太郎の魂百まで(後編)
女が、柴田権六郎の末妹、梓だと木下藤吉郎に教えられて、太郎は怯んだ。八歳の太郎でも柴田権六の名は存じている。
(だからってなんだ。悪いことをしたのはあの女なんだ)
太郎は唇を引き締め直す。小袖の袖を内から摘まんで張らせながら、一歩一歩、と、真っ直ぐな眼差しで屋敷町の通りを踏みしめていく。
「ここだぎゃ」
柴田屋敷の門前までやって来て、太郎は緊張の吐息をついた。
「やめたほうがいいんじゃないんかえ?」
首を横に振った。
「ほうかえ。ほんだら、ここでお別れだぎゃ。さすがにそこまで付いていく義理はねえだぎゃ。くれぐれもおりゃあに案内されたなんて言うんじゃにゃあだぎゃあぞ」
こくりとうなずくと、小さな体いっぱいに息を吸って大きく吐いていく。
「ありがとうございました、木下殿」
「お頼み申す!」
玄関口で声を張り上げると、子供の声に訝しがりながら、お貞が現れた。見かけたような、見かけていないような、そんな目で小さい太郎を眺めてくる。
「どちら様?」
「私は簗田牛太郎小姓の太郎と申します! 柴田権六様の妹御の梓殿に用件があってお伺いいたしました!」
途端に表情を渋らせたお貞は、自分が今来た廊下のほうをちらりと見やった。上がりかまちに両膝をつき、詮索の目を太郎に与えてきながら、囁く。
「どういったご用件?」
「簗田牛太郎にお詫びしていただきたいのです」
お貞は絶句し、再度、廊下を見やった。
「梓様は白昼堂々、主人簗田うし――」
「お待ちなさい。あなた様がおっしゃりたいことはわかっておりますゆえ。ただ――、そういうことはいけませんでしょう? お帰りください」
「なにゆえです! 私はお詫びいただくまで帰りません!」
お貞は溜め息をついた。
「承知しました。しかし、武家には武家の習いがあるのですからね」
そう言って、年増の彼女は奥へと引っ込んでいき、太郎が震える吐息をついていると、また戻ってきて、上がりかまちから下りてきた。
「付いてらっしゃい。お庭に参上せよとのことです」
太郎はお貞に付いていって庭に回らされた。ここで待っていろと言い残しお貞は戻っていった。
一応、柴田家の屋敷だから、太郎は小袖の膝をまくり上げ、その場に正座した。背筋を伸ばして縁側を見据えていると、板床を軋ませる足音とともに、真っ赤な羽織りの女――ではなくて、柴田権六が現れた。
「何者かと思えば、こわっぱでないか」
縁側から自分を見下ろしてきている髭むくじゃらの男が柴田権六であることは、その風格だけでわかった。鞘におさめた太刀を右手に握り締めており、唇をへの字に曲げて、太郎をぎらぎらとしたギョロ目で覗きこんでくる。
太郎はあわてて平伏した。
「なんだ、わっぱ。牛の使いで参ったのか」
「ち、違いますっ。私が勝手に参っただけですっ」
太郎は地面に向かって声を張ると、権六はしばらく無言でいた。やがてその場にあぐらをかいて腰を下ろし、太刀を自らの傍らに置くと、太郎に顔を上げるよう口を開いた。
「して、なんだ。詫びを申せと言っているそうだが、なにゆえだ」
「いえっ。私は柴田様からお詫びのお言葉を頂戴したいのではありませんっ。私は妹御の梓様から主人簗田牛太郎にお詫びしていただきたいのですっ」
まるで、上がり症が祝辞でも述べているように体を固くして口調も堅苦しい太郎に対し、権六は顔をしかめながらボリボリと首筋を掻いた。
「もしも梓が何か仕出かしたのなら、妹の不始末はわしの不始末。梓の代わりにわしが詫びを入れてやる。何をした。梓は何をして、わっぱをそんなに意固地にさせたのだ」
「あ、梓様は白昼堂々――」
「そなたの主人を侮辱した。そうなんじゃろ?」
縁側にそう言ってぬうっと現れたのは主人の仇、河童頭の梓であった。途端、太郎の瞳は火が灯り、怒りが蘇ってきて唇が震えてしまう。
「お、お主っ、控えておらんかっ」
権六がたしなめるものの、梓は無言のうちに兄を睨みつけており、権六はそそくさと顔を伏せてしまう。
「見上げた小僧じゃ。単身、この柴田の家に乗り込んで詫びを入れろなどとは見上げたもんじゃ。して、どうする。わらわが牛殿に詫びを申せばそなたの気が済むのか?」
「はい。今すぐにでも主人にお詫び差し上げてください」
「気が済んで、それで何になる」
「え?」
「そなたの何になるのじゃ」
「わ、私は忠義を果たしているだけです」
「忠義? おなごに罵られた大の男に忠義じゃと? そなたはそのような男に忠義を果たすのか? ん? それがそなたの忠義か?」
「ぶ、侮辱したではありませんかっ!」
「い、いや、梓、ま、まあな、このわっぱも――」
「兄上は黙っておられいっ!」
雷鳴のような喚きが庭に轟いて、権六は肩を張り立たせながら口を噤み、太郎も梓の夜叉のような顔つきに身を震わせた。
そうして、梓は黒目を剥きながら、ぎらっと、この世の女のものとは思えない凄味を寄越してくるのである。
「侮辱されるような男に仕えていて、その忠義を晴らしたところで何になる」
「そ、そ、それが忠義です」
「だから、言うておろうがっ! そなたの忠義はおなご相手に振るうものなのかっ! 情けないと思わんかっ! 忠義忠義と手前味噌な格好をつけているだけではないのかっ!」
彼女のその論理が、破綻した滅茶苦茶なもので、勝手気ままに自分を棚に上げているだけの屁理屈だとわかっていたが、梓のとんでもない怒りに飲み込まれてしまった太郎は、頭の中が混乱してしまい、膝を揃えたままうつむいてしまう。
恐ろしくって何も反論できない。
フン、と、鼻先を突き上げて、梓は縁側から消えていく。
(くそう、あの女……)
非力を思い知るとはまさにこのことで、怒涛の鬼夜叉だったとは言え、たかが女の一瞬の勢いにやられてしまった自分が悔しくなってきて、太郎は膝の小袖を握りしめながら、ぽろぽろと涙の玉を落とす。
「わ、わっぱ――」
柴田権六が呼びかけてくるが、太郎の涙と鼻水は止まらない。
「泣くな、わっぱ。わしも泣きたくなってくる」
権六は草履を履いて庭に下りてくると、わっぱ、わっぱ、と、言って、太郎が伏せる顔を右に左に覗いてくる。
「私は、私は、ただ、殿のことを思って――」
「わかったよ、わっぱ。許しておくれ、な?」
太郎は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらも精一杯の力でうなずくと、権六は太郎の頭を撫でてきて、すまん、すまんな、と、言い、太郎を胸の中に埋めてきた。
「よしよし。お主は偉いぞ。立派だぞ」
庭の植木は燦々と降りしきる初夏の光を浴びて、燃えるような緑色に照っていた。
柴田権六と並んで縁側から短い足をぶら下げている太郎は、お貞が運んできた茶碗を両手で抱え、白湯をすすった。
「梓はな」
権六も白湯をすすりながら、庭先の植木にまぶしげに瞼を細める。
「先のいくさでわしが無様な真似を働いたことに怒り狂っておるのだ。わしは籠城策を唱えていた。しかし、結果はおやかた様の見事な奇襲によって織田に勝利はもたらされた。そのとき、わしはどこにいたかと思う? 城におったのだ」
「それも家臣の務めかと私は思います」
「そうかもしれぬ。だが、無様と言えば無様だ。ゆえに梓は気が狂ったかのようにあのような出で立ちとなり、手柄を立てて出世した者には誰彼構わず噛みついている始末なのだ」
権六は溜め息をつきながら茶碗を傍らに置き、代わりに太刀を手にすると、自分の手元でかちゃかちゃと鍔を押したり引いたりした。
「わしもきゃつの心の中身がまったくわからんので困っておるが、柴田の家はあるのだぞと表したいのかもしれん。生来の負けず嫌いゆえな。やることは阿呆のかぶき者で、迷惑千万極まりないが」
権六は太刀を戻し、白い雲の流れる空をぼんやりと見上げた。
「しかし、あの牛が勲功第一とはな。この庭に初めて来たときはまったく得体の知らぬ素浪人だったというのに、沓掛三千貫とはな」
「殿は浪人だったのですか?」
太郎の問いかけに権六は笑みを浮かべながら顔を向けてきた。
「ああ。おやかた様に仕える前、梓に拾われてここに来たことがある。わしは追い払ったがな」
「なにゆえですか」
「怪しい者だったからだ。だが、今はお主の主人となっており、ちっとも怪しくはないな?」
権六は大きな掌で太郎の頭をぽんぽんと撫でてくる。
「お主、父は誰か」
「おりません」
権六は掌を乗せたまま、太郎を見つめた。
「そうか。すまんかった」
権六は太郎の頭から手を離し、太郎は茶碗を股ぐらの上に抱えたまま、植木を見つめた。
昼中にあって静かな庭先に、紋白蝶が一羽、ひらひらと踊っている。
「わっぱ、名は?」
「太郎と申します」
「太郎。そうか」
権六は太刀を右手に取ると、腰を上げ、茶碗を床に置いた太郎に髭むくじゃらの笑みを浮かべてきた。
「太郎。お主の忠義の心は見事だぞ。その心をいつまでも忘れずにな」
「はい」
「すまんかったと牛に伝えておくれ」
「ありがとうございます」
太郎は縁側から飛び降り、もう一度権六に向けて頭を下げると、権六は「うむ」と言って、縁側から去っていき、奥から、片付けをしておくようにと女中への声が聞こえてきた。お貞がそそそとやって来て、茶碗を手に取ったので、太郎は彼女にも頭を下げた。
「ごちそうさまでした。ご無礼を働き申し訳ございませんでした」
「はい。お気をつけて。大変でしょうが、ご奉公に励んでください」
「ありがとうございます。失礼致します」
太郎はすたすたと庭を出ていき、柴田家の門をくぐり出ていった。
(それにしても殿はあんな女のどこが良かったんだろう。見る目がない人だ)
母に言われたことがある。成人して女を選ぶときは、一に健康、二に器量、三四が無くて、五に笑顔だと。
笑顔の健康的な女であれば何事もうまくいくと。
(まったく逆だ。あの女)
それにしても、と、太郎が思うのは木下藤吉郎であった。
牛太郎は藤吉郎を盗っ人と蔑んでおり、藤吉郎は牛太郎を頭の悪い甲斐性なしと悪態ついていたが、藤吉郎はどうやら足軽大将らしくて、かたや牛太郎は沓掛城主である。
(木下殿も我が殿も不思議な人だな)
すると、門前町への角までやって来たとき、その不思議な人が肩で息をせき切りながらも、相変わらず壺を両手に抱きながら、左右をきょろきょろと見やっていた。
「殿!」
と、太郎は呼んだ。
牛太郎は太郎のほうに振り向いてくると、
「何やってんだ! 太郎!」
と、声を張り上げながら、巨体を揺さぶって駆け寄ってきた。太郎の前まで来ると、息をぜえぜえとつきながらも、太郎を睨み下ろしてくる。
「探したんだぞ、バカ野郎! イエモンとかソフエに訊いてもわかんねえって言うしよっ! 何、勝手に家出してやがんだ、バカっ!」
「申し訳ありません。散歩しておりました」
「たくっ。心配させんじゃねえっ。バカ野郎」
言うだけ言った牛太郎は呼吸を整え終えたようで、踵を返すとのしのしと歩き始めた。太郎はちょこちょこと付いていく。
「殿、体調はもうよろしいのですか」
「うるせえっ」
「仕立てた服を引き取りに行かないのですか」
牛太郎は立ち止まった。唇を尖らせながら、泣き腫らした瞼で太郎を見下ろしてくる。
「お前、ほしいのか」
「殿はいらないのですか」
「俺はもういらね。どうでもいい」
ぷいっと顔を背け、牛太郎は歩き出す。太郎は早足で牛太郎の隣に付いていき、主人を見上げる。
「でも、太郎はほしいです。殿と同じ色の」
牛太郎は濁った目で門前町の遥か先を見つめながら溜め息をついた。
「お前がどうしてもって言うなら、取りに行ってやってもいい」
「はい」
「言っておくけど、帯だけは同じ色を使うんじゃないからな」
「はい」
「だからって赤黒シマシマの帯とか駄目だからな」
「はい」
賑わった門前町の遥か向こう、日差しは燦々と降り注がれていて、西の空いっぱいに光は渡っていた。流れる雲がまばゆさの中に溶けていく。軒並み続く目抜き通りに、清洲の人々の声が盛んに響いていた。




