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2135

「片道ロケット少女」に関連しています。

 おまえは、とても小さな赤ん坊だった。

 生まれてすぐには産声を上げず、助産師さんは必死に「泣け!」と祈るように繰り返していたのだと、よく妻は笑った。今では誰より元気なのにねと。


 おまえはすくすくと成長し、やがてはうつくしい娘になると、私も妻もそう信じていた。


 今、おまえがうつくしくなっていたとして、それを見るものはいない。



 おまえは、とても小さな赤ん坊だった。二一三五グラムで生まれ、毎日ミルクを飲み、力強く泣き、時折笑い、よく眠り、言葉を覚え、歩く術を身に着け、歌を歌い、走っては転び、お風呂場で泣き、泣きながら眠り、そうやって少しずつ大きくなった。

 私たち夫婦におしみなく光を注ぐような、愛をくれた。

 そして人々の命を奪うウイルスをその身に飼いならした。


 心の準備をする間もなく妻を失い、死因がわかると同時に喪失感はそのまま娘への憎悪へと転化した。

 あの時私は、『何があってもおまえの味方だ』と言わねばならなかったのに。今ならばそう言えるのに。


 伝える機会を行使する前におまえは宇宙空間へと棄てられた。

 その非人道的なやり方を止めることもせず、抗うこともせず、見送ることもせず、私は全てのことから目を背けた。そうしたところで、妻もおまえも還ってはこないとわかっていても。


 私がおまえに意識を向けたのは、いくつ季節を過ごしたからわからないほど時が()ってからだ。とうに通信は途絶えており、おまえの生死もはっきりしなくなって久しいと、あのロケットを担当している男は問い合わせた私に申し訳なさそうな口調でそう話した。

 ウイルスの封じ込めには成功したものの未だ特効薬は開発されておらず、病を引き起こすメカニズムも解明されていないというのだから、お役所やその上のお歴々としては生存が確認されるよりかはいっそ死んでいてくれといったところなのだろう。

 あれほどセンセーショナルにおまえをとりあげたマスコミも、今はこちらに出向くこともなく、世の中の人々もごく一部を除いて、おまえなど初めからいなかったように皆ふるまう。あの狂乱は何だったのかと詰りたい気持ちがないわけではないが、やっと訪れた平穏に正直私はほっとしていた。当時は怪文書や長文のファクス、いたずら電話にインターホンの連打といったいやがらせが四六時中ひっきりなしにある状態で、いっそ命を絶ってしまった方が楽だとよく思ったものだ。今でも時折思い出したようにそういったものが届くが、内容は大きく変わり『実の娘を宇宙に放り出したゲス親に死を!』だの、『子供の気持ちを考えたことがあるのか!』だのいったものが多い。もうそんなことでいちいち動揺などしないが、ではその正義を振りかざす人びとは、いつ何時も間違えないと言い切れるのか、聞いてみたいような気もする。


 灰色の空の下、どこまでも続く原野をあてもなくただ歩くような日々の中で、いまさらおまえへの罪の意識ばかりがじわじわと積み重なってゆく。

 過去を取り戻すことは出来ない。けれど、知らなくてはならない。今の私にできるのはそれくらいなのだから。

 色々な伝手をたどり、当時病院でおまえの世話をしていた看護師に会ってもらうことが出来た。そこでようやくあの頃のおまえの様子をはじめて聞くことになった。

 面会に応じてくれた彼女は、怒りと悲しみをこらえながら教えてくれた。

「ロケットの準備があると伝えると、『よかった』って笑ったんです、あの子。自暴自棄になってもおかしくなかったのに、静かに」

 ――最後に過ごした幸せな夏がよみがえる。大きな口をあけて笑って、日に焼けることもいとわず、波と戯れていたおまえ。片道のロケットに一人で乗るよう言われて大人しく従うような、そんな子ではなかった。

 おまえから快活さを奪ったのは、ウイルスなのか、――いや、わが子を見捨てた私だ。自分にはおまえをいたましい、など思う資格はない。


 ずっと閉ざしていた箱を開いた反動か、彼女は溢れる思いをそのまま私にぶつけてきた。

「どうして、声を掛けてあげなかったんですか? どうして見送りにも現れなかったんですか? 彼女は、泣き言ひとつ言わずにすべて受け入れていました。まだ子供だったあの子に、私たち大人は何もしてやれなかった……!」

 すまない、とおまえに詫びる代わりに、何かしてやれることがあればよかった。


 問い合わせをした数ヶ月後、ロケットの担当者から突然連絡が来た。内密にお伝えしたいことがある、ということで指定された場所へ出向くと、そこで待ち構えていた男はにわかには信じがたいことを教えてくれた。

「通信が、ありました」

「……勘違いではないのですか」

 ぬか喜びをできるほどやわらかな心は、もう自分の中にはないから、まずは疑ってしまった。

 しかし男は何度も検証し、確証を得たのだという。

「はじめは、僕も自分の勘違いか単なるエラーだと思っていました。けれどそれは繰り返しあのロケットから何度も届きました。ありえないと思いながら、他の国の仲間とも連携して、彼らにもチェックを手伝ってもらいました。――送信のあった時点にという但し書き付きですが、お嬢さんは、まだ生きています」

「……そうですか……」

 荷を下ろしたような、新たに増やしたような、自分でも見当のつかない感情がどっと押し寄せてくる。

 礼を述べる言葉は嗚咽に塗れたが、男は笑わずに受け止めてくれた。

「娘は、何と伝えてきたのですか? 差支えなければ教えていただけないでしょうか」

「それが、私たちにも何を意味しているのまでは……親御さんなら、もしかしたらなにか分かるかもしれないと思いまして」

 そう言って、男は紙片をこちらに差し出した。今にも震えだしそうな手でそっと触れて開く。


 紙には、2135とそれだけ書かれていた。

「その数字だけが、届いたのです。お分かりですか」

 ――ああ。もちろんだとも。


 おまえは、とても小さな赤ん坊だった。二一三五グラムで生まれ、生まれてすぐには産声を上げず、けれども誰より丈夫に育ち、人々の命を奪うウイルスをその身に飼いならした。


 生きていますと伝えたら、そしられると思ったか?

 愛していると伝えたら、憎まれると思ったか?


 2135。おまえがこの世に生まれたときの体重。

 私たち夫婦にとって、世界にひとつの特別な数字。

 おまえに伝えたい。メッセージは届いたと。憎しみに苛まれているその只中にも私はおまえを愛していたと。

「こちらからも、何か送ることは可能ですか?」

「……ご存じの通り、この件は公にはできません。予算も年々縮小していて運用がいつ終わってもおかしくない、そんな状態です。目立った動きは出来ませんから、長い文章や意味のある言葉は正直難しいです。きちんとあちらへ届くかどうかもわからない。それでも良ければ」

「かまいません。受け取ったのと同じ、『2135』と返事をしていただけますか」

 私が懇願すると、男は大きく頷いた。

「それなら可能です。また仲間にもこっそりと協力を要請してみます。うちだけでなく他からも送信していれば、一つくらいは届くかもしれませんし」

 届けばわかるだろう。私がメッセージを受け取ったことも、おまえを忘れていないことも。

 一度でいい。どうか届いて欲しい。私のためでなく、おまえのために。

 元気にしているのなら、その『旅』のおともになればいい。

 死にゆく間際であれば苦痛や恐怖を少しでも紛らわせることが出来るかもしれない。


 これは私の自己満足かもしれない。贖罪のつもりなのかもしれない。それで構わない。

 愛しているもすまなかったもおまえは悪くないも、何も書いてやれないから、


 2135。それだけを。




 ぽろん、と通信機器が奏でた雨だれみたいな音は、さいしょ幻聴だと思いました。最後にその受信音を聞いたのはもう随分前だったから。

 それにいまの私は結構もう、ちゃんと意識を保っていられないから何か他の音を勘違いしたのかも。


 ぽろん。

 また鳴りました。その後にも、また。

 とうとう通信機壊れちゃったかなとぼんやり考えつつ、私は指をなんとか動かして、エンターキーを押します。

 するとディスプレイには、わたしが届かないこと前提で送っていたのと同じ四桁の数字が、お行儀よくいくつも並んでいました。


 どうせ届かないし、とか、私の言葉なんてだれも受け取りたくないだろうし、とか、思わないでもなかったのですが、最後の最後くらい好きにしていいじゃないと――それでも、『お父さん、私のこと愛してくれてありがとう』と送る勇気はなかったけど――、私は『2135』をいくつも送信してみたのです。そうしたら。


「……届いたあ……!」


 お父さん、分かってくれたんだ。私だって気付いて、それでおへんじしてくれたんだ。

 よかった。うれしい。

 そんな言葉が生まれてくるのは、久しぶりです。うれし涙も。


 これで、いいや。私は、もう大丈夫。もういいよ。



 雨だれのような音は、思い出したようにときおり狭い室内に降ってきます。ディスプレイに増えてゆく2135を目に焼き付けて、私は眠ります。

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