私はまた奇蹟を見せてしまいました
チェーザレがフィリッポの腕に包丁を打ち付けた瞬間、鈍い音と身体を貫くような衝撃を感じます。フィリッポが布の隙間から叫び声を上げました。今の一撃で彼の片方の腕は切り落とされて……いませんね。チェーザレは肉を切り骨を断つまで何度も振り下ろします。
「……っ!?」
「トリルビィ、気にしては駄目。耐えられないのならずっと私だけを見ていなさい」
「……っ」
顔を白くする前方のトリルビィに私は前のめりになって顔を近づけました。彼女は吐き気を堪えているのか黙ったままで頷きます。本当ならトリルビィを巻き込みたくはなかったのですが、私が指示を送れる人物が他にいなかったもので。申し訳ありません。
片方の腕が身体から切り離された頃にはチェーザレは返り血で赤く染まっていました。息を荒げた彼は鬼気迫る表情をさせて場所を移動し、もう片方の切断に着手しました。既に凄惨な目に遭っているフィリッポは耐えられなくなったようで痙攣を起こして気絶していました。
ようやく仕事を終えたチェーザレは肉切り包丁を無造作に放り投げました。重く低い金属音が鳴り響きます。
「……終わったぞ。次は何をすればいい?」
「いえ、これから何かするのは私の方です」
私はフィリッポの切断された腕の付け根あたりに手を触れました。そして意識を集中させ、神への祈りを捧げます。この時何も雑念を抱いてはいません。奇蹟とは神の御業の一端ですので私が行使するのではありません。神が私を介して人に慈悲を与えるのですから。
「癒しを」
と口にしたのだって特に意味はありません。ただそれを合図にして切断面へと淡い光が集まっていき、やがて光の粒子は腕をかたどっていきます。そして付け根から徐々に光が霧散していった内側から現れたのは、たった今失ったばかりの腕でした。
かつて私が得た、得てしまった奇蹟である蘇生。これはどうも単に死者を蘇らせるのではなく身体を生命活動可能になるまで回復する効果もあるようなのです。蝕まれた内臓を復元させ、失われた四肢を再生し、損なわれた若さをも取り戻す。そんな大それた代物だったのです。
ですから、再び失った腕を治すのも造作もない事なのです。
「……これで問題ありません。後がどうなろうと私にどうにか出来る範疇を超えています」
私は馬乗りになっていたフィリッポの腰から立ち上がりました。私が見下ろすフィリッポの両腕はチェーザレが切り落とした二本と、私が新たに作った二本がありました。うん、後者はちゃんと以前私が見た事のあるフィリッポの腕や手のままですね。
「申し訳ありませんチェーザレ。手を汚させてしまいました」
「いや、構わないぞ俺は。それにこれでキアラに借りを返せたとも思ってないしな」
よく窺うとチェーザレの手が震えていたもので思わず手を伸ばしかけましたが、止めました。私がやれと言っておきながら何て都合が良いんだ、と恥じたので。しかし出しかけた手をチェーザレは掴んできました。
「ですがお召し物がそんなに真っ赤に染まってしまっては洗い落とせないのでは?」
「礼装じゃないし問題ないんじゃないか? それよりキアラだってそうじゃないか。このままじゃ帰れないだろ」
「……その発想はございませんでしたね。取り急ぎは外套で覆い隠せば問題――」
「大いにあるだろ。母さんに替えを用意してもらうから」
私もチェーザレもフィリッポの返り血で染まっていました。確かにこれでは外を出歩けませんね。コルネリアには迷惑をかけてしまいますがお言葉に甘えさせていただきましょう。旅に備えて簡素な出で立ちな私はともかくチェーザレの服の価値がどれ程かは知りたくありません。
「な、んなんだよ……今のは何なんだよ!?」
何の事も無いよう振舞う私とチェーザレを余所に部屋の中は異様な雰囲気に包まれていました。凶行もさることながら目の前で起こった奇蹟を信じられていないのでしょうか。真っ先に我に返ったジョアッキーノが声を張り上げます。
「何とは何です? 目撃した事象が真実ではないと?」
「いや違うって! だって、お前、今――!」
「ええ、奇蹟を発動させました」
もはや開き直る勢いで言い放った私とは対照的にジョアッキーノや使用人は驚く他なさそうでした。トリルビィは呆然と私を見つめるばかりでしたが、やがてフィリッポと私へ交互に視線を向けて、勢いよく立ち上がります。
「ですがお嬢様はこの間の適性試験では……!」
「あんな簡易検査ならいくらでも結果をごまかせます。騙された聖女達が悪いのですよ」
「どうしてそんな……!」
「どうして? 奇蹟を与えられた少女を探し出して未来の聖女に育て上げるのを目的とした検査なのですから、逃れたい理由など一つしかないでしょう」
トリルビィは今度は愕然としてきました。まさか聖女としての宿命を拒絶する者がいるだなんて思ってもいなかったのでしょう。かつての私だって決して使命を疑わなかった筈です。私を背信させたのは他ならぬ神の与えた試練だったのです。
……だから、今の行いは本当に愚かだと申す他ありません。
本当だったらフィリッポは見捨てるべきだったのです。私はもう何も出来ませんと周囲に見せつけて欺いて立ち去れば良かった。フィリッポが立ち直るかは彼自身に委ねてしまえば。だって既に神の奇蹟は授けられました。どうして私がでしゃばらなくてはいけないのです?
ですが神はそれをお許しにはならなかった! 私の耳元で神託を語り、私の手足を動かし、私に未来ある音楽家を救わせた! おかげで私の奇蹟を知る存在が増えてしまいました。いくら口を閉ざしていただいた所で限度がございます。このままでは私は……、
「私は、神の下僕なんかじゃない! 人として幸福に生きてみせます……!」
聖女として救済に身を捧げ、やがて魔女として破滅する。そんなかつての私をなぞってしまうでしょう。
逃れたくても私が授かってしまった神託の奇蹟には抗えていません。今はまだ無理矢理やらされたとの認識が強いのですが、いずれは神こそが絶対だと思い込むようになってしまうでしょう。それが全知全能たる神の啓示ですから。身も心も魂も捧げてしまう破目に……、
嫌だ、私は私なんです!
聖女でなくたってそれは変わらないのに……!
おぼつかない足取りで部屋の出口に向かったせいで途中で足がもつれました。何とか踏みとどまろうとする暇も無く身体は浮遊感と共に傾いていきます。やがて私の身体はそのまま吸い込まれるように床へと――、
「危ないって!」
――叩き付けられる前に間一髪の所でチェーザレに支えられました。
「キアラ、大丈夫か?」
チェーザレは危なっかしい私に真剣に語りかけてきます。打ちのめされていた私の目に映る彼はとても頼りになりそうで、安心感が芽生えてしまいました。だからでしょう、私がチェーザレに縋ってしまったのは。
「チェーザレ、私は聖女になりたくないんです!」
「……ああ。そうだとは思ってた」
ええ、今日だってきっと私がフィリッポとどう向き合うか確認したかったら呼び寄せたのでしょう? もしかしたら彼はこれから先私とどう接するかの方針を今日の結果を見極めて決めようとなさっていたのかもしれません。
ですから先に謝りましょう。
私事に巻き込んでしまう自分勝手なこの私をお許しください。
「神は私をお許しにならないんです。全てを救えと仰って私を動かすばかりで……!」
「神託……!?」
「助けて、下さい。もう罪を被りたくは、ないんです……」
いつの間にか私は止めどなく涙をこぼしていました。チェーザレに身を委ねているせいで彼の服の胸元を濡らしてしまっています。それでも私はチェーザレへの申し訳なさより自分のこれからへの恐怖が先行していました。
暗雲が立ち込めていました。
そして雲間から差す光は天へと通じているのです。




