私は音楽家の自殺を止めました
王宮へと着いた私達はチェーザレの案内でコルネリアの居住区に向かいました。チェーザレの話ではフィリッポは今そこで安静にしているそうです。いかに宮廷音楽家とは言え王族の住まう宮殿にて治療にあたるのはおかしいと思ったのですが、
「聖女の奴、国賓として王宮に滞在してるんだ。だから病院からこっちに搬送した」
だそうです。聖女と言えども聖職者なのですからその地域の教会に滞在するものだと考えていましたが、かつての私が生きた時代より待遇が変わったのでしょうか。人々に救いの手を差し伸べる聖女が王宮にて民を見下ろすとは……世も末です。
チェーザレは足早に進んでいくものですから私はスカートの裾を摘まんで何とか早足で追い縋ります。そんな私に気付いたジョアッキーノがチェーザレの頭を軽く叩いて後ろの私を指し示しました。チェーザレは申し訳なさそうな表情をさせて私に謝罪しました。
事件は部屋の前まで迫った辺りで起こりました。何やらメイド達の悲鳴と懇願の声が中から聞こえてくるのです。私がジョアッキーノと顔を見合わせていたらチェーザレは迷う事無く駆け出して扉を勢いよく開きました。
「どうかお止め下さい……!」
「誰か! 誰か来てっ!」
部屋の中ではベッドで上体を起こしたフィリッポが鬼気迫る面持ちでナイフを手に取っていました。刃物を押し当てる先はなんと己の腕。使用人達は何とか防ごうとフィリッポの腕や手を押さえて必死に説得し、かつ救援を呼んでいました。
「フィリッポ! お前、何してんだよ!」
「は、なしてよ……! こんなのボクの腕じゃない!」
チェーザレはフィリッポが手にした刃物を叩き落として彼を組み伏せます。フィリッポはチェーザレをまるで親の仇のように睨みつけますがチェーザレは真剣な面持ちを崩さずに力を緩めません。何とか振り解こうとしてもこの一年近くで鍛え抜かれたチェーザレはびくともしません。
「何言ってんだよ。それはフィリッポの腕だろ!?」
「違う! 違う違う違う! 全然言う事聞いてくれないんだ!」
先日お会いした時は引っ込み思案だった彼がここまで大きく叫ぶなんて。よほど腕の治り具合に違和感があるのでしょう。チェーザレや使用人達が何を言ってもフィリッポは全く聞こうとしません。このままでは堂々巡り、らちがあかないですね。
私はため息を漏らすとフィリッポに歩み寄り、チェーザレが取っていない方の腕を取りました。フィリッポもさすがに私、と言うよりは女性を相手に抵抗はしない様子で大人しい物でした。私は彼の腕をじっくりと眺めて、猛烈な違和感に襲われました。
「曲がっていますね」
「えっ?」
「ですから、先日お会いした時よりも少し腕が曲がっています」
間の抜けた声を発したのは使用人の一人でしたか。私の指摘を受けて皆フィリッポの両腕に注目しました。使用人達は主であるチェーザレに聞こえないよう声を潜めて内緒話しています。多分各々で「そう見えるような気もする……」のような意見を語り合っているのでしょう。
「フィリッポ、すみませんがあちらのテーブルに手の平が上になるよう腕を置いてもらえませんか?」
「……うん、分かった」
私はなるべく興奮させないよう落ち着いた声色でフィリッポに語りかけます。どうやら彼もようやく自分の主張を聞く人物に出会ったおかげで幾分冷静さを取り戻したようでして、大人しく私の願いを聞いてくれました。
「あっ……!!」
フィリッポが両腕をテーブルに置くと複数の驚愕の声が上がりました。なんと治療されたフィリッポの右上腕部はやや上側に曲線を描いており、左上腕部は右方向に弧を描いていたのです。勿論ついこの間お会いした際はまっすぐでした。
私はフィリッポの肘の裏辺りを軽く叩きました。するとフィリッポの顔がほんのわずかに歪んで、更に手を過敏に震わせてます。ようやくフィリッポの身にどんな悲劇が舞い降りたか分かった私は思わず頭を抱えてしまいました。
「神経が過敏になっていますね。腕を軽く叩いただけで手の方が変な感じがしませんでしたか?」
「う、うん……びりっとか、そんな感じに」
「あと手を触っても痛くもかゆくも無いのでは?」
「ううん。……でも、すっごく鈍い」
「麻痺は残っていませんか?」
「……動かしたくてもあまり動かせない」
診断が正しいかを質問で確認してようやくチェーザレ達周囲の人達も事の深刻さが分かった様子でした。フィリッポの腕は確かに聖女の奇蹟とやらで治ったようですが、決して元の状態には戻っていなかったのです。
「で、でもさ、さっきナイフとか持ってたじゃん! 手首も指も動いてたし、なら……!」
「食器は持てます、扉は開けます。腕が曲がっていても手がぎこちなくても日常生活は送れるようになるでしょう。ですが、微細な感覚は取り戻せていません」
手と指を用いて音色を奏でるフィリッポにとっては致命的と言って過言ではありません。奇蹟で治されてしまっていますからこれ以上の自然治癒は望めないかもしれません。……フィリッポは果たして曲がった腕のままで以前のように音楽を愛せるのでしょうか?
「で、ですがフィリッポさんは確かにリッカドンナ様が治療されていました! なのにどうしてこんな……!」
「あの方の奇蹟が如何ほどかは分かりませんが、おそらくはコレがあの方の限界ではないかと」
聖女は神の奇蹟の代行者であっても救世主ではありません。授けられた奇蹟の度合いによってその効果は大きく左右されるのです。リッカドンナの奇蹟ではフィリッポの完全治療までは叶わなかった。それが後遺症が残った原因でしょう。
更に、奇蹟を施せば全てが治ると思ったら大間違いです。例えば腕が折れ曲がってしまったままで治療をすると曲がったままで治ってしまう場合もあります。変な曲線になってしまったのは治療の際に適宜修正をしなかった為でしょう。
おざなりな処置がフィリッポを苦しめている。
こんなのは決して救済とは呼べません。
「その……治らないの?」
「既に治っています。これ以上は自己回復に託すほかありません。いずれは手や指の感覚も戻るかもしれません」
「でも、曲がったままじゃあ……!」
「慣れてください。聖女様もそのように判断されたから治ったと主張なさっているのではありませんか?」
とは申しましてもこれ以上やれる処置はありませんね。もし手が残されていたとしてもリッカドンナは聞く耳を持たないでしょう。フィリッポがいかに主張なさろうとあの方の奉仕は仕事であり慈善行為ではありませんし。
それにしても気になりますね。どうして暴漢共はフィリッポの腕を折ったのでしょう? 腕が切り落とされたなら切断面に腕を仮付けして奇蹟を施せばいいでしょう。槌で潰されて手から先が失われたとしてもリッカドンナが再生の奇蹟を授かっていたら対処出来てしまいます。
まるでリッカドンナの奇蹟がどれ程かを把握していて、腕を酷く折れば音楽家としてのフィリッポが破滅すると判断したかのようですね。だとしたらこの犯行はフィリッポが狙いではなく、おざなりな処置でお茶を濁したリッカドンナに批難が向くよう仕組む為……?
いえ、陰謀論はよしましょう。所詮私の憶測の域を出ません。
「残念ながらこれ以上手の施しようは無いかと」
「ずっと……このままだったら……?」
「諦める他ございません」
フィリッポは消え入りそうな震えた声を出しますが、私はごまかすつもりはございません。自分でも冷たいとは思います。それでも早く現実を受け入れて前を向く他無いと私は考えます。苦難を乗り越えてこそ光は射すものかと。
「大丈夫、フィリッポならきっと適応出来ます。ここで絶望していては犯人の思う壺ですよ」
「……そう、だね」
フィリッポは大きく肩を落としてベッドへと戻って行きます。部屋には日射しが十分に差し込んでいるのに彼の周りには暗く影が落ちていました。
「……ごめん、少し一人にしてくれない、かな?」
彼がこのように望んだので一先ず私達は部屋を出ました。ただフィリッポが再び自傷行為に及ばないとも限らないので使用人の一人が監視の為に残りました。私が部屋を出る間際に部屋の中を窺うとその使用人がフィリッポの周りから凶器になりそうな物を遠ざけていました。
部屋の扉が閉まった直後、チェーザレが私の手を取りました。驚いた私が彼の方を見ると、彼は真剣な面持ちで私を見つめていました。
「……なあ、本当にどうにか出来ないのか?」




