清洲の野良牛、野良猿
「なんだぎゃ、そんなことかえ」
サルがあんまりにもしつこいので、おれの家がマタザに不法占拠されている事実を喋ってしまったのだが、サルは驚きを一つも見せずにそれだった。
「ほんで、牛殿は又左殿を厄介払いしたいわけだぎゃあな」
「あっしはただ単におまつさんが心配しているだろうからって、マタザさんがウチにいるって言いにいくだけッス」
「ほーん。で、牛殿は何をたくらんでいるんだぎゃ?」
「たくらんでいる? たくらんでなんかいないッスけど。藤吉郎殿じゃあるまいしね」
「ほーん」
にやにやと笑いながら、腰巾着のようにサルはくっついてくる。
この野郎……。
確かにおれはたくらんでいる。口にはしないがそこだけは認めてやろう。
だが、このサル野郎の不敵きわまりない顔ったら、人のたくらみにテメエのたくらみを乗っけてくる気が満々なのである。
「まっ、おりゃあが伝えてやるだぎゃ。又左殿が牛殿の家におるってにゃ。どうせおみゃあのことだからおまつ殿とは面識なんてねえんだぎゃあろ?」
「ありますよ。あるからもういいッスよ。付いてこないでくださいッス」
「そうかえ。しっかし、付いてこないでくれって言われてもにゃあ、おりゃあ、おまつ殿に用を思い出したぎゃ。なもんで、おみゃあと一緒の道を歩いているだけだぎゃ」
「はあ? 用って、んなものないでしょ。ねえ」
「あるだぎゃ。思い出したぎゃ」
「なんスか。言ってみてくださいよ」
「なんで言わなきゃなんねえんかえ? 牛殿には関係のにゃあことだぎゃ」
そう言うと、空に向かって口笛を吹き始めたサル。
チッ。本当に詐欺師だな。めちゃくちゃなトボけ方といい、変わり身の早さといい、どちらにせよこんな野郎とツルんでいたらロクなことがねえ。
そもそも、おれにこびりついてきて何をたくらんでやがる。おそらく、今度の今川との戦いについて何かに感づいているんだろう。
こういう詐欺師のことだ、感じ取れたものは、おれの余裕ぶりだけではなく、ここ最近の信長の行動、森三左衛門さんやゴンロククソ野郎などの重臣たちの素振りにもあったのだろう。
んで、おれからヒントを得ようとしているに違いねえ。
言ってたまるか、こいつにだけは。絶対にこのエテ公だけには桶狭間のことを言ってたまるか。
こんな奴に手柄を立てさせてたまるかってんだ。
と、そうこうするうち、マタザ不在の又左衛門邸へやって来た。
しかし、門前に向かわずに垣根沿いに直角に曲がってしまったサル。
何やってんだあいつ。
おれは立ち止まってサルの様子を眺めていたのだが、垣根越しに歩いていったサルはふいに立ち止まるとしゃがみ込み、その垣根に頭を突っ込んだ。
おれは無視してそのまま門に行こうかとも思ったが、サルのあまりの奇怪な行動が気になってしまい、
「何やってんスか」
と、声を掛けた。
すると、サルは一度垣根から顔を出してき、こちらに向きながら人差し指を唇の前に立てる。で、また再び垣根に顔を突っ込む。
むう……。
何かがあるんだろうか……。
ノゾキ部屋的な何かがあるんだろうか……。
好奇心とともにスケベ心を揺さぶられたおれは、居てもたってもいられなくなって、サルの脇にしゃがみ込み、サルと同じようにして垣根に頭を突っ込んだ。
垣根の向こうにあるのはマタザの家の庭。
立ち昇った太陽の日差しが黄や白の花びらに注がれて、誰もいない。
「な、なんスか。まさか、おにゃの子の――」
おれがどぎまぎしながら声をひそめると、サルはまた人差し指。
「しぃだぎゃ」
サルの眼に賢者の鋭さが光り、おれはごくりと生唾を飲み込む。垣根の向こうの庭に目をやり、おれは胸のとどろきを静めるようにして息をゆっくりと細く吐いていく。
なんだろう、この、サルとの同志的感覚。
この、ある一つの目的への共有。
ノゾキという反社会的浪漫行為の分かち合い。
大嫌いなサルと共にあるのは悔しいが、しかし、わかる、わかるぞ。サルもきっと同じに違いない。
ノゾキは一人より二人、つまり、二人より一人ではないのは、性的興奮よりも覚える悪戯心。我々の瞳を輝かせているのは、童心に返ったかのような爽やかな興奮なのである。
すると、庭先にまつにゃんが現れた。
むむっ。おれはロリコンの口じゃない。だがしかし、童心に返っているおれは、美少女をこっそり眺めているという甘酸っぱさを得たのである。
ええなあ。まつにゃん。ええなあ。
以前に一度お会いしたときは、ゴリラマタザの圧迫のせいでまつにゃんの美少女ぶりをしみじみと体感できなかったのだが、こうしてまじまじとノゾいてみると、ふむ、素晴らしい。淡い黄色の小袖は晴天の朝空に包まれて、その肩に伸びては流れる濡羽色の髪は柔らかな光に照って一つの香りを妄想させてくれる。青春の恋の香りを!
んで、庭先に現れたまつにゃんは、幼さ残る澄み渡った顔を朝空に向け、遠い目をしたまましばらくそこに突っ立っていた。
おれはそろりと横を向く。瞼を細め、にやにやと笑っているサル。このエロ猿め。だが、その気持ちわかる。
キモオタのおれや、チビハゲのサルなんかには、まつにゃんなんてのは最初から程遠い存在の美少女であって、さらにはクソマタザのものという叶えられない恋なのである。そんな恋をこうして遠くからひっそりと拝みノゾく行為。わかる。この切なさ狂おしさ、そして愛おしさ。
まつにゃんはいつのまにか合掌していて、何かぶつぶつと念仏だかお経だかを唱えていた。
ああ、マタザのことを思って祈っているんだろうか。多分そうだろう。健気なまつにゃん。清廉なまつにゃん。狂おしい。愛おしい。
それに比べてあのマタザときたら。馬鹿か、あいつは。ゴンロクは大嫌いだが、あいつの説教はもっともだ。拾阿弥の挑発なんざ我慢しとけばどうにかなったのかもしれねえのに、テメエのそのときの感情だけで戦国に舞い立つ美少女まつにゃんに苦しい思いをさせているわけだ。
男という一文字の風上にも置けない奴。あいつの男気なんてテメエのわがまま以上でも以下でもねえ。
「おまつはええだぎゃなあ」
と、隣のサルがひっそり呟く。
「容姿もそうだぎゃあけども、ああいう優しさってか、それでいて芯も強えところがあって」
すると、サルは、ハア、と、重々しいため息をついた。
「牛殿。おりゃあはな、昔っからおまつが好きだったんだがや。きゃつが五歳か六歳ぐれえのときから。こいつは将来えらい美人なおにゃの子になるだろうにゃって。ほんでも、おりゃあは幼女は好きじゃねえから、きゃつが大きくなったらって思って。それまでには出世しないかんって。ほんだら又左に取られちまいやがった」
「わかる。わかるッスよ、その気持ち」
「わかるかえ?」
「ええ、わかるッスよ。別におまつ殿に恋をしているわけじゃないんス。でも、あの人はね、あっしらに思い出させてくれるんスよね、むかーし、昔の、そう、あっしらがまだ子供だったときに好きだったおにゃの子、あのときの淡く切ない、それでいて明日が待ち遠しいあの頃を」
「そうだぎゃあなあ。うん。そうだぎゃ。近くて遠いんだぎゃあなあ」
「どうされたのですか?」
と、その声におれとサルは振り返ると、おれたちの前にはいつのまにやらまつにゃんが突っ立っていて、びっくりあわてて垣根から飛び出したおれとサル。
「にゃっ! これはおまつ殿っ! いんやっ、おりゃあたちは決して覗いていたわけじゃにゃあだぎゃっ」
垣根越しにサルは大きく手を振って、おれも額に汗を浮かばせながら大きくうんうんと頷く。
ふふ、と、蕾のほころびのように微笑み、風のように笑ったまつにゃん。
「残念ながら、赤子なら今しがたは寝ておりますの。一度泣くと止むまで大変なので、堪忍してくださいね」
そう言って微笑んだまま首をちょいっと傾げた。
むう。まつにゃん目当てで覗いていたというのに、おれたちの変態心にちっとも邪推を張り巡らさないまつにゃんってなんていい子なんだろう。
「あなた様はいつぞやの牛殿ですね」
「あっ、はいっ」
「藤吉郎さんと仲良しになられたんですね」
「あっ、はい、そうッス。フヒヒ」
「清洲の暮らしには馴れました?」
「フヒヒ。おかげ様で馴れましたッス」
すると、突如、ボスッ、と、横腹を叩かれた。なんだと思ったら、サルがえらい剣幕でおれを睨み上げてきている。
「なんスか」
「何をでれでれしてんだぎゃ」
「は?」
「おまつ殿にくせえ息かけてんじゃねえだぎゃ」
なんだ、この野郎、おれがまつにゃんとちょっと喋ったぐらいで苛ついてやがんのか。テメエの女でもねえのに、なんだ、この野郎。
「おみゃあ、おまつ殿に用件があんだぎゃあろ。さっさと済ませたらどうなんだぎゃ」
「ご用件? 牛殿が私などに?」
まつにゃんは首を傾げたが、おれはサルを睨む。サルもおれを睨む。バチバチと火花の立つ音が聞こえてきそうなぐらいに睨み合う。
この野郎――。テメーがそういう出方をするんならノゾキ同志は解消だ。寝返って、この野郎がまつにゃんにでれでれしていたことを寧々さんに告げ口してやる。
「ご用件とはなんです?」
「あっ、あの、マタザさんがうちにいるんス。あっしの家に」
「えっ?」
まつにゃんは硬直したが、おれはそんなのはよそにサルと睨み合い、さっきの腹パンチのお返しに左フック、と見せかけ、おれのフェイントにさっと身構えたサルの左脛をトゥーキック。
「にゃっ!」
と、顔をしかめながら飛び跳ねたサル。
おれはせせら笑いながら、
「さっきのお返しだ! ざまあみろ!」
キィーッとサル発狂。おれはダッシュで逃亡。マタザに歯向かう度胸はないが、チビのサルぐらいなら堂々とやれるんだい。
「待てだぎゃあっ!」
キーキー喚きながら追走してくるサル、さすがの猿だけあってすばしっこく、対するおれは呉牛の蔑称がお似合いの鈍足、追いついてきたサルは背中に飛びついてき、おれの首をアームロック、おれは走り際の捨て身の背負い投げ、サルの体を路上に叩きつけようとするも、喧嘩不慣れのおれはサルを背負ったまま路上にゴロゴロと転がってしまい、しかしおれのデブ体と地面とに挟まれ潰され、「ぎゃっ」っと呻いたサル、首から手が離れ、起き上がったおれは肩で息切り再び逃走の体勢、その足を掴んできたサル、右足をぐいっと引き抜かれ、前のめりになってバチンと倒れたおれ、
「この鈍牛!」
背中に乗っかってきたサル、くるりと反転したおれ、おれの首を両手で握ってきたサル、サルの首を両手で握ったおれ、お互いがお互い口端から泡でも吹かんばかりに耐えつつつも、
「あ、謝れだぎゃ――」
「そ、そっちこそ先に謝れ――」
目を血走らせ、掌には力を込め、絶対にこいつより先に謝ってたまるかと意地になっていたら、サルを腹の上に乗っけて転がっているおれの横に、ふいに人影が立った。
「そなたたちは何をやっとるんじゃっ!」
顔いっぱいに血液が溜まった状態の参った寸前の視線を声の主の足元にちらりと寄せてみると、赤い鼻緒の草履に足袋、若草色の袴、エメラルドグリーンの腰帯で留めているのは、薄紫色の小袖、長い黒髪を後頭部で結んだポニーテールのこぶりな顔の人は、
「衆目の面前ぞ! 見っともないと思わんのか!」
細い眉の尻を切り上げて、あずにゃん。




