細流、大河と成る
血まみれになっておれを追いかけてきた太郎だが、むしろ、半兵衛の庵にニート生活できるとあって喜んでいるようでもあった。
半兵衛が書物を取り出してきて、史記だの戦国策だのと難しいことを太郎に教えており、太郎も目を輝かせて半兵衛先生に教えを受ける。
おれはその様子を眺めながら、なんとも言えない気持ちである。
当然、太郎は実の父親が丹羽五郎左衛門長秀だなんて知らないわけだ。
しかも、お母さんはどうしているのかとさりげなく訊ねてみたら、
「四年前に亡くなりました」
と、なんでもないことのように言った。
おれは言葉が無かった。そんな話は一切聞いたことがない。そんな素振りは一切見たことがない。
おれはやるせない気持ちを振り払うようにしてアケチソードを振り抜く。
この世の中ってものがよくわからん。
「どうしたのですか、その脇差しは」
太郎が棍棒を手にしながら歩み寄ってきたので、おれは明智十兵衛というオッサンに貰ったのだと教えた。
「はあ」
と、言いながら、太郎はおれの腰の鞘を眺め、急に声を上げて驚く。
「ええっ! これって土岐源氏の桔梗紋じゃありませんか! ほ、本当に頂戴したものなんですかっ? まさかっ、盗んだのでは――」
おれは太郎に拳骨を落とした。
ちなみにチヨタンもおれが死んでいると思っているのかどうか訊ねてみると、頭をおさえて痛がっていた太郎は突然シラーッとした目を向けてくる。
「ええ。死んだと思っております。なので、千代殿はやめたほうがよろしいです」
「お前、嘘ついてんだろ」
「いいえ。本当にそう思っておりますよ。拙者は沓掛を出るとき千代殿に止められましたから。どうせ死んでいるのだから死にに行くなと」
「嘘つくなっ!」
「嘘じゃありませんから」
太郎は澄ました顔で棍棒を振り始め、やっぱりクソガキだ。お母さんがいなかろうと、それだけは変わらねえ。
半兵衛は西美濃三人衆に手紙を出してくれたが、すぐに返事が来たのは舅の安藤伊賀守だけだった。
返答は、曽根城の稲葉彦四郎と大垣城の氏家常陸介が寝返るなら自分も寝返るという他力本願ぶりであった。
稲葉と氏家からは返事がなかなか来ない。
「どういうことだよ」
と、おれは半兵衛を責め立てる。半兵衛は火鉢ダルマになって本を読みふけっており、見向きもしてこない。
「おい。聞いてんのか」
「いろいろと戦況の情報を取っているはずです。結局は勝つほうになびくのですから。まあ、安藤の舅にも稲葉殿と氏家殿を説得してくれと伝えたので、春先ぐらいには前向きな返答があるんじゃないんですか?」
「お前がじかに面会しに行くとかはねえのか」
「それは面倒なのでしたくありません」
「ふざけんなよ。お前、明智庄まで来てたじゃねえか。なんであんな遠いところまで行って、近くの曽根とか大垣には行かねえんだよ」
「今は冬です。寒いので出たくありません」
駄目だ。完璧なニートだ。曽根や大垣どころか庵の外にすらなかなか出なくなっている。
それにしても、ただただ待つだけの時間ってのは不安ばかりだ。
筋トレ、打ち込み、生意気な太郎と相撲を取っても、十両力士並みの体格のおれだから、小僧なんで簡単にぶん投げ捨てられるから、憂さ晴らしにもならねえ。
チヨタンはおれが死んだと思っていると太郎は言う。
沓掛に手紙を出したいところだが、半兵衛の手下に織田領尾張までの配達を頼めるはずがない。死んでないんだ。おれは死んでないんだ。チヨタンはきっと悲しんでいるに違いない。でも、死んでないんだ。
けれども、死んだと思っていた人間が復活するのって劇的だよな。チヨタンは泣いて喜ぶだろうな。それもそれでいいかもな。
だからっていつまでもここにいるわけにはいかねえ。
もうそろそろ春じゃねえか。
この季節のうちに織田が攻めてきたって話がないと、田植えが始まっちまって、また伸び伸びになってしまう。
やはり、墨俣に砦が築かれないと信長も動くつもりがないんだろうか。
クソッ。それじゃ行方不明になっている意味がまるでねえ。
そんなこんなで木の枝につぼみが膨らんでしまった日、半兵衛がようやく言った。
「北方城の舅から文が届きました」
「な、な、なんて書いてあったの?」
「稲葉殿は、氏家殿が寝返れば自分も続く、と申しており、氏家殿は、態度を明らかにしない、ようです」
おれは他力本願すぎる連中のしように頭を抱えてしまう。
「なんだよそれえっ。誰か一人がはっきりすれば動くんじゃねえのっ」
「そうでしょうね。しかし、そんなものです」
おれは大の字になって倒れた。
前に進んでいるようで一歩も進んでいない。
歯がゆいというよりも今にも心が折れそうである。
「結局は決め手に欠けるのです。人には二通りの種類がありますから。
一つは自らが踏み込む者、一つは誰かが踏み込んだあとに続く者。
なので、踏み込む者がなければ彼らは踏み込んでこないでしょう」
「じゃあ、誰かいるのかよ、他に。踏み込んでくれる奴が」
「誰かというよりも、決め手です。木下藤吉郎が墨俣に城を築こうとしておりますね?」
「えっ? 知っているの?」
「ご安心くだされ。斉藤方には気付かれておりません。ただ、川並衆の動きを見ていればわかりますし、城を築くとしたら拙者も墨俣を選びます」
「でも、無謀に近いって言っているんだぜ」
「無謀とは策がないから無謀なのです。木下藤吉郎はずいぶん前から策を練っているでしょう」
「でもよ――」
「決め手はそれしかありません。墨俣に踏み込んでくれば、形勢は一挙に織田にかたむきます。西美濃三人衆も必ずや続いてそれに踏み込んできます」
半兵衛は実にあっさりと言う。
おれは拳を握って震えるしかない。
おれはなかば涙目になりながら半兵衛に顔を上げる。
「そうは行かねえんだよ。墨俣に砦を造るだなんて前から知っていたことなんだよ。そしたら、ここで粘っていた意味がなくなるじゃねえか。ここ半年、おれは何をやってたんだってことじゃねえか」
「いいえ。無駄にはなりませぬ。墨俣に城を築きなされ」
半兵衛はすらっと伸びた鼻から大きく息を抜き、おれに顔を上げ直してくると、その目尻は強く切り結ばれていた。
「さすれば、朝日とともに八幡大菩薩は簗田殿にその加護を与えます。必ず」
おれは太郎とともに菩提山を下りた。
西美濃三人衆が動かないとなった以上、おれは軍師竹中半兵衛の言葉を信じるしかなかった。
とにかくは、沓掛に戻るよりも何よりも小牧山の信長のところに行って、生存報告とともに土下座をして詫びを入れなければならない。
空は春のもやで霞んでいる。枯れていた景色は薄緑色に芽吹いており、季節の移り変わりは、世の中からずいぶんと離れてしまっていたことを痛感させられた。
尾張に戻るのが怖い。おれの知っていた尾張がどう変わってしまっているのか、それを知るのが怖い。
なので、おれは小牧山を通りすぎてしまう。
「殿。おやかた様のところに参られるのではないのですか」
「う、うん……。ちょっと、心の準備が……」
小牧山を通り過ぎたおれは清洲に入る。
おれが恐れていたほど尾張国内に変わった様子はなく、清洲のボロ家もそのまま残されている。
長い間、閉めきっていたせいで、ボロ家はほこり臭くなってしまっていた。
太郎に白湯を出してもらうと、それをすすりながら溜め息をこぼす。
どうしよう。怖い。
「どうされたのですか」
両手でお椀を手にしながら、太郎が心配そうに見つめてくる。
「うん……、ちょっと、まあ、ずいぶんと留守にしちゃったから、うん」
「大丈夫ですよ。半兵衛様も申されていましたし。殿は織田のために働いているんです」
太郎は笑って励ましてくる。クソガキのくせに頼りになってしまう。
そうだな。
「ちょっと、藤吉郎殿の屋敷に行ってくる」
一人で信長のところに行くのは怖いので、お詫びはサルに手伝ってもらうことにする。一緒に怒られるのは当然だ。おれはあいつの結婚をサポートしてやったんだから。
すると、日もすっかり暮れたサルの屋敷の門前で、サルの弟の小一郎とばったり遭遇した。
「や、簗田殿っ?」
サルにまったく似ていない爽やかイケメンの小一郎は、唖然呆然としながらおれを足から頭まで眺めてき、おそるおそるおれに歩み寄ってくる。
「ご、ご、ご無事でおられたんですか」
「ま、まあ――」
すると小一郎はダッと走って門をくぐり入っていき、「姉さん!」「姉さん!」と大声で寧々さんを呼ぶ。
どうして「兄さん」じゃなくて「姉さん」を読んでいるんだろうと思っていたら、寧々さんが大慌てで門を飛び出してきて、おれを見かけたなり口を袖で覆った。
「牛殿っ。よくご無事でっ」
寧々さんはおれに駆け寄ってきて、両手を握ってき、「よくご無事で」「よくぞご無事で」と鼻をすすり、瞼をぬぐい、えらく喜んでいる。
「もうっ! どこをほっつき歩いていたのですかっ!」
「すいません」
小一郎の話によれば、サルはおれが死んだと言い張り、寧々さんはおれが死んでいないと言い張って、それが原因で口喧嘩もしていたらしい。
ありがたいというよりも、おれはなんだか自分がやらかしたことへの申し訳なさを感じてしまう。
「お前様っ! ほらっ! 牛殿が帰ってこられましたよっ!」
寧々さんに引っ張られてサルの居室に連れてこられると、机に向かって書き物をしていたサルは「にゃっ!」と跳ね飛んだあと、おれを唖然として眺めてくる。
「ぼ、亡霊だぎゃ」
「亡霊なんてありますかっ! ほらっ。牛殿のここに足が付いてますでしょうっ!」
サルはゆっくりと腰を上げてくる。おれを見つめながらそろりそろりと歩み寄ってくる。
「す、すんませんッス」とおれが呟くと、おれの腕をぺたぺたと触り、おれの太ももをぺたぺたと触り、そうして見上げてきた。
「おみゃあは何をやってたんだぎゃっ! たわけえっ!」
「そんなことより、一緒におやかた様のところにお詫びに行ってくんないッスか」
サルはむっと口を結び、板間の真ん中にどっかりとあぐらを組むと、向かいをちょいちょいと指さす。
「座れだぎゃ」
おれはおとなしく座ると、「寧々さんはちょっと」と言って、笑顔で戸を閉めてもらう。
かくかくしかじか、竹中半兵衛のツテで「西美濃三人衆に直接交渉できる」と、直接は無理だけど、ちょっと話を盛った。
怒っていたサルは、口を開け広げて呆然とする。
「おみゃあ、本当に言っているんかえ」
「これを見てもらえば」
おれは懐から安藤伊賀守の手紙を出す。
サルは眉をしかめながら文面を眺めていたものの、手紙が終わりに近づくにつれ目の色を変えていく。
おれは前のめりになってサルに顔を寄せる。
「竹中半兵衛はあっしに言ったんス。墨俣に砦を造れって。墨俣が決め手になるからって」
手紙を持つサルの手はすでに震えていて、おれに上げてきた目玉も眼光がほとばしりすぎて血走っている。
「た、竹中半兵衛は織田方に引き入れられないんかえ」
「それはちょっと無理でした。かなり偏屈な野郎で」
「ほ、ほんでも、おみゃあの話が本当なら、竹中半兵衛の言う通りだぎゃ。墨俣に砦ができれば、墨俣城を落としやすくなるだぎゃ」
尾張から見れば、墨俣は西美濃の入り口になり。
竹中半兵衛を通せば、西美濃三人衆は織田に寝返る。
そんな感じのことを言いながら、サルは手紙を丁寧に折りたたんでおれに返してくる。
「墨俣に砦が出来た瞬間、美濃は織田のもんだぎゃ」
西美濃三人衆の兵力もさることながら、彼らが寝返ることは稲葉山城から西側のほとんどが織田方にひっくり返る。碁石で相手方の陣地を取り囲んだようにして、斉藤方はジ・エンド。
「こりゃとんでもねえことになってきただぎゃ。おやかた様にすぐに知らせにゃいかんだぎゃ。これまでの辛抱も墨俣で決まるだぎゃ。おみゃあ、よくやっただぎゃ」
サルが詐欺師のくせして真顔で言ってくるので、おれは素直に笑えないながらも、ちょこっと頭を下げた。
翌日、朝早くに小牧山にやって来た。
信長は、夜は山頂の城に寝泊まりし、朝になると麓の居館に下りてくるというので、城郭の馬場に入る冠木門の前でサルと二人で信長を待った。
そのうち、蹄が地面を叩く音が聞こえてき、冠木門の扉も開かれた。おれとサルは狭い道端に退きながらも、その場に片膝をついた。
小姓や馬廻の連中を従えて、鹿毛の馬に跨った信長がかっぽらかっぽらとやって来る。信長が冠木門をくぐり出てきたところ、「おやかた様っ」と、サルが声を上げる。
小袖の上に小袖を着流しで羽織った信長は手綱を引いて馬を止める。
途端、おれのでかい図体に目を留めて、唸った。
「貴様……」
おれはそそくさと両膝をついておでこをこすりつける。
「す、すいませんッス!」
信長はひらっと下りてくると、土下座するおれのところに駆け寄ってき、おもむろに髷を引っ掴み上げてくる。
切れ長の瞼を吊り上げながら、おれの顔を覗きこんでくる。
その唇は小刻みに震えている。
「何を――、何をしてやがったあっ!」
バチンッ、と、ほっぺたに平手を打ってくると、半泣きのおれを再度引っ掴み上げ、
「どこをほっつき歩いていやがったっ!」
と、唾を飛ばしてきて、おれは声にもならない声で訴える。
「ちょ、調略で、た、竹中半兵衛のところに、行って、行ってまして」
「なにい。竹中半兵衛だとおォ?」
「お、おやかた様っ、恐れながらっ」
と、サルがそそくさと回りこんできて、膝をつきながら安藤伊賀守の手紙を信長の顔の前に差し出す。
「ご、御覧くだされっ。う、牛殿は、竹中半兵衛を使って西美濃三人衆からこの通りの文言を得てきましただぎゃあ」
「なにい」
バシッとサルの手から手紙を引ったくると、怒った目玉のまま手紙に視線を流していき、やがて片手にぐしゃっと握った。
「ほんだらっ、墨俣に砦を築き上げられればっ、安藤伊賀守、稲葉彦四郎、氏家常陸介は織田に与するはずですぎゃっ。牛殿の今回のことはこの通り免じてやってくれませんかえっ」
顔を上げて訴えるサルと、這いつくばって震えているおれを交互に見やったあと、信長は手紙をおれの前にぽいっと捨ててくる。
「本物か」
「ほ、本物ッスっ!」
「文の真偽じゃねえっ! 西美濃の三人衆はまことに寝返るかと訊いているんだっ!」
「ねねね寝返りますっ!」
「根拠はっ!」
「す、墨俣が決め手になるって、た、竹中半兵衛が、言ってましたっ! 踏み込む者とそれに続く者の二通りだって言ってましたっ。墨俣に踏み込めば、三人衆はそれに続くって言ってましたっ」
すると、信長はまた髷を掴み上げてくる。目玉を剥き出しにしておれを睨みつけてくる。野獣のように唸ってくる。
「貴様、竹中に調略返しされていねえだろうな」
「さ、さ、されてねえッス! 竹中半兵衛は庵で本ばっかり読んでいて、何もしねえ怠け者ッスっ! あっしは菩提山にずっといて、怠けっぷりをずっと見ていたから間違いねえッス!」
信長はおれの目をぎらぎらと睨んできていたが、ふいにおれの腰に視線をやって、おれの髷をぶん投げ捨てると、おれを蹴飛ばし倒し、腰帯に差していた脇差しを抜き取った。
脇差しをじっと見つめる信長、おれをじろりと見下ろしてくる。
「なにゆえ貴様ごときが土岐源氏の桔梗だ。これはどうした」
「そ、それは、竹中半兵衛の家に遊びに来た野郎が、あっしにくれまして。明智十兵衛って奴なんスけど。その、あの、いろいろありまして」
「明智? 貴様が明智庄の女子供を沓掛に囲っているからか」
「あっ。いやっ、囲っているっていうわけじゃ――」
ガンッ、と、頭に脇差しを投げつけてき、そのままくるりと背中を返すと、信長は馬に跨ってしまう。
「簗田牛太郎、三ヶ月の蟄居処分だ」
「い、いんやっ、おやかた様っ――」
「だが、いくさは近い。処分はいくさが終わるまで保留だ。牛、貴様はサルの築城を手伝え。必ず墨俣に城を築け」
信長はむすっとして前方を見据えている。おれとサルは揃って地面に両手を付けて、頭を下げる。
「か、かしこまりましたっ」
「承知しましたぎゃっ」
「それと――、付いてこい」
信長は手綱を振るうと馬を半転させ、出てきたばかりの冠木門を再びくぐりいってしまう。
ぱかぱかと山道を上がっていくので、おれとサルは顔を見合わせつつ、腰を上げて信長のあとを追いかけていった。
石垣に囲われた曲輪を何個も通りぬけ、櫓門をくぐり抜け、山頂の本丸館にやって来ると、信長にそのまま上がるよう言いつけられて、おれとサルは廊下を行く信長の後ろを付いて歩いていく。
やがて、障子戸に閉じられたとある一室の前にやって来た。障子戸の前には女中が二人座っていて、信長がやって来ると深々と頭を下げる。
「待っておれ」
と、言われて、おれとサルはその場に両膝をつく。
信長はゆっくりと障子戸を開け、中に入っていく。しばらく待っていると、中から年増の女中が出てきて、
「簗田殿、お方様がお呼びです」
と、訳のわからないことを言う。
おれは訳のわからないまま部屋の前にやって来て、敷居を跨がずにその場に正座する。
お方様……?
部屋の中には大きな布団が敷かれていた。
布団の周りには作務衣を着た坊主と、女中が二人、男の子が一人、それに、信長に背中を支えられて布団から体を起こしている女の人が一人。
「はれ……、牛殿……、ご無事でおられたんがね……」
ハッ、と、して、おれはあわてて頭をこすりつける。
まさかの吉乃さんだった。
でも、生駒屋敷で信長を叱っていたときのような吉乃さんではなかった。
とても青白く痩せこけてしまっている。
きらきらと輝いていたはずの瞳は虚ろげな点になってしまっている。
おれに投げかけてきた微笑みも弱々しくて、しゃがれた声がそのまま消えてなくなってしまいそうなぐらい衰弱しきっている。
「良かったわ……。吉乃は心配しておったんよ……」
「も、申し訳ありませんっ!」
「吉乃。牛もこうして生きておるのだ、お主も気張れ」
信長が言うと、吉乃さんは小さく笑う。
「そやね……。ほんでも、昨日のことのようがや……。牛殿が今川様を討つなんて言っていたの……」
おれは吉乃さんがこんな状態になっているだなんてまったく知らなかった。
吉乃さんはおれの知っている吉乃さんのとおり、生駒屋敷で信長を元気に叱りつけているものだと思っていた。
だから、生駒の屋敷にいないで小牧山に来ているってことは、よっぽどひどい状況なのかもしれなかった。
「やかた様は気狂い言うてたけど……、私の言うたとおり、気なんか狂っておらなかったやないの……」
「そうだな。お主の言う通りだった。お前の目に狂いはなかったわ。そうだ、牛は、死んだふりをして調略を成功させてきやがったのだ」
「はれまあ……」
信長の怖いぐらいの優しい様子に、おれは唇を噛み締めてしまう。
おれが初めて生駒屋敷に行ったあの日――、
さっきペッペッしていたから。落としてしもたんでしょう? 帰りはこれを履いていきなさいね。
吉乃さんは草履をくれた。何もわからず裸足で歩き回っていたおれに。それこそまさに野良牛だったおれに。
信長の愛人だからって、飾らず、気取らず、おれなんかにも気さくに話しかけてくれた吉乃さん――。
吉乃さん。
おれは吉乃さんのなんでもない。
何度も何度も顔を合わせたわけじゃない。
でも、おれってなんなんだろうと思えてくる。行方不明になっていて、まさか、こんなに心配されているとは思っていなかった。寧々さんだったり、吉乃さんだったり。
もしも、こんなに思ってくれているとわかっていたら、こんな真似はしなかったかもしれない。
だって、わかるはずないじゃないか。
戦国時代に来る前のおれは、赤の他人に心配されたことなんてなかったんだから。
そんな馬鹿げたおれだ。吉乃さんには草履の恩を返すこともできない。
だけど、ただ一つだけは吉乃さんのために、吉乃さんが元気になれるように、あの日、信長に命じられたとおり――、
そうだ、この織田に新たに珍奇衆なるものを作ろうぞ。貴様、その筆頭にでもなれ。役目は俺や吉乃にその法螺話を聞かせることだ。
「恐れながらっ、珍奇衆筆頭簗田牛太郎、申し上げたきお話しが!」
おれは声を放つと、半兵衛が安藤伊賀守に宛てて書いていた文面を思い出しながら叫んだ。
「尾張美濃に流れるあまたの川が集まって木曽の川となるように、細流はやがて大河となって大海に注ぎますっ! 今、この時勢に流れている細流は、やがて、大きな河となって天下の大海に注ぐことになりましょう! おやかた様が燦然と輝くは、桶狭間だけではありません! 今っ、美濃を攻め取って大河となりましょうっ! その流れはやがて京へと続く大海に注ぎ込まれます! 吉乃様っ、どうかっ、それまではあっしら一同の働きを見守ってください! 必ずや、おやかた様を天下人とさせてみせますっ!」
おれがおでこをこれでもかと床にこすりつけると、辺りはしんと静まり返っていた。
うぐいすの声だけが、透き通って響いている。
「はれまあ……。やっぱり、牛殿は、気狂いのようがね……」
吉乃さんは弱々しくも笑っていた。
信長もまた口許を緩めながらおれに言ってきた。
「このうつけめ」




