その存在、ただそれだけで
まさかまさかの再会に、おれは思わず、サルの首を締め上げていた両の手をぽろりと落とした。
サルもおれの首から手を離した。
「そなたたちは何をやっておる!」
気がつけば、おれとサルとの格闘のそばにいたのはあずにゃんだけではなく、往来していた町人やら百姓やら、それに軒を連ねる屋敷の門からも、その家の奉公人か家族か、失笑しながらこちらを眺めてきていた。
おれよりも早く反応したのはサルだった。
「いんやっ!」
と、飛び跳ねておれの腹から下りると、ヤクザの大物にでも怯えるチンピラのごとく、あずにゃんからじりじりと後ずさりしていきながら、
「いんや、ち、違うんですぎゃっ、その、決して、喧嘩をしていたとかじゃにゃあくて――」
「その面構え。そなたは噂に聞く台所奉行の木下藤吉郎殿じゃな」
「ち、ち、違いますだぎゃっ! おりゃあは堀尾茂助って言いますだぎゃっ! にゃっ! 用事を思い出しましたぎゃっ! こ、これにて失礼ですぎゃっ!」
だっ、と、コマネズミのごとくサルは走り去っていった。
取り残されたおれ。
軽蔑するような視線をじいっとおれに据え置くあずにゃん。
あずにゃん。
あずにゃん……。
あ、あ、あ、あずにゃんっ!
くうう。なんて、なんんんてえ、お久方ぶりのことか。
どうして袴なんか履いて男みたいな格好をしているんだろう、しかし、それもそれで麗しい!
そして、あなたのその瞳、あなたのその唇、あなたのその髪、初めてお目にしたときからこの脳裏にしっかと焼き付いているあなたのその姿は、今日のこの日まで記憶と想像の産物でしかなかったけれども、今こうして目の前にしてはっきりとわかる。あなたのすべて、あなたのそのすべてはあっしの人生の夢なのだ! こんなしょうもない一日があなたのおかげで人生の一ページになってしまう!
そしてあなたはやっぱりあっしに教えてくれる。
あなたの存在がこの世の中にあることは、あっしの人生に寂しさを教えてくれるけれども、あなたの存在があっしの目の前にあることは、あっしの人生の虚しさを拭い去ってくれる。
たとえどんなにこの世が不条理で理不尽であれども、あなたが存在していたら不条理も理不尽もない、この世の中はあなたの存在を前にしてちっぽけな光景でしかない。すべてはあなたの色に染まった背景でしかない。
日の光も、夜の闇も、冷たい風も、温かい風も、流れる雲も、さわめく緑の木々の葉も、何もかもがあなたを彩るために出来上がったもの。
あなたが笑えば風が吹く、あなたが泣けば雨が降る、あなたの涙は世界の湖水となって溜まり、あなたの笑顔は世界の空となって光を注がせる。
そんな世界があっしが見る世界。
あなたはやっぱり教えてくれる。
あなたなしではあっしがここまで生きてこれなかったということを!
あなたの優しい瞳をたたえる瞼があっしに向けてゆっくりとまたたけば、あっしの胸の鼓動はあなたの瞼のまたたきと同時になって、あっしの心を叩く。
あなたの優しさをたたえる柔らかい唇があっしに向けてゆっくりと緩めば、あっしの胸の鼓動はあなたの微笑と重なって、あっしの心を包む。
そんな思いをたったひとつの言葉で表すなら、幸福。
ああ、幸福なんて夢なんじゃなかったのか。
でも、夢じゃない。あなたがあっしに与える眼差しはまがうことない真実。
そして、待ち望んでいたんだ、この真実を!
「あ、あ、梓殿、お、お久しぶりです」
おれはあまりの歓喜に、サルとの喧嘩沙汰もどこへやら、公衆での恥さらしもどこへやら、あずにゃんに再会できた喜びを訴えたいがあまり、目をキラキラと輝かせながら、噛みしめるようにしてゆっくりと言葉をついた。
「何がお久しぶりじゃ」
「えっ」
細い眉の間に皺を寄せつつ、あずにゃんは捻じ曲げていた小さな唇を開く。
「この時世に道端で喧嘩沙汰など。わらわとて曲者がおらんかとこうして見て回っているというのに、そなたたちは来たるいくさもよそにして、くだらぬ喧嘩か」
「ち、ち、違うんですっ。あれは藤吉郎殿が追っかけてきてっ」
「追いかけてきたからなんだと申す。お主とて負けじと張り合っていたではないか」
「いや、違うんスっ」
「言い訳無用! 弁明する暇があるならば槍の刃先でも研いでおれいっ!」
男顔負けのド級の咆哮に身を縮こませたおれをよそに、フン、と、鼻先を突き上げながらあずにゃんは背中を向けてきてしまい、おれの前から立ち去ろうとした。
すると、喧嘩の野次馬たちの一人が、「さすがはあずさん!」と囃し立て、それに乗じて「あず様がいれば清洲は安泰がや!」と調子の良い奴、手を打って喜ぶ女もいれば、「牛と猿の喧嘩ほどみっともねえもんはねえな」とどさくさに紛れて悪口を言っているジジイも。
見ず知らずのジジイの悪口はともかく、あずさんだのあず様だの、あずにゃんってのはここら辺では知られた英雄だったのか。
しかし、曲者がいないか見て回っているだなんて。だから、男みてえな格好をしているのか。じゃあ、もしも曲者がいたらどうするってんだ。刀も槍も持っていないのに。まさか曲者と喧嘩するってわけじゃあるまい。おにゃの子なんだし。
てか、あずにゃんはゴンロクの妹なんだから、籠城籠城と騒ぎ立てている兄貴の意向で疎開でもするんじゃないのだろうか。ハットリ君がヌエバアを避難させたがっているぐらいだ、「もっともそのとき織田はあるかどうか」だなんて弱気発言していたゴンロクだ、その妹のあずにゃんが曲者探しに見回っているだなんて、どうも様子がおかしい。
「あ、あのっ、梓殿っ」
と、おれは起き上がったあとに立ち去ろうとしていたあずにゃんを呼び止め、「なんじゃ」とまだ怒っているあずにゃんに思い切ってたずねた。
「あの、その、梓殿は、どうして清洲に居残ってらっしゃるんですか」
「どうして? そなたのその問い自体がわらわからすればどうしてじゃ」
「いや、だって、今川の大軍が清洲に――」
「だからなんじゃ。城下を焼き討ちされるから逃げるか? かような者はわらわがこの手で亡き者にするだけじゃ。まあ、喧嘩の沙汰など起こしているそなたなぞは一目散に逃げるであろうが」
「いやっ、逃げないッスよっ」
「ほう」
怖い物知らずなのかなんなのか、あずにゃんは妙に自信たっぷりに赤い唇で笑んでいる。
しかし、おれはあずにゃんだけにはわかってもらいたい。あずにゃんのその正体不明の自信よりも数倍、おれは今川とのいくさに自信を持っているということを。
おれはあずにゃんに歩み寄り、ポニーテールを見下ろすと、言った。
「梓殿。今度のいくさ、間違いなく勝ちますよ」
「ほう。見上げた度胸じゃ」
と、あずにゃんは冗談にしか聞こえないと言った具合でおれを見上げつつにやにやしている。おれは拳をぐっと握りしめ、ぐっと眉間に力を込めてあずにゃんの瞳を見据える。
「度胸もへったくれもなく、勝つんス。だから、そうやって見回っている必要もないッス。焼き討ちもないッス。曲者が出てきても、梓殿は家でゆっくりしていればいいんス」
おれの本気が伝わったのか、あずにゃんは「ほう」と言わなかった。無言でおれを見つめてくるだけだった。おれの中身を探るようにしてじいっと見つめてくるだけ。
そう、おれの中身はあずにゃんには知ってもらっていない。おれの中身を伝える時間は今までなかった。たった二回しか会っていない。一回目は最初だったし、二回目はあずにゃんがゴンロクの詫びと言って土下座してきただけだったし。
「こんなことをこんなところで言うのはなんスけど、あっしは清洲に来て半年とちょっとッス。嫌になることばっかりでしたけど、なんとかやってこれました。それは多分、あっしが清洲に来たばかりのとき、梓殿がいろいろと優しくしてくれたおかげかもしんないんス」
おれを見上げるあずにゃんの目はいつのまにかきょとんとしていた。
おれは握っていた拳を開くと、掌の汗を拭う代わりに半纏の裾をぎゅっと握った。
「お礼が言いたかったんスけど、全然お会いできなかったんで、ここでお礼を言わせてください」
「左様か」
「あっ。いやっ、や、やっぱり、お礼は、次の機会に」
「?」
と、首をかしげたあずにゃん。さっきの怒り心頭ぶりはすっかり失せている。
「次の、その、織田が今川に勝って帰ってきたとき、そのときお会いしてくれませんか。そのとき、お礼を」
すると、あずにゃんは視線をすうっと下げていってしまった。おれを見つめるのを止めて、考え事を始めてしまった。それはまさしく、恋の告白もしくはデートの約束の取り付けをどうやって断ろうか考えるときの仕草……。
や、や、やっぱり、出すぎた真似だったのか……。
おれなんかが出すぎた真似だったのか!
「いっ、いやっ、そのっ、今のは深い意味はなくて、そのあの――」
「不可思議なことが一つある」
「はいっ?」
「そなたは勝つ勝つと申しておるが、そなたが何もせんとも織田が勝ったら、それもそなたの言う勝つということなのだろう」
「は、はあ」
「さすれば、織田が勝ついくさ、そなたは寝ていてもよろしいということではないか」
「い、いや、そういうことではなくて――」
「それならばこうしよう。手柄を立てるのじゃ。せめてもの手柄を。そなたの名がわらわの耳に入ってくるならば、どんな手柄でも。そのとき初めてそなたの礼を聞こう」
「て、手柄ッスか……」
「そなたが活躍してくれたならば、それこそ世話焼きのわらわへの恩返しじゃないのか?」
「あ、は、はい」
すると、あずにゃんはにっこりと笑った。今日の曇りなき青空のようにして、今日の柔らかく注ぐ日差しのようにして。
そして、あずにゃんは右手を後頭部に添えた。ポニーテールを解くと、一挙、長い黒髪が肩に流れていく。とともにくるりと踵を返し、その小さな背中に淡い香りを颯爽として揺らした。
「わらわは言われた通り屋敷でゆっくりとしておりながら、そなたの功名を待つとする」
それだけを言い残し、あずにゃんはすたすたと去っていった。
おれは呆然としながらあずにゃんが見えなくなるまで、彼女の後ろ姿を目で追っていた。
待っている……。おれを、待っている……。
「おいおい。法螺吹きの牛ってのはあんたのことだろ」
と、野次馬はまだいたらしく、歩み寄ってきた町人の一人が気安く声をかけてくる。
「適当に法螺ぶっこいてんのはいいけどな、あず様に法螺を吹くなんてたいがいにしろよな。おい」
「法螺だと?」
おれは調子ぶっこいている町人を睨み飛ばし、唸り上げた。
「法螺かどうか、覚えとけ。おれの名前は簗田牛太郎。いくさの後には嫌となるほど聞くことになる男の名前だ」
「は?」
町人は失笑すると、周りの野次馬どもに首を振って見せながらおれから離れていき、周りの野次馬どももやれやれと言った具合で解散していく。
フン、笑っていられるのも今のうちだ。
手柄立ててやる。おれの帰りを待っている人のために、おれは手柄を立ててやる!




