私達はお互いしか見つめられませんでした
相手に背中を見せる途中に不意打ちでも仕掛けてくるかもと警戒していましたが、特に何もされませんでした。城門を潜ると待機していた兵士達から一斉に安堵の声が上がります。真っ先に神官達が駆け寄りましたが、リッカドンナの様子から察したようです。
「交渉は決裂したわ」
「なんと、では異教徒共は無条件の降伏を求めてきたのですか?」
「聖女を引き込みたかったみたいね。条件として誘われたわ。叶わないなら改宗しない限り降伏すら許さないみたいよ」
「改宗!? 何をたわけたことをぬかすのか!」
会話を耳にした者達が一斉に憤りの声をあげました。口々に獣人達を異端者共だの害獣共だのと罵ります。同じ神を信仰しているとはいえ教えが異なれば隣人ではなく神にアダを成す敵と言わんばかりです。
しかし……意気込むのは勝手ですがもはやこちらの勝ち目は薄いと言わざるを得ません。にも拘わらずマジーダが突き付けた条件を侮辱と受け取った兵士達の士気は高く、興奮気味に敵軍を食い入るように見つめていました。
まさか、マジーダはこちら側を挑発する目的で聖女を誘ってきたのでしょうか? いえ、昨日の勧誘は共に歩んで全てを救おうとの彼女の正直な思いから来たはずです。策を弄したとは思いたくありません。
「……キアラ。神託を頼りにあの黒猫を捉えて食い止められる?」
「ラーニヤ姫、白兎が授かった遠見の奇蹟で私達の接近は気付かれてしまいます。おそらくですが、リッカドンナ様を真っ先に排除しようと襲ってきた昨日とは異なり、こちらの防衛線を崩壊させる立ち回りをしてくるでしょう」
「あたし達を守ってくれる聖域の結界も夜中に壊されちゃったし……。どれぐらい敵の勢いを抑え込めると思う?」
「昨日の時点で手ひどくやられて戦力を大いに削られましたからね。今日一日保てばいい方でしょう」
「ここを突破されちゃったら市街地になだれ込まれるわ。もっと内側に後退しても磨り潰されるのが目に見えているわね」
リッカドンナは険しい顔をして指を甘く噛みます。苛立っているのか次第に噛む力が強くなっていたようで、神官に「お止め下さい」と願われて離れた指には歯型がくっきりと残っていました。
聖女は顔を勢いよく振ってから私を見つめてきます。その表情はとても真剣なもので、私を捉えて離さない眼差しは引き込まれてしまいそうです。可愛らしい容姿ですが覚悟を決めた彼女はとても頼もしく感じました。
「……キアラ」
「嫌です」
きっと彼女が口にしようとした命令は深く考えた上での決断なのでしょうが、断らせていただきます。初っ端から話の腰を折られたリッカドンナは少し怯みました。しかし驚くのも一瞬の間で、すぐに真面目な顔に戻ります。
「ふざけないで」
「ふざけてなどいません。むしろ私から聖女であらせられる貴女様に申すべきでしょう」
「……っ! まだあたし、何も言っていないわよ?」
「言わずとも分かります。私に聖都に戻れと命じるつもりだったのでしょう?」
私の予想は当たっていたようで、リッカドンナはとても渋い顔をさせました。折角の実年齢より若く可愛らしい容姿が台無しです。
「もはや聖国は滅亡寸前です。いかにここが聖地であろうと聖女である貴女様の御身が一番大事ですよね。降伏の交渉が決裂した今、一刻も早く離れるべきだと思いますが」
「真っ先に聖女が救うべき人を見捨ててどうするのよ!」
奇蹟を授かる少女は稀少。その後により多くの命が救えるなら目の前の苦しむ者を見捨ててでも聖女を最優先すべし。そんな教会の方針は決して悪ではありません。……聖女と一般庶民の重要性が違うだのの事情はこの際置いておきますがね。
しかし聖女だからこそ地獄のような光景が広がっていようと、自分の命が危険にさらされようと、目の前の苦しむ者に手を差し伸べて救わねばなりません。そのために神より奇蹟を授けられているのですから。
「それではお聞きしますが、リッカドンナ様は聖国市民が全員避難を終えてから帰還されるつもりですか?」
「さすがに無理心中するつもりは無いわよ。あたしだってわが身は可愛いもの。けれど、あたしなんかよりもっと優先して生き延びてもらわなきゃいけない方がいるでしょうよ」
「ですね。聖域の聖女アウローラ様には何が何でも帰ってもらわねば」
「最低でもアウローラ様には帰りの船に乗ってもらわないと……」
とは言えアウローラが聖地まで戻ってくるには今しばらく日時がかかるでしょう。それまで私達はあの寵姫達を含めた獣人達の軍勢の猛攻を耐え凌ぐ必要があります。先の分析が合っていればとても間に合いませんね。
「リッカドンナ様は何か妙案がありますか?」
「港の方向はまだアイツらに攻められてないから、まずは市街地の人達を避難させないと。それが終わったら私達は聖地を放棄して港に撤退する。獣人達もさすがに放棄した聖地に目もくれずに私達を追う真似はしないでしょうね」
「敵軍の全てがそう動くとは限りません。別動隊を追撃戦に向かわせる可能性があります」
「じゃあキアラには何かいい案があるわけ? 敵軍の侵攻を抑え込む起死回生の一手がさ」
リッカドンナは私と会話する間も矢継ぎ早に配下の者に指示を送ります。聖女の命令を受けた伝令が散らばり、彼女の方針を聞いた城壁を守る兵士達の多くが聖女がまだ希望を捨てていないと意気込みを新たにしました。
「……ありますが、成功しない可能性の方が大きいかと」
「あるの!?」
リッカドンナは顔を輝かせて私を食い入るように見つめてきましたが、浮かない私に色々と察したようです。私の両腕を掴んだ手をすぐに放しました。
「要するにこちらの防御を容易く突破する寵姫達を足止めすればいいんですよね? でしたら昨日と同じく彼女達を釣る餌を用意すればよろしいかと」
「聖女に目もくれずに戦局を優勢にするだけに専念されちゃったらどうしようもないわ」
「では、彼女達が出向かなければ負けてしまうような状況を作ってしまえばよろしいかと」
「そんな都合の良い手段があれば苦労は――」
とまで言ってようやくリッカドンナも私の意図が分かったようです。始めは憤りを露わにしましたがすぐさま引っ込め、次には思いつめた表情をさせて深く考え込み、最後は悔しそうに深刻な顔つきになりました。
「……そうするしかないわね。後が怖いけれど」
「とにかく今を生き延びることだけを考えましょう。次の悩みは次考えればいいです」
「それで次のあたしは今のあたしを恨むのよね。どうしてその時考えなかったのよ、ってね」
「私だって頻繁にありますよ」
提案した私から伝えようかと意思表示をしましたがリッカドンナが聖女として命じると言ってきかなかったので譲ることにしました。ようやく先が見えてきた私達は互いに顔を見合わせ、力強く頷き合いました。
「神も言ってくれるでしょう。ここで死ぬ定めではない、ってね」
「ええ、必ずや聖都に帰りましょう」
リッカドンナと別れた私を待っていたのはチェーザレでした。私を案じてくれた彼は危なかったとか無事で良かった等と言ってくれました。まだ危機は去っていませんがとりあえず彼のもとまで戻ってこれたのは僥倖と言えましょう。
「それで、キアラにお願いされたご褒美なんだけれど……」
「ああ、ソレですか。考えてくれましたか?」
「こんな短時間じゃあ何も用意出来なかった」
「別に物品を要求しているんじゃありません」
実家はそれなりに裕福ですから欲しいものは大抵揃えられました。なので友人から贈り物が届けられた場合、物自体より相手が何をどう考えてその品を選んでくれたかの過程、即ち相手の心を有難くいただくことにしているのです。
ですから私のために悩んでくれたのならそれで満足してもいいのですよ。
「別に今でなくても聖都に戻ってからでも――」
「キ……キアラが喜んでくれるかは分からないんだけれど、いいか?」
「? 別に構いませんが……ひゃぁっ!?」
言葉は途中で途切れて悲鳴が出てしまいました。何しろ突然チェーザレに抱きしめられたのですから。
「心配した。キアラが無事で良かった」
「ちょっとチェーザレ! み、皆が見ていますから……!」
「俺は俺の全部をキアラに捧げたい。それじゃあ駄目か?」
「ぜ、全部を……」
恥ずかしくはありませんでした。だって胸が高鳴ってチェーザレの温かさと体の大きさを感じるのが精一杯でしたから。耳元で囁かれる声は私の脳を溶かしてしまいそうなぐらい甘くて響きます。まさに魔性の魅力でした。
腕を離したチェーザレと私は互いの息がかかるぐらいの距離で見つめ合いました。もう私の瞳には彼しか映りません。心臓がうるさいぐらいに鼓動して、顔も体も熱くなるのを自覚しました。興奮、そう……私は彼に心を乱されています。
「ご褒美としては多すぎます。お返しが必要ですね」
「お返し?」
「王子様、私なんか如何でしょうか?」
「キアラ……」
こうなったらもう必然でしょう。
私とチェーザレは熱く口づけを交わしたのでした。
永遠にこの時間が続けばいいのに、と思ったのはこれが初めてです。




