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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第六章 魂の夜明け
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天下一の阿呆者

 虫のかなでを乗せて、夜風は涼やかだった。

「おのれえっ!」

 ハンザが太刀を抜き取ってくる。

 おれは訳がわからず立ちつくしている。

 早之介と名乗った雑兵をよくよく見つめてみれば、見覚えのある団子鼻だったのだ。

 目付きが若干違うし、顔色も浅黒くなっている。しかし、扮装しているに違いない。

「簗田牛太郎、覚悟しい。この恨み、晴らさせてもらうわ」

 急に女の声になった、さゆりん――。

 クリツナがすっくと首を持ち上げてさゆりんを見つめた。松明の火に照らされたそのたてがみが風にそよいでいる。

 さゆりんの後ろ髪もさらさらと流れている。

 それだけが殺気の張り詰めているこの時間の調べ。

「やめろ」

 おれは草鞋をじゃりっと鳴らしながら一歩前に進み出る。

 おれとさゆりんのあいだには松明の火の粉が噴き上がっていた。おれはさゆりんをきつく睨みこんだ。

「そんなことをして何になる」

 すると、さゆりんは発狂したみたいにけらけらと笑い上げるのだった。

「そうや! なんにもならへんわ! ほんでもな――」

 逆手持ちの短刀を顔の前に構える。

「あんたを殺すだけや!」

 三白眼をぎらりと開いたさゆりんはおれに駆け込んでくる。

 半兵衛が飛び込んでいって太刀を振り抜く。

 が、さゆりんは具足を身につけているくせに跳躍した。高々と飛んだら、くるりと前かがみに一回転し、おれの目の前に着地してくる。

 おれはのけ反った。

 さゆりんは白い歯を見せて笑った。

 あっという間の出来事にどうすることもできない。おれは目を見開いて棒立ちするばかり。

 愉快そうに笑っている。地獄から這い出てきた化け物みたいな恐ろしい光を瞳に宿しながら。

「死ねや」

 瞬間、さゆりんは横に吹っ飛んだ。おれの目の前から一瞬で消えた。

 松明の明かりの外まで転がっていき、田んぼの中へ稲を薙ぎ倒して落ちていく。

 叩き飛ばしたのはクリツナの後ろ脚だった。クリツナがいつのまにか旋回し、さゆりんの胴丸を蹴飛ばしていたのだった。

 クリツナはいきり立ってブルルブルルと鼻を鳴らしながら首を上下に振っている。

「お、おい……」

 思わずクリツナに訊ねてしまう。

 そういうのがわかるのかい?

 ハンザもクリツナを呆然と眺め見ていたが、さゆりんの捨てた松明を拾い取って半兵衛が田んぼへと駆けていった。

 ハンザがはっとした顔で半兵衛を追い、田んぼの中に飛び込んで、悶え倒れているさゆりんを二人がかりで取り押さえた。

 手ぬぐいで両手両足を縛りつけ、猿ぐつわを噛ましたさゆりんを半兵衛はハンザの手も借りて愛知川まで連行していった。

 元ニートはブチ切れており、鬼のような形相でさゆりんを拷問した。

 さゆりんを川に蹴り落とす。さゆりんは浅い岸辺でバシャバシャと跳ね上がる。半兵衛はさゆりんの後ろ髪を掴んで引き起こし、そのまま顔面を川面に叩きつける。しばらく川の中に沈めたあと、また引き起こす。また叩きつける。

 ハンザがかかげる松明の火に照らし上げられて、おれはそれを十回ぐらい眺めた。

 もういいと言いたかけたところで、半兵衛はさゆりんの猿ぐつわを解き、瞳孔開きっぱなしのダークサイドの表情でさゆりんを覗き込む。

「言え。お前は何者の申し付けで簗田殿を狙った」

 ぐったりとした顔つきながらもさゆりんは笑う。

「阿呆か。ただの私怨や」

 半兵衛はさゆりんの後ろ髪を引っ掴んだまま右拳でぶん殴る。そうして再び顔を覗き込む。

「歯でも抜くか?」

 いくさ馬鹿になっているときみたいに半兵衛は狂気の笑みを浮かべており、おれはバシャバシャと川の中に走っていって半兵衛の肩を掴んだ。

「いいっ! 半兵衛っ、もうやめろっ!」

「何を申しておる」

 半兵衛に手を振り払われた。半兵衛は再度さゆりんの顔面を川に打ち込んだ。今度は足で踏んづけた。

「やめろっ! 半兵衛っ!」

 半兵衛はおれを冷たい目で振り返ってきたあと、さゆりんの髪を引っ張って川から引きずり出してくる。

 ゲホゲホとよだれを垂らしながらむせ返るさゆりんに、眼差しをぎらぎらと注ぎ込む。

「お前、甲賀流だろう。誰だ、誰の指示だ」

「言うとるやないか。私怨て。私はもう甲賀流やない。この簗田牛太郎のおかげで私は追われの身なんや」

 半兵衛がおれに振り返ってくるので、おれは必死にうなずいた。

「そうだっ。こいつの言っているとおりだっ」

「なにゆえです。こやつがもしも甲賀流の主人から指示を下されていたならば、由々しき事態なのだ。甲賀流の大半はすでに織田の軍門にひれ伏しているのだから」

 おれは説明した。さゆりんに吹き込んだことを説明した。だから私怨に違いないと。

「なるほど」

 半兵衛はさゆりんの髪を鷲掴みにしたまま岸辺に引っ張り引きずり上げていく。そのまま打ち捨てて、松明を拾い取った。

「煮るなり焼くなり犯すなり、簗田殿のご自由に」

 と、背中を向け、瞼を半分閉じているクリツナの鼻面を撫でたあと、半兵衛は岸辺から去っていった。

 さゆりんは這いつくばったままゲホゲホと咳き込んで、ずぶ濡れの髪を顔中にまとわせる。

 それをハンザはじっと見下ろしている。おれが岸辺に上がってくると、ハンザは顔を上げてくる。

「いかがいたしますか」

「いい。お前は先に和田山に帰ってろ」

「そんなわけには。旦那様にもしものことがあったら」

「いいからいけ」

「なりません」

 ハンザは強情に唇を結んでおり、怒鳴っても退散しそうになかったので、おれは袴の紐をほどいていく。

「今から犯すんだ。お前はそういう趣味があんのか」

 ハンザはくるりと背を向けた。下流へと歩いて行く。

 ややもすると松明が止まったので、もっと離れろと声を張り上げる。松明はまたしばらく下っていって、足音が聞こえなくなった。

 暗がりの中、クリツナがあくびをかく。

 おれは袴の紐を結び直していく。

 川は静けさを取り戻し、波を岸辺に打ちつけてきていた。さゆりんの息遣いは荒く、たまに咳き込む。

 おれは表情の判別できない、闇に飲まれた輪郭を見下ろす。

「さゆりん。甲賀流を追い出されたってのは本当なのか」

「何を気取っているんや。さっさと犯せばええやろ」

 暗闇には瞳がぎらついている。岸辺に生える草がざわざわと風にあおられ、おれの足下にはなんらかの生命がうごめいている。

「笑わせんな。負け犬のお前に犯すほどの価値はねえ」

 ぎらつきは止まって、単純な呪いのような眼差しがおれを突き刺してくる。

「お前はあなどっていたおれに最後の最後に負けたんだ。いいや、岐阜のところに来た時点でお前の負けだった。伊那谷のときのおれとは変わっていたんだからな。そして、お前も伊那谷のときとは違ったんだ。お前にあのときの魅力がなくなったからおれに逆に騙されたんだ」

「言ってくれるやないか」

「長篠を目前にしておれを殺していればこんなふうにはなっていなかったかもしれないな。でも、どちらにしろ、六角は終わりだったんだ。それどころか、甲賀流は織田の軍門に下った。結局、お前は悪あがきをしていただけだ」

「黙れ! 鬱陶しい! そんなことはわかっているんや! さっさと殺せや! 殺せんのかい! そやろ! あんたは私に惚れとるかんな!」

 クリツナがのそのそとおれに歩み寄ってき、鼻面を押し付けてくる。

「大丈夫さ、クリツナ」

 おれはクリツナの鼻を抱え、撫でてやる。

「あんたみたいなのに惚れられてな、こっちはきしょいんやっ! さっさと殺しいやっ! あんたのその戯れ言は伊那谷んときから反吐が出るんやっ!」

「おい。おれは反吐が出るって言葉がいちばん嫌いなんだ」

 おれは腰のアケチソードを抜く。

「ほうかいっ! 反吐が出るって言われたことがあるんかい! 女に言われたんやろ! そやろなっ! 女はみんな、あんたの声には反吐が出るんやっ!」

「反吐が出るっつったのはおれの奥さんだバカ野郎!」

 おれはアケチソードを振り下ろす。止める。

 おれが振り下ろした刃越しに、さゆりんの睨みと鼻息が届いてくる。

「はよう、殺せや。できんのかい、反吐男」

 おれは脇差しを鞘におさめると、さゆりんの両手両足の手ぬぐいをほどいていった。

 クリツナがじいっとさゆりんを睨んでいるが、さゆりんは横に伏したままでおれを見つめてくる。

「忍びをやめたかったんだろ。よかったじゃねえか。どっか遠くのほうにいって女らしく暮らせ。びた一文にもならねえ意地なんか張っているんならよ」

 おれはクリツナの口輪を取り、松明の火のほうへ歩んでいく。

「待てや」

 おれはクリツナとともに下流へと足を運んでいく。

「待てやっ! この阿呆っ! 生かすんなら、あんたのことは絶対に殺すでっ! それでもええんかっ!」

 おれは立ち止まり、暗がりの中にぼんやりと見え隠れする人の形に目を凝らす。

「それでいいからそうしているんだろ」

「冗談やないで」

「そのたびにおれに会いに来てくれるんならそれでいい」

 風がおれとさゆりんのあいだを通り抜けていた。川は闇の中にたゆたっている。

 わずかながらに秋の香りがひそんでいる。

 おれを二度も殺さなかったさゆりんが今度は殺しに来た。甲賀流を追い立てられたというのは本当なのだろう。

 表情はわからない。濡れそぼった髪だけを風にはためかせ、彼女は孤独のふちにたたずんでいる。

「いつでも来ればいい。おれはさゆりんをいつでも待っている」

 つぶやくように言ったおれは踵を戻し、クリツナとともにそこから立ち去っていった。

 松明の火の下ではハンザが不安げな表情でおれを待ちわびている。




 翌日、奈良に連れていかされるおれであった。

 夜明け前に十兵衛がわざわざ迎えに来た。そんな気がしていたのでおれは早起きしていた。

 荷駄の中に入れてきていたあずにゃんが選んでくれた素襖(橙色がいやなんだが)を着込んで、日除けに笠を被り、瞼をこすりながらクリツナに跨る。

「旦那様、本当に大丈夫ですか」

 ハンザが不安そうに見上げてくる。クリツナの口輪を取らせるのは沓掛勢の雑兵である。

「お前は作業の監督をしとけ。それに十兵衛殿が一緒だから心配ない」

「かしこまりました。どうぞお気をつけて」

 クリツナを歩かせる。おれはあくびをかいた。クリツナもあくびをかいた。

 涼やかな朝の気配に包まれて、日の出をかたわらにし小走りに東山道を上っていく。隣の馬上の十兵衛は、奈良まで丸一日はかかると言ってきた。

 太郎の嫁に自分の娘をもらってくれと言われると困るので、おれは再びバカをアピールして訊ねる。

「松永弾正忠ってのは何者なんスか。たまに名前を聞くんスけど」

「弾正は――」

 馬の背中に揺られながら十兵衛はおれの無知な嘲ることもなくきっぱりと言う。

「人呼んで稀代の大悪党」

「き、稀代の大悪党?」

 おれはたまらず唾を飲み込んだ。なんて響きだろう。サルをも凌ぐ盗人詐欺師に違いない。

 と、思いきや、十兵衛の話を聞くかぎりただの成り上がり者だった。

 一昔前、京都奈良や、摂津国、和泉国という大阪あたりで、三好長慶という大大名がいた。

 松永弾正はそいつの代筆者となって、のし上がってきたらしい。

 三好長慶は幕府の実力者でもあった。しかし、長慶の兄弟や息子が次々と不審死で亡くなっていき、たかだか代筆者だった弾正の権力はどんどんと強まっていって、やがては四年前ほどに長慶も没した。

 十兵衛が言うに三好長慶の親族は弾正が殺したんじゃないかと。

「弾正を悪党と呼ばせている暴挙の一つに、将軍義輝公の暗殺です」

 三好家の一族重臣たち合わせて三人、いわゆる三好三人衆と徒党を組んで、松永弾正は三好長慶の後継者に長慶の甥っ子を担ぎあげた。

 そして、自分たちの意にそぐわない将軍義輝を一万の軍勢で取り囲んで殺してしまうと、自分たちの都合がつく義輝のいとこの足利義栄を十四代目将軍にした。

「義輝公暗殺に弾正は関与していないとほざいておりますが、一万の軍勢には弾正の嫡男や家臣がおったのです」

 それがあって、義輝の弟の義昭――、足利左馬頭は京都から脱出したというわけだった。

「弾正のもう一つの暴挙は奈良東大寺の大仏を燃やしてしまったことです」

 三好家の後継に自分たちに都合のいい奴、足利将軍に自分たちに都合のいい奴を据えてやりたい放題だった悪党どもだが、仲間割れを起こした。

 今度はテメエら同士、弾正と三好三人衆に分かれていくさを始めたのだった。

 畿内のあちこちでごちゃごちゃとやり合ったあとに、三好三人衆は東大寺に立て籠もって弾正の軍勢と向かい合い、そうして弾正は東大寺を燃やしてしまったというのが去年の話。

 三ヶ月前には、三好三人衆が弾正の重要拠点である信貴山城というところを攻め取ったそうで、現状、弾正は絶体絶命らしい。

 なので、信長にいち早く降伏の申し入れをしてきたんじゃないかと。

「左馬頭様は義輝公を殺めたうちに弾正は関与していないとしてしまっておりまして、拙者のうちでは弾正など信用に値しておりませんが」

 十兵衛は話すごとに苦虫を噛み潰したような顔つきになっていったが、稀代の大悪党だなんて大袈裟だ。

 信長だって身内をさんざん殺してきたらしいし、おれだって武田信玄に殺されそうになったし、トンデモ時代の野蛮人の常套手段じゃねえか。

 いくさになれば強盗強姦放火はお手の物の世の中で、おれからしてみれば松永弾正が仕出かした悪さなんて無数の星の一つぐらいにしか見えない。

 奴の犯罪の標的がたまたま昔から続く由緒正しきと言われているものだっただけだ。

 しょせんは詐欺師のサルが巨大化したようなものだ。むしろ、サル以下だな。三好三人衆とかいうしょうもないザコのチームに追い詰められているんだから。

 琵琶湖の南の端っこ、瀬田を過ぎて大津、大津から東山を越えて、山科やましなというところに入る。

 そこから奈良街道をひたすら南下した。

 上洛準備のために、左馬頭がもうすぐ南近江に来るということなので急ぎだった。本来なら最低でも二日はかけるものだと十兵衛は言う。

 足利将軍がどうであろうとおれには関係ねえってのに。

 まったくもってクリツナがいて良かった。

 この雑兵もそうだし、ねじり鉢巻きもそうなのだが、口輪を取る人間に感心してしまうのはマラソンをしていてもへばらないのだった。ちょこちょこ休めばまた走るのだった。

 日の出から始まって日の入りにようやく到着するという強行軍のすえ、奈良に到着した。

 暮六つの鐘の音が鳴り響き、紫じみた空の下で古都は山々に囲まれている。

 どこかの誰かも奈良の生まれだと言っていたっけ。

 夕風の涼やかさはしみじみと夏の終わり、ひぐらしの鳴き声も遠くのほうだった。

 そうして、多聞城とやらに行くのかと思いきや、寺に泊まると言う。

 だったらゆっくり来て、奈良に入る手前でどこかに泊まれば良かったんじゃねえのか。

「早朝には弾正のもとに行き、明日中には南近江に戻りましょうぞ」

 十兵衛は振り向きながら笑って言う。

 真面目十兵衛の忙しさに巻き込まれたおれは、十兵衛とともに寺のまともな料理を食ったあと、離れ家の一室にくたばった。

 やっぱり十兵衛に関わるとろくなことがねえようだ。

 太郎は是非とも十兵衛の娘を嫁に貰っちゃならん。

 寺の坊主が布団を持ってきてくれた。戸を開け放ち、すだれを立てかけると、夜風がすっと入り込んでくる。

 坊主が立ち去って、おれはろうそくの火を吹き消し、布団の上に寝転がる。

 虫がりんりんと鳴いている。

 寝転がっていくばくもないうち、火皿を持った誰かがすだれを静かにのけつつ部屋の中に入ってくる。

 おれはのそりと体を起こす。ろうそくの火明かりで誰かはわかっていた。

「ストーカーか?」

「なんやそれ」

 火皿の火を燭台のろうそくに移すと、部屋はぼんやりと明るんだ。

 横顔に影を忍ばせたさゆりんはふうっと火皿を息で吹き消し、作務衣の膝を折りたたんでおれの隣に腰掛けてくる。

 懐から短刀を取り出してき、おれの前に置いてきた。

「殺してや」

 おれは横になって背中を返す。

「死ねへんのや」

「そんなことはないだろ。忍びってのはいつだって自殺ぐらいできんじゃねえのか」

「私はもう忍びやないんや」

「じゃあ、死ぬ必要ねえじゃんか。だいたい、おれには殺せるわけがない。それをわかっててそんなことを言ってんだろ。おれはな、そういう女は反吐が出る」

 さゆりんは黙った。

 おれは再び体を起こした。さゆりんは睨むようにしておれを見つめてき、おれはさゆりんをじっと眺める。

「おれのことを恨んでいるんだろう」

「そや」

「じゃあ、なんで殺さないんだ」

「そんなことをしても意味がないからや。あんたの言うとおり、私はあんたに負けたんや」

「そんな目をしたって、おれはもう何も教えないからな」

「知っとる」

「じゃあ、何をしに来たんだよ」

「知らん」

「おれは疲れてんだ」

 横になると背中を向けて目を閉じた。

 おれはわからない。

 さゆりんが何を考えているのか正直なところわからない。甲賀流を追い出されたのはそうだとしても、おれを殺しに来ているのか、それとも単にさ迷っているだけなのか。

 けれども、不思議とおれは殺されないだろうと確信していた。根拠はないが、初めて諏訪で会ったときからこれまでを――、さゆりんの目や、表情や、言葉を振り返ってみれば、おれは殺されない。

 頑張り屋さんやね、と、おどけながら言ったあの顔がおれには忘れられない。誰からも蔑まれていると思って卑屈でいたおれは、さゆりんのあの顔に何もかも救われたようだった。

 おれはさゆりんが本気で言ってくれたのだと思っている。

 だから、傷つけられても、たぶらかされても、たとえ殺されかけても、おれはさゆりんが許せる。そして、おれが逆にさゆりんをたぶらかしたことも心残りだった。

 誰の言葉かは忘れたけれども、おれを愚直だと言った。そのとおり、おれは愚かだ。おれはあずにゃんが大好きだけれども、さゆりんも好きだ。

 だって、おれは優しくされたことが忘れられないのだ。

「なんで泣いとるん」

「泣いてねえ」

「鼻、すすっているやん」

「思い出すのは忘れているからだ」

「あんたの言っていることがわからへん」

「おれは長いことずっと誰にも優しくされたことなんてなかった。そんなおれに初めて優しくしてくれた人はもう死んじまったんだ。おれはその人に言ったんだ。おやかた様は上洛するから見ていてくれって」

「好きやったん?」

「好きさ。吉乃さんを好きじゃない人なんて絶対にいない」

 りんりんと虫が鳴いている。夏の終わりなのか秋の始まりなのか、風は暑くもなければ冷たくもない。

 おれの枕元にはさゆりんの影がたたずんでいる。

「あんた、言うてた。私とその吉乃さんが似ているって」

「言ってねえよ、んなこと」

「言うてた。嬉しそうにして話してた」

「眠い」

 おれは腕組みをして丸くなる。

 さゆりんはおれの後ろでずっと座っている。

「そこにいたって何もならねえぞ」

「知っとる」 

「おれはお前にもう騙されねえんだからな」

「あんたを騙すのなんて簡単や」

 さゆりんはおれのうしろに寝そべってくると、おれの背中にそっと寄り添ってきた。

「でも、あんたみたいな阿呆を騙したところでもう何もならへん」

 おれは少しだけ笑った。

「私はあんたを憎い。でも、あんたを殺せん。あんたも私を殺してくれへん。なんでや。阿呆やないか。私は天下一の阿呆者やないか」

 おれは寝返りを打ってさゆりんに体を向けると、さゆりんの首から腕を通し、さゆりんの華奢な体を胸に寄せた。さゆりんは嗚咽に震えながらおれの胸に頬をこすりつけてくる。

 さゆりんは何もしなかった。そこに置いた短刀を握ることもなく、おれに色仕掛けをすることもなく、ただただおれの腕の中でうずくまっていた。



 夜明け前、坊主が起こしにやって来て目が覚めると、さゆりんはいなかった。

 どこか空虚なものを覚えながら素襖を羽織って、朝日が昇るとともに十兵衛がやって来て、朝メシを食べる。

「さて、行きましょうか」

 腰を上げ、離れ家の玄関の敷居をまたぐ。

 雑兵に口輪を取られ、クリツナは朝日を浴びて金色に輝いていた。その隣、片膝立ちで顔を伏せている若者がいる。

 青い素襖を羽織り、腰に大小それぞれの刀を帯びて、頭に髷を結っていた。

「殿。夜通し探しましたぞ」

 と、低い声音を響かせて顔を上げてきたら、目鼻立ちは変わらず、そのままのさゆりんだった。

「なにゆえ、拙者に申していただけなかったのですか。従う者もそれぞれ一人で明智様とお二人だけとは危ないではありませんか」

 何を考えているんだろう……、こいつ……。

 おれはどういうことだと怒鳴り散らしながら問い詰めたかったけれども、事情を知らない十兵衛がいるのである。

 十兵衛はなんともなしに顔を向けてくる。

「簗田殿の家臣ですか」

「え、ええ……。まあ……」

 十兵衛の前で、いいえ、さゆりんです、なんて言えるはずがない。

 おれは引きつった笑みを浮かべつつ、さゆりんには目もくれずにクリツナに跨る。

「明智様、これよりこの吉田早之介がお供いたします」

「左様か。遠路はるばるすまなんだ」

「十兵衛殿、行きましょう」

 そう言って、おれはさっさと手綱を手繰った。内心はらはらしながらクリツナを歩ませていく。

 なんだよ、吉田早之介って。何を考えておれの家臣になる気なんだよ。

 また再び騙してきているのかな……。

 いろんな意味で生きた心地がしない。


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