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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第八章 九死旅程
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不倶戴天

 おれは呆然として床の間の掛け軸を眺めた。

 サンザがくれたものだ。

 おれが梓殿と結婚するとき、ゴンロクに迎え役がどうのこうのと難癖つけられていたとき――。

 あいりんが言っていた。

「おまつさんやおねねさんもおっしゃってました。森三左衛門様がお討ち死に果てた訃報は、森様のお屋敷にもお届けされたそうでございます」

「そうか……」

 何も、考えられん。

 蝉の鳴き声もすっかりなくなっている。百日紅の花は落ちた。

 開け放たれた広間に滑りこんでくる風は、すっかり秋の柔らかみである。

 もうすっかり、夏は終わった。

 何も、考えられん。

 おれはただだた掛け軸を見つめることしかできん。

 そして……。

 在りし日のサンザとの記憶が蘇ってくる。

 あの人の記憶が広野を走るかのごとく、走ってきたかのごとく、走っていくかのごとくに駆け巡る。

 死んでいるとは思えん。

 あの森三左衛門が死ぬはずがない。

 だって、ここにいるじゃないか。




 ――陽気発所金石亦透 精神一到何事不成




 おれは何をするにしても上の空であった。

 メシを食うにしても、金判銀判を数えるにしても、縁側に腰掛けてクリツナや鉢巻きの様子を眺めるにしても、ありとあらゆる実感が湧かなかった。

 おれ自身が生きているのかどうかすらも怪しくなった。

 季節の過ぎゆくままに草花の色は褪せていっている。空の色は澄んできている。雲は煙のように細く薄くなっていく。

 ここに座るおれは、何を見ているのやら、わからなくなっていく。

 おかつやあーやが庭を掃いているのだが、クリツナが寝転がっていて邪魔だから、二人は笑いながらクリツナをほうきで小突く。クリツナはでかい体をごろりと返し、二人をからかって尻尾を振るだけ。

「栗之介さん。栗綱をどうにかしてくださいな」

 おかつが言うと、草むしりをしていた鉢巻きが腰を上げ、クリツナに呼びかける。クリツナはしばらく尻尾を振っているだけで相手にしなかったが、

「こらっ!」

 鉢巻きが声を荒げると、クリツナは大儀そうにして四つ脚で起き上がる。のそのそと馬屋に引っ込んでいく。

「でも、栗綱はお行儀のいいことにオシッコもボロも庭ではしませんのね」

 おかつがそう言うと、あーやもにこにこと笑いながらうなずく。

 おれは――。

 縁側に座って何を見ているのか。何を聞いているのか。何を感じているのか。

「亭主殿」

 梓殿がやって来た。お貞とあいりんも一緒であった。

「亭主殿から頂戴した綺麗な反物、あいりの打ち掛けにしてやったのじゃ」

「お若々しいあいり様に水色菖蒲がとてもお似合いでございます」

「わらわはこういう色は似合わんから」

「私なんて、とんでもございません。奥方様はなんでもお似合いでございます。この紅白の梅の散らしなど、奥方様にぴったりです」

「わらわは贅沢なものがすでにあるゆえ。しかし、まあ、太郎に早う見てもらいたいものじゃ」

 お腹の大きなあいりんの装いに、おかつとあーやも縁側に駆け寄ってくる。あいりんに着物を触らせてもらいながら、羨ましい、自分もこんなものが着てみたい、旦那様買ってくださいな、などという冗談まで出て、女どもは秋のそよ風に髪先を揺らしている。

 おれは上の空であった。

 むしろ、彼女たちの仲睦まじい様子は、こんなに近くにありながら、遠く離れた世界の出来事かのようであった。

 日常とはいったいなんなのか。

 おれは何も実感できない。

 ただ――。

 風がどこからともなく流れてきては庭を過ぎていく。打ち掛けの裾を揺らして裏地を見せる。

 誰かの声がするような。

 何かが聞こえてきそうに。

 それは日常であって、けれども日常とは言えない。

 思い出すは忘れているからか。忘れていなければ思い出しもしないものなのか。

 吉乃さんのような風が吹いている。




「あーや。悪いが、もう一度、今、洛中や摂津がどうなっているか調べてきてくれないか。いや、京や摂津まで行かなくたっていい。岐阜にだって確かな報せが入ってきているはずなんだ。昼間はおれに使い走らされるっていう格好で、探ってきてほしい」

「かしこまりました」

 蟄居処分を食らっているおれだ。何をしてよいのだかわからん。それにおれごときが手に負える事態とも思えん。

 だが、落ち着かなかった。

 簗田牛太郎はこんなところで何をやっているんだろうか。

 おれ自身はおれのものだ。おれだけのものであって、誰のものでもない。

 でも、絶対にそう言い切れないのがどこかしらにあるのは、おれのこのくだらねえ名前が。

「牛太郎とはどうだ。そちらのほうが呼びやすい」

 おれが文字通りに路頭に迷っていたときに、情けねえおれの頭をぶん殴り、背中を押してくれるのは、いつも森三左衛門だった。

 敦賀のときも。

 姉川が終わったあとも。

「お主のせいで大事になってしまったら、お主がお主なりに始末をつけよ。敦賀や、姉川のときのように。もしくは腹でもかっさばいてな」

 戦国武将の簗田牛太郎って野郎は、サンザの出来の悪い弟子か子供みてえなもんだった。

 どうしようもねえおれの行く手は、いつもサンザが導いてくれていた。

 おれが今こうしてしられるのは。

 あーやが情勢を伝えにやって来る。

「おやかた様は摂津天満の陣を引き払い、上洛されたようです。殿軍を柴田様や若様、和田伊賀守様がお務めされたようですが、無事に京に退却をされたようです」

 おれは思わず天井を仰いだ。またぞろ殿軍なんかを。

「おやかた様は上洛後すぐに山科に軍勢を進めました。浅井朝倉勢は山科から退き、洛中は一応ながら混乱を収拾できたようですが、浅井朝倉勢はそのまま比叡山に引きこもっているようです。また、南近江では六角様が蜂起し、江南の一向門徒衆とともに各地の城に押し寄せています。織田勢が引き払った摂津には阿波の篠原右京進様が二万の軍勢を率いて上陸し、上洛の機をうかがっている次第だと」

 まるでおれは浦島太郎だった。

 織田勢は嘘のような劣勢に陥っている。

 岐阜ではまったく実感がない。しかし、畿内各所でさんざんな目にあっている織田勢の様相が手に取るようにして思い浮かべられる。汗みずくになって駆け回っている太郎やハンザ、理介、沓掛勢の姿がありありと感ぜられる。

 信長本陣で飛び交っている軍議の叫び声が聞こえてくるようである。

 クソの信長がブチ切れているのがわかる。

 すると、おれは縁側で悠々とあぐらを組みながらも、着物の裾を握りしめずにはいられない。

 おれはここに座っていても日常を実感できん。しかし、遠く織田勢の呼吸なら見ずとも聞かずとも実感できてしまう。

 サンザは言ったのだった。

 貫け、己を。

 あの人が死んだとまったく思えないのは、おれがいくさ場にないのもさることながら、あの日あのときのたくさんの言葉が今でもおれの耳に残っているからかもしれない。

 かといって。

 おれに何ができるのか。

 サンザは今、おれに何を教えてくれるのか。

 おれは縁側に座って秋の風情の庭を見据える。この背中には、広間の掛け軸が張り付く。

 もしも、サンザが本当に討ち死に果てたのであれば。

 浅井朝倉勢の前に多勢に無勢だったのかもしれず、サンザは京に入らせまいとして立ち向かい、そして、自らに言い聞かせたかもしれない。

 おれは広間に突っ立った。

 掛け軸を睨みつける。

 太郎が言っていた。

「太陽の光が金や石を貫くように、精神を一つにすれば何事も成し遂げられる、という意です」

 おれに何ができるのか。

 いや、何ができるかじゃない。何をするべきかじゃないだろうか。

 おれは簗田左衛門尉牛太郎として、何をするべきかなのだ。




「忘れたか。陽気の発するところ金石もよく透おす。精神一到何事か成らざらんのだ」




 おれはクソの信長宛てに手紙を書いた。

 釈明したところであの野郎が――、今、当然ながらてんてこ舞いになってブチ切れているであろうあの野郎が了承するとは思えない。

 摂津をどうにかするにおいておれの必要性を書き連ねたところで、あのバカはますます怒り狂うだけだ。

 なんて書いたらよいものか悩んだ挙げ句、ただ、一言、再び摂津の調略に当たらせて頂きたく候とした。

 あいりんに渡し、その手でおまつに渡してもらい、信長本陣にいるであろう親友のマタザに届けてもらう。

 今、おれがすべきことは摂津をどうにかすることだ。

 大事になったら始末をつけろ、と、サンザも言っていたのだった。

 おれはこんなところで腐っている簗田左衛門尉じゃねえ。いくさ場でもたいして役に立ちやしねえ。調略だって手に負えそうにないかもしれねえ。

 でも、摂津池田をどうにかしちまったのはおれだ。

 そして、あのときだって、おれはやれそうにもないと思いつつ、岩にしがみつくようにして成し遂げたんだ。

 もし、クソの信長が軟禁から解放してくれなくても、何度も何度も手紙を送りつけてやる。ぶん殴られたって、蹴っ飛ばされたって、死ぬまであの野郎の足にしがみついてやる。




 三日後、岐阜城から使いがやって来た。おれの蟄居処分を解く触れが信長から届いたようで、馬廻衆もおれの屋敷の門前から立ち去っていった。

 謹慎解除としか聞いていない。

 どうしろこうしろと指図されていない。

 クソ親分は、おれなどに構っていられないのか、もしくは猫の手も借りたいほどなのか。おそらく前者だろう。

「亭主殿、行くのか?」

 おれはうなずく。

 梓殿はそれきり余計な問答を作らなかった。

 どこに行くのか、何をしに行くのかと訊ねてこなかった。不安げな顔でいたのもこれきりであった。

 むしろ、

「精一杯に励むのじゃ」

 目許から真っ直ぐにおれを見つめ、おれの背中を後押しした。

 梓殿はちかごろのおれの気配からしてわかっていたのだろう。魂が抜かれたような空っぽのおれを間近にして理解してくれたのだろう。

 いつものように、おれの身を案じるようないたいけな風情ではなかった。もっとも、背中を後押ししてくれるというのも、いたいけに違いない。

「あいりん。元気な赤ちゃんを産んでくれ。それで、あいりんも元気でいてくれよな」

 逆にあいりんのほうがしおれていた。

「くれぐれもご無理はなされないよう」

「ありがとう」

 おれは一か月ぐらいぶりにクリツナにまたがる。

 岐阜を立った。

 その日、稲葉山は濡れていた。緑薄まった季節の気配は雨雲の下にくすんでいた。収穫後の禿げた田んぼにはささめくような雨音ばかりが広がっており、誰かの悲しみのようにして静かだった。

 まだ、何もかもの実感は湧かない。

 何が待ち受けているのか知る由もない。

 しかし、そこはおれが行かなければならない場所なのだ。

 ――。

 と、その前に、おれは遠江に向かう。今のうちにカネを返済しておかなければ、次にデブの三河に会おうとなるといつになるかわからない。

 はやる気持ちを抑えて木曽川を渡る。

 浜松城、であった。

 遠江の地に入る前、おれは先んじて岡崎城に立ち寄っていた。織田家中の同輩だったら押しかけても平気の平左の簗田牛太郎だが、他大名のもとにアポなしで来訪するのはさすがにためらった。

 浜松にやって来ると、おれを出迎えたのは酒井小五郎というデブ三河の重臣である。

「この城は今川方があったときは曳馬ひくま城という名でありましたが――」

 こじんまりとした体格ながらも、顔だけは肉厚に大きいこの酒井小五郎は、左衛門尉を自称している。酒井左衛門尉と呼ぶべきだが、おれは公称左衛門尉である。

「しかし、馬を引くというのはいくさに敗れるたとえゆえに縁起でもないとし、浜松とした町があるため、城の名もそれに改めた次第であります」

 自称左衛門尉の酒井小五郎によれば、浜松の東には天竜川、西には浜名湖、南には遠州灘と、水に恵まれつつ水害にも悩まされる地域ながら、

「信玄入道の野心から身を防ぐためには」

 天然の要塞だという。

「おやかた様は天竜川を治水し、新田開発にも取り組むお考えであります」

「なるほど」

 拡張された真新しい曲輪を巡りながら、本丸館に導かれていく。

「今川義元公亡きあと」

 酒井は言う。

「我ら徳川と武田は、駿河遠江の分割について密約を交わしておりましたが、武田の駿府侵攻の折り、信玄入道は密約を無視し、遠江と駿河の国境である大井川を越えて参り、その地を占有するという暴挙に出ました」

 以来、徳川と武田の関係は冷え切っており、デブ三河も近い将来を憂慮して本拠地を岡崎から浜松に移したそうだった。

「警戒すべきは、一向門徒の頭目である顕如と信玄入道の関わりが近い点です」

 顕如が娶っている奥さんは、武田信玄の奥さんの妹らしいのである。

 石山本願寺が信長に歯向かった話は当然ながら徳川方にも入ってきている。顕如が武田信玄に対織田の共闘を持ちかけた場合、間違いなくこの遠江を通過するのだった。

 信長包囲網――。

 警戒すべきも何も、そうなるだろう。

 今のところ、おれには織田がてんてこ舞いになっているという実感は湧いていない。しかし、休む暇もない殺し合いの日々が近いうちに来るであろうことが、鳥肌がじわじわと立ってくるように感ぜられる。

 あのとき、信長がおれの話に耳を傾けていれば。

「わざわざ簗田殿が直に来られるとは!」

 大広間の上座で待ち構えていたデブ三河であったが、おれがやって来るなり体裁もどこ吹く風で、上座から滑り下りてき、ぼてった頬を揺らしながらおれの手を握りしめてくる。

「この忙しい最中にまったく面目ない」

「いやいや、あっしはつい今しがたまで岐阜で謹慎を食らっておりまして、それも解けたので、ついでと言ってはなんですが、これを機会に」

「謹慎?」

 おれは人払いしてもらう。大広間に残ったのはデブ三河と酒井だけ。天王寺の陣で起こったことをありのままに話す。

「左様でございますか。わしからするとなんとも言いにくいが、それは災難であった」

 実のところ、デブ三河は出陣間近だった。信長に援軍を要請されているそうだった。

「二千の兵とともに近江坂本に」

 と、酒井が言う。

 デブ三河が繰り抜いて出てきそうな目玉をおれにちんまりと据えてくる。

「なんでも、織田九郎殿と森三左殿は浅井朝倉の前に討ち死にされたそうな。浅井朝倉は比叡山に立て籠もっていると」

「まあ」

 おれは視線の先がつい落ちる。サンザの死は、岐阜の屋敷で聞いていただけのおれからするとどうにも信じられない話だった。それがここでも聞けてしまうとなると、否応にも胸に突き刺さってくる。

「まあ、あっしは謹慎処分の真っ最中だったので、実のところ詳しいことはわからないのです。それはそうと」

 シロジロが持ち逃げした二百貫文を返済に持ってきたと明かした。

「なっ?」

 デブはぎょろ目を見開いて驚く。

 金銀の入った桐箱をデブ三河の膝に差し出す。デブは蓋を開けて中身を確かめたあと、これはいったいどうしたのかと訊ねてくる。

「自領沓掛城の収益から」

「いやいや! こんなもの受け取れませぬ! なにせ、わしは中島四郎次郎なる男など知らぬ存ぜぬですわい!」

 そう騒ぎ立てながら桐箱をおれに押し出してくる。

「いやいや、そういうわけにもいきません」

 おれは桐箱をデブの膝に押し出す。

「いやいや」

「いやいや」

 鏡餅みたいなデブと、水牛みたいなデブとで、いやいやの押し出しを何度か繰り返す。デブ三河が強情を張ってなかなか受け取らないので、おれは詭弁を垂らした。

「受け取ってもらわなければ、あっしの気が定まりません」

「しかし、わしは簗田殿から銭を受け取るような覚えはない」

 シロジロがよっぽど気に食わないからこそ、だろう。

「じゃあ、こうしてもらえませんか。この二百貫をシロジロが三河殿にお目通りかなうための通行銭としてでも」

「何をまた」

「あのバカは今、あっしの下を離れて京の呉服屋に丁稚奉公しているんです。馬もろくに引けないものですから、一応ながらは商人だったので、銭勘定から覚えさせてやっているんです。なもので、いずれはもしかすると京の品々を三河殿に運んでくるかもしれません。それに、あのバカでも見たり聞いたりしたことはそのまま話せます。京にいるあいつが三河殿の目となり耳となることだってできるかもしれませんから」

「フン。わしはあんなやつの顔なんぞ見たくもない。そもそもわしはそのつもりで中島四郎次郎を京に遣わしたのですわい。それをあやつはだまくらかされた挙げ句に逃げおって」

「人生、何事も経験じゃございませんか。ここはなんとか、簗田左衛門尉の顔に免じて」

 おれが膨れた膝に桐箱を押し出すと、デブ三河は顔をしかめたままに腕を組む。

「三河殿、よろしくお願い申し上げます。あっしも口うるさい倅に頭を下げてかき集めてきた以上、ここは引き下がれません」

「確かに倅の左衛門太郎殿は口うるさそうな生真面目であったが」

「お願いしますよお。あっしだって面目が立たないですよお」

 デブ三河は不服そうながらも、ようやくうなずいた。

「しかし、中島四郎次郎が押しかけてきたとしても、門をくぐらせるかどうかはわかりませぬぞ。いくら簗田殿があやつを寵愛しているからと言っても、それとこれとは別ですからな」

「いや……」

 すっかりホモ仲だと思われているのは心外である。




 浜松城に一泊した。

 デブ三河と酒井の三人で酒膳を囲み、敦賀や姉川のときのいくさ話を肴にしたほか、織田家中の中身を話したり、逆にデブや酒井から東海地方の情勢などを聞いた。

「あっしは、今はとにかく摂津をどうにかしないと。どう転んでしまうかも予測が立たないですが」

 言いつつも、武田信玄のオッサンの話題が出るそのつど、おれは腸が煮えくり返る思いであった。

 おれは本来、摂津なり、浅井朝倉なり、織田の現状の窮地なりに頭を回転させなければならない。

 だが、織田領内で過ごしているぶんには遠い存在であった武田が、ここ浜松では身近な脅威であった。脅威というよりか、殺されかけたおれからすると、身近なクソだ。摂津などは放り出して、今すぐにでも武田信玄のハゲを殺しに行きたい。

「隙を見せればいつ食い破られるか」

 と、デブ三河は言う。

「上総介殿が畿内で手をこまねいている状況が続けば、虎が竹林にひそみながら舌なめずりするようにして、信玄入道は機をうかがう。いや、もううかがっておるかもしれませぬ。こう言っちゃなんですがな、簗田殿には是非とも畿内の混乱をおさめてもらいたいですわ」

「今、武田が、越後上杉や相模小田原との事態を収拾すれば」

 酒井が大きな顔に陰影を作りながらおれに視線を寄越してくる。

「織田殿の援軍なくして、我らは太刀打ちできませぬ。各所に散らばっている武田勢が結集してしまえば、三万から五万。ましてや、将兵は強く、信玄入道は無類のいくさ上手」

 甲斐のバカどもの屈強さを耳にするほど、おれの対抗心は燃えたぎるのであったが、姉川ではすんでのところまで追い詰められた織田と徳川だ。冷静に考えれば、デブや酒井が言うように、武田と真っ向からやり合うのは愚かだろう。

 武田信玄を殺してくれるのは態勢を整えたとき――。

 何が何でも摂津をひっくり返さなければならないという思いが募る。

 翌日、早々と浜松から西へ引き返そうとしたが、デブ三河が一緒に鷹狩でもどうかと誘ってきた。昨晩はあれだけ深刻な面持ちであったのに、こいつはどうかしているんじゃねえだろうか。

 しかし、四郎次郎の上客にするためにも付き合ってやる。デブが鷹を放し、雑兵どもが野うさぎなりを追い立てる光景を目の当たりにする。昼前には終わったので、いったんは城に戻ってき、出立の支度を整える。

「わしも明後日には出陣するので、簗田殿も共にどうです。かようにあわてることもない」

 デブ三河は敦賀のときもそうであったが、基本的にはのんびり屋だ。やるときはやるが、やらないときは何もやらない。それこそ総大将の資質なのかもしれないが、せっかちな信長にこき使われているおれからすると、そこだけはどうにも合わない。

「許しを得て浜松に来たわけではないので。おやかた様に折檻されます」

「それもそうか」

 城をあとにする。

 浜松を訪ねたのは良かったと思いつつ、門をくぐり出ていく。織田の窮地に対する実感はいまだに薄いが、武田の脅威を身近に感じたことにより、自分のやるべきことが明確になってきた。

 昨日まで、摂津の収拾は個人的事情の側面が否めないでいた。

 しかし、今日は、摂津収拾が大局的にも必要不可欠であるのが、緊張感とともに把握できている。

 ……。

 サンザは本当に死んでしまったのか。

 何が待ち受けているのか。

 けれども、何があろうともやらなければならない。改めて、いや、今まで以上に自分自身の存在が確かなものであることを受け止める。

 おれは戦国武将、簗田左衛門尉牛太郎だ。

 と――。

 ねじり鉢巻きがクリツナの口輪を引くままに、空堀に架かる橋げたを渡ったときだった。

 数名の一群が、屋敷の点在する向こうからこちらへとやって来る。

 馬にまたがって、淡い朱色の素襖をたなびかせながら、先頭を来る者は。

 おれはクリツナの手綱を引き、足を止める。青空にまばゆい朱色の素襖をじっと睨みつける。

「何用!」

 と、連れの小者が訝しがりながら駆け寄ってくる。

 おれは唸り散らした。

「何用も何もおれはここにいるだけだろうが」

「ならば下馬せい」

「なんで下馬なんかしなくちゃならねえ。おれを誰だと思っていやがる」

「ならば、お主は我らが殿を誰だと心得ているのだ!」

「誉れ高き山県三郎兵衛尉殿だろう?」

「よい!」

 と、山県は声を張り上げた。

 憎き宿敵は手綱を引いて馬を止め、口ひげの下の唇をむっと押し曲げながら、おれを睨み据えてくる。

 ねじり鉢巻きが不安げに振り返ってくる。クリツナは鶴首になって脚をかき鳴らす。

 香ばしい風が吹いては流れていく。

 おれがクリツナから下りると、山県も馬から下りてくる。おれが腰に差していた刀を抜いて取り、ねじり鉢巻きに押し付けると、山県も同じようにして腰のものを小者に押し付ける。

 おれがゆっくりと歩み寄っていくと、山県も連れの者たちを置いてゆっくりと歩み寄ってくる。

 おれは足を止めて睨み下ろす。山県も足を止めて睨み上げてくる。

 胸ぐらでも掴み上げたい思いであったが、おれは鼻を鳴らしつつ、せせら笑った。

「あんたらはきな臭い動きをしているって聞くが、おおかた城内の縄張りでも探りに来たのか?」

「無礼者め」

 山県は口ひげを揺らしながらせせら笑い返してくる。

「わしは駿河江尻城の城代、武田と徳川の取次役を務めさせてもらっている次第である。畿内の騒々しさを放置してほっつき歩いているような者とは違う」

「ほほう。取次役ね。だったら、三河殿に忠告しておけばよかった。温泉に誘われたら気を付けろってな」

「何を申しているのか――。さすがは簗田左衛門尉。気狂いの噂どおり」

「覚えていてくれて光栄じゃねえか」


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