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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第五章 門出
72/147

雪標

 さゆりんがぶん投げてきた巾着袋の中身はシロジロが売りつけられたような黒い玉だった。

 おれは飲みたくなかったのだが、

「旦那、どうせ死ぬんなら飲めよ」

 ねじり鉢巻きは人を疑うことを知らないらしい。

 さゆりんが持っていた水筒の水とともに謎の黒玉を口から押し込まれた。

「安静にしいや。昼前には治るやろ」

 そう言ってさゆりんは消えた。

「旦那。あの女、織田の忍びって言ってたぞ。知り合いか?」

「知らん。わからん」

 ほどなくして眠ってしまった。

 目が覚めると、藁を被せられていた。

 なぜか、鉢巻きは箕笠を被っている。

 クリツナ(仮)の背中にも被せられている。藁で囲われた荷駄も担いでいる。

「起きた?」

 はっとして顔を持ち上げると、箕笠を被った団子鼻の――、さゆりんがおれを覗いてきていた。

「ど、どういうことだよっ」

「こいつがどっかから盗んできたんだ」」

 と、ねじり鉢巻きがさゆりんを指差す。

「盗んできたなんて人聞きの悪いこと言うなや。お人好しから借りてきただけや」

 おれは唖然としてさゆりんを眺める。

 汚い格好で男装しているが、猫目といい団子鼻といい、それに、ほのかに漂ってくる柑橘系の香りといい、確かに諏訪でおれを罵倒してきたさゆりんに違いない。

 それに、おれの体もすっかり軽くなっている。

 ねじり鉢巻きがおれの前に箕笠を差し出してくる。

 おれは状況が飲み込めない。

「さっさと支度しいや。武田に追われてるんやろ? さっさとせんとほんまに殺されるで」

 おれは首をひねりながら箕笠をかぶる。草鞋も用意されていた。直垂ひたたれの裾をまくってつぼめると、草鞋に足を通していった。

「甲州街道から諏訪に行って東山道を上っていくのはあかん。あんたが脱走したのは武田の領内に知らされているはずや。ほんでも、私が抜け道を知っておるから、付いておいで」

「い、いや」

 おれは戸惑うままに笠に隠れたさゆりんを見つめる。さゆりんは笠を少しだけ上げて、猫目の瞳をこしらえてくる。

「なんや」

「だ、だって、キミ、敵だろ」

「言うたの忘れたん? 私は織田の忍びやで」

「う、嘘だろ。そんなのおれは見たことも聞いたこともねえぞ」

「あんたが知らないだけやない? ほな行くで」

 そう言ってさゆりんはぽいっと何かを放り投げてきた。掌に受け取ったのは干し柿だった。

「食べながら歩きや」

 おれはどうにも困って鉢巻きを見やる。

「とりあえずは付いていくしかねえんじゃねえのか。旦那が飲んだのも変なものじゃなかったしよ。あの女を信じるしかねえだろ」

 鉢巻きの言う通りか。

 どちらにしろ死ぬなら可能性のあるほうを選ぶしかない。

 おれは干し柿をかじりながらさゆりんの後に付いて歩き、ねじり鉢巻きとクリツナ(仮)も後に続いてきた。

 森から森へとつたって歩いていき、さゆりんの後を黙々と付いていく。

 織田に忍びがいるだなんておれは一度も聞いたことがない。

 沓掛城におにゃの子を雇わないことに関して、マリオが武田の忍びがどうのこうのととやかく言っていたけれども、織田に忍びがいるというのは誰の口からも聞いたことがない。

 だいたい、どうして、その織田の忍びが諏訪に忍び込んでいたのか。

 やっぱり、この小娘は武田の忍びなんじゃないのか。

 でも、さゆりんはおれや鉢巻き、クリツナ(仮)が来た道とは違う山道へ導いていく。

 あるかないかわからないぐらいのけもの道だった。上ったり、下ったり、勾配はきつく、さすがのクリツナ(仮)も踏ん張って登ってくる。

「諏訪の手前辺りまで行けば、伊那谷に抜けられる山間やまあいの道がある。伊那谷まで出ればなんとかなる。そこまで頑張りや」

 おれは聞きたいことが山ほどあるが、息が上がって喋れない。

 付いていくのがやっとだ。

 さゆりんが忍びだというのはたぶん本当だ。さゆりんは険しいけもの道をすいすいと登っていく。転がってしまいそうな坂道でも跳ねるように進んでいく。

 たまに木々の開けた、景観が望めるところに出ると、人差し指の先をしゃぶってそれで風を読んでいる。笠を持ち上げ、瞼を細めながら太陽の位置を確かめる。

「あのさ、休憩しないかな」

「は? 何を言ってるん? お馬さんはちゃんと歩いてきてるやん」

 スパルタである。おれはぜえぜえと付いていく。どこをどうやって歩いてきているのかまったくわからん。

 日が暮れて山道が暗くなってしまったころ、さゆりんはようやく足を止めた。

「ここらへんで泊まっていこか。明日、ちょっと行けば伊那谷に抜けられる山道や。今日は早めに休んでおこ」

 ほっとして腰を下ろした。

 クリツナ(仮)は沢の水を舐めつつ、その辺に生えている適当な草を選別して食っている。

 おれと鉢巻きはさゆりんから干し柿を渡された。

 ハア。腹いっぱいの御飯が食いたい。麦でもヒエでもお粥でもいいから、御飯が食いたい。

 干し柿なんてすぐに食べ尽くしてしまって、空腹の腹鳴りに耐えつつ寝転がる。

 クリツナ(仮)は草だけ食ってりゃいいから食べ放題だ。

 さゆりんと鉢巻きが枯れ木を集めてきているので、おれは起き上がった。

「おい。火を起こしたら武田に見つかっちまうじゃねえか」

「あの女が持って来いって言うから持ってきているんだ。俺に言うなよ」

 さゆりんが枯れ木を抱えて戻ってくる。おれの前にぽいっと捨てて、箕笠を外していく。

「あの、大丈夫なんスかね? 火を焚いたら武田に見つかっちゃうんじゃないんスかね?」

「山の中や。ふもとには見えへん。ほら、あんたらも箕を取ってや。燃え移って丸焼きになるで」

 言われたとおりにすると、火打ち石で藁を燃やし、暗がりの中に暖かい火がパチパチと燃えてともる。

 火を見たら、また、ほっとする。

 燃え立つ火の向こう、彼女は長いまつ毛を伏せぎみにして、少し物憂げな眼差しで焚き木を並べ直している。

「あの、さゆりさん」

 と、おれは、今日一日中疑問だったことをようやく訊ねる。

「どうして諏訪の高島城にいたんスかね」

「命じられて忍び込んでいたからに決まってるやん」

「で、どうして、甲府に来ていたんスかね」

「あんたが沓掛城の簗田牛太郎って聞いたからや。そんな人がのこのこと甲府に出かければ無事に帰ってこられるわけあらへん」

「で、でも、あっしから情報を聞き出そうとしてたじゃないッスか。あれって、織田方だったら聞いてこないッスよね」

「それやからあんたって田舎者なんや。織田と武田をやり取りしている人なんて、いつ武田に寝返るかわからへん。東山道を下っていく織田の人に怪しいところがないかどうか調べるのも私の役目や」

 クリツナ(仮)がのそのそと戻ってきて、脚をたたんで寝そべった。

 さゆりんはクリツナ(仮)の様子をじいっと見つめていた。

 丸い鼻から息を抜くと、かたわらに置いていた枯れ木を火の中にぽいっと放る。

「あんたはべらべらと喋りおったけどな」

 おれは肩をすぼめながら、体育座りの膝の中に顔を埋めていく。

「お、おやかた様には内緒でお願いします」

「私の存在を織田の人間に教えないっていうんであれば、黙っといてやるわ」

「はい。誰にも言わないッス」

 諏訪でおれに色仕掛けしてきたのとは打って変わって、さゆりんはえらく無愛想でいた。

 たぶん、さゆりんは本当に織田の忍びだろう。この愛想のなさ。武田の忍びだったら絶対に色仕掛けしてくるのだから。



 翌日、夜明け前に出立ということになった。

 さゆりんから、おれとねじり鉢巻きが寝ているあいだに借りてきた(と言い張っている)雪沓ゆきぐつを渡された。

「昼過ぎから雪雲が来そうや。山間やから念のために持っていき」

 おれはねじり鉢巻きやクリツナ(仮)とともにさゆりんのあとを付いていく。

 空は晴れ渡っている。雪なんてまったく降りそうにない。

 甲州信州に連なる山々の頂上は白いものを被っているが、まさか山越えをするわけでもあるまいし。

 それにしたって腹がへった。

 雪沓と一緒に渡された朝メシは干からびたしいたけと搗栗かちぐりである。

 雪沓を盗んでくるんなら、メシを盗んできてほしい。

 相変わらずどこをどうやって歩いているのかわからないが、行く手はやがて深い山の中から開けた山の中へと変わっていた。

 木々に挟まれているというよりか、山と山に挟まれている。ゆるやかに曲がりくねる山間を縫うようにして進んでいき、なだらかな勾配を上っては下って上ってを繰り返す。

 視界もわりと開けていた。

 ただ、さゆりんが言っていたように、分厚い雲が空を覆っていた。吹き込んでくる風には普段と種類の違う凛とした冷たさがある。

「降ったらおしまいや。足を速めるで」

 先頭を行くさゆりんの足並みがおれをせっつかせる。おれは食らいつくように付いていき、吐く息は真っ白い。

「旦那、クリに乗れよ」

 ねじり鉢巻きが何度も言うが、おれは無視して進む。

 昨日からそれは思っていたことだが、いくらさゆりんが忍びだからって、女を歩かせておいてテメエが馬に乗れるか。

 ましてや、さゆりんには下衆だの田舎者だのと罵られたわけで。


 ハッ、ハッ、と、息を刻みながら、おれは悔しくなってくる。

 おれが怠けていたり、悪さをしたり、それで下った天罰なら、これだって納得できる。

 毎度のことながら、おれにはなんら非なんてないのだ。

 むかつく、武田信玄。

 むかつく、山県クソ三郎。

 ついでにイエモンもむかついてくる。

 ゆとりもゆとり、典型的なゆとりのイエモン。おれのチヨタンを寝取ったクソイエモン。おれはこんだけ頑張っているのに、テメエは今頃チヨタンとキャッキャウフフしてんのか?

 おれはいつでもこんな目に。

 桶狭間のときだって、それこそ死に物狂いで頑張ったってのに。

 デザイアは――、あずにゃんは。

 だいたい、おれはどうして歩いているんだ。

 べつにもういいんじゃないのか、あきらめたって。

 歩けば歩くほど、進めば進むほど、危険ばかりが増えていく。心の傷も増えていく。

 そんなおれを慰めてくれるものは何もない。

 太郎、たまには言ってくれよ、頑張りましたね、って。

 ちゃんと岐阜に帰るからさ、今回ばかりは言ってくれよ。

 ああ、でも、墨俣のときはそんなこと言っていたっけかな。

 いいや、言ってない。あいつは照れ屋だから。

「見えたで。伊那谷や。あとは下るだけや」

 山の高みからさゆりんが指差した先には分厚い雲の下にしんと静まりかえる盆地――、連なる山と山に囲われて、渓谷のように細長く伸びる盆地があった。

 甲府を向かうときにも伊那谷は通ってきている。

 行きは伊那谷から諏訪へ向かったわけだが、諏訪を回っていく道順をショートカットしてきたというわけだった。

 伊那谷から峠を越えて木曽谷、さらに峠を越えて東美濃、先はまだまだ長い。

 伊那谷へと下っていくあいだ、幸いにも雪は降らなかった。ふもと近くまで来ると森の中でまた野宿だった。また干し柿だった。

 さゆりんが枯れ木を集めてきているので、おれも手伝う。

「疲れているんやろ? 座っとったら?」

「女にやらせるわけにはいかねえだろうが」

 おれがふてくされぎみに言うと、さゆりんは鼻で笑った。

「そんなん、男らしさとはちゃうで。当たり前のことや」

「だからやってんだろうが」

 ひと通りかき集めてくると、枯れ木に焚いた炎をしみじみと眺める。

 数えてみれば、岐阜を発って八日目。振り返ると気の遠くなるような日々を送っている。

 また、おれが死んだだのなんだのと始まってしまうんじゃなかろうか。

「思いつめたって仕方ないんやで?」

 顔を上げると、炎の向こうでさゆりんが微笑んできていた。

 額にほつれ髪を流しながら、女とも少女ともつかない素朴な笑みを見せてきている。

「なんだよ、急に」

 おれは枯れ木を炎に放り投げる。

「そんな顔をしておったから。見てみい、馬丁のおやっさんを」

 目を向けてみると、ねじり鉢巻きはクリツナ(仮)の腹を枕にしてすやすやと寝ていた。クリツナ(仮)もまた目を閉じている。

 枯れ木がパチパチと音を立てている。

「私がちゃんと岐阜に届けてやる」

 さゆりんの、明かりと闇のあいだに隈取られている素朴な表情からは、どこかしら、おれに寂しさを思わせた。

「毎度毎度こんなことをしているのか」

「そやね。ほんでも、高島城みたいに女中になるときもあるし。毎度毎度ってわけでもないで」

「家族は?」

「いるわけないやろ。七歳のときから忍びや」

「そんなに小さいときからおやかた様に雇われていたのか?」

「寝ないと明日に障るで。はよ寝な」

 言えない事情なのか、はたまた言いたくない事情なのか、さゆりんは何を思って忍びなんかやっているのだろう。

 不思議とやるせない気持ちになりながら、おれは地べたに体を寝かした。

「おやすみ、牛太郎さん」




 伊那谷の山のふもと、人里離れながら進む。

 頭上には雪がちらつき始めた。

 しばらくは吐く息を追いかけるようにして歩いていたけれども、辺りがうっすらと白くなってきて、さゆりんが足を止めた。

「あかんな」

 笠のひさしを持ち上げながら、遠い目でさゆりんはつぶやく。

「こんなん、えらい量が降るわ。そしたら、ここに閉じ込められてしまう」

「と、閉じ込められるって、どうすんだよ」

「牛太郎さんの馬やったら岐阜には夜までに着けるやろ――」

 さゆりんは振り返ってくると言った。

「早馬にしい」

 ねじり鉢巻きとクリツナ(仮)を岐阜に走らせろと。おれが遭難ぎみになっているのを誰かに伝えてもらえと。

 伊那谷には武田信玄から秋山善右衛門という奴が派遣されている。この秋山は織田と武田の取次役になっているから、信長に調略してもらえと。おれを保護するよう求めてもらえと。

「で、でもっ、調略うんぬんの前に、そんなことをしたら鉢巻きとクリツナ(仮)が追っ手にやられちまうじゃんかっ」

「いや」

 と、口を出したのは鉢巻き。

「旦那。こいつの言うとおりだ。雪の中の峠越えは危険だ。だからって、立ち止まっているわけにもいかねえ。それにクリツナ(仮)と俺なら心配すんな。旦那も湯村山から乗ってきただろ。クリツナ(仮)には誰も追いつけねえよ」

 まあ、そう言われればそうなんだが、クリツナ(仮)は鼻面に落ちてきた雪を呑気にぺろぺろと舐めているわけで、あまり説得力がないような。

「馬丁のおやっさん。もしも雪が大したことなかったら私は牛太郎さんを連れていく。木曽谷から美濃に行く道と、伊那谷を突っ切って長篠に向かう道がある。どちらかには行けるかもしれんから」

「わかった。太郎に伝えればいいな、旦那」

「いや、でも――、わかった。丹羽五郎左殿に相談しろって言っとけ。でも、大丈夫なのか? 武田ばっかなんだぞ」

「任せろよ。こんなときのためにこいつを育ててきたんだからよ。なあ、クリ」

 鉢巻きがクリツナ(仮)の鼻をぺちぺち叩くと、クリツナ(仮)はうんうんと首を振ってうなずいて、本気なのか芸なのか、おれは真っ白な溜め息をつく。

「わかったよ。鉢巻きを信じる。でも、無理はすんなよ」

 鉢巻きはクリツナ(仮)の背中から箕を剥ぎ、偽装するための荷駄も捨てると、鞍に跨った。

「旦那こそ気をつけろよ」

 腹を蹴飛ばし、クリツナ(仮)が首を震わせながら昇るようにして立ち上がり、目つきはまったくもって猛獣のそれだ、着地して重心を低めると、あっという間に雪のカーテンの向こう側へと消えていってしまった。

 降る雪が、何事も無かったかのようにしてすぐに視界を静けさのうちに包んでしまう。

「ぼうっとしている暇はないで。積もらなかったら積もらなかったで抜けていけばええんやからな」

 さゆりんが草鞋から雪沓に履き替えているので、おれも真似た。

 腰帯に草鞋を結び着けると、風もなくまっすぐに落ちてくる降雪の中に歩き出す。

 むしろ、開けた伊那谷を進むには、雪が降りしきっているほうがいいのかもしれない。

 それにしたって――、大変なことになった。

 足を運ぶたびに吐く息は、白くふくらんでは冷気に飲まれて消えていく。とうとうと降り注ぐ雪景色の中ではおれの息さえあっけない。

 笠を前のめりにかたむけて歩を進めれば、徐々に徐々に行く道の足下は白く覆われていく。

 前を行くさゆりんも箕を背負って丸くなっている。

 誰もいない、何も聞こえない、先の見果てぬ覆われた雪景色。

 おれを導くさゆりんという人間が得体不明なら、おれたちが向かう先もまるで得体不明だった。

 何を求めて歩いているのか、何を信じて歩いているのか、白くくすんだ世界の果てにはいったい何が待っているのだろうか。

 冷たく苦しい道のりは、それでさえわからなくなってくる。

 おれはいつだってさ迷っている気がするのだった。

 厳しさにさらされてさ迷っている。

 さ迷わなくなったとき――、もしも、迷うことがなくなったとしたら、こうしてひたすら真っつぐに歩いていくことがやがてできたとしたら、その先には何が待っているんだろう。

 手が痛い。

「どうしたん?」

 おれが立ち止まっていたので、さゆりんは振り返ってくる。

 おれはせめてもの白い息を吐きかけて手を温めていた。

 さゆりんが雪をザクザクと踏みしめながら歩み寄ってくるので、おれは手を下ろす。

「なんでもない」

 しかし、さゆりんは袖の中から両手を出してきて、おれの手を取った。両手でおれの右手を包み込んで握りしめ、そうして左手も握りしめた。

「何してるん。袖の下に入れなあかんやん」

 そうして、さゆりんはおれの手に白い息を吐きかけてくる。おれの手を撫でてくる。おれはあわてて引っ込める。

「や、やめろよ」

「そんなら袖の下にちゃんと入れて」

 おれが言われたとおりにすると、さゆりんはおれの隣に付いて歩き始め、背中も丸くしろと言ってきた。自分の体で自分を温めるんだと。

 さゆりんと肩を並べてザクザクと進んでいく。

「頑張らなあかんよ。しょうもないあんただって、待ってくれている人はおるんやろ?」

「しょうもないってのは余計じゃねえか」

「しょうもないやないか。下衆で田舎者」

 おれが睨みつけると、さゆりんは笠のひさしを上げてきながら、目を細めて笑う。

「でも、頑張り屋さんやね?」

 降り注ぐ雪の向こうでさゆりんの表情は温かく澄んでいた。



 視界があまりにも不良すぎて立ち往生しかねなかったが、ちょうど、あばら家が四軒並ぶ小川沿いの小さすぎる集落に行き着いた。そこはすべて廃屋と化していた。

「二十年前に武田が伊那谷を攻め取ったときに皆殺しにあったか、武田のおやかたの指示でどこかに移されたんやろ」

 板戸は外れていて、中を覗きこめば居土間は暗闇の中に時間が止まっている。

「小さい川沿いにはこういうのが多いんや」

 不気味でしかなかったが、雪の中で往生するよりはマシだと思い、箕笠に積もった雪を払ってから、さゆりんに続いて居土間に上がり込む。

 さゆりんはかまどの辺りをがさがさと漁っており、やがて、藁と鍋を持ってきた。外に出て雪を積んでくると、鍋を囲炉裏に吊るし、藁に火を点けて、薪も放りこんだ。

「あんたの手、温めな」

 ぼけっとして突っ立っていたおれは囲炉裏の前に腰かける。さゆりんがふーふーと息で火を大きくさせているので、おれもふーふーと吹く。

 薪に火が灯って、さゆりんはおれに手を出せと言ってきた。

「な、何すんだよ」

「何もせんて」

 おれが両手を出すと、さゆりんの両手がおれの両手ともぎゅっと包み込んだ。

「お湯が沸くまでは私が温めてやるわ。凍傷になったらかなわん」

「いいよっ」

「往生しいや」

 薪がパチパチと音を立て始めた。

 鍋に盛られた雪が溶けてゆっくりと崩れていく。

「あったかい?」

 目を細めながら笑いかけてくる。おれは唇をむすんでうなずく。

「大きい手やな」

「さゆりんの手が小さいんだろ」

 ふふ、と、さゆりんは少女のように笑うも、すぐに溜め息を鼻から抜いていき、握りしめるおれの手に物憂げな視線を落としこむ。

「血で汚れた手やけどな」

 おれはさゆりんのやつれた微笑みを見つめる。

「それって、殺しってことか」

 さゆりんは何も答えないでいる。

 ただただ笑っている。

 あばら家はしんしんとして止まない雪の静寂のうちに閉ざされていた。

 日々にあるべきものはすべてが失われていた。

 無音のままに時間は過ぎていく。

 誰が住んでいたかも知れない朽ちかけたあばら家で、おれはまるでおれの家のような錯覚に陥っていく。もしくは、歩き果てたすえの終着点のようにして。

 そんなおれの手をさゆりんは優しく包んでいる。昔から知っている人のように。昔からの恋人のように。

 雪が何もかもを閉じ込めてしまった世界。

 さゆりんがゆっくりと顔を上げてくる。

 さ迷い続けて、とうとう果ててしまったおれを待っていてくれた人のようにして、さゆりんはどこか懐かしい微笑みをおれに見せてくる。

「あったかくなってきたやろ?」

「ああ」

 おれも笑いながらうなずいた。



 雪が降り続いているかぎりはこのあばら家に居座ることになった。

 さゆりんが持っていた味噌玉と餅を鍋に入れ、それで温まったあとは、横になってひたすら休む。

 やがては日も暮れてしまうと、雪が降っているのか降っていないのかもわからなくなった。

 真っ暗闇の中に囲炉裏の薪が赤く点滅している。

「寒い」

 と、囲炉裏を挟んで向かいに寝ていたさゆりんがつぶやいた。がさがさと箕を擦らせながら寝返りを打っている。

「おれの箕をやろうか」

「ううん。大丈夫。ありがと」

 暗闇ははたとして沈黙する。

 ややもすると、箕がまたがさがさと鳴って、腰を上げたさゆりんはおれのほうに回りこんできた。おれが体を起こし、どうしたのかと訊ねると、さゆりんはおれの向かいに腰を下ろし、丸くなりながらおれの胸元に頭を寄せてきた。

 寒いから温めてくれと言う。

 さゆりんの腕がおれの腰に巻きつき、おれも戸惑いながらもさゆりんの肩に腕を回す。

 もっと強くと言うので、おれはさゆりんの体を胸に抱き寄せる。さゆりんはぎゅっと抱きついてくる。

 温かい、と、さゆりんは言った。このままでいてくれとも。

 おれがさゆりんの頭に顎を乗せると、どちらからともなく横に伏せていき、おれとさゆりんは抱きついたまま、ひたすら沈黙する。

 さゆりんのぬくもりが腕から胸から染み入ってくる。おれがそれを感じたのがわかるのか、さゆりんはおれの体を強く抱き寄せながら胸に頬ずりしてくる。

 彼女の髪からは、あの柑橘系の香りは届いてこなくて、本当のさゆりんの匂い、優しくてほのかに酸っぱい匂いが漂ってくる。

「あんなあ、私な。本当は忍びなんてやめたいんや」

 さゆりんは甘えるようにして頬ずりしてきていた。





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