人生意気に感ず(6)
大手門をくぐり出ると、信長が城下に出かけるということで側近の連中があわてて追いかけてきたが、
「サルと牛がいるから構うな」
と、追い払った。
信長は浴衣の片肌脱いだまま目抜き通りの真ん中を練り歩き、二日酔いの頭が軋むのか、たまに首をかくかくとしかめっ面でかしげた。城下の者たちが道端に避けて黙礼していく中、おれとサルの二人はへこへこと手揉みしながら金魚の糞である。
赤紫色に染まった西空を背中に足軽長屋町にやって来て、「どこだ」と信長が言うので、サルはそそくさと信長の前に躍り出て、腰を低くしながら道中を案内した。
「ここだぎゃあです」
サルが右手を差し出して、杉原家の板戸の前だった。信長は有無も言わずに板戸の前にずかずかと歩み寄っていき、バチンッ、と、戸を叩き開ける。緊張しきりのおれとサルはその物音で肩をすぼめてしまう。
「上総介三郎が参った! 杉原の寧々とやらはここか!」
甲高い声が、ろうそくの火に薄暗い居土間にきんきんと鳴り響くと、ちょうどそこには縫い物をしていた寧々さんと鬼母、それに寧々さんの親父らしきオッサンが具足を磨いていて、彼らは信長の登場にぽかんとしていたが、信長がじゃりっと玄関に入ってくると、三人はその場にあわてて両膝を正して平伏した。
おれとサルが信長の後ろで縮こまっているなか、寧々さんの親父の助左衛門がびくびくしながら床に向かって声を震わせた。
「こ、これは、お、お、おやかた様っ。せ、拙者ごときが宅にいかなる御用でっ」
「ああ」
と、信長は答えにもなっていない相槌を打つと、三人のうちで一番若い寧々さんをじいっと見つめた。
「お主か、寧々というのは」
「は、はいっ」
「おもてを上げろ」
寧々さんはぎこちなくもゆっくりと顔を上げていった。すると、寧々さんの視線は信長の後ろでもじもじしているサルとおれに留まった。寧々さんは即座に眉根をしかめ、サルとおれはそそくさとうつむく。
「お主、サルの女房となりたいか」
コミュニケーションがからっきし不足している信長の発言に、おれとサルは思わず顔を見合わせてしまった。おいおい、と。突然乗り込んできて、いくらなんでもそりゃねえだろ、と。
なもんで、寧々さんもびっくりして戸惑うばかり。すると、鬼母が信長の前に膝を滑らせてきて、おでこをびったりと板床にこすりつけながら喚いた。
「おやかた様っ! 寧々は藤吉郎などはっ――」
「母御は黙っておれ! 俺は寧々に訊いておるのだ!」
さすがの鬼母も信長には頭が上がらず、背中を丸めるまま肩を震わせるばかり。
「どうだと訊いておるんだ、寧々」
「わ、わたくしは――」
寧々さんはうつむいた。信長が口をへの字にして見つめている中、しばらく沈黙していた。
おれとサルはごくりと固唾を呑んだ。まあ、おれはウザノスケのゴリラの手から逃れられるか逃れられないかの瀬戸際なだけだが、サルはそれこそ心臓が吐いて出てしまいそうなほどだろう。
寧々さんの次の句が喉元に突っかえている間、なんとも言えない時の静寂が流れ、語っているのはろうそくの火が映し出している影の揺らめきだけだった。
すると、寧々、と、言って、親父の助左衛門が寧々さんに膝をすべらせた。
「いいんだ、お前の正直な気持ちを言いなさい」
親父に顔を覗きこまれた寧々さんは、唇をぎゅっと結びながら頭を垂らしていき、そうして、言った。
「わたくしには、母がおります」
サルがこの世の終わりのように口を開け広げて、がっくりと両膝をついてしまった。おれも唖然としてしまった。嘘だろ、おい、って。どうして。どうして。ウザノスケから逃れられなくなったというよりか、絶対にそれは寧々さんの正直な気持ちじゃねえだろ、って。
「寧々っ!」
と、親父が寧々さんの肩を揺さぶるが、寧々さんは頭を垂らして固まったまま。
「そうか」
と、信長は言った。
「ならば、俺の側女に上がれ」
「えっ?」
全員が顔を上げて、信長を疑った。助左衛門も寧々さんも鬼母も、おれもサルも。
信長はにやにやと笑う。
「お主は評判の娘らしいからな。どこにも嫁がぬと言うなら俺の側になれ。母御よ、文句はあるか?」
信長に視線を向けられて、鬼母はぶるぶると震えながらも視線を落としていく。
すかさず、助左衛門が信長の足下にやって来て、ひれ伏した。
「おやかた様っ、かようなこと滅相もございませんっ。うちの寧々などをおやかた様のお側になど、この娘では務まるはずがございませんっ」
「黙れっ! 寧々っ! どうするのだ!」
「も、申し訳ございません、わたくしには母が――」
「なにい?」
信長は眉間に皺を寄せると、持ち上げた右足で居土間の上がりをドンッと叩き踏み、その右足に右腕を乗せながら、前のめりになって寧々さんに吼えた。
「母が、母がとっ、お主もいずれは母になるんじゃねえのかっ! それともなんだ、お主はいつまでも母の子かっ! 老いさらばえても母の子かっ! テメエの道をテメエの心で決められずに死んでいくかっ! ああっ?」
居土間にはしばらくの間、信長の怒号の余韻が沈黙の中に打ち響いていたが、ややもすると、寧々さんは泣いた。鼻水をずるずる啜りながら瞼を袖で拭い、そうしてもう一度、信長に深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。わたくしはおやかた様のお側には上がれません。おやかた様の有難きお言葉、しかと胸に留めおきます」
「なにゆえだ」
「わたくしには惚れている男がおります。ゆえ、他の誰も惚れることはできません」
「誰だ」
寧々さんは鼻水をすすり上げながら顔を上げ、真っ赤に染まった瞳でサルを見た。
「そこにおられる木下藤吉郎殿です」
サルはバカみたいに震えていた。寧々さんと見つめ合いながら、しょうもねえ瞼の中に汚い涙を浮かべていた。なんだい、チクショウ。おれもなんだか鼻水が出てきちまった。
信長は口許を緩めながら鼻先を突き上げ、フン、と、笑った。
「なら仕方ねえ。ならば藤吉郎と契りを結べ。それならば許してやる」
「おやかた様あっ!」
サルはその場にがばりと膝をついて這いつくばった。
「有難き幸せでございますぎゃあっ! この御恩、決して、決しておりゃあは忘れませんだぎゃっ!」
寧々さんの親父の助左衛門も涙を流しながら「有難き幸せ」を連呼し、寧々さんの肩を抱えながら、よかったなよかったな、と、泣きじゃくる寧々さんを揺さぶった。
ところが、
「おやかた様がお許しになっても私が許しませぬっ!」
と、場違いな鬼母であった。鬼の形相で信長を睨み上げていた。
「このようなサルなんかとっ。絶対に私は許せませんっ。寧々の母として、寧々をこんな者の嫁などには出せませんっ!」
しかし、鬼母の怒りっぷりをあしらうようにして、信長は余裕綽々に笑った。
「ほう。ならば、貴様、今日で母をやめろ」
「はっ?」
「寧々の母として許せねえのなら、母をやめろと言っているんだ。――おい、杉原助左衛門。弓衆の浅野又右衛門の嫁はこやつの姉であったな」
「え。は、はいっ。おっしゃるとおりでございます」
「寧々、助左衛門、そして母御、織田の頭領に従え。寧々は今日から浅野又右衛門の娘だ。養女となれ。わかったか。従えぬのであれば、清洲から出てけ」
そうして、信長はサルに振り返り、浅野又右衛門とその女房をここに連れて来いと言った。呆気に取られていたサルだったが、信長に蹴飛ばされると、あわてて長屋を飛び出していった。
サルが出ていくと、信長はうなだれている鬼母の肩に手を置いた。
「一度、子離れせい。他所から娘を見てみろ。そのときになってもお主が藤吉郎との間を許さぬとあらば、仕方ない。許すも許さないも自由だ」
鬼母は何も言えずにただうなだれていた。寧々さんはただただ力を込めてひれ伏していた。
「そういうことだ。牛、貴様も用済みであろう、帰るぞ」
「は、はい」
すると、助左衛門が立ち去ろうとする信長を引き止めるようにして進み出てき、
「なにゆえ、おやかた様のような御方が拙者どものような足軽風情の血縁を。なにゆえ、こやつの姉が又右衛門の嫁だと。う、牛殿がおやかた様にっ?」
「い、いや」
おれは芸能記者に聞いていて知っていたけど、信長にそれを教えた覚えはなくて、なにげなく信長に振り向いてみると、フン、と、信長は笑った。
「貴様らは俺の下で働く者だ。誰であれ存じていて当然だ」
信長は剥いでいた浴衣の袖をがばりと翻して袖を通すと、長屋を出ていった。おれもそそくさと後を追って出ていった。
日もすっかり暮れ、城までの帰り道には、軒を連ねる家々の窓からろうそくの火が淡くこもれていた。薄く広がった藍色の空に星がきらめき始め、風は若干の寒さを肌身に教えた。
「知ってたんスか?」
おれは訊ねたが、信長は笑うまま歩くだけである。
「す、すいませんッス。なんか、わざわざ来てもらっちゃいまして」
すると信長は微笑を浮かべながらおれに振り向いてきて、らんらんと光る瞳で言った。
「いい酔い覚めになったわ」
「ありがとうございます」
信長って、短気でコミュ障でケチなクソ野郎だけれど、おれは少しだけ、ほんの少しだけ、信長の家来で良かったなと思った。
「しかし、何か引っかかるな。昨日、貴様を生駒の屋敷に呼んだときも何かそんなことがあった気がするな」
信長を城まで送り届けたあと、ほっとしながら清洲宅に戻ってきたら、ウザノスケが囲炉裏で勝手に魚を焼いていて、太郎と二人でむさぼっていた。どこ行っていたんだ、と、怒鳴られたが、急遽おやかた様に呼ばれてしまってと言い訳をして難を逃れ、焼き魚を一本貰った。
「ところでだ、俺も顔を洗い直したところだ。明日にでも杉原のところに行くっちゅうことで、お前も付いて来いよな?」
太郎と遊んでいたためか、ウザノスケはおれの肩をバチバチと叩いてきて、上機嫌だった。おれは苦笑しながら焼き魚をかじった。
やべえ……。いざとなったら言い出せねえ……。言ってしまったら最後、こいつは大暴れして、このボロ家もろともおれを破壊してしまうんじゃ……。
でも、信長の下知だからな……。
ああ、やっぱ、言えねえ。怖くて言えねえ。
やがて、どっかから強奪してきたのか、ウザノスケはどぶろくを飲み始めた。で、すぐに寝た。おれはウザノスケが起きないよう、ゴリラの檻で世話をしている奴みたいにして、こそこそと身支度を整え始めた。太郎が何をしているのだと言って不思議がっているので、今晩、沓掛に帰るぞ、と、耳打ちした。
太郎は訝しがったが、サルと寧々さんがこれこれこうなったと説明すると、気の毒そうにしてウザノスケを見やり、そうしてうなずいた。
「きっと、佐々殿は暴れ回ります」
おれと太郎は帰り支度を済ませると、いびきをかいているゴリラを捨て置いて、そろりそろりと外に出た。そうして、柵に繋がれている馬の手綱をほどいて、ケツをビシッと蹴飛ばすと、馬はどっかに駆けていった。
これでウザノスケが起きてもすぐに追い掛けられなくて済む。沓掛に戻りさえすればボディーガードのマリオがいるわけだ。
おれと太郎は腰をかがめながら小走りになって、星空の下を清洲から逃げ去った。




