蟄居窮地
おれには無期限の蟄居処分がくだされた。
天王寺の陣には太郎やさゆりん、沓掛勢を残したままである。
クソの信長に痛めつけられた体をいたわりながら、おれは京の蛸薬師に戻ってくる。
「おやかた様の不興を買いました。というわけで、おとうちゃん、あっしは岐阜に戻ることになりました。どうもお世話になりました」
「左様でおますか……」
「へっ。いやっ、旦那様っ」
シロジロがお猪口が転がったみたいにしてあわてふためく。
「旦那様が岐阜に戻るんなら、あっしも付いていくッスっ!」
「というわけで、おきぬ、反物の代金は年末までには間違いなく届けるから。もしも、おれが忘れちゃっているようだったら、おれの倅にでも催促してくれ」
「そうどっかあ。簗田はんがおられへんと寂しくなるどす」
寂しい、などという意味は妙な意味でもなかろうが、まあ、おきぬのような美人にそう言ってもらえると、クソの信長にボコられた心の傷も若干は和らぐものだった。
「それじゃ、また来ることはあるだろうけど、皆さん達者で。そのうち文でも出すから」
「ちょっ! 旦那様っ!」
クリツナの背にまたがり、ねじり鉢巻きとともに岐阜を目指す。
山を越えて大津に入る。湖岸沿いをゆったりと行く。打ち寄せる辺波とともに風が吹いている。かすかに夏の終わりの香り。
雲は相も変わらず雄大であるが、蝉の鳴き声は心なしかきえぎえだ。
これまで燃えるような夏だった。
そして、おれは燃え尽きた。
無期限の蟄居。
おれは武将を引退だろうか。それもいいだろう。簗田家を支える屋台骨であれば、太郎という若殿様がいるのだ。梓殿やあいりん、その他大勢の下僕どもは何も困らない。
おれは疲れた。泣きたくなるほどくたびれた。
敦賀や姉川に散っていった連中には申し訳ないが、おれは戦国乱世に――、いや、織田の武将の簗田左衛門尉をやっていることにほとほと愛想が尽きた。
戦国武将からはおさらばだ。
これからは副業に勤しむこととしよう。おきぬのスパルタ教育でシロジロが一丁前になったら、あの野郎を手足のようにこき使って荒稼ぎしてやろう。
稼いだカネで――。
寺でも建てて供養すればいい。わからず屋の信長のせいで武将引退に追い込まれてしまったおれの、死んでいった奴らへのせめてもの罪滅ぼしだ。
とりあえず、今は疲れた。道中、佐和山城の付城や横山城を横目にするので、マリオやサルに顔を出そうかとも思ったが、やめた。
おれは引退だ。戦国武将どもと付き合う必要なんてない。
まあ、デブの三河にはバカが騙し取られたぶんを返済しないとならないが。
京を立って三日で岐阜に帰ってきた。青白く霞んでいた稲葉山が見えてくると、さすがにほっとした。おれは岐阜県出身ではないが、もはや、ふるさとにでも帰ってきた気分だった。
太郎やさゆりん、沓掛勢を残してきたというのが心のしこりだが。
我が家の門をくぐって庭に入ったところ、最初に出くわしたのはたまたま縁側に出てきていた梓殿だった。
「亭主殿っ!」
と、マイリトルラバーは肩に流れる髪先を揺らしながら、跳ね上がらんばかりに声を立てた。最初は驚き、次にはお目目を玉のようにして丸めながらも口許をほのかに緩ませていった。
「いくさ、終わったのか?」
「ま、まあ――」
おれが視線を下げるのをよそに、クリツナがねじり鉢巻きの導きで馬屋にのそのそと去っていく。
「なんじゃ。帰ってくるなら文でそう申してくれれば。急に現れたものだから、わらわは胸の中が飛んでいくようであった」
普段の帰陣だと、女中たちが膝をついて平伏してきたあと、梓殿はたいそらぶって遅れて登場する。奥方様の顔つきで仰々しく現れる。ところが、今回は急な帰りであり、いのいちばんに出くわしたものだから、素直な表情を見せている。
そろそろ、三十路のオバサンだというのに、情熱的な赤い小袖のマイリトルラバーは、晩夏の日差しの中で女の子みたいに瞳をきらめかせながら、おれを飽きずに見つめ続けてくる。
刀の大小を外して縁側に腰掛けると、梓殿は思い出したようにしてようやく奥方様の顔つきになり、おかつやあーやを呼びに出かけた。
台所のほうから弾むような声が聞こえてくる。
「亭主殿が帰ったぞ」
「えっ? 皆様もですか?」
「わからん。でも、帰ってきた」
笑みを我慢できていないのが見て取れるように凛々としている。
良かった、と思う。
つくづく、俺は奥さんがいて良かった。梓殿が奥さんで良かった。
しかしながら、足洗いの桶を待つおれは、唇から溜め息がこぼれる。
これで良かったのだろうか。
信長のクソ野郎――。
帰陣しても、おれとねじり鉢巻き以外には誰も帰ってこないので、おれは梓殿や家の女たちに正直に話した。
「おやかた様のお怒りを買ったから、蟄居処分を食らいました。なので、あっしだけ帰ってきた次第です」
「お怒り、とは、何をしたのじゃ」
梓殿は絶句ぎみであった。
女どもに話すようなあれでもないので、「まあ……」としか答えられないでいると、出来た奥さんのマイリトルラバーは、「そうか」と笑みを浮かべるのだった。
「これもいい機会と思い、ゆっくりなされ。近頃、亭主殿は働きすぎたのじゃ」
いくさや調略じゃないときは、蛸薬師でも天王寺でも寝転がっていただけなので働きすぎってことは間違いだ。
しかし、梓殿はおれがどことなく気落ちしているのがわかるようである。
「あいりん、すまないな。赤ちゃんがいるってのに気を揉ませて」
「そんな。旦那様に気を揉まされるのは今に始まったことではありません」
あいりんも出来た嫁のようである。
ハア……。
幸せには違いないんだが、心のしこりのせいで気が晴れない。いやいや。おれはもう引退するんだ。あとのことは太郎に任せたんだ。太郎はおれなんかより存分に働くはずなんだ。
あいつには手下にさゆりんだって付けているし、ハンザだって、ハンザの親父さんだって、理介だっている。猪武者のおれなんかいないほうが沓掛勢だって危ない目にあわない。
おれはこれからゼニゲバになるのだ。
蛸薬師の茶屋ルートを使い、反物や調度品を田舎者のデブ三河に売りつけていく。そのためにはまず返済しなくてはならん。ので、へそくり床を開けてみて、隠し持っている金判銀判に銭貫文を数えてみる。
ぎりぎり、二百貫文ぐらいはあるか。
今はまだ暑いので、デブ三河に会いに行くのは秋になったらだ。それまでは安い香木でも買ってきておにゃの子たちの匂い嗅ぎでもするか――。
と、加納に出かけようとしたら、おれの屋敷の門前で2人の足軽が頼んでもいねえってのに警備に当たっており、
「キミたちは何者だい?」
問いかけてみたところ、おれの質問には答えず、2人は互いの槍を交錯させておれの行く手を通せんぼした。
「左衛門尉様は蟄居の身でございますぞ」
「な……」
「外出されるとあらば、謀反、寝返りを疑います」
踵を返して屋敷に戻る。口調や立ち居振る舞いからして、ただの足軽雑兵じゃない。あいつら、馬廻衆じゃないだろうか。
反体制運動家を軟禁するんでもあるまいし……。
こいつはまずいと思いつつ、縁側に腰掛ける。引退させられるのはともかくとしても、閉じ込められていたのでは話にならん。
趣味の香木どころか、二百貫文をデブ三河に持っていけもしない。
「クソッタレ」
背中からひっくり返る。白濁に広い空を恨めしい思いで眺める。
甘爽やかな匂いに鼻孔をくすぐられ、寝そべったままにちらりと視線を向けてみれば、あーやが白湯を置いている。
おれは起き上がる。あーやはお盆を胸に抱えて頭を下げ、立ち去っていこうとする。なので、おれは呼び止める。
「ちょっと――」
匂い嗅ぎのためじゃあない。
あーやは顔を振り向けてきただけであり、すぐに逃げ出せる態勢である。忍びの嗅覚なのか、女の勘なのか、それとも女狐が何か吹き込みやがったか、少々ながら警戒している。
「いや、そういう変な意味じゃなくて」
「変な意味とは?」
「いや――」
墓穴を掘っている感が否めないが、おれは咳払いをしてごまかし、白湯をすすって舌を潤す。
「大きい声では言えないんだが」
あーやを手招きする。あーやは振り向いてきただけの態勢でいて、おれに近寄ろうとはしない。
「いやだからあのね、姐さんが言っていたんだがね、あの、あすこの、吉田早之介の姐さん」
周りの状況をうかがいながら、再度、あーやを手招きする。あーやはようやく得心してくれたらしく、若干の斜視の目を警戒の色に染めつつも、おれに体を振り向けてき、膝を揃えてくる。
「あのう、京、摂津に行ったときにさゆりんがやかましかったんだ。調略をするんならあーやか新七も寄越せ。連れて来いって。てことは、あーやもそういうことができるのかって訊きたかったってことなんだ」
すると、可愛いだけの女中にすぎなかったあーやは、途端につぶらな瞳を沈黙のようにして黒一色に浸らせ、聞き耳を立てているのか、ゆっくりと周囲を見回していく。
「兄さんや姐さんほどではありませんが。諜報ぐらいは仕込まれております」
「ああそう――」
おれは白湯をずずっとすする。
「姐さんが私を必要としているのであれば、いつでも」
あーやは頭を下げると、台所へすたすたと去っていった。
気がつけば蝉の鳴き声がない。百日紅の濃淡色の花が風に吹かれて静かに揺れている。
おれは湯のみ茶碗に唇をつける。
あんまりにも謹慎期間が長くなるようであれば、あーやに働いてもらうしかねえか……。
ただ、香木を買ってきてくれとは言えん。
不自由というのは窮屈だ。いくさや調略がなければ寝転がっているだけであったおれだから、蟄居だろうが謹慎だろうが屁でもないはずだった。しかし、軟禁されたらされたで退屈すぎる。
梓殿のお茶教室に習わされる羽目にもなる。摂津池田の茶人賢者と会席しているおれのほうが間違いなく教える立場のはずだが、梓殿は細かいところまでいちいち厳しく、毎日ともなるとうんざりしてきた。
クソ信長の許しが得られないと監獄から脱出できそうにもない。
ゼニゲバ活動なら、気は進まないながらも、あーやを使い走らせばいいだけだ。わがまま女狐やシロジロを動き回させればいいだけだ。
しかし、一歩も外に出られないとなると、訳が違う。精神衛生上よろしくない。
クソ信長の許しを得ようとは思いたくもねえが、許しを得られるとしても摂津でのいくさがどうにかならないかぎり、進展はなさそうである。
ところが、岐阜に帰ってきて二週間ぐらい経っただろうか、梓殿が聞き捨てならぬ発言をした。
「織田は仏さまと戦わなならぬという話じゃ。我らは罰でも当たらんだろうか」
最初、井戸端会議で拾ってきたらしき噂を口にしている梓殿が、何を言っているのかさっぱりわからなかったが、よく考えてみると、その仏さまというのは一向門徒を指しているんじゃなかろうか。
たぶん、そうだろうな――。
信長は石山本願寺を潰したがっていたわけだし、圧力も掛けていた。三好三人衆や摂津池田衆とのいくさがどういう方向性になっているのかまったく不明だが、クソの信長は本願寺といくさをしたがっていたのだ。噂にしか過ぎないが信ぴょう性は高いだろう。
まあ、おれの知ったこっちゃねえ。織田が勝とうが、包囲網を組まれようが関係ねえ。
おれはゼニゲバ商人、簗田牛太郎だ。もはや、武門の名誉職の左衛門尉ですらどうでもいい。
太郎や沓掛勢が心配だが。
しかしながら、噂を聞き入れてから三日、四日が経つとともに、関係ねえと自分に言い聞かせながらも、不安は日ごとに募った。何かが起こっても、おれごとき何ができるわけでもないのだから、不安を抱えることすらおこがましいと思う。
ただ、太郎たちが心配だ。
摂津だけの情勢を見とけば、信長の軍勢は四万近くに膨れ上がっている。一ヶ月や二ヶ月ぐらいあれば三好三人衆や石山本願寺を潰せるだろう。
ただ、ここで新九郎殿が動いたらどうであろう。東山道のルートは防いでいるにしても、湖の北岸から大津に回り込めなくもないわけで。
大津近くの宇佐山城には森サンザがいるようだから大丈夫だろうけど、まさか、ここで武田信玄のクソ野郎までしゃしゃり出てくるとなると、ものすごくまずくなりそうだ。
だからと言って、おれが何かできるわけでもないが。
「あーや」
何もわからずで不安ばかりのおれは情報だけは仕入れようと考えた。あーやは、百日紅の枝を切り落としているねじり鉢巻きの手伝いをしていた。
縁側に手招く。
「申し訳ないんだが、今、どういう状況なのか調べてきてくれないか」
「奥方様や若奥様にはなんて申せば」
「シロジロが呼んでいるって嘘をついておく。念のため、京の蛸薬師の茶屋ってところに行って、シロジロにそういう手紙を書かせてくれ。ねじり鉢巻きと一緒でいいから」
ねじり鉢巻きにも京に行くよう命じる。
「なんで、四郎次郎があやなんかを連れて来いって言っているんだよ」
「知らねえよ、んなこと。女の子だけだと道中危ねえからお前も付いていけ」
「四郎次郎の言うことを旦那が聞き入れるだなんておかしいじゃねえか。また、何か企んでいるんだろう。梓とかあいりに叱られたって俺は知らねえぞ」
「お前はとりあえず黙ってろ。わかったな?」
その晩、あーやは素直に言うことを聞いてねじり鉢巻きとともに姿を消した。
「栗之介さんとあやちゃんがいないのです」
翌朝、女どもがさっそく心配になってしまい、朝飯どき、あいりんが涙目でおれに訊ねてくる。
「ああ。あーやはね、シロジロのバカが用があるから寄越してくれっていう手紙が来たんでそうさせたんだ」
「四郎次郎さんが?」
女中たちの頭目になりつつある若奥様のあいりんは、訝しげにしてお貞やおかつなどと目を合わせていく。
「まことでございますか? 旦那様。あまりおかしな真似をされると、おやかた様のご心象よろしくありませんよ」
「おかしな真似も何もシロジロが寄越してくれって言うんだから仕方ないだろ」
「四郎次郎と言えば――」
と、梓殿はあいりんと違って世間ずれしてくれている。
「嫁になってくれそうなおなごとはどのような人なのじゃ。四郎次郎は真面目なのだが、少々抜けているところがあるからの。しっかり者のおなごがよい」
「ええ、それはもうしっかり者の働き者ですよ。まあ、ただ、残念なのは呉服屋の一人娘なんで、もしも夫婦になろうものなら、シロジロは婿入りでしょうかね。岐阜にはもう帰ってこないかもしれません」
「それもそれで寂しいものだが。たまには来てくれるよう文でも出そうかの」
「ええ、ええ、是非。あのバカのことだから喜びますよ」
あいりんや女中のオバサンたちは怪訝な目でいたが、梓殿がにこにこしているので、詰問されずに済む。
一週間とちょっとぐらいが経って、あーやが戻ってきた。忍びらしく日暮れになってからおれの部屋にやって来、警戒しておれの近くには寄って来なかったものの、仕入れてきた情勢を声をひそめて伝えてくれた。
「旦那様がお帰りになられたあと、おやかた様は摂津天満に本陣を移し、摂津中嶋に三好三人衆や摂津池田衆を相手に連戦連勝、敵方はおやかた様に降伏を申し入れ、おやかた様はこれを撥ねつけ返し、また根来衆三千、紀伊雑賀衆二千の援軍が駆けつけ、おやかた様は敵方の殲滅を目論んだそうですが」
野田福島の砦に詰め寄せていたところ、石山本願寺が突如として発砲してきたという。
門徒衆と、一向側に付いていた一部の雑賀衆が川を越えて天満に攻めかかってき、織田勢は応戦、先陣を切った佐々内蔵助ことウザノスケが負傷して退却、前田又左衛門ことマタザが馬廻衆とともに一向門徒と激突、しかし、織田勢の三千人近くが討ち取られ、摂津の陣は、一転、劣勢に立たされたらしい。
だから、言わんこっちゃねえっ!
と、叫びたいところであったが、おれはぐっとこらえてあーやの報告を聞く。
石山本願寺参戦の二日前には浅井・朝倉連合軍が、湖岸の地侍を扇動してかき集めた二万人の大軍で近江坂本に進出してきた。
宇佐山城の守備についていたのは、信長の十歳ぐらい下の弟の織田九郎信治殿と森三左衛門ことサンザであり、浅井・朝倉勢の進出を阻むべき打って出るも、千を越える死傷者を出したとともに、両名は討ち死に。
浅井・朝倉勢は宇佐山城に攻めてかかるが、城は持ちこたえ、敵方は宇佐山攻略を断念し、大津を焼き払う。
やっぱりか。
やっぱり、石山本願寺と新九郎殿は連携していたか――。
……。
おれはあーやの報告に苦々しくうなずいているだけであったが、話が一区切りついてからしばらくして、彼女が何かおかしなことを言ったことに気づいた。
「いや、あーや、討ち死にって、誰が討ち死にしたんだ」
「おやかた様が弟君の九郎様と、森三左衛門様です」
「えっ?」
おれは口を開け広げてあーやを眺める。
燭台の火を瞳に映しながら、あーやはおれをじっとして見つめてくるばかりである。
「九郎様と森三左衛門様です」
まるで機械じかけの人形かのような冷徹さで、あーやはもう一度言うのだった。
「いや――」
おれは思わず笑ってしまう。
「だ、誰から聞いた話だ、それは。噂だろ?」
「天満の陣にいた姐さんから聞きました。姐さんからは旦那様に伝えるのなら裏を取っておくようきつく申し付けられましたので、大津の状況も見て参りました。間違いありません。ちなみに私の知る限りでは天満の沓掛勢に死傷者はありません」
「いや、あーや」
「はい」
「それは流言だろう。おやかた様を動揺させるために、浅井朝倉が流したでっち上げだろうよ」
おれは笑うしかない。
可愛さのかけらもなく、ただの報告マシーンになっているあーやは、唇を開く。
「足利公方様は石山本願寺が局外中立を破却したことについて、石山本願寺に中立を守るべく勅令を内裏にお求めになられました。内裏も顕如上人様宛てのお叱りの勅書をご用意していたようです。しかし、浅井朝倉勢が大津を焼き払った翌日に、山科に入り、ここでも放火を働きました。目と鼻の先までやって来たとあって、京洛中は混乱を極め、勅令も発せられませんでした。明智十兵衛様、村井民部大輔様、並びに柴田権六郎様は摂津天満から京に急ぎ戻り、対応に追われております。また、柴田様は京から再度、天満にお戻りになり、おやかた様に状況をご報告されたとのこと、退却をご注進されたとのことです」
「いや、だから、そんなことじゃなくて、森サンザ殿は討ち死になんかしてないだろ?」
「されました。残念ながら確かでございます」
「嘘だ」
「私が知るのはここまででございます。それと、姐さんが言ってました。旦那様はおとなしくしていなさいと」
「い、いや。あーや。さゆりんを呼んできてくれ」
「旦那様はおそらくそう言うだろうから、これから織田勢は窮地になるゆえ、行けないと伝えるようにもと」
「いや――」
「何かあれば私にお申し付けください。あと、これは四郎次郎様の文です。旦那様に申し付けられた通りのことを書いて頂きました」
あーやは手紙を差し出してくると、呆気に取られているおれを尻目に腰を上げ、一礼を残してから戸を静かに閉めていく。
「いや――」
おれはあーやがいなくなっても彼女を呼び止めようとしていた。手を伸ばして呼び止めようとした。しかし、誰もいない。続く言葉も出ない。
燭台の火だけが揺らめいている。
おれの影を壁に映している。
おれがただただ手を伸ばしているだけの影を。




