりました。
「さあ行くがいいお前達! 世界を混乱と恐怖に埋め尽くすのだ!」
それは轟くような声でした。舞台上の演技だとは思えない程迫力や臨場感があり、まるで私達まで舞台上……いえ、その劇の世界に立っているかのようです。そして、これから私達が災厄に見舞われる恐怖に陥ったのです。
主人公が敬愛していた聖女の一人が祓う対象だった悪魔の化身と結託して世界に混沌をまき散らしました。振るわれる悪魔の豪腕は人の胴体を裂き、吐き出される邪竜の火炎は人の営みを燃やし尽くします。地上に地獄が現れたかのようでした。
魔女と化した元聖女の討伐には神官も赴く事となりました。主人公は行かないでと懇願しました。しかし神官は縋る主人公の腕を振り切って戦場に赴きました。世界を守るために、そして主人公にかつて尊敬していた元聖女の末路を見せたくないとの固い決意をもって。
多くの犠牲者を出しましたが狂気に堕ちた元聖女は討伐されました。突き刺さった矢や突き立てられた槍で穴だらけとなった元聖女の身体に無事な箇所は何処にもありません。その亡骸は骨まで燃やされ遺灰も河へと投げ込まれました。魔女が生きた痕跡が跡形もなくなるように。天に召される資格すら無いのだと言わんばかりに。
元聖女の変貌は主人公に衝撃をもたらし、同時に使命感を芽生えさせました。偉大なる三人の聖女の力に少しでもなれれば、との考えから段々と自分が人々を救うんだと主体的になったのです。それは同時に自分が抱く淡い恋心との決別を意味していました。
「どうして悩む必要があるんですか? 本能の赴くがままに動いちゃえばどうですか?」
しかし、そんな主人公を惑わすかのように二人目の聖女が誘惑してきました。何を我慢する必要がある、神の使命からは逃げて神官と添い遂げてしまえ、と。欲望と劣情への誘いはどれほど甘美だった事か。決意が揺らいで悪魔の囁きに堕ちようとしたその時でした。
「駄目だ、君には大いなる使命があるだろう! みんなを笑顔にするんじゃなかったのか!?」
声をかけたのは彼女が最も愛する神官でした。彼は主人公の決心を酌んで涙を呑みこんで神託に準ずる決心をしたのです。神官の言葉で目覚めた主人公はその聖女の提案を跳ね除けます。
覚醒した主人公に神は言っていました。全てを救え、と。
聖女はお前は人間らしさを捨てたのだと憎々しげに語り逃亡しました。教会は追っ手を差し向けたそうですが彼の聖女は最後まで見つからず、主人公との問答を境に表舞台から姿を消したのでした。神の声から耳を塞いで逃げた魔女との烙印を押されて。
「これで貴方の身も心も、魂すら私のものに」
そして最後に残された聖女は、あろうことか天に召された死者を目覚めさせようと企んだのです。しゃれこうべを手に愛おしそうに語りかけ笑う女優の演技は狂気に彩られていました。観客の誰かが息を呑み、そして軽く悲鳴も聞こえてきます。
最後の聖女も最後には主人公一同に捕らえられました。正式に裁判が開かれ魔女とされた最後の元聖女は火刑に処されます。皮や肉が焼かれていく中で魔女と化した聖女は神を、世界を、人への呪いをまき散らします。しかし主人公は怯む事無く向き合い、魔女の呪詛を否定しました。
「いえ。神様は私達を愛しています。私が皆さんを愛しているのと同じで」
こうして主人公は三人の魔女の断罪を通じて唯一無二の大聖女となったのです。そして彼女は生涯を通して人々を救済し続けたのでした。その傍らには常に心を許した神官がいたとされています。二人の男女は神託を全うし、最後まで結ばれませんでした。
閉幕すると劇場内が揺れる程の拍手喝采が起こりました。幕が再び上がって演じきった役者達が一斉にお辞儀をすると喝采は更に激しさを増します。やり切ったとの達成感から主演女優や魔女役まで皆肩で息をしながらも笑顔で観客に応えました。
私もまた立ち上がって拍手を送りました。迫真の演技と完成された脚本を純粋に評価したかったから。セラフィナから大評判だとか人気の劇団だとか言われましたが成程、これなら納得がいきます。次の演目があったらまた来てもいいかもしれません。
「お姉様は……」
「? どうかしましたかセラフィナ?」
そんな中、セラフィナだけが席に座ったままで前方を睨むように見据えるばかりでした。笑顔の欠片も無く、むしろ怒りと憎しみがこもった眼差しを舞台へと向けています。傍から見るなら彼女だけが全く異なるモノを見ていたのではと疑うしかありません。
「お姉様は、こんな嘘っぱちを褒めるんですか?」
セラフィナの発言の意図は今この場で考察するのは危ういでしょう。周りに人が多すぎます。
ですから、こうとだけ返事を送りましょう。
「作り話だからこそ演劇のみを褒められるんじゃないですか」
あんなのは決してかつての私、聖女マルタ達の送った真実ではない、と。




