私は慈愛の奇蹟を目の当たりにしました
「キアラ様、もう少しお下がりを。手を焼いていたあの白兎めを退けたからには貴女様が前に出る必要はありません」
「あの、騎士様? リッカドンナ様から事情はお聞きでしょうけれど、私は別に聖女候補者でも何でもありません。そのようにかしずかれる者では……」
「何を仰られますか! 先ほどの獣人共を相手にした際の堂々たるお姿、そして我々に活力を与え、傷つく兵士を癒す貴女様は後の聖女様に違いございません!」
撤退を進める私は何故かリッカドンナ付きの騎士達から聖女同然に扱われるようになりました。まああれだけ奇蹟を行使しておいて違うんだと主張したって説得力は皆無なのですが、それにしたって船で私を捕らえた時とは大違いです。
人を救う事ばかりに専念している今はこの境遇でもやりやすいのですが、事が終わったらどうしましょう? リッカドンナは頑なだった考えを改めてくれそうな雰囲気を醸し出してくれましたが、私の願いを聞き届けて庇ってくれるかはまだ未知数です。
「それに安心はしていられません。ラーニヤ……白兎の方は撃退しましたが、黒猫の方を止めねば意味がありません」
どうもラーニヤは私が迫っていると遠見の奇蹟で察知してからマジーダとは別行動していたようなのです。天闘の奇蹟を宿す彼女は正しく一騎当千。ここで止めねばそのまま一気に聖都の大聖堂や王宮まで突き進まれかねません。
「にわかには信じられません。あの輩が聖女様の奇蹟を打ち砕いたなどとは……」
「主がいない盾の奇蹟が矛の奇蹟に突破されただけですよ。アウローラ様が戻られたらまだ分かりません」
「あの黒猫めは強い。キアラ様の奇蹟があっても敵うかどうか……」
「ですから倒すのではなく止めることだけを考えればいいと思います」
既に神託の奇蹟でラーニヤの現在位置は大体把握しています。後退する聖国軍の間を縫うように私達は進みます。邪魔者扱いされるかと危惧しましたが、逆に聖女のお通りだとばかりに道を開けられたので快適でした。不本意ですけど。
道中、負傷兵を抱えて後退する兵士が何割かを占めていました。それでも置いてきぼりになる兵士も少なくなく、自分の命が惜しいとばかりに我先に逃げる兵士も目につきました。極限の状況に追い込まれると人は本性をむき出しにするものですが……。
私は救いを求めて手を伸ばす者を見捨てなければなりません。本当なら傍に駆け寄って癒したいですが、これ以上マジーダの拳を血に染めたくはありません。大きな犠牲を抑えるためだやむを得ない、と自分に言い聞かせてこちらに向けられる声を無視します。
そう、無視しないといけないのですが……、
「何をしているのですか! 恥を知りなさい!」
気が付けば自分で歩くことも立つこともかなわない重傷を負った兵士がすがりつくのを振りほどこうとしていた輩に怒鳴っていました。こんな騒がしい戦場においても不思議と伝わったようで、兵士は身をすくませてぎこちない動作でこちらへと顔を向けてきます。
「神は汝隣人を愛せよと言ったではありませんか! 死にたくない気持ちは分かりますが、だからと救いを求める手を振り払うなんて、心が痛まないのですか!?」
「しかし聖女様、俺は――」
「でももだってもありません! 敵方に捕まったら最後、異教徒への仕打ちなど想像するまでもないでしょう! 肩を並べて戦った仲間をそのような目に遭わせたいのですか!?」
私が叱った兵士は不本意ながらも倒れる兵士を担いで歩き始めました。負傷兵のもう片方をもう一人の兵士が駆け寄って支えます。三人四脚とは違いますが、何とか歩くよりも早く下がっていきます。
私の指摘は思わぬ効果を生んだようで、他の兵士達もその多くが負傷兵を連れて行こうとする光景が見られました。最前線で切り伏せられた犠牲者を救い出すのは困難ですが、後退中に力尽きて倒れた者は救い上げられますから。
「……御見それしました。聖女となるのを拒んでいると聞いていましたので誤解しておりました」
「残念ながらこれが私の性分なようですから。さあ、進みましょう」
何故かかしずこうとする騎士達を制止して引き続きマジーダの方へと向かいます。最後に念を入れて神に彼女の居場所を聞きましたが……先ほどからあまり進んでいない? はて、誰かが彼女を妨害しているのでしょうか?
その答えは現場に到着して判明しました。そして私はおろかチェーザレやトリルビィ、そして歴戦の聖国騎士達までが目を疑ったのです。それほどまでに異質であり、そして私には見覚えがありました。
「アレッシア……?」
なんと、その場に居た者は誰もが膝をついて手を組んでいたのです。首を垂れる者、熱心に祈りを捧げる者、感涙しつつ前を見つめる者と様々でしたが、なんと敵味方分け隔てなく皆が一様に戦いを止めてそうしていたのです。
その中央にいたのは聖国の旗を掲げるアレッシア。彼女の前で跪いて茫然としていたのはマジーダ。アレッシアは宗教画にも良く描かれる聖母のごとき微笑を浮かべていて、マジーダは血まみれの拳を振りかざそうともせずにただ目の前の彼女を見つめています。
「何、なんですか……アレは……?」
私達を代表して感想を口にしたのはトリルビィでした。その声は震えており、恐怖しているのだとすぐに分かりました。騎士の中には手にしていた剣を取り落とし、膝を崩す者まで出たのです。
その光景はかつて慈愛の大聖女アンナが見せてくれた奇蹟そのものでした。血で血を争う国に派遣されたアンナはこんな風に両軍の間に立って諍いを収めました。その慈愛が荒れた心を癒し、憎しみを洗い流す……争い無き世界への導きに他なりません。
聖女の慈愛に感動する者は単純でいいですね。私は恐怖しか感じませんよ。どんな正当な理由があっても、憎しみに相応しい動機があっても、問答無用でこんな風に双方を鎮めてしまうのですから。
「もういいですよね? どうか下がってくれませんか?」
『……ふ』
もう一押しとばかりにアレッシアが呼びかけるとマジーダは目から涙を流しました。ですが……次の瞬間には歯を食いしばり、自分で自分の頬を殴りました。とてつもない勢いがあったのか、口から血がしたたり落ちます。
『ふざけるなっ! 我らの聖地を奪った簒奪者共が、偉大なる神の愛を騙るなぁっ!』
「っ!?」
マジーダは激昂して拳を振るい、アレッシアはすくみ上がって目を閉じました。思わず腕が前に出たおかげでマジーダの拳はアレッシアに致命傷は負わせられず、勢いよく吹っ飛ばすだけに留まります。
それを目にした聖国側はよくも聖女様をと怒りを漲らせ、獣人側は寵姫様に続けと我に返りました。再び勃発する死闘……でしたが、ぎこちなさがぬぐい切れません。どうやらまだ慈愛の奇蹟の影響は抜けていないようですね。
「アレッシア! よく頑張りました、もう充分です!」
「キアラ様……」
鼻の骨を折られたのか鼻血が止まっていません。私は手早く止血と骨折だけは応急処置して彼女の身体を引き上げました。自力で立てましたがその足取りはとても弱弱しいものでした。鼻血に代えて今度は大粒の涙をこぼし始めます。
「わたし、子供の頃良く喧嘩の仲裁をしたんです。どんな理由があっても暴力はいけないんだ、って」
「……だから、その延長で今回も争いを収められると?」
「うぬぼれてました……。獣人さんとだって分かり合える、そう信じたんです。けれど……わたしには止められなかった」
マジーダに手を振り払われたせいで自分の無力さを痛感したのでしょう。このまま絶望しようが私には関係無いのですが……迷える者に救いの手を差し伸べるのが聖女の務め。いつまで経っても抜けきれません。
私は俯くアレッシアの頭を撫でました。アレッシアは視線を私に上げてきましたがそれでも止めません。
「悔やむことはありません。マジーダ姫に与えられた天闘は神自らが試練として立ちはだかろうと乗り越えてくる奇蹟です。アレッシアが神から授けられた慈愛の奇蹟との相性は最悪です」
そう言えば……まだアンナが未熟だった頃はよくこうして慰めていましたっけ。あの娘が大成するには少し時間を要しましたが、立派な聖女になった時は我がことのように嬉しかったものです。
……それが最大の過ちだったと気付いた時にはもう手遅れでしたけどね。
「立派でしたよ。アレッシアは大勢を救おうとしたんですから」
「……ありがとう、ございます」
それでも、今はまだ構わないでしょう。立派だと思ったのは本当ですから。




