勝とうとして戦う者たちよ(後編)
転げていたおれは槍を片手に即座に立ち上がった。
目の前には今川義元。
ここを勝たずしていつ勝つんだ。
だが、しかし、おれの視線は今川義元ばかりにとらわれてしまっていて、今川義元の側近がおれに襲いかかってきていたことをうっかり忘れてしまっていた。
側近のオッサンが鬼のような形相でおれに太刀を振り下ろしてきて、おれはあわてて槍を立てかけてガード、ガードだけでは心もとなくて、半身を翻してかわす。
んで、かわせた。
「おのれえ」
と、側近のおっさんは口許から涎を垂らしながらおれに振り返ってきたが、おれはちょっとだけ唖然とした。
おっさん、今の太刀筋からして弱い。
マタザ師匠にボロ雑巾にされていたおれの目はすっかり肥えてしまっていたのだ。
こんな野郎はさっさと倒すに限る。
おれは槍を突き出し、突いて出た。しかし、今のはフェイント、あわててビュンビュンと刀を振ったおっさんの隙を狙い、おれは槍を振りかぶって振り下ろし、思い切りおっさんのこめかみを打ち抜いてやった。
「ぐおっ」
と、口だけはそれなりのおっさんは、頭を抱えながら膝をつき、こんなザコはさっさと尻目におれは今川義元に向かい合う。
今川義元は抜刀しており、おれが槍を向けると不敵に笑った。
「綱巻きとは、奇怪な者じゃ」
義元は笑うままにじりじりとおれに近づいてくる。マロ眉毛を押し上げながら、細い狐目の中身をひたりとおれに据えてきて、空の真ん中から注いでくる陽光を赤と白の甲冑に照り返しながら、おれにじりじりと近づいてくる。
おれは奴が近づいてくるたびに、後ずさりしてしまう。
おれの息遣いは途端に荒くなった。
このオジャマロは相当な風格を漂わせていた。そもそも、どうして、笑っていやがるのか。陣幕の外はすっかり織田勢が取り囲んでいて、殺されるのは秒読みだというのに、んなことも忘れているかのようにして笑っていやがる。
「名を申してみよ?」
そう問いかけてきたとき、口から歯がこぼれたのだが、オジャマロは歯を真っ黒に塗っていた。
死の恐怖など微塵も感じられないさまと、にかにか笑ったときのお歯黒の不気味さが相まって、おれはすっかり飲み込まれてしまった。
「ここに来て怖気づいたのか?」
オジャマロは瞼をひん剥いて広げた。カチャ、と、持っていた太刀を握り直した。おれの胸の鼓動はバクバクと心臓が飛び出んばかりであった。
さらに、側近のおっさんがおれの足を掴んできた。
オジャマロが吼える。
「手柄を取るのはそう簡単ではなかったろうっ!」
おれは頭の中が真っ白になってしまった。
ところが、オジャマロが太刀を構えたそのとき、幕がばさりとひるがえって、陣外の乱戦の中から、一人、槍を突き出しながら入りこんできた。
「馬廻衆、服部小平太っ! 今川治部殿とお見受け致すうっ! お覚悟っ!」
おれは歓喜した。おっさんに足を引っ張られてバチンと倒れた。しかし、歓喜した。おれは歓喜の眼差しで顔を起こし、オジャマロに槍を突き立てて突撃していくハットリ君に向けて叫んだ。
「手柄立てろおっ!」
ハットリ君は突っ込んでいく。
槍の刃をきらめかせて突っ込んでいく。
しかし、オジャマロはひょいっと半身を上げて槍先をかわしてしまい、それどころかハットリ君の槍を脇に抱え込んで手で握り締め、ハットリ君の動きを封じてしまう。
「甘いわあっ!」
オジャマロは槍を持つ手でハットリ君を振り飛ばしてしまった。
オジャマロのとんでもないパワーに飛ばされてしまったハットリ君であるが、膝と手を地面について体勢を立て直し、腰から太刀を抜く。
おれは地面に爪を立てつつ、唾を飛ばした。
「ハットリ君っ! 殺れっ! 殺るんだっ!」
すると、オジャマロは細い瞼から目玉を剥き出しにしつつ、ホッホッホッ、と、気色悪いお歯黒笑いを見せてきた。
「小僧っ! そのほうにやれるかあっ?」
「うおおっ!」
ハットリ君は雄叫びを上げながらオジャマロに駆けていき、太刀を振り下ろした。
キーンッ、と、オジャマロはハットリ君の斬撃を受け止め、そうして笑ったままハットリ君の太刀を弾き上げてしまうと、ズバッ、と太刀を横に一閃した。
ハットリ君はオジャマロの太刀をすんででかわしていた。しかし、ハットリ君はかわしたついでに転げ倒れてしまっており、顔を歪めながら片膝を押さえていた。
膝から血が溢れ出ている。斬られてしまったらしい。
「ハットリ君っ!」
おれは立ち上がった。が、おっさんが掴んで離さず、また倒れてしまった。
「こんの野郎ォっ!」
おれは振り返り、背中を曲げたまま、おっさんの頭を思い切り殴った。これでもか、これでもかと殴った。おっさんは呻きを上げつつおれの足を離さなかったが、十発ぐらい殴ったところで、気絶したのか、死んだのか、ようやく離した。
「ハットリ君っ!」
おれは立ち上がった。ハットリ君を助けなくちゃならなかった。
ところがハットリ君はすでにオジャマロと戦っており、膝から血をしたたらせながらも、オジャマロの斬撃を受けては払い、受けては払いと、なんとか踏みとどまっていた。
「守っているだけでは死んでしまうぞおっ!」
オジャマロは笑いながらハットリ君に太刀を振り回しており、多分、生死の究極の狭間でイッちゃっているんだろうが、ラスボス感が半端じゃない。
でも、オジャマロはハットリ君を相手に夢中のようである。
ここで槍を突き刺せれば。
おれは汗を拭い、槍を拾った。
そのとき、
「小平太あっ!」
陣幕をひるがえして、誰かがオジャマロに槍を伸ばして突っ込んでいった。
「治部殿とお見受けしたあっ! 馬廻衆、毛利新助がお命頂戴するっ!」
オジャマロは形相を変えて狐目を吊り上げた。太刀を振るい上げてハットリ君の太刀を飛ばしてしまうと、鬼のように顔を真っ赤に染めながら毛利新助とやらに向かい合う。
お歯黒を剥き出しにして吼え上げる。
「返り討ちにしてやるわっ!」
そこへハットリ君がオジャマロに身を呈して掴みかかった。オジャマロはハットリ君の両腕に巻きつかれ動きを封じ込められた。
「突き刺せえっ、新助えっ!」
おれも思わず叫んだ。
「殺れえっ!」
「小癪うっ!」
オジャマロはくるりと丸まって、背中にハットリ君を乗せてしまい、そのまま毛利新助に向けて投げ飛ばしてしまった。
投げられたハットリ君と毛利新助が激突してしまい、二人とも地べたに倒れこんでしまう。
そして、おれは槍を握って自由の身なのだが……。
あかん……。
オジャマロ、強すぎる……。
「かああああああっっっ!」
オジャマロがこの世のものとは思えぬ声で絶叫し、折り重なって転がっているハットリ君と毛利新助のもとへ駆けていく。
「ちくしょおっ!」
おれは槍を握りしめるままに振り上げた。そして、そういう選手みたいにしてぶん投げた。
オジャマロは飛んできた槍に瞼を広げて驚くも、体を傾けてかわした。
オジャマロの鬼のような目がおれに剥いてくる。オジャマロの気色悪いお歯黒がぎりぎりと鳴っている。
「おっのれえ」
おれは後ずさりしてしまう。両手を胸の前に出して振ってしまう。
「い、い、いやっ、ちち、ち、違うんスっ」
すると、ハットリ君がオジャマロに飛びかかってそのまま押し込んでいくと、倒した。
「新助えっ!」
毛利新助が立ち上がっている。腰から太刀を抜いている。
「のけえっ!」
オジャマロは両手を握って、それをハットリ君の頭に叩き落とした。ハットリ君が白目を剥いてしまい、オジャマロはさらにそこを左拳でぶん殴り、のしかかっていたハットリ君を蹴りのけた。
だが、毛利新助が太刀を振りかぶって襲いかかっていた。
おれは両拳を握って下唇を噛み締めた。
オジャマロは背中をついて倒れたまま、手にはすでに刀を持っていない。
殺れる、今度こそ殺れる、今度こそ殺ってくれ!
「覚悟おっ!」
毛利新助の太刀が振り落とされる。
オジャマロの両手が毛利新助の手首を握って取った。
「ぬおおおっ!」
毛利新助がオジャマロの両手を離そうとして太刀を持ち上げようとする。ところが、オジャマロはものすごい力で太刀の両手を自分に引き寄せていき、お歯黒の口でがぶりと噛みついた。
「ああああっ!」
新助、絶叫、そのまま太刀を手から落としてしまい、オジャマロは、ペッ、と、唾を吐いた。
おれは背筋が凍った。
オジャマロが吐いた唾とともに、地べたには噛みちぎった親指があった。
おれは――、バカだった……。
あんなラスボスの首を取ろうとしていたなんて、バカだった……。
織田と今川の勝敗はすでに決しているというのに、オジャマロはなんのためにそこまでして戦うのか、降参する気など微塵も見せず、いつまでもいつまでもこの世にしがみつこうとする妖怪のようにしてそこにいる。
肩で息を切りながら、お歯黒の中から舌を出しつつ息を切りながら、オジャマロは腰の短刀に手をかけて、毛利新助に一歩、一歩、歩み寄っていく。
「わしは、今川治部大輔……。海道一の弓取りと呼ばれし男よ……。そう容易く、負けてたまるか」
オジャマロはおもむろに短刀を抜いた。
その足をハットリ君が倒れたまま掴んでいた。血反吐を垂らしながらのハットリ君はオジャマロの足を引っ張り、オジャマロを前のめりにして倒した。
「新助、首を、討て――」
毛利新助は親指をちぎられた痛みで顔を歪めていたが、オジャマロの左手をなんとか踏みつぶした。そうして、オジャマロが離した短刀を拾い上げた。しかし、オジャマロは毛利新助の足を手に取り、引っ張り倒した。倒れながらも新助がオジャマロの顔を蹴飛ばす。オジャマロは蹴飛ばされながらも新助に飛びかかる。飛びかかったとき、新助は短刀を突き立てていた。
短刀がオジャマロの首元に刺さっていた。
おれは時間が止まったかのように感じた。
最後の形相で新助を見下ろしているオジャマロと、腕に血をしたたらせながらも短刀を握りしめている新助、最後までオジャマロの足に手をかけていたハットリ君、掌を広げて突っ立っているばかりのおれ。
雨上がりの空からまばゆいばかりの初夏の光が降り注いでいる。
壮絶な死への戦いは、最後は呆気なかった。
そして、
「うわああああっ!」
新助が乗っかったままのオジャマロを蹴飛ばし払い、ごろりと横になって倒れたオジャマロの上に馬乗りになった。新助はそのまま両手で短刀の刃をオジャマロの首に当てがい、押し込んだ。
「やった……」
と、ハットリ君が力なく笑いながら呟いた。
新助は返り血で顔を真っ赤にしながらも、
「討ち取った――」
と、呟き、そして、桶狭間中に届くようにして叫んだ。
「討ち取ったぞっ! 今川治部大輔、討ち取ったあっっ!」
おれははっきりと聞いていた。新助の叫びをはっきりと聞いていた。
そして、この世にしがみついていた妖怪が今まさに去っていったのをはっきりと目の当たりにした。
おれは震えが止まらなかった。
このとき、すべてが変わったような気がした。




