功名誰か復論ぜん(1)
応仁の乱が勃発したのは桶狭間の転機のおよそ九十年前になる。
このとき、それまでの大きな秩序は崩壊した。
秩序の破片は全国に散らばり、やがて戦国大名という存在をひねり出した。
しかし、彼らを一概にして大名と呼称するにはいささかの仰々しさがある。
桶狭間の転機である永禄三年(1560年)のころは、織田上総介を始めとする地方の領主たちが明け暮れていたのは縄張り争いであった。隣の領主の縄張りをぶんどるか、あるいは自分の縄張りをぶんどられないかに、その争いは終始していた。
果たして、彼らたちの心に、やがては花の都の京に進出し、新たな政権を打ち立てようなどという妄想があったかどうかはわからない。ただ、その概念はまったくと言って領主たちに浸透していなかったであろう。
なぜなら、そんな余裕はなかった。
織田上総介を例にすれば、彼が家督を引き継いだころ、尾張内部では縄張りのぶんどり合戦の最中であった。この抗争は兵力に物を言わせてというよりも、暗殺、調略、工作によって帰結していき、上総介はその貪婪な智謀によって縄張りを尾張一国に広げていった。
しかし、似たような者が東にもいたし、北にもいた。今川治部大輔であり、斉藤左京大夫であった。彼らを敵に回して、上総介は劣勢であり、縄張りは侵略されつつあった。
今川治部大輔を奇跡的に葬った桶狭間の転機で、上総介は今川方との縄張り争いに一定の勝利をおさめたが、この時点で、尾張一国支配は盤石ではない。
北の斉藤方によって、尾張北部、木曽川を本流とした数々の支流がひしめき合う地域、つまり濃尾平野の中心地において、ところどころ侵略されていた。
東の脅威を払いのけたとは言え、これらを放置することは縄張りをさらに失うことを意味しており、上総介はさらなる戦いに挑まなければならない。
上総介は桶狭間の戦い以降、二度に渡って斉藤方に小競り合いを仕掛けている。いずれもあっさりと負けた。さらには、対斉藤方の戦略上重要拠点であった尾張北東部の犬山城を失陥してしまう。
犬山城城主であり、上総介の姉を妻としていた織田十郎左衛門なる者が斉藤方に寝返ったのである。
十郎左衛門と上総介が過去から険悪な仲であったのもあるが、彼の寝返りは、斉藤方が優勢であったこと、ひいては領主の力としても斉藤左京大夫が優っていたことを物語っている。この点、上総介はまだまだ地元抗争に必死な毎日であった。
半農半兵が主流のこのころ、人間を田植え稲刈りに回さなければならない性質において、大規模な軍事活動は不可能である。劣勢をひっくり返すための決戦はまず構築できない。
上総介自身が尾張での敵対勢力を駆逐していったように、小競り合いの繰り返し、外交活動、あるいは謀略によって、敵対勢力の弱体化という地道な作業を続けねばならななかった。
「川の国人どもを織田になびかせろ」
上総介は手先の一人として木下藤吉郎を任命した。
(なかなかの大任だがや)
単身、清洲をあとにして北部を目指す藤吉郎は、小さな胸に大きな野望を秘めている。
濃尾平野の中心を形成する木曽川やその他数々の支流の、「川そのものの支配権」は、川並衆と呼ばれる国人たちのものにあった。
彼らは舟を用いて水運業に勤しんでおり、貨物の運搬、人の渡し船などで利益を上げている。また、自衛のための武力も備えている。
(きゃつらが片方に加担するのは一大事だぎゃ)
木曽川は美濃と尾張の境である。川並衆は強いほうにしかなびかない。もしも、利益を取り上げられそうになれば、その反対の勢力につく。
(おやかた様はおそらく――)
花と若葉に彩られた春の街道を行きながら、藤吉郎は目玉の奥底を光らせ、脳裏に尾張美濃の境の地図を広げた。
(墨俣の辺りに砦を作ろうとお考えだぎゃ)
人の仕草の一つ一つを逃さずに、一瞬の隙でもって他人から泥棒を働くような人物の藤吉郎は、上総介の分身となるには打ってつけであった。藤吉郎自身もそうあるべきだと考えていた。
上総介の頭の中身を察知し、そして、上総介の欲望通りに、むしろそれ以上に欲求を満たしてやることによって、初めて自分は出世できるのだ、と。
(おやかた様はとんでもねえ切れ者だがや。ほんでも、よっぽどじゃねえ限り、ご自身の考えは口にされねえ。口にしねえことでご自身の威風を高めている。けれど、ご自身の考えをわかっていねえ者はおやかた様はお認めにならねえという気難しさだぎゃ)
ほとんどの者が上総介の気難しさに翻弄されている。ただ、翻弄されない一部の人間となれば、織田家において光り輝くことは容易い。もちろん、あの親分に翻弄されないことこそが難儀なのだが。
(墨俣は古来からの激戦地だぎゃ。そこに目を付けるのは当然だぎゃあけども、砦を築くのは奇策だぎゃ)
なぜなら、すでにある。
源平の戦いの舞台の一つともなっている墨俣は、尾張北西部、葉栗郡の川向こうにある。斉藤方の本拠地である稲葉山城眼下を流れる長良川が、伊勢湾に到達する途中で木曽川にぶつかるのだが、葉栗郡はこの木曽川を境にして美濃国と接している。
葉栗郡の川向うの美濃国の墨俣は、過去からいくさが耐えなかったように、交通の要衝である。中山道の大垣にも通じるし、稲葉山にも通じている。
斉藤方としてはここは死守しなければならない地点であり、よって墨俣城がすでにある。
墨俣城がここにあるにも関わらず、さらに砦を築くのは無茶としか言いようがない。築こうとすればすぐに斉藤方に察知され、駆逐される。
それにそもそも、現状、織田方は、墨俣どころか、木曽川のこちら側、葉栗郡の支配権さえ危うい状況であった。
(ほんでも、おやかた様は一手も二手も先を打っているんだぎゃ)
墨俣に砦を築くには無茶かもしれない。だが、木曽川の水運を駆使して土木作業にあたればどうにかなるかもしれない。
上総介が果たしてそこまで考えているかどうかはわからない。
(いや、考えているだぎゃ。おやかた様は今、いろんな手を打っているはずだぎゃ。多分、滅茶苦茶なことにも。おりゃあはその滅茶苦茶な案件を捨て鉢のように任されたんだけども、滅茶苦茶なことをやって成し遂げりゃあ、おりゃあは沓掛三千貫どころの話じゃねえんだぎゃ)
木曽川国人衆を織田に取り込むべく、藤吉郎はまず尾張北部の丹羽郡宮後村の蜂須賀小六を訪ねた。
蜂須賀が率いている国人衆は、木曽川勢力の中でもっとも支配力を持っている。また、藤吉郎は上総介に仕える前の流浪時代、蜂須賀に世話になったことがあった。
「織田上総介にお味方して頂ければ蜂須賀殿を織田の重席に加えるだぎゃ」
蜂須賀屋敷の広間にて、とりあえず、藤吉郎はいい加減なことを言った。
蜂須賀は齢三十四。筋肉隆々の腕を組み、髭むくじゃらの下の唇をへの字に曲げながら、川の支配者らしい風格で藤吉郎をあしらう。
「突然顔を出したかと思えば、適当なことを申しやがって」
「どうすればお味方してくれますだぎゃあか」
「味方も何も、わしらはどちらにも付かん。むしろこのまま争っていてほしいわ」
「昔の縁で」
「たわけ。味方をしてほしければ力ずくでも味方にさせてみろ」
「また来るですぎゃ」
長居はせずに立ち去った。蜂須賀は芯が一本入ったような男であり、べらべらと媚びへつらったところで相手にされない。足繁く通って率直な思いを地道に伝えるしかない。
ついで、北西部の葉栗郡に向かった。墨俣が目と鼻の先である。
松倉というところに坪内喜太郎という国人がいて、彼は織田方を標榜しており、工作をかける必要性はないものの、墨俣という場所を考えたとき、葉栗郡の国人たちの盟主的存在である彼には顔を出さないわけにはいかなかった。
「木下藤吉郎殿がわざわざお越しになって、恐縮でございます」
若干二十一歳の坪内喜太郎は物腰が柔らかい男で、ありありと川の支配者然としていた蜂須賀に比べると、どちらかというと名主の若旦那のような雰囲気であった。
「いやいやとんでもねえですだぎゃあ。おりゃあみてえなサル風情が突然押しかけてそんなに改まられてはおりゃあは下げる頭も下げすぎて床を壊さにゃいかんですだぎゃあ」
と、蜂須賀のときとは打って変わって奇天烈な裏声を発し、喜太郎を笑わせた。
「いんや、押しかけさせてもらったのは――」
藤吉郎は木曽川国人衆の対処方法を喜太郎に相談した。墨俣のことは言わない。どうすれば上総介の一声で動いてくれるものかと。
喜太郎は言う。
「餌をぶら下げても聞く耳を持たないでしょうな。仁とか義理とか、そういうものをよすがにしておりますから。拙者どもは、訳あって他国から流れてきた者、差別や偏見に耐えかねて生まれた場所から逃げてきた者などに仕事をさせているゆえ、雇っている拙者どもが姑息な真似をしてしまえば、世の人の汚さを知っている者は付いてきてくれません」
姑息な真似をお得意としている藤吉郎は考え物である。ある程度、彼らの性質を知ってはいたが、打算で動かない人間ほど説得するのは難しい。
(仁義だぎゃあか……)
藤吉郎が珍しく悩みこんでいると、喜太郎は声音を高くして話を変えてきた。
「ところで、木下殿は前田又左衛門とのご面識は?」
「又左衛門? 槍の前田又左衛門ですだぎゃあか? まあ、一度や二度ぐらいはありますだぎゃあけども、又左がどうか?」
「実は拙者の屋敷に身を寄せておりまして」
「にゃあ。そうですかえ」
捨てられた前田又左などに利用価値は皆無だが、喜太郎に差し向けられてしまった手前、仕方ないながら挨拶でもしとこうかと思った。




