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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第八章 九死旅程
130/147

覚醒

「なにゆえ、兄上はそのように意地が悪いんじゃっ! 一体、亭主殿が何をしたのじゃっ!」

 梓殿は、ゴンロクの顔面を床の間の柱に打ち付けるという得意技の悪魔の鐘つきを始めてしまい、連れ立ってゴンロクの屋敷にやって来たおれは、うろたえるばかり。

「ちっ、違うのだっ! 梓っ! わしはただっ!」

 ゴンロクは柱を両手で握って押さえて抵抗するが、

「何が違うのじゃっ!」

 その背中に肘鉄を食らわせ、ゴンロクが「うっ」と呻いたところをすかさず鐘つき。

「兄上が諸将の面前で亭主殿を殴りつけたというのは、ほうぼうにて悪評となっておるのじゃっ!」

 ゴンロクが何を言っても梓殿の怒りはおさまらずに、むしろ、何か言うたびに、鐘つきが始まってしまう。

「ましてや、亭主殿をなじるのは毎度のことだと皆々が言うではないかっ!」

「皆々とは誰なのだっ! かような風評を――」

「風評であるものかっ! そなたの意地の悪さなら、この妹めがよく存じておるのじゃっ!」

 ゴン、ゴン、ゴン。

 恐ろしい。

 梓殿の華奢な背中は龍が昇り行くように暴れている。おれは正座をして固まっているばかりである。

 梓殿がゴンロクの屋敷に行くと言い出したのは、急なことだった。

 北近江から岐阜に帰陣して三日目の朝である。

 帰ってきた最初の日は、瞼の縁に涙を浮かべておれを出迎えてくれた梓殿であり、柔らかく抱きしめ合った梓殿であり、太郎や理介、沓掛勢の奮闘ぶりに、目を細めてうなずいていた梓殿であった。

 が、昨晩から目つきが鋭くなっていた。終始無言で、様子がおかしくなっていた。

 おそらく、どこかから聞いてきたのだろう。奥様方の井戸端会議からか、それとも、芸能記者の太田がおもしろがって吹き込んだか。

 おれが朝に目覚めて顔を洗い終え、さて、朝食まで待つかと裏手の井戸から庭に出たところ、梓殿が急遽出現し、ゴンロクの屋敷に行くと言い出したのである。

 袴を履いて小袖を紐でたくし上げているという、すでに喧嘩装束であり、これはまずいとおれは慄いたが、梓殿はもはや不動明王さながらに背後にめらめらと火を燃やさんばかり、細い眉の間には憤怒の皺が刻み込まれていた。

 おれは事を穏便にしたいがために、目抜き通りを一直線に進むデザイアのうしろに追いすがりつつ、話した。

 いくさが終わったあとの論功行賞の折、左衛門尉に論功行賞はないのか、と、ゴンロク殿はおやかた様に訊ねてくれたと。

「だからなんじゃ。兄上がそなたを諸将の面前にて罵倒し、狼藉を働いたということは、そなたの顔を立てなくさせたばかりか、兄上自身の名も汚したのじゃ。わらわはそれが許せんっ!」

 炎を吐き出したような声音に、おれは怯み、止められなかった。

「謝れっ! 亭主殿に頭をついて謝れっ!」

 悪魔の鐘つきがようやっと終わり、ゴンロクは、顔を手でおさえながらデザイアの足下に両膝をついてぐったりと背中を丸めている。

「謝らんかあっ!」

 またしても髷を引っ掴むと、今度はそのまま床に打ち落とし、

「謝らんか謝らんか謝らんかっ!」

 怒号を放ちながら何度も何度もゴンロクの頭を床に叩きつけて、ゴンロクが泣きべそ声で「すまんっ! すまんかったっ!」と、喚いても、鬼夜叉の怒りはおさまらず、何度も何度も打ちつける。

「あ、梓殿。も、もうその辺で。ゴンロク殿が、し、死んでしまいます……」

「兄上っ! もうせんと誓うのじゃっ!」

「もうせん。もうしませぬ。すまなんだ、左衛門尉――」

 踏んづけられた蛙のように這いつくばりながらのゴンロクを前にして、おれはうんともすんとも答えられない。

 怒りの収まりつつある梓殿の袖をそろりと摘む。

「帰りましょう」

 ということで、夫婦二人で我が家に帰ったのさ。

「あ、梓様。かような出で立ちでいずこに」

 行方知れずとなっていた梓殿を心配してお貞が探していたそうだった。

 しかし、鬼夜叉と庭で出くわしたなり、お貞は口調もおぼつかなくなって、察したようである。

「亭主殿と朝を巡っておっただけじゃ」

 デザイアは怒りがいまだ抜け切らないようであった。庭先で木刀を振り始めてしまう。

 ごくり、と、唾を飲み込みながら草履を脱いでいくおれは、お貞に言いつける。

「朝メシはまだか。さっさとしてくれ」

「いましばらく」

 びゅんびゅんと虚空を切る音が恐ろしくって、おれは自室にそそくさと逃げ込んだ。

 文机の前に腰掛け、吐息をついて、鬼夜叉への恐怖を払っていく。

 兄妹喧嘩に付き合っていられん。

 摂津に行かなければならんのだ。

 姉川の決戦が終わり、横山城は織田方に降伏した。

 我ら織田方はその足で、磯野丹波の逃げ込んだ佐和山城へ押しかけたが、なかなかの堅固な守りであり、攻城戦をしている猶予もなければ、後々のことを考えればその犠牲も払えなかった。

 信長は佐和山城の四方に付城を築くようマリオなどに命じ、北近江から引き上げ、横山城には守将としてサルが入った。

 ひとまずは、東山道のルートを確保できたわけだが、摂津の情勢いかんでは、三好三人衆に京に匕首を突きつけられているようなものである。

 造反したらしき摂津池田が、四国の三好三人衆を畿内に引き入れれば、とてもまずくなる。

 摂津池田をどうにかすると、おれは信長に直談判してしまったのである。

 後悔はないが、だからといって、どうすればいいものか。そもそも、摂津の状況が把握できていない。

 ゆえに、行かなければならないのだが。

 女中のかつが部屋にやってきて、朝食の支度が整ったということだった。

「お、おい、梓殿のご機嫌は麗しいんだろうな?」

「一汗かかれて、健やかに笑顔でございます」

「ふむ」

 広間では皆が輪を作っている。

 梓殿に太郎に、若干ながらおなかがぼてっているあいりんに、居候の理介はふざけたことにすでにメシを食っていて、ねじり鉢巻きに、お貞に、かつがご飯をよそっていって、可愛い可愛いあーやがお椀を並べていって、おれが敷居をまたいだなり、シロジロは目を輝かせながらおれを見つめてくる。おれにお辞儀をしてくる。姉川以前ではそんなことをしなかったくせに。

「旦那様っ、おはようございます!」

 ましてや、この元気。おぞましい……。

 勝手にメシに手をつけている理介を除き、みんなで手を合わせていただきます。

 いやはや、しかし、手を合わせながら、おれは感謝しなければならない。

 地獄と一言で済ませてしまうには、短絡的すぎるあのいくさ場から帰ってき、こうして皆々とともにゆっくりとしたひとときを過ごせるのは、おれと真逆の結果の果てに死んでしまい、あるいは負けていった者どもがいたからこそなのだから。

 踏みにじってきたのだ。

 湯気の立つあたたかいご飯の甘みも、香の物の体を火照らせていくしょっぱさも、口の中でほぐれていくいわしの身の苦み柔らかみも、喉を過ごしていく味噌汁の温かみも、もう二度と実感せずに死んでいった者どもが大勢いた。

 ましてや、おれはおにゃの子たち(おばさんたち)の黄色い声に囲まれて果報者である。

 ホモ疑惑が一人あるが。

「旦那様っ、摂津にはいつ行かれるんスかっ。あっしも一緒に付いて行くッスからっ」

 おれは無視して箸をすすめる。

「摂津? またぞやいくさなのか?」

 狂気がすっかり失せた梓殿が、鬼夜叉とは別人のように眉をすぼめる。箸を止めて、左手にしていたお椀にうつむいてしまう。

「わらわはかなわん……。北近江ではよほどのいくさだったそうではないか……。いくさいくさいくさ。いくさばかりじゃ……」

 梓殿のしおれ具合に、皆は白けた目である。

 特に理介が、眉をしかめてひそかに叔母さんを見つめている。ゴンロクの屋敷で暴れ回ってきたことを、皆はすでに知っているのだろう。

 かなわん、だなんて、いちばんかなわないのはあんただ、とでも言いたげである。

「父上がおやかた様に申し出たのは、いくさではありませぬ。諸事情により行かなければならないのです。危険な思いはまずありませんでしょう。ご安心くだされ、母上」

「亭主殿、そうなのか?」

「父上がおかしな真似をしなければの話ですが」

「おかしな真似だなんて、おれは生まれてこの方ひとつもしたことがねえ」

「よく言います。先ごろだって」

「もういい。やめろ。そんなことより、ずっと気になっていたんだが、あいりん、赤ちゃんは男の子なのか、女の子なのか?」

「えっ?」

 あいりんは笑みを浮かべながらも、瞼を大きくして驚いている。

「オヤジ殿は何を申されているのか。わかるはずないではありませぬか。いくさ続きでここがおかしくなってしまったのですか」

 理介がこめかみを叩きながらバカにしてくるので、ああ、そうか。病院で検査しているわけでもないのだから、お腹の中の赤ちゃんがどっちかだなんてわかるはずない。

「でも、わかりそうなもんだろ」

「男子であるよう頑張ります」

 と、あいりんが生真面目に目を伏せる。

「いや、そういうつもりで言ったんではなく」

「何を気を急いておるのじゃ。どちらでもよかろう。あいりが気の毒じゃ」

「いや、だから、そういうつもりで言ったんじゃなく」

「そうですよ、旦那様」

 と、なぜか、しゃしゃり出てきたのはお貞で。

「むしろ、若様とあいり様はこうして頑張ってお務めされておられるのですから、旦那様と梓様も一生懸命励まなければなりませぬ」

 ババアが朝っぱらから下世話な文句を垂らすものだから、太郎とあいりんの若夫婦がうつむきがちになってしまい、梓殿は口を結びながらお貞を睨みつけるだけ、他の下々も妙な気配となってしまう。

「何を言ってんだ、お前は」

「おかしなことはひとつも申しておりませぬ。ねえ、おかつさん」

「は、はあ――」

「わかった。はいはいわかった。頑張りますよ。ね、梓殿」

 梓殿は顔を真っ赤にしておれを睨みつけてくる。何も言わずにご飯を食べる。

「ま、今はただ、あいりんとあいりんの赤ちゃんがどっちも元気になってくれるのを祈るだけだ」




 太郎や理介は、沓掛勢とともに沓掛に行くということであったが、おれは願福寺に来ると、吉田さゆりん早之介に手紙を渡した。

「お前はおれと一緒に摂津行きだ。これを持って、先に京の蛸薬師の茶屋ってところに行け。京で情報収集にあたれ」

 早之介は訝しげに目許をしかめつつも、茶屋彦左衛門宛ての手紙を受け取る。

「殿は岐阜に残っていかがするのです。岐阜でゆるりとしたいからなどと、そんな甘い考えからではございませんか」

「おやかた様がどういう動きを取るか見極めてからそっちに行くつもりだ」

 首をかしげながら、早之介は手紙を懐にしまいこんだ。

 口うるさい女狐と別れ、屋敷町に戻ってき、サンザのところを訪ねた。

 昨日に来たら不在だったので、そのときにあらかじめ、昼前には来ると女中に伝えていたので、サンザは屋敷の広間でおれを待ち受けていた。

「どうした」

「いや。どうしたらいいものかと」

 サンザは鼻息をつきながら、白湯の湯のみ茶碗を手に取る。ずずっと啜ったあと、もう一度、吐息をつく。

「何か思案があって、おやかた様に直訴したのではないのか」

「いえ。何もないッス」

「ならば、わしとて何もない。わしよりか、お主のほうが摂津には詳しいはずだ」

「池田のことだけッス。おやかた様がどういう考えでいるのかわからないッス。摂津池田を叩き潰すつもりなのか、懐柔するつもりなのか」

「そんなもの、おやかた様とてわからん。なにせ、今現在、どのような方向性なのか、見当がつかん。つまり、牛殿次第ではないか。見聞きしたもの、接触して感じ得たもの、牛殿のそれが織田の分け目ではないか」

 おれは視線の先を湯のみ茶碗の上に落とした。唇をひしゃげながら、小さくうーんと唸ってしまう。

「何を迷っておるのだ。自らが言い出したのであろうが。褒賞と引き換えに」

「いいんスかね。あっしなんかにそんな一大事を預けちゃって。おやかた様は正直どのように考えているのか」

「何が」

「いや、だから、おやかた様はやっぱり牛なんかに任せなければよかったとか」

「おやかた様がお主に何を任せたのだ」

「だから、摂津のことを」

「お主が摂津に行きたいと言うので、そうしろとおやかた様は申されただけだ。何も任せておらん」

「でも、それは言葉の綾じゃないッスか。まさか、おやかた様があっしに摂津で遊んできてもいいだなんて言うはずないんですし」

「だったら、それでいいであろう。お主がそのようにして己を戒めておるのであれば。精一杯やってくればいいではないか」

「だから、そんなもので織田の分け目なんかを決めちまっていいものなんスか。いや、皆さん、それでいいんスか。サンザ殿は織田家臣団の代表みたいなもんじゃないッスか。いいんスか、それで」

「構わん。お主が決めてこい」

「いや――」

「お主が何を臆しておるのか、わしにはちっともわからん。姉川のいくさで我らが劣勢に立ったとき、陣替えを決断したのはお主だろう」

「あれはゴンロク殿が」

「わしの目は節穴じゃない」

 おれは息を大きくついた。白湯に手を伸ばし、生ぬるさに舌を休めていく。

 岐阜に帰陣して三日。どうにも、あのときから毎秒毎秒に時間を重ねるごとに弱気が募っていく。

 興奮の坩堝にあったあのときは、何事にも立ち向かえる心構え、というか、おかしな精神状態であった。

 冷静に考えてしまって、何から手をつけていいものか、まったく不明だ。無論、情報がいまいちなので、五里霧中であるのは当然だ。

 しかし、桶狭間以来、なんとなく、時代が作り出すその流れに乗って来ただけのおれであったのだから、何もないところにいざ飛び込もうとすると、その飛び込み方がわからん。

 失敗は許されないのだし。

 失敗してしまえば、明日は我が身なのだし。

「左衛門尉の前に、お主は所詮、牛太郎なのだ」

 と、サンザは言う。

「お主はさまざまな経験をして、何か事あるたびに大きくなっていくようでもあるが、その分小さくなっていくところもあるようだ。それはきっと、お主に守るものが出来たからだろうな。しかし、守ってばかりでは、守るだけで終わりよ。お主は、昔、もっと攻めていたはずだ。梓と夫婦になる前や、敦賀のいくさの前までは。傍目には愚かな真似であろうと」

「別にそんなつもりは」

「気楽に考えい。姉川のいくさで浅井との雌雄は決した。課題は三好が畿内に攻め入るかどうかという点だけだ。お主がとちってしまったとしても、敦賀から姉川までの一連の大事のようにはならぬ」

「そうッスかね」

「お主のせいで大事になってしまったら、お主がお主なりに始末をつけよ。敦賀や、姉川のときのように。もしくは腹でもかっさばいてな」

 サンザは簡単に言いつつ白湯をすすったが、湯のみ茶碗を置きながらおれに持ち上げてきた眼光は、奥深いところで凍てついている。

 おれはうなずくしかなかった。




 結論からして、岐阜にいても仕方ない。むしろ、いればいるほど、生ぬるさに心地よくなっていってしまう。

 さゆりんには先に行ってろだなんて言いつけたが、明日にでも岐阜を発つか――。

 しかし、縁側に腰掛けて、こうして我が家の庭を眺めていると、百日紅の艶々とした葉がすべてのわずらわしさを忘れさせてくれる。そこに寝転がっているクリツナの姿が、ずっとこうしていたい気持ちを芽生えさせる。

 敦賀の夜のように肌寒くもなく、姉川の昼のように暑くもなく、お日様の光は白濁の空から柔らかく降り注いでくる。

 できることなら怠けたい。

 いやいや、それでは何事にも申し訳が立たないじゃないか。

 おれは深く息を吸い込んで、瞼をつむる。これまでに起こった何事にも振り返るようこころみる。

 この滑りこんでくる風は、誰かの声かもしれん。この温かな陽光は誰かの眼差しかもしれん。

 もしかしたら、感じられるものすべては、おれが勝手に感じているものかもしれないが。

 おれじゃなければ、ここには何もないのかもしれないが。

 ならば、おれはどうしてここにいるのか。

 おれには知る必要がある。

 と。

 真闇の中に細長いすじが流れてこんでくる。そのすじがまっさらな感覚を優しく撫でていき、おれはハッとして瞼を広げた。

 真っ白な蝶々がクリツナの周りを飛んでいる。

 おれの手元に湯のみ茶碗が差し出されてきていた。差し出し主を視線で追えばあーやである。

 あーやはなんともなしにおれに大きな瞳を振り向けてきたあと、うしろ髪を白いうなじから耳元へさらさらと流しつつ頭を下げてき、腰を上げ、黄色い小袖の後ろ姿で廊下を去っていった。

 おれは少々の驚きをもって白湯をすする。

 おれは瞑想していたせいで、五感を鋭くさせすぎていたらしい。あーやの匂いに激しく反応してしまった。

 ただ、嗅覚で感じ得られた「匂い」というよりかは、おれの心のうちに注ぎ込んでくるような、なんというか、「味わい」であった。

 味わいに深く感じ入る前に、突如のことに驚いて目覚めてしまったが、あのときの一瞬の味わいはすこぶる気持ちのよいものであった。

 匂いというのは、人をそこまで心地よくさせるものなんだろうか。

 もしかしたら、実のところ、おれはいくさ続きで狂ってしまったんじゃないだろうか。

 物は試しにと、おれは縁側から下り、百日紅の葉を鼻先に手繰り寄せてみる。

 まったく何の味わいもない。

 クリツナが何をしているのだとでも言いたげに、おれに瞳を向けてきている。おれは寝そべっているクリツナのたてがみに顔をうずめ、匂いを嗅いでみる。

「うーん。ただの獣の臭さだな。なんの味わいもない」

 ブルルッと鼻を鳴らしながら首を大きく振ってき、おれはそこから追い払われた。

 うーむ。

 おれは廊下を忍び足で行った。

 台所を覗きこむ。誰もいないので、草履で下りて、勝手口から外を覗く。

 あーやがかつと一緒に井戸水で野菜を洗っている。おれは瞼を閉じ、鼻の穴をふくらませて、初夏の香りのうちにあーやの匂いを嗅ぎ取ろうとする。

 しかし、距離がありすぎて感じられず、ましてや、瞼を開けてみたら、あーやがこちらに振り返ってきていた。寄り目の瞳をきょとんと置いている。

「どうかされましたか?」

 かつも振り返ってきてしまう。

「いや。もう飲み終わったから片付けてもらおうかと思って。そ、それより、梓殿はどこかに出かけたのかな?」

「あいり様とお貞さんと一緒に前田様のお宅にお出かけしているはずです」

 あーやが言うと、かつも続けて言う。

「子を産む気構えをおまつ様にお教えしてもらいなさいとあいり様におっしゃって」

「ああそう」

 おれは勝手口を戻り、台所をあとにして廊下を行く。

 クリツナが寝そべっている庭を通りすぎて、部屋のあるほうへ折れ曲がる。と、そこに隠れ、両目を覗かせ、あーやが白湯を片付けにくるのを待つ。

 小袖の裾をたくしあげているあーやが廊下をやって来たので、おれは嗅覚を研ぎ澄ます。

 駄目だ。距離が遠い。

 しかも、あーやが、お盆に白湯を乗せつつも、こちらをじいっとして見つめてくるのだった。

 おれはあわてて引っ込んだ。

 あーやが台所に戻っていったのを確認すると、部屋の並びのほうへ行った。

 どうせなら、普段は味わうことのできないあいりんの部屋に侵入したかったが、良心が痛むので、しょうがない、梓殿の部屋に侵入する。

 おれがプレゼントした絹の打ち掛けが飾られてある。赤地に色鮮やかな花模様の先織物である。どうせはめったに着ていない代物である。

 しかし、袖から脇に鼻先を寄せてみたら、薄っすらと香りだってきた。

 なんとも。

 香りは感じるが、おれの全身に染み入ってくるほどの濃密さがない。

 どうも違う。

 梓殿を大いに感ぜられるほどではない。おそらくは、匂い袋か香木の匂いを染み込ませているに違いなく、造形的な甘さである。肉感的なものはない。つんとして鼻孔がくすぐられるだけの感触である。

 おれは打ち掛けの前で腕を組んで見つめこむ。

「勿体ない」

 これだけの色鮮やかな上等品だというのに、実体が備わっていない。

 小袖か、あるいは襦袢はないだろうか。

 と、部屋を見渡してみるが、この時間であると、今朝までに着ていたものは洗濯してしまったか。

 惜しいことをした。

 今朝方、梓殿はゴンロクに対して暴れ回り、庭では木刀を振り回していたのだ。汗はたくさんかいていたのだ。

 おれは梓殿の部屋をあとにし、自室に戻った。

 明日に岐阜を出発するのはやめた。

 梓殿の匂いは今晩得られるとしても、あいりんやあーやの匂いも知っておかなければ、おれが狂ってしまったかどうかの区別がつかん。

 明日は朝から洗濯を手伝うとし、そのときが匂いを知る好機――。

 間違って、お貞やおかつの匂いを嗅いでしまわないよう、今晩のうちにみんなの着ている物を頭にインプットしておかなければ。

 ――。

 ともすれば、おにゃの子の匂いは嗅ぎたいが、おばさんの匂いは嗅ぎたくないということなのか。

 なるほど、おれは変質者のようである。

 



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