敵は稲葉山にあり
結局、斉藤方は、織田方の墨俣砦に攻めてこなかった。
完成直後、砦にはおれの沓掛勢とマリオの児玉勢が駐屯した。
敵の出方に警戒しつつ、形の出来上がったプラモデルに塗装していくような感覚で墨俣砦の防御を補強し、本曲輪の掘っ建て陣屋も居館に改築し、井戸も掘り、長期に滞在できる拠点に仕上げていった。
やがて、佐久間右衛門尉という織田重臣の長ヒゲオッサンが一千人の兵隊を連れてやってきた。
「まあまあの造りだな」
大義であったの一言でも言ったらどうなんだと思って癪に触ったが、長ヒゲ佐久間は信長の片腕とも言える重臣である。こいつが来たとなると稲葉山攻めも近いと思い、自領に戻る沓掛勢はイエモンたちに預け、おれはそのまま菩提山に向かった。
「聞いていますよ。墨俣に一夜城を築けたようですね」
ニートの半兵衛は待ち構えていたかのような笑顔だった。
「北方城の舅にはすでに文を送っております。織田方が墨俣に拠点を設けた以上、斉藤方の墨俣城も陥落は間近と」
信長が取ると思われる動きを詳細に伝えたとも半兵衛は言った。
小牧山から南美濃に浸出してくるルートと、墨俣から西美濃に浸出してくるルートの二手に分かれるだろう。
そのとき、西美濃三人衆が織田に寝返っていないと、信長への心象を悪くする、今後に響くだろうと。
「織田方の勝利は決定です。もはや舅たちに迷う余地などありませぬ」
そうして、半兵衛は机の上に山積みになっている書物の下から一枚の紙を引っ張りだしてき、おれの前に広げた。
「これは稲葉山城の縄張りです。難攻不落の名城、一つ一つの曲輪は猫の額のように狭く、周りは深い谷となっております。なので、大手口から侵入していくしか方法はかなりの死傷者を出しましょう。ただ、この部分、搦手にある水手側の谷は曲輪がないため防備が薄いです。奇策はここをよじ登って本丸に飛び入ることです」
おれを待ちわびていたかのようにしてべらべらと喋っている半兵衛をじっと見つめる。
「何か?」
「お前はさ、もともとは斉藤の家臣だったわけだろ。そんで織田に寝返ったわけでもねえんだ。それなのにどうしてそんなにおれに協力してくれるんだ」
半兵衛はふふんと鼻で笑った。冷めたままの鉄瓶の中身をそのまま湯のみ茶碗に注いでいく。
「どうしてでしょうね」
そう言って、水をずずっとすすったけども、すぐに唇から茶碗を離し、中身を囲炉裏にピシャッと投げ捨てた。
「腐ってしまったようです。変えてきましょう」
半兵衛は鉄瓶を手に庭に下りて井戸へと出かけていった。
「上総介に連判状を送ったようです」
と、半兵衛が安藤伊賀守の手紙を見せてきたとき、すでに八月に入っていた。
油蝉の鳴りがかまびすしい菩提山を下りて、一路、小牧山に向かう。
北方城の安藤伊賀守、曽根城の稲葉彦四郎、そして、大垣城の氏家常陸介は、三人揃って織田の軍門に降る手紙を書いた。共同で花押をしたためたらしい。
また、連判状に偽りがないことを明らかにするため人質を差し出すとも。
田んぼの苗はすっかり稲になっている。
夏の空に大きな入道雲が流れて、ついに美濃取りの完結である。
おれははやる気持ちをおさえながら木曽川を渡る。小牧山に入った。
信長の居館に行こうかとしたが、念のため森サンザの屋敷に立ち寄る。
サンザの口から、吉乃さんの死を知った。
「やるせないというかなんというか」
縁側に座るサンザの横顔には西日が影を作っている。ヒグラシがかなかなと鳴いている。その在り処を探すようにして、サンザは遠い目をしている。
「おやかた様がもっとも愛していた人が亡くなってしまうとは、天も無情よ。いつも、死んでほしくない人が死んでしまう」
サンザの足下で両膝をついているおれは、ただただ自分の手を見つめる。
「お主は申し上げたそうだな、細流、大河と成る、おやかた様を天下人にするから見守ってくだされと」
「はい。あっしにはそんぐらいしか」
「わしはお主のそういうところ嫌いじゃない。城主の仕事は丹羽五郎左に放り投げる体たらく、なんのつもりか突然女子供を保護し、働き始めたかと思えば半年近くも行方をくらます。織田家中の者どもはそんなお主に呆れ返っておるが――」
サンザは鼻で笑いながらおれの頭に分厚い掌を置いてきて揺すってくる。
「それでもどうしてかわしはお主を憎めん。おやかた様もそうであろうし、きっと、吉乃様もそうであったろう。おやかた様の前で織田の天下うんぬんなど、お主が初めてだ」
サンザがあんまりにも優しくするから、おれは涙をぼろぼろと流してしまった。
吉乃さんが長くないことはわかっていたし、死んじまうのは吉乃さんだけじゃない。
チヨタンのオヤジのようにいくさで死んじまう奴はたくさんいるのだし、チヨタンのおふくろや太郎のおふくろのように早死する奴もいっぱいいるのだし、だから、吉乃さん一人が死んでしまっても泣かないと決めていた。
だけど、おれに優しくしてくれた人がいなくなってしまうのは、やっぱりきつかった。こんなにもあっさりといなくなっちまうのかと悲しかった。
「さっきペッペッしていたから。落としてしもたんでしょう? 帰りはこれを履いていきなさいね」
「えっ、でもっ」
「ええんですよ」
――思い出すとは忘るるか。思い出さずや忘れねば。
吉乃さんがガラガラ声で唄っていた変な歌は、「思い出すというのは忘れていたということ、忘れなければ思い出すこともない」という、そういう偏屈な流行り歌らしい。
「はれまあ。それは往生こいたことですね」
おれは瞼をぬぐって顔を上げた。
「サンザ殿。西美濃三人衆がおやかた様に人質を差し出すという連判状を送ったとの話を耳にしました。おやかた様に確認を取りたいんス」
「左様か。よくぞやった」
サンザは腰を上げる。草履を履きながら縁側から庭先に下りてくる。
「付いて参れ」
「はい」
忘れなければ思い出すこともなく、ヒグラシの鳴き声とともに日は沈んでいく。
おれは吉乃さんを忘れることはないと思う。
信長に会うのは小牧山の城でおれが騒いで以来である。
信長は実にあっさりとしていた。
「大義であった。貴様は沓掛に戻り、出陣の下知を待て」
それだけを言って、さっさといなくなった。
「あの様子だと西美濃三人衆の連判状を届いている。すぐに支度せい。下知がいつ来るかわからぬぞ。遅参などもってのほかだからな」
サンザに言われ、日は暮れていたけれどおれは清洲に帰った。
太郎は沓掛で留守番である。ボロ家に向かう途中、自分でメシを作らなくちゃならないことを思い出し、舌打ちした。
めんどくせえ。
サルの屋敷に立ち寄る。サルはどっかに行っているらしいので、遠慮なく寧々さんにお願いして夕飯にありつく。
ニート半兵衛の庵ではケモノメシばかりだったから、温かいご飯、温かい魚、温かい汁物、寧々さんの味にほっとする。
「いやあ、やっぱ、家庭の味はいいッス。寧々さんが作ったメシはうまいッス」
「今日はわたくしは作っておりませんよ。うちのおなごたちが作ってくれたんです」
むっとして寧々さんを見やったら、寧々さんは袖に手を当ててけらけらと笑う。
「今度は太郎ちゃんも連れてきてくださいな」
「なんで太郎なんスか」
「だって、可愛いんですもん」
サル屋敷をあとにする。腹はふくれたが、なんだかおもしろくない。
太郎が可愛いだと?
確かに可愛いっちゃ可愛いが、おれにとっては生意気クソガキだ。そんなクソガキが女ウケがいいだなんて、やるせないったらありゃしない。
「けっ」
寧々さんは考え方がよくいるオバサンみたいになっているだけだ。
結婚するとああいうふうになってしまうんだろう。もしくは寧々さんは生来のオバサン気質なのだろう。
チヨタンにはいつまでもキャピキャピしていてもらいたいものである。
長い間、チヨタンの顔を見ていないが。
よそよそしいままの関係になってしまっているのがもやもやするが。
仕方ない、おれは忙しかった。それもこれももうすぐ終わるんだ。
おれはここ一年で段違いに強くなったんだ。きっと、チヨタンはわかってくれるはずだ。斉藤方を潰したら、おれのプロポーズも泣いて喜んでくれるはずだ。
しかし、ボロ家の前まで帰ってきて、ニヤついていたおれは足を止める。
誰もいないはずなのに明かりがこもれてきている。
太郎かな……。それとも誰かが気を利かせて掃除要員でも派遣してくれているんだろうか。
明智庄のおにゃの子とか。
フヒヒ。あいりんとかかな?
「おい、遅えじゃねえか。テメー、どこをほっつき歩いていたんだ、コラ」
ゴリラが喋っているので、おれは開けた板戸をすぐさま閉めたかった。
囲炉裏の前で魚をむしゃむしゃと食っているのは、天敵の佐々ウザノスケだ。
やべえ……。どうしてウザノスケが……。
「おい、虫が入ってくんだろうが。さっさと閉めろや」
「はいっ」
おれはウザノスケの指示通り板戸を閉めると、草鞋を脱いで、囲炉裏の前に正座する。
こうしてウザノスケの檻に入ってしまうのは、寧々さんとサルのドタバタ騒動以来である。あそこで逃げて以来、ずっと会っていなかった。
サルと寧々さんの結婚直後は、ウザノスケが激怒しているという話をインチキ芸能記者から聞いたが、森部のいくさで勲功を上げたようなので、それで所領が増えたのと、息子が生まれたというのがあって、上機嫌になっておれのことも忘れてくれたのかと思っていた。
ところが全然不愉快そうにしてウザノスケは魚の骨をバリバリ噛み砕いている。
「お、お久しぶりッス。きょ、今日はどうされたんスか?」
「テメーが小牧山に戻ってきたって話を聞いたからよ、俺もテメーに話があるから来てやったんだ。おい、テメー客人に白湯の一杯も出さねえってのか? おうコラ」
「す、すいませんッスっ。今すぐに出しますっ」
おれはあわてて台所に飛んでいき、がちゃがちゃと鍋やら瓶やらをあさったが、
「あ、すいませんッス。いつも小姓にやらせているんでわかんないッス」
「つっかえねえ野郎だな!」
「す、すいませんッス!」
「まあ、いいわ。ちっと座れや」
「はいっ」
魚の串を囲炉裏にぽいっと放り捨てて、ウザノスケはなぜかかたわらの太刀を握り寄せてくると、細切りの瞼をおれに向けてくる。
「おい、テメーよお、何年前だか忘れちまったが、おれの馬を放して逃げてくれたよな? おい」
「えっ、い、いやっ、なんのことッスかっ?」
「正直に言えや。昔のことだ、水に流してやっからよ」
「あ……、はい、そうッス」
ガツンッと太刀の鞘でぶっ叩かれて、おれは頭をおさえてうずくまる。
「ところでよ、テメー、又左やサルと一緒にいろいろとやっているそうだな。おい。テメー、前から気に食わなかったんだけどよ、テメーはそっち派か?」
「え? そっち派ってなんスか。なんのことを言っているのかわかんないんスけど」
ガンッとまた頭を叩かれて、おれは半泣き。菩提山から帰ってきたばかりだってのに、どうしてこんな目に。
クッソ……。本当にろくでもねえ野郎に目をつけられちまった……。
「佐々内蔵助派かそうじゃねえかって訊いてんだよ。どっちなんだテメーは」
「あっ、も、もちろんウザノ――内蔵助殿派ッス」
「ほう。なら、手柄寄越せや」
「え?」
「テメーわかってんだからなゴラァ。テメーが死んだふりしてちょこまかと動いていることぐらい知ってるっちゅうんじゃ。そんなテメーがまた戻ってきたっちゅうことは、次の斉藤方のいくさで何か小賢しい真似をしてきたんだろう。おう」
「い、いや、そ、そんなもんねえッスよ。あっしはただ――」
ぐいっと胸ぐらを掴み寄せられて、ウザノスケは鬼みたいな顔を鼻先まで近づけてき、臭い息を吹きかけてくる。
「テメーは佐々派なんだろう? それともここで死ぬか? テメーはサルと寧々殿のあれでおれをコケにしてくれたよな? おい」
「いやっ、水に流してくれるって言ったじゃないッスか」
「気が変わったんだ。テメーが美濃に忍び込んで何をやっていたか吐けや」
「い、いや――」
この野郎、マジで死んでくれねえかな。言っていることが滅茶苦茶じゃねえか。あのマタザでさえパパになったっていうのに、こいつはいつまで経ってもこのDQNぶり。ゴミ。織田家中に住み着くゴキブリ。
そうだ、こいつには死んでもらおう。
「あ、あの、実は竹中半兵衛のところに行ってまして」
「なにっ?」
おれはかくかくしかじか竹中半兵衛と仲良くなったことを話し、西美濃三人衆の調略に成功したことは伏せておいて、ウザノスケをおとなしくさせた。
「で、稲葉山城を攻めるときは、竹中半兵衛いわく、東坂っていうところから昇って石垣が積まれているところがあるから、そこをよじ登って曲輪に侵入するのがいいって教えられたんス。そこは斉藤方の守りが手薄になるはずだって」
「テメー、本当に言ってんだろうな?」
「ほ、ほんとッス」
おれは懐から半兵衛にもらった縄張り図をウザノスケの前に広げて見せる。東坂のところには印が打ってある。
「こ、ここが東坂ッス。竹中半兵衛が忘れないようにって印を打ってくれたんス」
「ほう」
ウザノスケは縄張り図を奪い取ると、それをそのまま懐の中にしまってしまう。腰を上げてしまう。
「さすがじゃねえか。テメーもなかなかやるようだな」
魚が一匹余っているからくれてやると言い残し、ウザノスケは台所から裏庭に出ていった。どうして裏庭に行くんだろうと思ったら、そっちに馬を隠していた。
蹄の音が消えていき、おれは舌打ちする。あの野郎、せっかくの縄張り図を持ってっちまった。いくさのときに信長に献上しようと思っていたのに。
まあいい、あいつはバカだ。すっかり信じこみやがった。東坂の印は「絶対にここからは攻め入ってはいけない」という印なのだ。
半兵衛は気の利く奴なのである。ククッ。ウザノスケはまるっきりの脳筋バカなのである。
ゴキブリウザノスケお陀仏決定。ゴリラに生まれ変わったらバナナの一本でもくれてやろう。
小牧山から沓掛に早馬が飛んできた。織田永楽銭の黄旗を背負った馬廻衆の若者は、庭先に片膝立ちし、声を放つ。
「おやかた様の伝令にて! 明後日、暮六つまでに小牧山に参上せよとのお達しでございます!」
縁側に立つおれは半纏の袖に両手を入れながら城主の雰囲気を丸出しにしてそそり立ち、城主のようにしてうなずいた。
「あいわかった」
「これにて失礼!」
馬廻の若者はがちゃがちゃと庭から去っていく。太郎がすっくと立ち上がる。
「イエモンとソフエを呼べ。出陣だ」
下人のオッサンたちがおれに篭手袖、すね当て、頭に鉢巻きを結んでいき――、
「おい、なんでそれを持ってくるんだ。胴丸はどうしたんだ」
オッサンが綱を持ってきているので、おれは眉をしかめた。
「いえ。殿の寸法に合う胴丸はございません」
あれから七年も経っているってのに……。
確かに、いくさに出ないだろうからって作らせなかったおれが悪いかもしれねえ。けれど、そういうのって気を利かして作っとくべきなんじゃねえのか。
せっかくの晴れ舞台だってのに、綱巻きだなんて。
腰帯にアケチソードをしっかと差し込み、支度を整え終える。
アケチソード初帯刀なのに相変わらずの綱鎧であり、不愉快な気分で大手門へ向かうと、太郎と一緒に馬丁頭のねじり鉢巻き野郎がいた。
鉢巻きは栗毛の馬の手綱を取っている。
おれはますます眉をしかめる。
「なんだよそれ」
「殿のために育てた馬です。これからはこの馬に跨ってください。こちらの栗之介が一緒に付いて歩くので大丈夫です」
「やだよ」
おれはぷいっと顔をそむけ、太郎や鉢巻き、ぼんやりとしている馬の脇を通り抜けていこうとする。
「殿、せっかく皆が仕込んだんですから」
「そうだ、旦那でも乗れるようにしたから安心しろ」
栗之介とかいうねじり鉢巻きが生意気な口を叩いているので、おれはずんずんと詰め寄り、「でも」っていうのはどういうことなんだと問いただす。
「いいから跨ってみればいいじゃねえか。男のくせに女みてえにやかましい殿様だな」
「わかった、跨ってやろうじゃねえか。その代わり、もしもこいつがおれを振り落としたら、テメーもろとも馬刺しにしてやっかんな」
「上等じゃねえか」
ねじり鉢巻きが鞍の前に両手を出してきて、おれは左足を鐙にかけながら、右足でねじり鉢巻きの手を踏んづける。
ひょいっと右足を放り投げられて、おれのケツは鞍の中に着地。
うう……。高い……。
そそくさと手綱を握りしめる。
む……。
この仔、おれが乗ってもぴくりとも動かない。嬉しそうにして尻尾を振っているだけ。
太郎がにこにこと笑いながら見上げてくる。
「どうですか、殿」
「お、おう……」
「言っただろう、吠えヅラかくなってよ」
「う、うん……」
ねじり鉢巻きが口輪を取ると、馬は動き出した。ゆっくりと歩き始めた。のっそり、のっそりと、前脚後ろ脚をさばき始めた。
ねじり鉢巻きが止まると馬もピタッと止まり、ねじり鉢巻きが回っていくと馬も素直に回っていく。
「おおう」
おれはだんだんとニヤついてくる。鞍の上とはなかなかいい気分だ。城内の連中はおれの様子を眺めているが、どいつもこいつもおれの目線より格下だ。
なかなかの名馬じゃねえか、こいつ。
で、ねじり鉢巻きと太郎に手綱の操り方を教えてもらった。こう引けば右に回る。こう引けば左に回る。こう引けば止まる。こうすれば歩き出す。
フヒヒ。おれの言うことを寸分の狂いもなく聞いているじゃねえか。
「んで、どうやったら走るんだ?」
すると、太郎と鉢巻きは黙って顔を合わせる。うーんと唸る。
「おい。なんだよ、走れねえのか」
「そのうち教えます。今はとりあえず慣れてください。並み足で走るぐらいながら栗之介の補助が付いてますので」
並み足というのはジョギングみたいなものらしい。口輪を取るねじり鉢巻きがジョギングを始めると、馬も栗色の綺麗なたてがみを揺らしながらパカパカとジョギングを始めた。
どうしてダッシュの方法を教えてくれないのか怪しいが、まあ、ダッシュの機会なんてないだろう。おれはマタザみたいな猪武者じゃないから。智将だから。
「よし。じゃあ、行こうか。太郎、留守は頼んだぞ」
「ご武運を」
ねじり鉢巻きの補助付きでパカパカと大手門をくぐり出る。門番が頭を下げてお見送りする。「うむ」と、おれは小さい声でうなずく。
二の丸には陣笠に具足姿の沓掛勢が長槍を立て並べて揃っている。馬上姿のおれに連中はぎょっとする。
全員が馬上のおれの下である。
イエモンとソフエが呆気に取られながらも駆け寄ってき、準備は整ったと言う。
「そうか。わかった」
「と、殿、馬に跨がれたんですか」
敬語を使っていても相変わらずふざけた野郎のイエモンだったが、鞍の上から見ればただのザコである。
「おれは馬には跨がれねえ。というのも名馬しか跨がらないからだ」
「はあ」
で、沓掛勢の前にやって来ると手綱を引く。ピタッと止まる。
おれに(土木作業を)鍛えられた軍勢を眺め下ろしていく。
「皆の者――」
と、おれは城主らしく背すじを伸ばし、城主らしい物言いで放った。
「これより小牧山に参る! 敵は稲葉山にあり!」
うおっ、と、者どもは槍を上げながら沸き立ち、くうっ。気持ちいい。
これだこれだこれだ。
これこそ城主、これこそ武将。
細流、大河と成った。
おれのこれまでの辛抱はここに身を結んだのだ。
二列になって進み出した沓掛勢の真ん中を馬上のおれは進み歩き、沓掛城下の街道には出陣を見送る町の者ども。
おれはにやつきをなんとかこらえてまっすぐに前方を見据える。
と、そこへ、明智庄の女たちの姿が。並んでいるおにゃの子たちの中にはチヨタンの顔も。
おれは前方をまっすぐ見据えたまま、凛々しく通りすぎていく。
いくさが終わって、帰ってきたら――。
「ところで、おい、鉢巻き」
郊外に出たところで、おれは可愛いこの仔の首すじを撫でてあげながら、口輪を取って歩く鉢巻きに声をかける。
「この可愛いお馬さんの名前はなんていうんだい?」
「名前? 決まってねえよ。最初から旦那に乗ってもらうつもりで世話をしてきたからな」
「でも、呼び名ぐらいあるだろ。お前はこの馬をなんて呼んでいるんだ」
「クリだ」
「クリ? なんで?」
「栗毛だからだ」
「ふーん。でも、クリっていうのはな。おれはなんとなくそういうスケベな名前でこの名馬を呼びたくねえな」
すると、前を歩いていた雑兵が振り返ってきた。
「綱鎧の簗田の馬だから、それにあやかった名前にすればいいんじゃねえか」
おれは眉をしかめる。
「何言ってんだテメー。何が綱鎧だ。バカにしてんのか?」
「綱鎧の簗田っていったら知れた異名だよな」
そう言って、隣の雑兵とうなずき合っているので、おれは舌打ちする。
ふざけやがって。綱鎧だなんて、ただ単に信長がおれを茶化してきただけの汚名じゃねえか。綱を巻いていくさ場だなんてただの変態じゃねえか、クソッ。
いくさが終わって帰ってきたら真っ先に鎧兜を製作しねえと。そう考えると、墨俣築城のときにサルがばら撒いていた銭貫文から五十貫ぐらいくすねておけばよかったぜ。
しばらく歩くとねじり鉢巻きがふいと言った。
「栗綱っていうのはどうだ?」
「だから言ってんだろうが、綱なんて使うなって。バカにしてんのか」
「馬鹿になんかしてねえよ。それでいいじゃねえか。栗綱。いい名前だ。なあ、クリ」
そう言って、ねじり鉢巻きはおれの愛馬の首をぽんぽんと叩く。
すると、のそのそとおとなしく歩いていただけのおれの愛馬は、なんと、急にたてがみを揺らしながら首を縦に振ったのだ。
ねじり鉢巻きがおれを振り返って見上げてくる。
「ほら。クリも栗綱がいいってよ」
おれの愛馬が首を上下に振りながらパカパカと歩くさまに、鞍の上のおれは押し黙る。
これって芸を仕込んでいるからじゃねえのか……。
絶対にそうだろ……。バカにしやがって。




