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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~Warmonger編~

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13、威力偵察

 居館の一番上にある部屋で、ベルガンダは目を閉じて待っていた。

 四方に備え付けられた窓はどれも木戸が開け放たれ、砦の中や、遥かふもとへと広がっている森林まで見渡せる。

 しかし、目覚めてから今まで、一度も外に顔を向けようとはしなかった。執務机にはモラニア大陸の地図が広げられ、めくりあがった端が、かすかな風に震えている。

「ベルガンダ様」

 下の階に通じる階段からコモスが上がってきた。その顔には、普段は見られない会心の笑みが浮かんでいる。

「お出でになられました」

「ようやっとか。すぐに会おう」

 地図を丸めて小脇に抱えると、副官と共に階下に降りる。以前、シェートを含めて部下たちと会議を行った大部屋に入ると、青の肌の男が立っていた。

「良く来てくれた。クナ・ナクラ」

「とうとう、引っ張り出されてしまったな、魔将殿よ」

 長い口吻マズルを持つ鱗だらけの顔は、口調とは裏腹に喜色を湛えているように見える。海草の繊維を使って作られた礼装は、海浜を中心に生きる蜥蜴男リザードマンたちが好んで身につけるものだ。

「先の海戦で、一族もろとも散り散りでな。手勢を集め、貴殿の目に適う者を選抜するのに手間取った」

 長くたくましい尾と、鍛え上げられた細身の体躯。腰に下げているのは、先端を大きく造った長めの曲刀だ。

「クナ族以下五百名、貴殿に従おう。我が主を守れず、おめおめと生き恥をさらしたが、どうにか善き死に場所を得られそうだ」

「それは困るな。亡き海魔将殿には、俺もひとかたならず世話になった。願わくば、亡き主人の無念を晴らして後も、その力を借りたいものだ。そして、地の果てまでも共に戦列を駆け、一人でも多くの敵を切り伏せようぞ」

 手厚く言葉を重ねると、彼は無言で頷き、臣従の証に握り合った両手を胸に掲げた。

 忠節と武勇を好むリザードマンの一族は、暴力を好むオーガとは、また違った扱いを要求される。

 自分の誇りに反する行動はしないし、死地に赴けば己が満足するまで戦いをやめない。

 だが、幸いなことに、以前から海魔将ゼルナンテとはそれなりに親しい間柄で、彼女の副官であったクナ・ナクラとも、幾度か手合わせをした仲だった。

「して、戦況は?」

「思わしくない。が、愚痴を言っても始まらぬ。すでにこちらも雌雄を決するために動き始めているところだ」

 机に地図を敷くと、ベルガンダは改めて状況を確認する。

 以前は大まかな地形しか書かれていなかったそれに、数多くの書き込みが加えられていた。人間の集落の位置、砦や城の場所と規模、街道の状況、橋の架かっている河川とその堅牢さなど。

「ずいぶん仔細に調べられているな。これは皆、貴殿の配下が?」

「海岸近くの地形はまだ手付かずだがな。この戦が終わったら、その辺りも埋めることにしよう」

「……"知見者"の道は、ほぼ完成したか」

 驚くべき速度と正確さで、勇者軍はモラニアの主要な街道を舗装してみせた。石材や木材は山がちなモラニアでは容易く手に入るが、それを使って整備を行える技術者を揃えたことには驚きを隠せない。

「これも神規の力だそうだ。連中の軍は一人一人が勇者と同格。レベルアップによって剣の腕前も、土木の知識も、一瞬で手に入るそうだ」

「神どもめ……自らの力を嵩に、あいも変わらず卑怯な真似を」

 魔の者が神規のような力を使えないのは、まだ遊戯を始めて間もないころに、そのような条約を結んだかららしい。

 魔物たちは最初に侵略を許され、可能な限り勢力を伸ばすことが出来る。迷宮を築き、集落や国を滅ぼすことさえ可能だった。だが、神にとってはそれさえも、自分たちの力を示すものに過ぎなかったのだ。

「とはいえ、連中の道は俺たちにとっても益がある。進攻は道を外れることが無いし、物資のやり取りもたやすく押さえられよう」

「だが……やつらの部隊は侮れん。一糸乱れぬ動きは、まるで巨大な壁でも相手にしているかのようだった」

「しかも、魔法使いをたっぷりとその身に宿した、恐るべきものだ。一当てしてみたが、苦もなく捻られたわ」

 こちらの敗北は伝えていたが、それでも全く歯が立たなかったという現状に、クナ・ナクラの表情も険しくなる。

「すまぬ。さすがに五百の手勢では、海の水をひしゃくで掬い取るようなものか」

「多いに越したことはないが、それでも貴公の助力はありがたい。クナの武勇は百騎に勝る、五百もいれば五万の味方を得たも同然よ」

 リザードマンはその一言に、すっと目を閉じて黙した。

 賞賛に踊らず、誉れは身の内に飲み込むべし、という訓戒があると聞く。質実を重んじる、魔物には珍しい一族だ。

「それに、こちらもただ指を咥えていたわけではない。すでに戦力はかき集めてある」

「ほう? 貴殿の部下は優秀なものが多かったが、いよいよ秘蔵っこを出すか」

「うむ……とりあえず、今はこのぐらいにしよう」

 熱の入りかけた軍議を、顔を上げて中断する。コモスは内政の巧者だが、こうした戦の語らいにはほとんど乗ってこない。今も部屋の隅でこちらを見つめ、会話の流れを追うだけにとどめていた。

「すまんな。つい話し込んでしまった」

「いいえ。クナ殿、お部屋を用意してありますので、今宵の宴までお休みください」

「そうさせてもらおう」

 コモスに連れられて部屋を後にしようとしたリザードマンは、ふと忘れ物でもしたように振り返った。

「そういえば、話に聞いた珍奇なコボルトは、この砦に?」

「シェートか? 今はおらんぞ」

「そうか。最近貴殿に仕込まれていると聞いたので、その腕前を見たいと思っていたのだがな」

 その申し出に、ベルガンダは苦笑を漏らした。

「なんだ、やはりコボルトでは相手にもならぬか?」

「そうではない。これ以上貴公のような連中がシェートの所に来たら、あやつは悲鳴を上げて逃げ出すだろうということさ」

 最近、この砦ではシェートに稽古をつけるのが流行っていた。自分以外の相手にも触れたほうが良かろうと思ってのことだが、それを面白がった連中が、次々と手合わせを申し込むようなっていた。

「そろそろぼろきれになりそうだったのでな、他所に出しているのだ」

「なるほど、おもちゃにされているとは、実にコボルトらしい」

「だが、見所はある。元々山野を駆け巡っていた狩人でな、実に柔軟な体の使い方をするのだ。それに、根が素直なせいか、こちらの指導にも良く食いついてくる」

 最初は文句も多かったが、近頃は黙々と指摘された部分を自分なりに考え、次の手合わせまでには直してくるようになった。

「まるで、弟子でも育てているような風情だな?」

「そうかも知れん。ああいうのを見ると、つい、のめり込んでしまってな」

「面倒見が良いのは将の徳だが……ほどほどにせぬと、足元をすくわれるぞ」

 クナ・ナクラは去り際、戒めるように言葉を残した。

「奴は女神の勇者。心変わりでもせぬ限り、我らの敵だ。ゆめ、忘れぬようにな」

 一人残された部屋の中で、ベルガンダは太い息を吐いた。

 地図を置いた大机の端に置かれた水差しを目に留め、中身を軽くあおる。残っていた火酒が、じりじりと喉を焼いていく。


『やめとけ。お前は上に立つ器じゃねぇよ』


 ふと、懐かしい声が脳裏に蘇った。

 隻腕の老師匠。自分に斧術を授け、闘技においては並ぶものなしと言われるまでに育て上げてくれた恩師の言葉だ。

 魔王に見初められ、遊戯への参加を決めたとき、彼はそう言っていた。


『分かっています。俺に将軍なんて似合わないことぐらい』

『そういう事を言ってんじゃねぇ。お前は……上に立つには、情が深すぎる』

『部下の命を惜しんで、まともに働けない、と?』

『そうじゃねぇ! ったく、わかんねぇやつだな!』

 

 喜んでもらえると思っていたのが、逆に断るようにと諌められた。

 結局、師匠とは喧嘩別れ同然に出てきてしまい、あのときの言葉の意味は分からないままだ。

 口下手で、習うより慣れろで教える天才肌だったから、ぶっきらぼうな喋りにはいつも困惑させられていた。そのせいだろうか、自分は妙に理詰めというか、懇切に相手を指導する癖がついていた。


『分かった。次、どうすればいい』


 ふと、コボルトの姿を思い出す。

 魔物は独立独歩の性質が強い。教えられたことを素直に飲み込むことはまずないし、自分の教え方はしつこいと言われたこともある。

 それでも、シェートは真剣に自分の話を聞いていた。

「そういえば、あいつだけかも知れんな、俺の指導にまともに乗ってきたのは」

 水差しの中身は、いつの間にか干されていた。

 魔界で醸された旨酒よりも、舌に強く訴える美味は、ともすれば足腰さえ立たぬほどに過ぎこしてしまう。

 机上に置かれた地図に目を走らせ、一本の道を指でたどる。大陸北西部、港湾都市ザネジから伸びるその街道は、シェートを斥候に出した場所だ。

「無事に帰ってこい。お前にはまだ教えることが、山ほどあるのだからな」

 瞑目すると、ベルガンダはそっと呟いた。



 何もかもがなし崩しだった。

 最初は、ベルガンダの食客となって、魔王軍の内情を知る程度の考えだった。それからコモスに強いられる形で協力を約束させられ、竜神の入れ知恵で、筋肉の塊のような魔将を相手に、慣れない武術まで学ばされている。

 おまけに、自分の存在を面白がった連中に、日々手合わせと称して小突き回され、身も心もぼろぼろだった。

 だが、そんなことさえ、今の状況からは比べれば、遥かにましだ。

 街道脇の森の中、シェートは目下の問題に直面していた。

『来たぞ』

 天から降るサリアの声もかなり緊張している。神の視界で分かる範囲に、勇者の軍が差し掛かったのだろう。

 街道から、今昇っている木のある場所まで五百歩は離れている。一応、自分の視界が通るギリギリの位置だ。

『それにしても……なんという数だ……』

 遠くから、まず馬蹄が響いてきた。正確に歩調を合わせているためか、馬の足によって絶え間なく地面が叩かれていく。

『騎兵も大分回復させたようだな。とはいえ生粋の騎士を入れたものではないようだ。胸元にプレートを下げている連中が大半だ』

 竜神の言葉に合わせるように、白い道の向こうから、木々の枝を透かして騎馬が歩いてくるのが見えた。

 それぞれが天空に翻る旗を立て、面頬を降ろした鎧騎士たちだ。本と羽ペンの独特な印章が刺繍されたそれが、見える限りで百を超えている。

 磨かれた鉄鎧は一部の隙もなく、馬のくつわを捉えて歩く従者たちも、長槍と長剣を腰に吊り、身につけた皮鎧さえ綺麗に整えられて、完璧を絵に描いたような装いだった。

「あいつら、数、どのくらいだ?」

『街道の幅に合わせて三騎縦列、ざっと数えたところで、おそらく千五百から二千くらいであろうか。随伴している歩卒も加えれば、歩騎四千と見てよかろう』

 軍靴が石畳を正確に叩き、一定の間隔で響き続ける。恐ろしいのは、その全てがほとんど無駄口をきかず、馬のいななきと足音だけしか聞こえないことだ。

「勇者、どこだ?」

『少し待て、今御座車らしいものが視界に入った……しかし、これは……』

 陣容を見たらしいサリアが絶句し、それを受けて竜神もほっと息をつく。

『良く見ておけよ。連中、絶対に勇者の暗殺を許さぬ構えだ』

 やがて、シェートにもやってくる新たな一群が見えるようになった。

 長槍を肩にかけ、大盾を背にした歩兵たち。例の"テルシオ"と呼ばれる陣形の守り手たちだ。

『歩兵は四列縦隊、行軍速度は時速三キロから四キロと言ったところか。神規でずるをしているとはいえ、中々の練度よな』

「それ、早いか?」

『コボルト流に言うなら、朝から日暮れまで通しで歩いて、山の一つ二つは余裕で超えられると考えればよい』

 歩兵は手足を守る武具だけを見につけ、荷物入れも小さな背負い袋だけだ。しかし、武器や盾を持ち歩いてなお、その歩みは正確で疲れを知らない。

『数えるのも嫌になりますね。おそらく、五千はいるでしょうか』

「ご、ごせん?」

『そして、これはあくまで先行している部隊の数だけだ。さて、そろそろ来るぞ』

 歩兵の後から、一台の馬車がやってくるのが見えた。脇に杖を持った兵士が固め、軽装の騎馬兵がその外側を守っている。

『魔法使いを兵士として、大量に運用するためには、解決されなければならん問題がいくつもあるが、一番難しいのが教育だ』

 良く見てみると、馬に乗った魔法使いが、代わる代わる魔法をつぶやいている。

 事前に警告された"魔法使いの目"で、周囲を索敵する連中だろう。竜神の予想した効果範囲を避け、シェートが索敵を出来る限界が、この場所だった。

『魔法を覚えるためには、文字の読み書き、初歩の幾何学、基本的な自然科学を身につけなければならん。そのための初等教育を授ける場所、すなわち"学校"が必要になる』

 魔法使いたちは一般的なローブ姿ではなく、平服に近いものにマントを羽織った姿。携行しているのは杖と小さなナイフ、背負い袋だ。

『だが、学校を作るのには時間が掛かり、地域の人間に、教育の重要性を教えるのにも時間が掛かる。その上、魔法を習得させるのにも、長い訓練が必要となるわけだ』

『それを無理矢理、レベルアップの能力で解決しているわけですか』

『かくて、短期間で大量の戦闘魔術師を作り出せるわけだ』

 その大量の魔法使いたちは、ここから見るだけでも五百を超える数が居る。それに、左右の馬に乗っている連中は、例の"竜騎兵"だろう。

 その中心に、美しく飾られた馬車があった。

 金と青の線で描かれた何かの植物と、そこに群れ遊ぶ鳥の絵柄。控えめだが、かなりの贅を尽くして造られたことがわかる。

 ぴったりと扉は閉じられ、中の様子をうかがうことは出来ない。御者は一人だが、その両脇に鎧をつけた騎士が付き従っていて、左右からの攻撃に備えていた。

「勇者、見えないな」

『せめて顔でも拝んでおきたかったが、仕方あるまい。ここまでで、歩騎合わせて一万二千……そして、まだまだ来るぞ』

 今度は、さっきの構成と逆の並びで歩兵が続き、騎兵が背後を固めていった。単純に考えれば二万以上の兵士たちが、一糸乱れぬ動きで進んでいることになる。

『とんでもない規模ですね』

『ああ。そしてこれが、単なる示威行為、人に見せ付けるために集めた部隊にすぎんということが、一番とんでもないのだがな』

『は?』

 間の抜けたサリアの返事に、シェートも同様の反応を示すしかなかった。

「こ、これ、勇者、ただ見せるため、集めたか!?」

『なぜ近隣の町村や、各地の王に向けて伝令まで飛ばしたと思う。現在の勇者の力の一端を理解させるためだ。そして、古王国カイタルの首都に向かい、そこで王と謁見するつもりだろう』

『謁見というよりは、威力外交ですね。これだけの精強な軍隊を用意することは、モラニア大陸の三王国には不可能でしょうし』

 この街道を勇者が通るのは、数日前から人間たちの間に伝わっていた。魔物の中には、そうした情報を集めるのを任務にしているものもいて、それで今回の遠征を知ったのだ。

『出来れば、勇者がカイタルの首都に入る前に、叩いておきたいな』

「なんでだ?」

『この前、勇者が各地に軍隊を送ったろう。道中の魔物や山賊を狩り、街道を整備し、存分に力を見せ付けた。その上で、今度は正式に、自分たちの軍に参画するか、協力を命じるつもりなのだ』

 自分たちの軍に加えて、更に三つの国の軍隊も吸収すれば、勇者の力がますます強くなることは間違いない。

『今回の偵察は、このぐらいでよかろう。そろそろ引くがいい』

「いいのか? もっと何か、ないか?」

『連中の装備を見たおかげで、ほぼ確証が出来た。やつの軍の構造と、その維持のために何を行っているのかもな』

 竜神の声は力強い。普段のとぼけた物言いもすっかり鳴りをひそめ、完全にサリアの参謀役として振舞うつもりらしい。

『それに、早く戻って連中の行軍速度のことを伝えねば、ベルガンダの動きにも支障が出よう。気取られぬようにな』

「分かった」

 枝を揺らすこともなく、軍隊の居る方角からは見えない、木の背面を伝い降りる。地面に降りるとそのまま周囲を確認し、腰を低く保って道から遠ざかるように歩き出した。

 体を小さくたたみ、衣服の動きさえ最低限に抑える。目の良い狩人なら、木陰のちらつきから、一匹のウサギを見つけられるものだ。

『森の中での隠密行動は、さすがに手馴れたものだな』 

 すっかり街道が見えなくなった森の奥、木の根方に出来た窪みに潜り込むと、そこに埋めておいた装備を取り出して身に着ける。

「昔、かくれんぼ、よくやった。狩りする、上手く隠れる、大事言われた。俺見つけられたの、ルーだけ」

 すでに辺りは宵闇に沈み込みつつあった。夜の森は危険も多いが、このまま移動をすれば人間に見つかる可能性も低いだろう。

『大きな地形の変化は私が気をつけていよう。お前は進むことだけを考えるんだ』

「ああ」

 軽く体の曲げ伸ばしをすると、そのままシェートは走り出した。

 星明りさえほとんどない森の中だが、夜目と鼻の力を頼りに、迷いなく進む。歩幅は狭く、足はなるべく上げず、滑るように、音を立てないように。

『右前方に大きめのくぼ地。左の木の根が岩に絡んではみ出しているぞ』

 サリアの的確な指示のおかげで、目と鼻で感じていた地形が、より鮮やかに脳裏に浮かんでくる。軽く根を飛び越え、足元で枯れ枝がかすかな音を立てて割れる。

 次第に闇が深くなり、鼻先を見るのさえ難しくなるが、それでも走るのはやめない。

 ふと視線が流れた。

 自分の左手方向、暗い茂みが続く辺りに。

 その途端、シェートの毛皮に感じる大気が、奇妙に重たくなった。

『あと少しで川にぶつかる。私たちも警戒するが、そちらも頼む』

「……分かった」

 小川のせせらぎが耳に感じられ、行く手に水の気配を感じる。

 だが、それだけではない。

「サリア」

 何も聞こえなかった。何もおかしなものは見えなかった。

 走っているときでさえ、警戒は怠らなかったはずだ。

「誰か、見てる」

 それなのに、ぴたりと、何かがついてくる感覚がある。

『そんな馬鹿な。私の視界にはなにもない。そもそも、お前の速度についてきながら、一切動くそぶりも見せないなんて』

 サリアの声を耳に入れている暇はなかった。

 突然、何かが茂みを突き破り、

「せえええっ!」

 肩に剣を担いだ人影が、体ごとぶつかるように襲い掛かってきた。

「くうっ!」

 たたらを踏みながら必死に潜り抜けたシェートに、今度は右手からの斬撃が降る。

「うわあああっ!?」

 思わず地面に転がり、そのはずみで何とかその一撃もかわしたが、追跡者は同時にこちらへ走り寄る。

「あわせろメシェ!」

「おうっ!」

 顔面と足元を横薙ぎに払う一撃。

 小手もすね当ても置いてきてしまっている、手足で受ければそのまま切り倒される。

「くああああああっ!」

 弓を前に押したて、思い切り後方へ飛び下がる。三重の加護がギリギリ相手の一撃を相殺し、衝撃がコボルトの体を吹き飛ばす。

「いまだ! ファルナン!」

 のけぞった視界の先、木々のこずえを突き破って、何かが降ってきた。

「死ねや! 経験点!」

 振りかぶった両手の指に投げナイフを挟んだ影が、宙に浮いたシェート目掛けて銀光を叩きつけた。

『シェートぉっ!』

 重い痛みが、かざした腕に無数に突き刺さる。一部がわき腹をかすめ、服と一緒に腹の皮を削ぎ取った。

「うぐううっ!」

 受身も取れずに地面に叩きつけられ、同時に激痛が全身を貫く。頭は打たなかったが、打ち付けた体の芯がうずいた。

「立ち直る隙を与えるな! 一気にやれっ!」

 三人の影がそれぞれの獲物を構えて殺到する。

 腕に生えた投げナイフを睨むと、シェートは歯と腕で一気に引き抜き、思い切り襲撃者に叩きつけた。

「うあああああああっ!」

「ぬあっ!?」

 怯んだ相手を振り返りもせず、そのまま川へ向かって走る。

『姿を消して後をつけていたのか!? だとしても、なぜシェートの位置が』

『サリア! 今すぐ視界を望遠にしろ!』

『ぼ、望遠って……な、なんだ、これは……っ』

 鎧の鳴る音、軍靴が大地を蹴る振動が背後に迫る。その全てから必死に逃げるシェートの上で、神々の悲鳴にも似た苦渋が溢れかえった。

『水鏡の目線よりも高度を取ることで、儂らの視界に入らないようにしていたのか! 儂としたことが、こんなくだらん仕掛けを見ぬけんとは!』

『それどころではありません! シェート、とにかく川へ出るんだ!』

 サリアの声と一緒に、幹を透かして薄ぼんやりとした光の境界が見えた。

 そのまま迷いなく、茂みを飛び越えて川岸へと降りる。いつの間にか昇っていた月が、丸石の河原を白く輝かせていた。

 目の前の川は水量もあり、目の前は白く切り立った崖になっていた。渡るべき向こう岸はこの近くにはない。

 そして、岸辺には、新たな人影が姿を現していた。

『待ち伏せ、か』

 月明かりに照らされた巨大な巌のような男と、その前に立つ小柄な男。

 奇妙な対称形を成した二人組が、武器を手に身構える。

 その動きに合わせたように茂みを飛び越え、追跡者達が背後に降り立つ。

「よお、久しぶりだな」

 吸い寄せられるようにシェートは振り返り、驚きに目を見開いた。

 荒々しく口元を歪め、長剣を構えた男。

 それは、以前リンドルの村で見たポローという名の村人だった。


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