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私達は聖地を脱出しました

 神は言っていました。ここで死ぬ定めではない、と。


 神託を受けて目を覚ました私は身体を起こそうとして……チェーザレの逞しい腕に抱かれていると気付きました。そして昨日私が何をやってしまったかを思い出して、恥ずかしさに悶えそうになるのをかろうじて堪えます。


 身をよじりながらやっとの思いで彼の腕の中から抜け出した私は床に脚を付けて立ち上がり……身体中の節々にとてつもない違和感を感じてしまいます。その、主に腰と口では言えない箇所とでも表しますか。


 窓から外を伺うと空はまだ暗闇に包まれていましたが、東の方角が少しだけ明るくなっていました。どうやら夜明けが近い時間帯に覚醒したようです。普段だったらまだ寝具の中で睡眠を謳歌していますね。


 急いで身支度を整えないと、と逸る気持ちで化粧机の前にやってきたのはいいのですが……鏡の前にいる女は誰でしょう? 汗と涎と涙でぐちゃぐちゃになった顔、髪は乱れて身体中に張り付き、身体は至る所に跡が残り、淫らの一言に尽きます。


 私は惚けた自分に活を入れるべく頬を叩きました。それから大慌てで身体中を拭いて髪を束ねて祭服を着込みます。砕けそうになる腰に手を添えつつ私は部屋を出て隣の部屋で睡眠を取るトリルビィを起こしに向かいます。


「トリルビィ、起きてますか?」

「お嬢様?」


 戸を叩くとすぐに向こうから返事が聞こえてきました。どうやらもう起床していたらしく、足音が段々と近づいてくるとすぐに扉が開きました。そして私を一目見るなり何故か目を見開いて固まってしまいます。


「神が言っていました。すぐに行かなければなりません。出発の支度を――」

「お嬢様、まさかそのままで準備を済ましたと仰るつもりじゃあないですよね?」

「え? はい、そのつもりですが――」

「駄目に決まってるでしょう!」


 トリルビィに怒られたと認識した時には私は彼女に腕を引っ張られて部屋に連れ戻されてしまいます。そして乱れに乱れた寝具の惨状と横になるチェーザレを目の当たりにして愕然としてしまったようです。


「……すぐにお湯と手拭いを持ってきますから待っていてください」

「ですが私は急いで――」

「い・い・で・す・ね!?」

「は……はい……」


 それからトリルビィは私の顔や体を丹念に拭きなおし、髪に櫛を入れ、化粧を施したりと、私の身支度を一からやり直しました。私の侍女曰く、自分ではきちんとしたつもりでも男でも誘ってるのかと言わんばかりに淫らに乱れていたんだとか。


「人は危機的状況に陥ると生存本能から情事に向かいがちだとどこかの文献に書かれてましたが、まさかお嬢様方が溺れてしまうなんて……」

「その、ごめんなさい? 余計な手間を取らせてしまいまして……」

「謝らないでください。後悔はしていないのでしょう?」

「……はい」


 自然と私は笑みをこぼしてしまいました。鏡の向こうにいる自分はなんて幸せそうなんでしょう。トリルビィはそんな私の様子に深いため息を漏らしながらも微笑んでくれました。私達を祝福してくれるかのように。


「それで、お嬢様を抱いたあそこの不埒者は起こした方がよろしいですか?」

「ええ。すぐにでも荷物をまとめてここから出ます」

「……! ですが昨日も言っていたじゃないですか。お嬢様は最後の便に乗る、と」

「神託によると……どうやらもう船に乗る必要は無いみたいです」


 トリルビィは驚きを露わにしましたが、疑問符も浮かべているようでした。どんな奇蹟が働いたら私達は皆助かるのか、想像もつかないのでしょう。私とて脱出を可能とする奇蹟の担い手が聖地にいない以上は現実的な手を使うしかないと覚悟してました。


 ただ、一つだけ思い当たる節はあります。

 もし私の想像通りの現象が起こったなら、きっとこの脱出劇は後世まで語り継がれることでしょう。


 ■■■


「……。治療の奇蹟を施してあげましょうか?」

「私は大丈夫です……と強がりたいのですが、お願いしてもいいですか?」

「自分に奇蹟はかけられないって言ってたけど、本当だったのね」

「ありがとうございます」


 夜が明けかけた港にはリッカドンナとアウローラの姿も見えました。リッカドンナは私を一目見るなり軽蔑するような冷たい眼差しを送ってきました。しかし憮然としながらも私へと歩みより、痛みが引かない箇所を和らげてくれました。


「おめでとう、とでも言えばいいのかしら?」

「リッカドンナ様にそう言っていただけるのは嬉しいです」

「嫌味で言ってるに決まってるじゃない。馬鹿なの?」

「満たされて浮かれているので馬鹿になったかもしれません」


 港では夜明けとともに出航する第一便の最終準備に追われていましたが、聖女二人の到来に皆が注目してきました。リッカドンナもアウローラも早朝の散歩なんかでは決してなく、祭服に身を包んでただ海の方を見つめていました。


「神が言っていたわ。ここで死ぬ定めじゃないって。導かれるままに来ちゃったけれど、一体何が起こるのかしら?」

「リッカドンナ様も神の声をお聞きになりましたか。ではアウローラ様も?」

「ええ。はっきりと。あんなに迷える子羊に手を差し伸べるようにはっきりと助言を聞いたのは本当に久しぶりだったわ」

「神からお言葉を授けられる者が同時に……?」


 一体どんな大がかりな奇蹟が起こるのか? 聖女達が見守る方角を他の者達も視線を向けます。朝日に照らされた海面は波のうねりで輝きを散りばめていて、とても幻想的で美しいと感じました。何も考えないでいると心が洗われるようです。


 そんな海に異変が起こり始めました。

 なんと、段々と海が水平線に向かって割れ始めたのです。


 その現象には誰もが言葉を失いました。理解出来ずに困惑する者もいました。リッカドンナは口元を押さえて嘘だと呟き、アウローラは感涙しながら神に感謝を捧げました。そして私は……ただ茫然と眺める他ありませんでした。


 割れた海は海底が露わとなり、道が出来ていました。

 それは教典にも記された、聖者が民を導くために起こした奇蹟そのものでした。


「……行きましょう」


 世界の果てまで続いていそうな海の道を前にして誰も動き出せません。本当に大丈夫なのか、と思う気持ちもあるのでしょう。ですが聖女に神託を授けてまで知らせてくださった脱出経路なのですから、これは神の導きに違いありません。


「そ、そうね。圧倒されちゃったけれど、使わない手は無いわ」


 リッカドンナは声を張り上げて皆で力を合わせて海の道を進むよう促しました。疑心暗鬼だった人達も一人、また一人とようやく動き出します。リッカドンナは兵士達に市民が混乱しないよう誘導するよう指示を送ります。


「コレ、もしかしてキアラさんが起こしたの?」

「いえ、違います」


 アウローラが恐る恐る尋ねてきたので明確に否定しました。


 先ほどの海が割れた現象、よく思い出してみるとほんのわずかな時間差ではありましたが水平線の向こうから順繰りに分かれていました。だとしたら本当に神が世界に介入したか、または向こう側から奇蹟を行使したんだと推測出来ます。


 私にはこれほどの奇蹟を起こせる者など一人しか思い当たりませんでした。


「それよりアウローラ様。どうしますか?」

「え? ど、どうって、何を?」

「この道がどこに通じているかは分かりません。下手をすると何日間も海の底を歩き続けなければならないかもしれません。しかし、神の導きには違いないでしょう」

「……。残った全員をこの道で脱出させましょう。順番は決めないと駄目ね」


 港で作業をしていた労働者が手を止め、既に乗船していた女子供が再び姿を見せ、徐々に港は騒ぎとなります。市民が暴走しなかったのはリッカドンナが声をあげて皆に落ち着くよう語りつつ整列させていたからでしょう。


 更にアウローラの指示で仮眠を取っていた避難者全員が起こされました。直ちに最低限の荷物だけをまとめて集合するようにと伝えられたのでしょう、聖国国民の全てが港へと集結しました。


 長蛇の列が水平線の彼方へと姿を消していきますが、一方で陸ではまだ人が大勢残されていました。私はそんな光景をもどかしく眺めます。いつ獣人達がこの脱出に気付いて追っ手を差し向けてくるかと心配でたまりません。


「聖女様方、どうかお先に。我々がしんがりを務めます」

「でも、獣人を食い止めるなら私の奇蹟があった方が……」

「聖地を失った今、御身が無事に聖都まで帰還を果たすのが最重要かと具申します」

「……。分かったわ。貴方達に神のご加護があらんことを」


 ようやく全ての市民が海の道を渡り始め、残されたのは遠征軍と聖国軍の兵士達だけとなりました。生き残った指揮官の一人がアウローラ達に跪いて願いを口にします。先に折れたのはアウローラの方で、リッカドンナ達にも行きましょうと促しました。


 さようなら聖地。もう二度と戻ってくることはないでしょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] モーゼの奇蹟はテンション上がりますね [一言] 匂いとか本人結構わかりませんからね… 続きを楽しみにしてます
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