私は王子に引き連れられました
いよいよ南方王国での滞在も今日を残す限りとなりました。短い間でしたが多くの方とお会いできて非常に充実した時間を送れました。特にジョアッキーノと知り合えた点とチェーザレと再会出来た点は私の今後に大きく影響するでしょう。
出発までの間は長旅に備えてゆっくりとくつろぐと決めた私はテラスで日射しを浴びています。木の葉がそよぎ、鳥が鳴き、風が耳元をくすぐる音を特に何も考えずに聞き入ります。遠くでは庭師が剪定に専念していましたし、屋敷の中では使用人達が掃除をしていました。
「落ち着きますね……」
「本当、だれちゃうよねー」
果たして貴族令嬢キアラとして生を受けてからこのような時間を取れていたでしょうか? どうしてかつて聖女だった前世を覚えたままなのか、また何かやらされるのか、そんな眠れぬ日もあった程ですから。
テーブルを挟んだ向かい側ではわたしがだらけていました。具体的にはテーブルに突っ伏しています。このまま寝てしまったら涎の水たまりが出来てしまいますね。こんな隙だらけな姿なんてトリルビィには見せられませんね。
「ねー私」
「何でしょうかわたし」
「今ってさ、本当のキアラってどんな姿勢なんだろうね」
「……それは興味深いですね」
今私は椅子に寄りかかっています。ですが傍から見たらどうなんでしょう? 私はわたしを自分だと認識していてわたしも私を自分だと考えています。では果たして私とわたし、どちらがキアラの空想なのでしょう? それともどちらでもない第三の振舞いを無意識にしているとか?
「ですが明らかにするのは野暮かと。私はこのままでいいと思います」
「えーどうして? はっきりさせた方が良くない?」
「私はわたしとは今の関係が丁度いいと考えていますから。わたしだって私なんですから、妄想の産物だなんて思いたくないのです」
「同感ー。この曖昧な状態が絶妙なのよねー」
「ええ、仰る通りかと」
なのでわたしは気持ちよくうとうとしますし、私はただこの緩やかな時の流れを楽しむだけなのです。時間を浪費しているとかつての私なら責めたかもしれません。ですが心落ち着かせる時間が余裕を生むのだとも思うのです。
……そんな穏やかなひと時は突然の来訪者によって打ち切られました。
現れた男性は乱暴に部屋とテラスを繋ぐ扉を開くと足早にこちらに向かってきました。どうやらここまで結構な速度で走ってきたようでして、僅かに肩が上下に揺れていますし呼吸も荒くなっていました。
「チェーザレ、どうしたのですか?」
突然の客人、チェーザレは軽く呼吸を整えてから深刻な面持ちをさせました。そして恐怖を覚える程の険しい目つきで私へと手を伸ばしました。あまりに突然でしたので私は声だって上げられませんでした。彼はそんな戸惑う私に有無を言わさずに引っ張ろうとします。
いい痛い痛いっ! そんな強く握らないで腕が折れてしまいます!
「チェーザレ! 止めて、ください……!」
「あっ……!」
焦っていた彼はようやく私の苦悶の表情を浮かべていると気付いたようで、青褪めてから恐る恐る手を離しました。
「ごめん! 痛くさせるつもりは……!」
「チェーザレ」
「……っ」
「何があったのか説明を。お見送りにしてはまだ時間も早いのでは?」
後悔の念を露わにした彼は私に謝罪するべく頭をさげようとしました。私は彼がそうする前に彼の名をやや粗い口調で呼び付けます。無駄なやりとりは省きましょう。
「……キアラ、ごめん。今すぐ王宮に来れないか?」
王宮? 他国の貴族令嬢に過ぎない私に火急の用件があるとでも?
いえ、考えたり疑うのは後ですね。ここはチェーザレを信じましょう。
「事情は馬車の中でお聞きします。前もって申し上げますが、力となれるかは分かりませんのであしからず」
「それでいいと思う。本当にごめん、キアラを巻き込みたくなかったんだけど……」
「急ぐのでしょう? このままの格好でも構いませんか?」
「え、あ、ああ。大丈夫だと思う」
今私は帰路に備えた装いとなっています。王宮に出向くとあれば正装に着替え直さなければなりません。チェーザレの慌て様から判断する限りそんな余裕はなさそうですので。王子のお墨付きとなりましたし遠慮なくこのままで参りましょう。
「あのお嬢様、どちらへ?」
「チェーザレ殿下と共に王宮へ向かいます。トリルビィも同行なさい」
「えっ!? し、しかしせめてお着替えを……」
「緊急事態だそうですので不要です」
さすがに足が見えないようスカートで覆い隠したままではしたなく駆け出すわけにはいきません。それでも大股で早歩きするぐらいは出来ます。コツを掴めばスカートのすそをたくし上げずとも問題ありません。
チェーザレも大股で私と肩を並べ、トリルビィは追いつけずに小走りします。その途中で脇の通路からジョアッキーノが姿を見せました。彼はチェーザレの鬼気迫る様子を一目見るなり眉を動かしました。
「ん? おいチェーザレどうしたんだ?」
「悪い、キアラは借りてくぞ」
「はぁ? 急にどうしたんだよ! ったく、待てったら!」
チェーザレはおざなりに言い捨ててジョアッキーノとすれ違います。困惑した表情を浮かべたジョアッキーノはすぐに置き去りになり、たまらずに駆け出して私達と合流しました。
慌ただしく王家の家紋が描かれた馬車に乗り込んだ私達は早々と出発します。
進行方向に向く上座にチェーザレと私が座り、下座にジョアッキーノが座っています。トリルビィは御者席にいるようですね。突発的に同行したジョアッキーノは当然ながら、チェーザレは従者を引き連れてこなかったのですか。
「それでチェーザレ、一体何事です?」
屋敷の門を出た辺りで私はチェーザレに本題を話すよう促しました。彼は声を絞るように、されど低く呻るように事情を語りました。
「フィリッポが両腕を折られた」
「……は?」
私はチェーザレの言葉が信じられずに間の抜けた声を発してしまいます。
「昨日フィリッポが家に戻る途中で暴漢に襲われたらしい。そこで両腕を折られた」
「なんと残虐な……!」
チェーザレの説明によればフィリッポは昨日の練習を終えた後で王宮を出発、王都にある自宅に戻る途中だったそうです。突然暗がりから男達がフィリッポに暴行を働いたんですって。顔も手も覆い隠していたので精々身長と体格しか覚えていないとの事です。
「犯人は捕まったのですか?」
「いや、まだ捜索中だ」
「金品を盗まれたりは?」
「してない。最初からフィリッポに危害を加えるのが目的だったらしい」
「はあ? ちょっと待てよ。どうしてフィリッポがそんな事されなきゃいけないのさ。アイツは人から恨まれるような事何もしてないじゃんか!」
たまらずジョアッキーノが声を張り上げました。とは言えさすがに馬車が街中を走行しているとの自覚はあるらしく、音量はやや抑え気味です。
「怨みではなく妬みからではありませんか? フィリッポ様の豊かな才能を潰そうとなさったとか。もしくは将来邪魔になると危惧した輩の企みか」
「何、だよそれ……。アイツには音楽しかないのに、両腕が使いものにならなくなったらどうすりゃいいのさ……!」
それは大袈裟ですね。骨折でしたら適切な治療を施せばまた演奏だって出来るようになるでしょう。無論フィリッポには相応の努力が必要となりますがね。現代医学が及ばず外科的な治療が望めない程の重傷でも望みはございます。
ええ、そうです。聖女がこの国に滞在していたのは不幸中の幸いでしたね。
「リッカドンナ様に依頼なさってはいかがでしょうか?」
「そうだよチェーザレ! 聖女に頼めばいいじゃんか!」
「さすがにフィリッポ様個人は教会への寄付金は払えないでしょうが、彼の今後の成功を見込んで融資して下さる方は少なからずいらっしゃるかと思います。如何でしょうか?」
「……もう見てもらった」
私が提示した解決案はほんのわずかな時間ももちませんでした。
「聖女は治ったって言い張ってる。けれどフィリッポは全然治ってないって訴えてる。みんなどうしようもないって言ってる」
チェーザレは何やら複雑な問題となっている事を示唆致しました。
そして覚悟は決めていましたが、いよいよ嫌な予感が的中しそうでなりません。
チェーザレは私の奇蹟に望みを託しているのでしょう。




