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「婚約破棄(ファッ〇ン)だ!」


 いつになく堂々と放せられたその声に、食堂のざわめきはひたりと止んだ。


 公爵家令嬢シロエ・クロワに、婚約者であるロマシア王国第五王子ゲインロットが婚約破棄を叫んだのである。


 一大事である。

 まさか王族まであの流行り病に掛かってしまうとは。


 …………


 だがしかし、多くの見習い紳士淑女は、問題は婚約破棄だけではない気がしている。


 気のせいか。

 空耳か。

 ちょっと噛んだだけか。


 いずれにしろ、これからの動向に注目しない理由はなかった。

 いろんな意味で。 








 冷たい風が頬を撫でる。

 もう春は目前だというのに、依然寒い日が続いていた。


 校門の前で止まった馬車のドアを、一声掛けて御者が開けた。遮断されていた外気がひやりと肌に突き刺さる。

 寒さに一瞬動作が止まったものの、気にしないふりをして身体を動かし馬車を降りる。


「ごきげんよう、シロエ様」


「ごきげんよう」


 降りたところで、友人のランドル侯爵家次女セフィーレと、伯爵家の娘シンファ・ポートが声を掛けてきた。

 今日は偶然、登校時間が重なったようだ。


 三人は校門を潜り、校舎へと向かう。


「――シロエ様。聞きまして? 昨日の放課後、例のアレ(・・・・)がまた……」


 また(・・)か。


 朝から鬱陶しい話題を耳に入れてしまった。

 不機嫌にしかなれない情報だが、しかしおくびにも不快さを表に出さない。


 公爵家の娘シロエ・クロワは、寒さに弱い。

 貴族の娘として弱味は見せないよう振る舞っているが、寒いものは寒い。やせ我慢をしても本心はもう、冬の間はずっと邸から出たくないとさえ思っている。


 寒さのせいでベッドから起き上がるのも億劫だし、冷え性のせいでずっと爪先が冷たいままだし。

 這い上がってくる寒気が骨身に沁みているせいか、それともさっきまで乗っていた馬車の振動のせいか、さっきから腰に鈍い痛みがじくじく響いている。


 春は間近だと言うのに、まだまだ寒さが厳しい。

 そんな昨今において、聞こえてくる噂話まで鬱陶しい。


 だが、そんな内心を覆い隠す仮面は、完璧である。


 貴族の娘として、またクロワ公爵家の者として、厳しい教育を受けてきたシロエの表情はなかなか動かない。

 もしシロエの表情筋を、本人の意思に反して動かせたとしたら、大したものである。


「今度はどこのどなた?」


「隣のクラスの――」


 そう訊き返すと、セフィーレが答えようとして……


「――あなたとの婚約を破棄する!」


 …………


 どこかで誰かと誰かが破局する声が、また(・・)、聞こえてしまった。


 ただでさえ寒さで憂鬱な毎日が続いているのに。

 許されるものなら、頭から布団や毛布をかぶって登校したいくらい寒くて寒くてたまらないのに。


 本当に、この流行り病は鬱陶しい。





 今現在、栄えあるロマシア王国貴族学校には、不名誉な流行り病が猛威を奮っていた。


 その名を、「婚約破棄病」という。

 誰が呼んだかわからない俗称だが、まさにそれだとシロエは思った――もちろん軽蔑や侮蔑の意を込めての同意だ。


 この病の出所を探るのは簡単だ。

 去年の夏、ロマシア王国で爆発的な人気を博した演劇「リュスカーの星空」からである。


 物語も良かったが、今を時めくリュスカー役の女優レーラと、その相手ロメッツ役の俳優ツァリオンの、これ以上ないという美男美女同士のはまり役。なんといってもそれに尽きる。


 褒めることの少ない演劇通の評論家が「もはやこの劇のために演者(かれら)が存在する」とまで絶賛したのは記憶に新しい。


 人気が沸騰した結果、公演期間の延長を二度も繰り返し、結局夏の始めから秋の半ばまで続けられることになった。

 最終日間近こそ空席がちらほら散見したが、ラスト公演は立ち見まで入る満員御礼。

 繰り返し何度も何度も劇場に足を運んだ紳士淑女に庶民も、決して少なくない。


 各役の姿絵が販売されたり、女優レーラや俳優ツァリオンが高位貴族のパーティーに呼ばれたりと、ロマシア王国の去年下半期はまさに「リュスカーの星空」色に染まっていた。


 それだけならまだ、ロマシア王国演劇界の歴史に残る大ヒット公演だった、というだけの話なのだのが。


 ――決定打を与えたのが、冬の内に出た小説だった。


 本の世界で、いつでもあの「リュスカーの星空」を味わうことができる。

 あのステキな恋愛物語が、手元でいつでも何度でも蘇り、あの時の感動を思い出すことができる。


 シロエとて、社交界の話題のために流行に乗り遅れまいと観劇もし、小説も読んだ。

 流行るだけあって、確かに面白かったと思う。

 読書はいい。外に出なくていいのだから。温かい部屋で珈琲や紅茶を楽しみながら、物語に没頭する。冬の過ごし方では最高の部類に入る。


 ちなみに、セフィーレとシンファは「リュスカーの星空」の大ファンである。


 シロエはそれほどでもない。

 まあ、どっちかと言うと好きかな程度である。

 観劇は六回、小説は十回ほど読み返した程度のものである。時間さえあればもう少し劇も観たかったし小説も読み返したかったが。まあその程度である。


 足しげく劇場に通い、もはや全員のセリフを覚えるまで通い詰めたような夢中になったファンから。

 ちょっと興味があったけど結局観劇に行けなかった者から。

「この俺が恋愛劇なんてガラかよ」などと嘯き、素直に興味があることを洩らせず周囲の目を気にして行けなかったシャイな中年男性世代から。

 俳優の美男子ぶりが気に入らないとして行かなかった、ちょっと心に闇を抱えた独身男性から。

 その美男子といちゃつく女優レーラが憎くてたまらないから行かないという、無名の若手時代から支えてきた熱狂的なツァリオンのファンから。


 いろんな意味で注目を集めた演劇の小説は、売れに売れた。


 冬に発売され、春間近という今でも品薄状態が続いているというのだから、大したものである。シロエも自分用と贈答用と保存用と本棚に並べるように六冊持っている。こういうのは何冊あってもいいものだから。


 そう、その小説はまさに「リュスカーの星空」第二次ブームの襲来であった。

 物語はいろんな層に愛され、たくさんの人に楽しまれたのだった。


 ……ただ。そう。


 人気がありすぎたのが問題だったのだろう。


「リュスカーの星空」は、二度に渡る婚約破棄をベースにした恋愛物語だった。

 

 一度目は、敵国との戦争を前に、婚約者リュスカーの下に帰れないだろうと覚悟をしたロメッツが、「自分のことは忘れて幸せになってほしい」という気持ちを込めたもの。


 リュスカーを一方的に手ひどく振り、戦地へ向かうロメッツ。

 ロメッツに捨てられ失意に暮れるリュスカーは、次代の若手俳優に口説かれたり口説かれなかったりしつつ日々を過ごし、結局ロメッツを忘れられないまま数年を過ごす。


 そして奇跡的に生き残ったロメッツが戦争から帰ってきて、偶然出会い、あの時の婚約破棄の真意を知らされ、また双方の気持ちが盛り上がるのだ。


 二度目の婚約破棄は、不治の病に倒れ己の死期を悟ったロメッツが、もう一度リュスカーを遠ざけようとするものだった。

 だが、今度こそリュスカーはそれを受け入れず、ロメッツが天に昇るまで幸せな日々を過ごし……


 そして最後は、星になったロメッツを想い涙するリュスカーの姿で、幕が下りるのだ。


 ――なお、これより数年後に「リュスカーの星空 第二章」と称して続編が制作されるのだが。

 ロメッツを失った後のリュスカーがただただ数々の男たちと浮名を流すだけのやっすいやっすい三角四角五角に至るドロドロの愛憎物語で、あの時の感動を期待していた客からとんでもなく叩かれることになる。もう本当にえげつないほど叩かれて、叩かれに叩かれて、かの清純派・純愛派で売っていた人気時代が嘘のように女優レーラは一躍「悪役女優ナンバーワン」に躍り出た問題作となる。


 まあとにかく。


 この「リュスカーの星空」で焦点を当てられた、婚約破棄。

 双方合意の解消でも白紙でもなく、一方的な都合である破棄という形。


 通常、婚約の破棄などと言えば不名誉なことなのだが――あの劇は「相手を思いやる」という気持ちからのものであった。


 だからこそ、変な病が流行り出したのだ。


 果たして自分はこの人に相応しい人だろうか。

 果たしてこのまま結婚して、自分も相手も幸せになれるだろうか。

 あのロメッツのように、相手の幸福を考えて、自分は身を引くべきはないか。


 こんな気持ちから、婚約破棄という言葉が使われているのだ。

 加えてほとんどが親が決めた婚約者である場合が多いだけに、よく知らない相手だから、というのも身を引く一要因であるのかもしれない。


 シロエからすれば「貴族の結婚など九割八分が政略で、残りは身体目当ての卑猥なやつなのに何を寝惚けたことを」と一笑に伏すような思考だが。

「何が幸せだ。おまえら庶民か」と言い放ってやりたくなるだけの感想しか出ないものだが。


 しかし、まだ大人として数えられない十三歳から十五歳までの貴族学校生からすれば、ありえない話ではないのかもしれない。

 まだ幼く、狭い世界に囚われがちなこの世代には、幼く狭いゆえに動機だけはとても純粋でもあるのかもしれない。


 ――いずれ振り返って恥ずかしい人生の汚点、消したい闇の歴史になるであろう、自己陶酔以外の何者でもない純粋さだとは思うが。


 まあ、なんにせよだ。


「早く春になればいいのにね」


 寒さも億劫だし、今の流行も鬱陶しい。

 貴族の娘として、公爵家の娘として、二重の意味で寒くて恥ずかしくすらある。


 春になり、温かくなり、新しい生活が始まれば、爪先の冷えも腰の鈍痛もひどい流行り病も、きっと落ち着くことだろう。


 あの「リュスカーの星空」を越える劇も生まれてくるかもしれないし、季節のお菓子や催しもある。楽しみはたくさんあるのだ。


 今でこそ少々距離を置いている婚約者である第五王子ゲインロットとも、少しずつ仲良くなれればいい。

 せめて仲が良い友達くらいの関係になりたい。その方がお互い楽だろうから。

 結婚まではまだまだ時間があるのだから、不可能ではないだろう。


 ――そう、思っていた。


 自分にはなんの関係もないと。

 九割八分が家のための政略結婚で、残りは身体目当ての卑猥なやつでしかない貴族の婚約や結婚に、くだらない夢を見るなと。


 そう、思っていた。














「シロエ・クロワ! 貴方トノ婚約を破棄(フ〇ッキン)する」


 まさかその流行り病に、自分の婚約者が掛かってしまうだなんて、思っていなかった。


「婚約破棄(ファッ〇ン)だ!」


 自分の婚約者が患ってしまうなんて、本当に、可能性として考えもしていなかった。





 だが、今はきっと、流行り病以上の問題が並行して存在している。





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