陽気の発するところ金石もまた透る
「次にわしの前に現れるのもかなわず、その首が墓石の下になければ良いが」
先におれから顔を背けたのは山県だった。
秋風にはためく朱色の背中に、おれは反吐を浴びせかける。
「お前が望む次ってのはいくさ場なんだろう」
「好きに思え」
浜松城を去る。
あの野郎はおれと同じく浜松城の竣工祝いでやって来たのかもしれない。が、本音は城郭内部の諜報目的に決まっている。まして、あいつの言っていることからして、武田はてんてこ舞いのおれたちとやる気だ。
やってやろうじゃねえか。
山県クソ三郎。
次に会ったとき、その場所がテメーの墓場だ。
とっとと摂津を元の鞘に戻して態勢を立て直してやる。そのとき、おれとテメーの雌雄を決める決戦にしてやる。
が――。
現在、信長本隊は近江坂本に布陣しており、織田の危機は、清州、大垣、横山城と、進めば進むほどに、聞けば聞くほどに、摂津を元鞘にするだけでは済まされない事態だと判明した。
おれが軟禁されているあいだにも、信長包囲網が、ほぼ構築されていたのだ。
摂津中嶋に篠原右京進が上陸したというのは、あーやに聞いた。
浅井朝倉が比叡山に立て籠もっているというのも。
南近江で六角ソンビが一揆を招き起こしたというのも。
おれの知識では、それらは織田の力でもって、なんとかなるものだった。爆発した摂津の火薬庫さえ鎮火できれば、他の勢力などは蹴散らすだけのはずだった。
ところが、大垣で一泊を過ごしたとき、未知の情報に遭遇する。
伊勢長島で一向門徒が蜂起した。
願証寺、
という一向宗の寺が伊勢と尾張の境目にある。尾張美濃を流れてきた木曽川だったり、他、さまざまな川が流れこむ河口一帯を、この願証寺が牛耳っていた。やはり、石山のように、要塞化した寺町を造っている。
摂津の火薬庫が爆発したのと前後して、一向門徒の宗主である顕如が、全国の門徒衆に向けて「信長追討」の檄文をばら撒いた。南近江しかり、長島しかりで、蟻の大群が穴から湧いて出てきたみたいにして、我ら織田は一挙に槍の矛先を向けられたのだ。
六角ゾンビとつるんだ南近江の門徒どもは、サルやマリオが兵を出して所々を鎮圧していったらしいが、
長島に近いところにある尾張小木江城が長島の門徒どもに包囲されているらしく、さらに、そこの城主は信長の弟の彦七郎とかいう奴らしい。
彦七郎が従えているのは、たかだか手勢六百だという。
そこからほどなく近い伊勢桑名には、滝川彦右衛門が三千人の兵とともに詰めているのだが、これも門徒衆に取り囲まれてしまっている。
言わんこっちゃない……。
信長率いている織田の大軍――織田全軍の半数以上は、近江坂本に布陣している。比叡山に立て籠もっている浅井朝倉と対峙しなければならない。伊勢長島にきびすを返してしまえば、浅井朝倉勢が間違いなく比叡山を下ってくるわけで、再び京に侵入するのだ。つまり、尾張小木江と伊勢桑名は見殺しにする他ないのだ。
見殺しどころか、長島門徒衆が尾張になだれ込んできてしまったら。
絶望的である。
摂津をどうにかしたところで、浅井朝倉勢と長島門徒衆をどうにかしなければ、織田は崩壊だ。
横山城を立つ。クリツナと鉢巻きに足を駆けさせて坂本に向かう。生きた心地がしない。
こんなはずではないと思う。織田信長って野郎がここで終わるはずがない。歴史が証明しているはずなのだ。
けれども、その、歴史を証明するものとやらは、おれが今、クリツナの背中に揺れる時代にはどこにもない。
こんなとき、いつも怖くなる。
歴史がどこかで変わってしまっているのではないかと。
いや。
歴史通りに事が運べば、おれはそれでいいのだろうか。むしろ、おれが歴史を変えてやるぐらいの――。
だいたい、サンザが本当に死んだとあらば、サンザは歴史通りに死んだってわけか? もしくは歴史通りじゃなかったってのか? 誰かが生きるも死ぬも歴史通りかそうじゃないかなのか?
違うだろう。
山県を殺すのはおれだ。
歴史もへったくれもねえ。おれはその日まで貫かなければならん。
どうにもならなそうな摂津をどうにかできても、結局はすべてがどうにもならないかもしれないが、生きても死んでも滅びても、この息があるまでは貫かなければならん。
近頃はそればかり。
バカの一つ覚えみたいに、一に貫く、二に貫くで、そればかりなのかもしれないが。
今の俺には気概ぐらいしかないのも、また、事実だった。
信長本陣は宇佐山城に敷かれているそうだったが、甲冑姿のおれは、ひとまずは比叡山麓下の坂本に布陣している、沓掛勢の陣を訪ねた。
蟄居処分が解けて舞い戻ってきたというのに、吉田さゆりんはともかく、太郎や理助、ハンザでさえ、歓迎ムードのひとかけらも見せない。
もちろん、おれだって、そんなものを期待していない。
比叡山の包囲が一ヶ月弱に渡っているため、沓掛勢の陣城は掘っ建て小屋に毛が生えた、程度のよいものであったが、
「お久しぶりです」
と、太郎が言ったきり、掻きならした土の上にむしろを敷いただけの土間に並ぶ面々は、飢えた犬畜生のような眼球を火皿のゆらめきに光らせるだけで、口をつかなかった。
無言は沈むようでいて、張り詰めてもいる。
我ら織田の悲惨な状況を、言わずとも物語っていた。理介でさえ、端正でこにくらしい顔立ちに陰を忍ばせている。雑言のひとつも吐かない。
「聞きたいことは山ほどあるが」
と、おれは腕を組み、目をつむっていた。
自分から口を開いておきながら、しばらくは鈴虫の音を聞いていた。
おれが二の句を継がないでいても、生意気な若僧どもに悪態がないのは、おれが正当化されているためだろう。おれは蟄居処分を食らって、いくさ場から離れていた身である。
だが、蟄居の理由は信長に注進したためだ。
こういうことになるから、と。
おれは瞼を開いていった。掘っ立て小屋の心もとない梁を、力なく眺める。火の照明の届き行かない暗部に見入りながら、ぼんやりと訊ねた。
「森三左衛門殿は討死したのか」
りりり、と、鈴虫が鳴いていた。
太郎や理介は地面ばかりに目を凝らし、微動だにしない。ハンザも彼らの仕草をうかがうばかり。
眼光を寄越してきたのは、吉田さゆりん早之介だった。
「左様でございます」
また、しばらく、言葉は消えた。
粗末な板壁から、秋の夜長の隙間風が入り込んでくる。
灯火は大きくゆらめき、皆の影もまたゆらめく。
太郎たちが瞳にたずさえる迷いと、口許を結ぶ何かしらへの憤りと、ひたすらな沈鬱は、サンザの死をおれに知らしめるには十分だったかもしれない。
それでも、納得がいかないのはどうしてだったのか。
「お前らには申し訳ないが、おれは陣を離れ、摂津に向かうつもりだ」
初めて、若僧どもは、視線の先をおれに据えてきた。
「おれがここにいたところで何もならん。だったら、摂津をどうにかする」
「おやかた様にお許しを得られるのでしょうか」
と、太郎の声は、心なしか、細い。
「許しを得られなかったら、許されるまで懇願するだけだ」
「おやかた様は――」
太郎が言う。
信長はかつてない状況にある。機嫌云々の次元ではない。意にそぐわぬ発言をすれば、斬って殺しにかかってきても不思議ではない。甲高い声で叫んでいるのでもない、癇癪を起こして八つ当たりするのでもない、ただただ、眼光が研ぎ澄まされた刃物となっている。
姉川決戦までの過程でも見受けられた信長になっているが、あのときの比ではない。
「だったら、おやかた様がおれを斬り殺せると思うか。斬り殺してみろ。どうなると思う」
「父上――」
太郎の瞳に弱気が差した。もしくは、悲愴だった。
織田のこれらの惨状を避けるために、おれは注進したのだった。これについて、ほとんどの武将が知っているはずだった。そんなおれを信長は殺せるだろうか。殺してしまったらどうなるだろうか。
いくら、信長怖さで織田家臣団をやっているおれたちであっても、疑心暗鬼にかかるだろう。そうなれば、包囲網で潰されるよりも先に、内部から破滅だ。
そのぐらい、信長はわかっている。いくらクソとは言え、親分のはずなのだ。
「しかし、オヤジ殿。摂津はもはや手に負える状況ではございませんぞ」
「それは誰だって同じだ」
おれがきっかりと見据えると、理介は口をつぐんだ。
「ここも、京も、長島も。手に負えなくなっているのはどこだって同じだろう」
太郎と理介はうんともすんとも応えず、視線の先を伏せるだけだった。
もしかしたら、若僧どもは絶望し始めているのかもしれなかった。
「何を絶望していやがる」
すると、負けず嫌いの太郎や理介の目には、再び血肉に飢えたぎらつきが蘇ったが――。
「お前ら、それで顔向けできるのか。坂井右近将監の倅に。一緒に長良川で鍛錬していた坂井久蔵に」
若僧どもは、はっとして表情を開いた。
「お、覚えていたのですか。父上は。久蔵殿の名を」
「当たり前だろうが」
太郎は下唇を噛んだ。理介は鼻の穴をふくらませ、眉間に皺を寄せた。
隙間風はおさまったが、火はまだ揺れている。背中の丸まった影も、また揺れる。
「お前らは忘れていたのか? 思い出すのは忘れているからだぞ」
若僧どもからはなんら返答はなかった。
おれはゆっくりと膝を立て、腰を上げた。
「太郎。悪いが、早之介を連れて行くからな」
「かしこまりました」
口ごたえすらなかった。
うなだれているような若僧どもの前を横切って、出入り口のむしろに手をやる。
と。
「殿。申し上げたき所存――」
ハンザが、地べたに両の拳をつけて、顔を伏せていた。
「なんだ」
「拙者が父、仁兵衛は……、天満の陣にて我ら簗田勢を夜闇に紛れてぬけ出し、石山に裏切りました。……申し訳ございませんっ!」
おれは革手でむしろを上げたまま、肩を震わせているハンザを見つめた。
ハンザの親父さんは一向門徒だ。
「どうして、お前は親父さんが石山に行ったってわかる」
「見当がつきます――」
「お前も誘われたんだろう。お前だって門徒だろう。誘わないはずがない」
ハンザは口を引き絞り、地面を見据えるままに、何も応えない。
鈴虫の音色もどこか遠くのほうからだった。風にまぎれて消えかかるような、それでいて、風に乗せて運ばれているような。
「だったら、それでいい。お前が残ってくれたんなら、それでいい。お前だって悩んだんだろうから」
「申し訳ございませんっ!」
おれにじっと視線をこしらえてくるのはさゆりんだけだった。
おれは陣城を立ち去った。
太郎の寝床はさきほどの広めの陣城だが、おれの寝床はいつものような掘っ建て小屋だ。急ごしらえなので仕方ない。
明日、宇佐山城に行くつもりでいる。
もっとも、長谷川藤五郎の竹か、堀久太郎の菊に取り次いでもらってから。
貴様に何ができる、だなんて言われるかもしれんが。
何ができるじゃない。何をすべきかだ。
浜松からの長旅、クリツナの背中に揺られ通しだった。体のふしぶしが蛇にでも噛みつかれているみたいに痛い。
だが、おれはむしろの上にあぐらをかいたまま、火皿の灯火を見つめるだけだった。
頭に縛り止めている烏帽子はおろか、甲冑さえも外す気になれなかった。
億劫だったのもあるし、外してしまうと、なぜか、おれをおれとしてつむいでいる糸のようなものが、切れてしまうような怖さがあった。昨日まではこれを着ていなかったというのに、ひとたび身につけてしまったら、おれの体は鎧の中から離れるのを躊躇している。
虫の音を乗せた風。
「殿」
と、吉田さゆりん早之介だった。応答すると、むしろをかき分けて掘っ立て小屋に踏み入ってきた。
さゆりんは兜を外している。いくさ場にあって髷も束ねていない。
おれの向かいに腰を下ろしてきた彼女は、おれの胸中を覗き込むような冷えた目でありながら、甲冑に流れた髪先が、わずかながらの灯火を受けて、ほのかに赤く照っている。
素の声を小さく響かせてくる。
「摂津に調略をかけるんなら、あやを呼んでほしいんやけど」
「わかった」
と、おれはひとまとめにされている荷物の中から、紙と筆を取り出してくる。
硯に墨を伸ばす。
「なんや。ずいぶんと素直やないか」
無視した。
「誰に文を出すんや。奥方か。なんて説明するつもりなんや」
「シロジロが寄越せって言っている。そう説明する。あーやだったら一人でも京に来れるだろうが、そんな真似をさせると怪しいから、シロジロに迎えに行かせる」
「さよか」
背を向けたおれは、荷物の入った木箱の上に紙をしいた。筆先を入れていった。
用件は済んだだろうに、さゆりんは腰を上げようとしない。
「上総介の許しをどないして得るつもりや」
「蟄居処分が解かれたのは、おれが信長に直訴の手紙を送ったからだ」
「摂津はどないするつもりなんや」
「これから考える」
「そんなん、上総介に問いつめられるに決まっとるやんか」
無視した。
右手は動くままだった。筆先が進んでいくままだった。
おれの手元はちいさな火のゆらめきのままにあった。
さゆりんは黙っている。
文面をしたため、息を吹いて墨を乾かしていく。ものの、ひとしきり乾いたと思えば、最後は溜め息が滑り出てきた。
紙を折りたためばすべては済む。けれども。
右手も左手も垂れ下がったままに動かないでいる。
おれは、見るのでもなく、読むのでもなく、ただただ、おれの文字を眺めていた。
「さゆりん」
と、唇だけが動いた。
「蟄居が解かれたあと、おれはシロジロのカネを返すために浜松に行ったんだ」
「三河守になんか言われたんか」
「武田の山県三郎兵衛に会った――」
竣工祝いを名目にして浜松城の諜報にやって来たのだろうと教えてやった。
「あの野郎……」
けれども――。
おれが追いすがるようにして持ち上げた、その視線の先に見え隠れするのは、山県の憎たらしいツラじゃなかった。秋空のもとにはためく、あの野郎の赤々とした野心ではなかった。
武田信玄のハゲヅラでもない、湯村山の温泉でもない、かといって、伊那谷の雪景色でもない。
見えるのは、なぜか、サンザだった、
おれの肩に手を置いては、分厚い唇を緩ませては、何事かをおれに語りかけてくる森三左衛門だった。
おれはついに実感した。
さゆりんのせいで。
こいつがさっさと立ち去らずにおれを案じてくるから、やはり、死んでしまったのだと実感した。
それは、悲しさでもない。苦しさでもない。当てのない遠さだった。身の震えるような絶望的な遠さだった。
過去だった――。
おれをおれとしてつむいでいた糸がほつれていく。おれの瞼からは、まるで、別れ行くサンザのようにして、涙が一粒、こぼれていく。
頬をつたっていく。
「おれは――」
と、さゆりんには背中を向けたまま、漏れ出そうな嗚咽を飲み込んだ。
「やれるとは思わなかった。いつも、いつも、腰が引けていた。そのたびに、おれはサンザに教えてもらった気がする。不安だったり、おっかなくなったとき、いつも、サンザに叱咤されてきた」
ゆっくりとさゆりんに振り返っていくと、彼女はじっとして見つめてきていた。目許をつぼめながら、じっと。何も言わずに、じっと。
「さゆりん」
おれが呼びかければ、さゆりんは唇を唇で噛んだ。
「おれは、おれは、今でもおれは何も果たしていない。サンザに報いるような真似は何一つ果たしていない」
「そんなことない」
「何も恩返しできねえまま、サンザは行っちまった」
「そんなことないて」
おれは瞼をぬぐいながら振り戻り、手紙を折り畳もうとして、手を伸ばしたが。
指先がこの上なく震えていた。
悔しさから、木箱に握り拳を叩き置いた。自分でぶっ叩いて、自分で痛くなった。拳から伝わってくるのは、惨めったらしいまでの痛みだった。
おれは呪いの言葉のようにして吐き出すしかなかった。
「もう、おれはやるしかねえんだ」
何があっても――。
すると。
「あんまり気張らんといて」
篭手袖にくるまれた腕が背後から回ってきた。さゆりんが、おれの頭を甲冑の胸のうちに抱えてきた。
「気持ちはわかるけど、気張らんといてや」
烏帽子越しに頬ずりしてくる。さゆりんの呼吸がつたわってくる。溶けるようにして、おれの体から力が抜けていく。
「あんたが変に気張っているところ、森三左もきっと笑てるよ」
おれは、がっくりと、あるいはすがりつくようにして、さゆりんの腕にうずくまった。
湖の西岸を大きく囲う山々のひとつ。宇佐山は琵琶湖のほとりを目前にしている
信長の指令を受けてサンザが築いた城郭だ。
浅井朝倉の大軍は牙を剥いて京を目指してきた。サンザはわずかな手勢で迎え撃った。
サンザは死んでしまったが、宇佐山は落ちなかった。つまり、宇佐山城に籠もっていれば、サンザは討ち果たされなかった。
しかし、城に籠もっているばかりでは、浅井朝倉の上洛を阻止できない。死塁となってでも浅井朝倉を留め置かなければならない。
決死の覚悟だったはずだ。
「くれぐれも、おやかた様の意に反するような発言はお控えなさってください」
と、菊は言った。
「答えに窮する問いをさずかっても、ただひたすら詫びを入れるのです」
木々が刈り取られ、縄張りが巡る宇佐山の山頂、本丸館は織田永楽銭の黄旗で埋め尽くされている。
菊の案内で広間に導かれる。
真ん中に腰を据えて目を伏せていると、信長が足音をがなり立ててやって来た。
おれが頭を伏しているあいだにも、上座にどっかりと腰を下ろす。
「蟄居の処分、解いていただき、ありがたき所存でございます」
「何用だ!」
と、出し抜けに放った甲高い声は、広間の隅々までに響いたばかりか、戸の開け放たれた庭先にまで飛んでいくようだった。
信長が人をぞんざいに扱ってくるのは今に始まったことでもないが、視線の先を伏せながら改めて思う。織田の力が膨らめば膨らむほど、親分からは余裕が消えてなくなっていくと。
もちろん、ついさきごろまでは畿内を支配しており、束の間、この世の春を謳歌していた。しかし、そのころでさえ、今になって振り返れば、信長には余裕がなかった。
サルと寧々さんの結婚を頼みに行ったとき――、おれとサルを引き連れて、城下の長屋に繰り出したときのような信長は、とんと見られなくなってしまったような。
おれは下げていた頭をさらに下げ、書状を送らせてもらったとおりに、と、口を開いた。
「摂津の調略にあたらせて頂きたく」
「何ができる、貴様に」
唸り捨てた声は、予想通りだった。
申し出てきた手下に、その目的を問いただすのは当然だ。ただ、信長のそれは卑屈さが拭いきれていなかった。四天王寺でおれの注進を撥ねつけてしまったために、こんな事態を招いてしまった。それを信長とて自覚しているのだろう。
けれども、信長はおいそれと認めたくはない。織田信長とて人の子だ。こいつからすれば、おれを肯定してしまえば、自分自身の否定になりかねない。なので、おれの意見なんか二つ返事にしたくないのだ。
おれには、そんな気持ちのくだらないところがよくわかる。失態ばかりを犯し、太郎やさゆりんなどにさんざん責め立てられてきたおれにはよくわかる。
「摂津を再び織田の優勢のもとに」
「だから、何をやるつもりだ!」
おれは顔を伏せるままに瞳をぐっと持ち上げ、瞼の裏側からでも、信長の様子を見てやろうとした。が、信長の履いている脛当てしか覗けなかった。
「摂津池田をもう一度」
「馬鹿の一つ覚えか」
と、信長は鼻を鳴らし、せせら笑った。合否もなくて、ただ嘲るだけとは信長らしくもない。
よっぽどだった。
「姉川のいくさより岐阜に帰陣したとき――」
おれは床に付けている革手袋の指先を、板床を握るようにして力を込めていった。
「おやかた様のご厚意に甘え、自分自身で摂津をどうにかする、と、姉川の陣で言っておきながらも、あっしは迷っていました。そのとき、森三左衛門殿に申し渡されました。大事になったら、牛太郎なりに始末をつけろと」
すると、しばらく、信長は黙った。次に口を開いたときには、ひとたび冷静になったかのようでもあった。
「つけられなければ、いかがする」
「つけられるかつけられないかではなく、つける所存でございます」
すると、
「答えろっ!」
再び吼えた。おれが顔を少々持ち上げてみると、信長は両の手を固く握り締めており、それを袴の上で震わせていた。
おれは怖じ気づいていく体をなだめるようにして、息をゆっくりと細長くついた。
そして、息を吸い込んだ。
「陽気の発するところ金石もまた透る。精神一到何事か成らざらん」
がばっ、と、信長は腰を上げた。
おれは目を伏せていた。
おもむろに歩み寄ってきた脛当てがおれの眼前に止まると、おれは烏帽子ごと掴み上げられる。信長が剥き出した眼球をおれの鼻先に寄越してくる。血走った白目の中に、怒りのままに押し広げている瞳孔を、おれに突きつけてくる。
「貴様――」
大地が呻いたような声だった。
「蟄居では足らぬかあ」
「死んだら……、陽気は発せられません」
途端。
右拳でぶん殴られた。
が、それだけだった。
「好きにしろ!」
信長は甲冑を鳴らしながら去っていき、戸惑っていた小姓たちも、思い出したようにしてあわてふためき、信長のあとを追っていった。
頬をさすりながら立ち上がる。と、庭先から菊が、月代に日差しを照り返しながら眺めてきていた。おれと目が合うと、長い睫毛を伏せながら、あからさまな溜め息をつく。
「命がいくらあっても足りません」
「そんなことはない」
庭先に下りた。
どこからか、ひとひらの真っ赤な楓の葉が降ってくる。
「おやかた様はおれを知っている。おれの首を撥ねることなんてしない」
再度の溜め息の菊を尻目に、おれは本丸館をあとにした。
宇佐山の眼下には湖畔が広がる。高くまで抜けていくような秋空とともに、おれたちの喧騒など構いもしない青が、繭に包まれるようにして、霞み行くまで続いている。
日差しはうららかに。
山々は、赤や黄に季節の終わりだった。




