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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七、三章 征野、果てしなく
121/147

連鎖する、背信

 長光寺城から岐阜に帰陣してからこのかた、サル一派を見かけていない。

 それもそのはず、信長とともに帰陣してきた木下勢は、取りも直さず出陣の下知を受けていた。

 近江と美濃の国境、関ヶ原に布陣しているという話だった。

 敦賀の退却戦からようやく帰ってこれたかと思えば、またもや真っ先に派遣されている。

 サルはともかく、小一郎やクマ六たちが、さすがに気の毒になってしまう。

 サル一派は関ヶ原の陣中から、坂田郡の堀二郎の取り込みを秘密裏に進めていた。

 すでに寝返りが決したのかもしれなかった。

 西近江の宇佐山城の守備についていたサンザや、京に駐在していたマリオが、部隊を引き連れて岐阜に帰ってきたのである。

 いくさが近い。

 細かい雨が降りしきる岐阜の屋敷町には、どことなく張り詰めた気配が漂う。

 諸将は千畳敷の大広間に招集された。

 上座に向かって肩を並べる織田家中の将たちは、ゆうに三十人は越えている。

 季節はすでに夏を目前にしているというのに、磨き抜かれた板張りの床からは冷たさが伝わってきた。

 しっとりと耳に入ってくる雨音とともに。

 太刀持ちの菊を引き連れて、信長が上座に現れると、後列のおれも周りに揃って平伏した。

 袴の裾を取りながら、信長はゆらりと座す。

「おもてを上げろ」

 静かに、響くような唸り声を発すると、信長は、皆々の顔おもてを刺すようにして睥睨していく。

 抜き差しならない厳しさを目許にたずさえている。

「翌々日に出陣いたす。小谷討伐である――」

 信長が言葉を切ると、大広間はしんとした。

 雨の滴の打つ音が、はっきりと聞こえてくる。

 誰もがどよめかなかったし、誰の顔も真っ直ぐでいた。

 信長が言わずとも、もはや、敵は判然としていたのだ。

 それでいて、信長の口調は、普段の信長ではなかった。いつもの親分らしさは無くて、君主然とした、妙なかしこまりであった。

 だが。

「浅井備前が他、一族郎党の末枝末葉から、これに味方する者は逆賊の途とみなし、すべてを誅殺する所存である」

 ぞっとした。

 信長は平然とした滑らかな口調でいたが、瞳孔だけが開いており、浅井という言葉を口にすれば湧いてしまうのか、その怒気は目から噴出しているのだった。

 なによりも、誅殺というその言葉は、お市様をも――。

 信長の怒りはもっともかもしれん。

 敵方の囚われとなってしまったお市様であるが、殺されるわけでもなく、実家に突っ返されるわけでもなく、そのまま小谷にいるのである。

 新九郎殿が、はたまたお市様が、何をお考えで、小谷にいるのか、住まわせているのか、不明だ。

 だが、お市様の性格からして、帰ってこないというのは、兄貴の信長ではなく、夫の新九郎殿を選択したからに違いない。

「織田のため、天下のため、この織田上総介は、いかなる犠牲もいとわぬ。何事も恐れぬ。何事も打ち払う。お主たちにも同様の気概を求める」

 信長が腰を上げると、諸将は一斉に頭を下げた。

「承知」

 千畳敷からの帰り道中、マタザと馬を並べて、編笠から雨のしずくを垂らした。

「おやかた様のお覚悟は並々ならん」

 凄味にやられて、マタザが眉間に集める皺の具合は、沈痛なおもむきさえある。

「尾張にいた頃を思い返せば、俺たちはずいぶんと遠いところまで来てしまったような気がする。だからこそ、今まで通りではいかぬということかもしれんが」

 降りしきる雨は通りに溜まり、それぞれの細いすじとなって、水路に流れ下っていく。

 お市様と初めて会った日は、もう少し雨足が強かったような。



 おれが茶碗の中身を飲み干すと、それを控えながら梓殿はぽつりと言った。

「近頃はいくさばかりじゃな」

 おれが畳の目にじっと見入るあいだ、梓殿は茶碗に湯を打ってすすいでいく。

「お市様が不憫じゃ。一体、どうなってしまうことやら」

「不思議なものです。敦賀であれだけ苦境に立たされたっていうのに、あっしは浅井新九郎殿をちっとも憎めない」

「なにゆえ、おやかた様に背いたのであろう」

「わかりません。天下が見えたのか、それとも、癪に触ることがあったのか」

「しかし、亭主殿は織田の将ゆえ」

「わかってます」

 茶碗を桐箱の中に片付け、道具のあらかたも整えた梓殿は、おれの正面に紫地に桜模様の小袖の裾を滑らせてくる。

 うつむいている表情を、黒目がちの瞳で覗きこむようにして眺めてきた。

「どうしたのじゃ? 思い煩いがあれば、梓につつがなく申しておくれ」

 梓殿はおれの手に小さい手をそっと添えてくる。

 おれは吐息をつきつつも、梓殿の手を握り締めた。

「去年にあっしが小谷を訪ねたとき、お市様はお幸せそうでした。お腹の中には御子もいて。世の中ってのはわからないもんです。お市様はお姫様だってのに、あっしと梓殿のほうが、こうして安穏と暮らしている」

「そんなことはない。わらわだってそなたの万が一を思えば胸苦しくなる」

 梓殿が握り返してくる掌から思いが伝わってきて、おれは詫びた。




 雨は出陣の日にも続いていた。

 まとわりつくような雨に、時折、革手袋で顔を拭いながら、延々と続く隊列の一端となって、東山道を行く。

 願福寺を出るさい、太郎が激を飛ばしたのを受けて、沓掛の兵卒たちは士気を高くしていたが、おれは厭戦気分である。

 敦賀での退却戦がいまだに尾を引きずっているし、休む暇もない連戦行脚であるし、敵が新九郎殿というのも、気分が高揚しない原因である。

 とにもかくにも、今回ばかりは出すぎた真似をしないようにと心を定める。

 ものの、結局は、爪弾き者の理介が、自分のところの手勢十人ばかしを引き連れて、おれの与力となってしまった。

「俺は関わらなかったにせよ、オヤジ殿からすれば敦賀での辛酸を晴らす復讐の機会ですな」

 にやにや笑いながら、鼻息も荒い。

 まったく。

 それに、おれは、クリツナの口輪を取るシロジロがずっと気になっている。

 具足姿に陣笠という身なりはよろしくても、肩に担いでいるものに違和感がある。

 いいや、違和感どころの話じゃない。

「おい。シロジロ。どうしてテメーがそんなものを持っていやがんだ」

 チビスケが肩に掛けているのは、雨除けの革袋をまとった火縄銃なのだ。

「だって、これ、ずっとお屋敷にあったッスよ」

「はあ?」

 どうやら、シロジロが持っているのは沓掛鉄砲隊の火縄銃ではなく、明智十兵衛から頂戴した火縄銃であった。

「槍は」

「持ってきてないッス」

「お前、バカじゃねえのか。おれはどうやって戦えって言うんだ、この野郎」

「旦那様は別にいいじゃないッスか。皆様から危ない真似をするなって言われているんスし」

「じゃあ、なんで、そんなもん持ってきてんだ」

「もしものときに持っていたほうがいいじゃないッスか」

「もしものときはお前を盾にするから、そんなものはいらねえ」

「またまた」

「冗談じゃねえよ」

 シロジロはあからさまに顔をしかめる。

 すると、おれの周りを固めている足軽兵卒のうちの一人が、シロジロに首を伸ばしてきて、

「四郎次郎様。何かあれば俺が守りますので」

 と、新人の新七郎である。

 おれは舌打ちし、組頭に言ってやった。

「何か勘違いしている野郎がいるぞ」

「おい。新七」

「申し訳ござらん」

 同組の兵卒たちに冷ややかな目を浴びせられ、新七郎は刀傷を陣笠のひさしで隠すようにしてうつむいた。


 雨中かすむ田園風景が、やがて、西美濃の山々に狭まっていき、行軍は菩提山のふもとも抜けて、国境まで続いた。

 関ヶ原に着陣かと思いきや、赤母衣の騎馬武者が進軍に逆走してきて、叫び回っていく。

「鎌刃城堀二郎っ、織田に降れりっ! 進軍、長比城にてっ!」

 将兵たちがどよめく。

 シロジロも気配に当てられて急に及び腰となる。

「ど、どういうことッスかっ、旦那様っ」

「味方が増えたってことだ」

 あっさり寝返ってくれたわけでもないだろうが、裏切りに裏切りが重ねられていくこの現状はなんとも複雑である。

 新九郎殿の裏切りを敦賀で知ったさいの織田の狼狽ぶりはまさに青天の霹靂であったが、坂田郡がそのまま織田方になってしまったのは、新九郎殿にしても青天の霹靂だろう。

 坂田郡がひっくり返ってしまえば、浅井方は軍勢を小谷まで差し込まれることになる。途端に窮地だ。

 当然、信長は坂田郡を掌中にしたから出陣を決断したのだろうが。

 オセロみたいだ。

 岐阜を発ったその夕、雨は上がっており、雲間からはオレンジ色の西日が差し込んだ。

 湿った風は頬に受けるには心地よく、雨を垂らしていた雲も、色濃い陰影を膨らませて、風の流れのままの雲となっている。

 信長は長比城に入り、軍勢は山麓に野営した。

 諸将は軍議に招集され、ゴンロクが太郎を連れて来いと伝令を差し向けてきたので、一緒に登城する。

「竹中半兵衛の説得、それにここに控える樋口三郎左衞門殿の働きで、坂田郡は織田方となった」

 軍議を取り仕切るサンザが言うと、樋口三郎左が諸将に向けて黙礼した。

 気難しさを分厚い仮面にしているような面構えの樋口三郎左だが、なんとも。

 あの目つきの鋭いオッサンに限って言えば、半兵衛の説得に応じたというよりも、自分の意志でそうしたようなおもむきがある。

 奴も奴で新九郎殿と三人で夕飯を食べたときには、親分を裏切るような気配は微塵もなかったのである。

 もっとも、あのころとは状況も違うし、信長と新九郎殿を天秤に掛けたとき、浅井を見限るべき何かがあったのかもしれないが。

「明日、我ら織田は樋口殿の先導で、小谷まで押し寄せる。ここ虎御前山とらごぜんやま雲雀山ひばりやまに陣を構える。この山麓は細川が幾重にも渡り巡り、沼に泥濘にと湿地帯の悪路ゆえ、浅井方は山草にしておるが、悪路を抜ければ敵城は目と鼻の先。

 またしても沼かよ……。

「着陣してそうそう、城下の田畑を薙ぎ払い、村を焼き、百姓町人どもを小谷城に追い立てる」

「おやかた様。兵糧攻めでございますか」

 長ヒゲ佐久間がうかがうと、信長は何も答えず、サンザが代わりにうなずいた。

「小谷城は天下に名だたる堅城にて。力攻めではとうていかないませぬ。小谷城を包囲しつつ、各支城を攻め落とし、あるいは調略によって切り崩していかなければなりませぬ」

「朝倉の動きは」

「援軍は要請しているはず。敦賀を出たという報せは入ってきませぬが、虎御前山に陣を構えている以上、北近江に入ってきたとて、朝倉方が迂闊に動けぬのも必定」

「しかし、悪路とは言え、このような目前の山に、浅井がやすやすと着陣させてくれましょうか」

 すると、信長が初めて口を開いた。

「ならば、雌雄を決すればいいだろうが」

 唸り声にしんとした。

「樋口三郎左の働きにより、勝利は決まっている。虎御前山に入れば小谷城を包囲し、虎御前山に入らせまいと打って出てくるなら数で優っているだろうが。それとも、貴様らは三倍の兵数を持ってしても勝てぬという体たらくか? あ?」

「いえ」

「滅相もありませぬ」

 各所にて武勇で鳴らしてきた猛者どもも、不機嫌極まりない――というか、日に日に何か憎悪めいたものを抑えきれなくなってきている信長を前に、飼われた猫のような有り様である。

 先んじて関ヶ原に布陣し、半兵衛に調略を成功させたサルだって、お調子に乗ってそうなものだが、この軍議では信長の矛先を避けるようにして視線を伏せてしまっている。

「貴様らは常に動け。常に戦え。常に働け。余計なことは考えるんじゃねえ。楽をして生きようとも願うな。苦労したからといって誇るな。困難があれば迎え撃て」

 瞳孔の開きを押し付けてき、かなりやばい。

 何かが切れちゃったんじゃなかろうか。

 いつのころか、自分の下で働く者は誰であれ知っていて当然だなんて言っていたけれども、今はもう、おれたちのことなんか見えてないんじゃないだろうか。




挿絵(By みてみん)




 翌、六月二十一日。

 白い雲が山々を撫でているものの、天候は鮮麗に晴れ。

 三日に渡って降り続けていた雨により、草木はみずみずしく、日差しのまばゆさは湖岸の方角より吹いてくる風に和らいでいる。

 蒸してはおらず、むしろ、緑のなびきに、爽やかである。

 織田三万の軍勢は長比城をあとにし、樋口三郎左衛門の導きで北国脇街道を、騎馬は並み足、足軽は小走り、荷駄を押し押し、進んでいく。

 しかし、途中から街道を逸れた。

 おれが以前に小谷城を訪ねたときは街道をそのまま進んでいったのだが、進軍は、サンザの言っていた、恐ろしや沼地へ踏み出したのである。

 降りしきっていた雨のせいで、水分がよく溜まっており、兵卒たちの足が埋まっていけば、荷駄担ぎの馬をビシビシと鞭で叩いて汗だくの一同も。

 天筒山裏手のように下馬するほどでもなかったが、まさか、こんなところで野営させられるのだろうか。

 病気になっちまうじゃねえか。

 やがては、虎御前山と雲雀山が見えてくる。

 小谷山の尾根をかたどる一大城郭はその向こう。

 川を渡って、森サンザの部隊が先んじて雲雀山に登り、信長本隊が虎御前山に本陣を構える。

 その間、我ら全軍は、浅井方が打って出てこないのを見るや、街道沿いの町家、山麓に点在する集落を焼き払っては、家々を破壊し、木材を剥がしては、米びつを強奪。

 百姓町人女子供を追い立てていけば、抵抗する者は突き刺していき、あるいは連れ去り、田畑に侵入すれば稲を薙いでは踏み荒らしていく。

 柴田勢傘下の沓掛勢も、例に漏れずに集落を襲っている。

「腹の足しになりそうなものはすべて奪い尽くせっ!」

 太郎が赤黒鞭を振り回しながら激を飛ばし、兵卒たちは軒並み土足で荒らし回る。鍬を振るってきた若者を四、五人で取り囲み、串刺しにする。老人や女子供を家から叩き出す。糠床や米びつを持ち出してくると、あとは放火して燃やす。

 バカな野郎は、黒煙がたなびくもとで、物陰に隠れて女を犯している。

 おれはクリツナの馬上、燃える村と、逃げ惑う人々と、追い立てる兵卒たちを、ただ眺める。

 小谷城下はすっかり煙の中だった。

「わ、若君は――、無慈悲な御仁ッス」

 シロジロがクリツナの口輪をぐっと握り締めながらも、惨状を目の当たりにして震えている。

「バカ言ってんじゃねえ。太郎だって好きでやっているわけじゃねえんだ」

「で、でも、ここまでやる必要あんスか」

「あるからやってんだろうが」

 おれとて、見慣れた景色じゃない。しかし、シロジロのバカを前にして、狼狽するわけにもいかないし、兵卒たちがいくら好き勝手しようとも、敦賀の地獄から這い上がってきた者たちの憂さ晴らしを止める資格は、おれには無かった。

 やらなければやられる。

 負けないためには勝つしかない。

 殺すしかない。

 という論理が、お天道様の下でまかり通るとおれは思えないが、おれたちは、所詮、悪人なのだ。

 こういう所業が、さゆりんやあいりんのようなひもじい人たちを生み出したには他ならないが。

 そのさゆりんも、太刀を手にして闊歩していた。

 家屋が倒壊し、火の粉が噴き飛んでくるのもいとわず、奇声と叫声が入り混じる中、甲冑に塗り固められた全身を研ぎ澄ませ、屈んで泣きじゃくっている子供の背後に歩み寄っていっていた。

 齢が十ばかりの、女児だった。彼女は道端に倒れている誰かにすがりついており、父親か、兄貴なのか、槍で突き伏せられて息絶えている。

 さゆりんは女児の背後に立つと、太刀を振りかぶったのだった。

「あっ!」

 と、シロジロが声を上げ、おれも目をそむけた。

「あ、あ、あ、あれは、よ、吉田殿じゃないッスかっ! あ、あそこまでする必要が、必要が、あるんスかっ!」

 女児は覆いかぶさるようにして倒れており、さゆりんはすでにいない。

「旦那様っ!」

「あいつにはそうする必要があったんだろ」

「あんまりッス……」

「ハンザの俸禄を頂戴していたにしろ、おれがそれを肩代わりしたにしろ、お前の商売なんて、こういう因果の延長で成り立ってたんだ。文句を言う資格はねえ」

 シロジロは涙目で狂おしそうにしておれを見上げてきていたが、ついに口輪を離し、掌を合わせて念仏を唱え始めてしまう。

 おれだって、あのさゆりんはさすがにやり過ぎだと思う。

 でも、同じような目に合ったさゆりんには、そうする必要があったのだろう。

 肯定はできないが、否定もできない。

 いくさなんて、いつだって後味が悪い。

 乱暴狼藉は日暮れまで続き、小谷城下は灰燼と化して、多くの人々は小谷城に殺到して逃げ込んだ。

 南伊勢で大河内城を落としたときのように日干しにする作戦だった。

 黒煙の昇り立つ空が深くなり、虎御前山の本陣に招集される。

「朝倉方は明朝に敦賀を出陣するとの物見の報せがあった。明日の日暮れまでには北国街道を抜けてき、木ノ本に着陣するであろう。木ノ本から小谷への進路を遮断するため、明日、ここ、山田山ふもとに佐久間勢、柴田勢は着陣し、木下勢は山本山に攻めかかる」

 おそらく、信長からの指示をそのまま口にしているだけだろう、サンザが一方的に決めていくばかりで、諸将の意見はひとことも受け付けず、軍議を成していない。

「徳川三河殿の軍勢は木曽川に差し掛かっており、着陣は明後日となる」

 軍議というより、命令だった。

 解散となり、虎御前山本陣からふもとの陣所に下りる。

 前を行くゴンロクが馬上から振り返ってきた。

「左衛門太郎。夜明けより進軍だ。朝倉方が攻めてかかってくるかもしれぬから、兵たちにはメシをたらふく食わせておけ」

「承知しました」

 ゴンロクは顔を戻し、相変わらず、おれには無しである。

 焦げ臭さが夜風に流れるふもとに下りると、ゴンロクとも別れ、太郎と並んで自陣に向かう。

 道中、太郎が言葉を漏らした。

「おやかた様はいささか急いているような気がしないでもありませんが」

「どうせ、佐久間殿やゴンロク殿が意見を申し立てたってくだらねえことしか言わねえだろうが。それに、言える空気でもねえし」

 自陣に戻ってき、太郎はゴンロクに言われた通りのことを組頭たちに伝えていって、おれは掘っ立て小屋に引っ込む。

 ハンザがお椀にいっぱいの粥と、たくあんを持ってきた。

「恐れながら、四郎次郎殿が一口も食さずにおりまして」

「放っておけ。野垂れ死ぬ野郎は、どこであろうと野垂れ死ぬんだ」

「岐阜に帰したほうが」

「じゃあ、おれがいくさは嫌だって言ったら帰してくれるか? 沓掛の兵卒がそう言ったら、お前は見逃してやるか?」

 ハンザは口をつぐんで視線を伏せる。

「あいつはおれに奉公しているんだ。おれだって織田に奉公しているんだ。何も変わりはねえだろう」

「申し訳ございません」

 ハンザはすだれを下ろし、具足を鳴らして掘っ建て小屋から去っていった。

 溜め息を漏らすと、粥をすすっていった。

 沓掛の連中に守られているだけの、お神輿のおれが偉そうに振る舞う資格なんてどこにもねえが――。

 三百貫を着服した罪滅しで、おれの盾となって死んでもらうかどうかはともかく、あいつが呑気に団子をこねていられるのは、おれや太郎や、ハンザや兵卒たちが、こうして血の池を泳いできているおかげだってことぐらいは知ってもらいたいものだ。

 いいや、知るべきだ。

 鼻クソと引き換えに騙し取られた三百貫文は、そのときに返してやる。

 論理のすり替えかもしれんが、本来なら、あの野郎自身が弾正ジジイに立ち向かうべきだ。それを泣き寝入りしたわけなんだから。

 楽をして生きようとするな、苦労を誇るな、困難があったら迎え撃て。

 その先に何があるかは、おれもわからんが。




 夕飯を食い終えると、明日もどうせ早いので、おれは具足を身につけたまま、掘っ建て小屋の茣蓙に寝っ転がる。

 蛙の鳴き声を鬱陶しく思いながらも、うとうととしてきた。

 が。

 がちゃがちゃと、ただならぬ足音が小屋に近づいてくるので、おれはすっくと上体を起こした。

「父上っ」

「どうした」

 太郎がすだれをがばりと引き上げる。

「早馬が届き、おやかた様が本陣に至急参上せよとのことです」

「え――」

 おれはあわてて刀と脇差しを差し込み、小屋を出て寝ぼけ眼のクリツナに跨る。

 と、膝を抱えてうつむいていたシロジロがあわてて立ち上がってきた。

「お前はいい。休んでろ」

 クリツナの手綱を手繰った。

 クロスケの馬上で松明を手にする太郎のあとについて、泥水の中をべちゃべちゃと進んでいく。

 ゴンロクを通さずに、おれに直接早馬を寄越すだなんて何事だろう。

 各所に陣を敷いている軍勢にあわただしい気配はなくて、かがり火の盛る虎御前山も小谷城も、夜空に覆われてわりかし静まっている。

 信長本隊の馬廻衆が要所要所にぎっしりと詰まった虎御前山を登っていき、小谷の山と、その城下が一望できる頂上までやって来る。

 陣幕の張り巡らされた本陣前には、小姓の竹が待ちわびていて、おれを見かけたなり、切り迫った顔ですっ飛んで来た。

「おやかた様がお待ちですっ」

 菊も飛んできた。

「早くこちらに」

 クリツナとクロスケは陣務めの小者に任せて、太郎とともに菊のあとを付いていく。

 虎御前山の馬廻衆はなかば休息しているというのに、竹と菊だけは青ざめた顔でいるのだった。何が起こったのかは、まったく想像できない。

 でも、唯一わかるのは、まずい事態だってことだ。

 屋根の被せられた陣所の奥に進むと、信長がすでに床几に座って待ち構えていた。

 他には小姓を一人従えているだけで、武将の姿は誰もない。

 上半身に籠手袖だけの信長の足下に、おれは飛び込んでいくようにして両膝を付ける。

「や、簗田左衛門尉、参上つかまつりましたっ」

 で、太郎もおれの隣に平伏したのだが、信長は恐ろしいがまでに機嫌が悪く、

「なにゆえ、こましゃくれがいる」

 と、獣の唸りであった。

「俺が呼び出したは牛のみだっ! こましゃくれは出ていけっ!」

「も、申し訳ございませぬっ」

 太郎は気圧されたかのように踵を返して去っていき、おれは地べたに支える両の手を震わせながら、信長の表情をうかがう。

 ぎらっ、と、おれを睨みこんできて、おれは肩をすくめた。

「貴様あ、どういうことだ、これは」

「えっ――」

 信長はおれの手元に開かれたままの書状をぶん投げてくる。

 まずい――。

 信長の目を盗んで働いてきた数多くの悪さのうちの何が知られてしまったのか。

 おれは震える指先を抑えられず、書状を手にするのも容易ではなくて、抱きかかえるようにして紙を持ち上げた。

 生唾を飲み込みながら、おれは文面に視線の先を注いでくる。

 差出人は足利義昭――?

 公方なんかになんら関わりのないおれは首をひねったが、内容を読み込んでいけば、震えは止まらなくなった。

 摂津池田で謀反が起きた、とある。

「う、嘘……」

 公方も浅井征伐に参加する予定だった。しかし、摂津池田にて謀反が起こった。

 池田筑後守が追放され、池田九右衛門知正なる者が当主となり、三好三人衆を後ろ盾にしているという噂もある。

 そのため、京を離れるわけにはいかなくなった。

 公方が信長に宛てた手紙の内容はそれだった。

 おれが魂が抜けていくようにして両手を下ろすと、信長は金切り声を発してくる。

「牛いっ! どういうことだっ!」

「わ、わ、わかりません――」

「貴様っ、池田九右衛門とやらを存じているのかっ!」

 おれはごくりと唾を飲み込み、信長の圧力に腰砕けになりそうながらも、混乱しきりの頭の中で必死に記憶をたどった。

 目付役として摂津池田で年越ししたのは、一昨年の暮れ、去年の明けで。

 そのころ、ヘタレ弥助の紹介で池田の連中に会っていった。

 その中には確かに池田九右衛門という奴がいた。

 あの青瓢箪の若僧を忘れていないのは、九右衛門が先代の当主の嫡男、筑後守の従兄弟だったからだ。

 つまり、後継者であったにも関わらず、先代の遺言により、当主の座を筑後守に奪われてしまった。

 だから、一族合議制のもと、派閥闘争に明け暮れてきたという池田一族の中で、池田九右衛門は危ない奴だと認識した一方、青瓢箪だから大丈夫かなとも思ったわけだった。

「ぞ、存じております。一度か二度、会ったことがあります」

「そやつは三好に通じておるのかっ! ああっ?」

 信長は白目を毛細血管だらけの真っ赤にして、ぎりぎりと奥歯を軋ませながらも歯を剥いて出してきている。

 おれは必死に考察する。

 青瓢箪だからこそ、神輿に担ぎやすかったのかもしれん。

 そして、筑後守の言葉がなんとなく思い浮かんできた。

 あいつは敦賀での退却戦の前夜、金ヶ崎城で言っていた気がする。

 簗田殿が自分の目を覚ましてくれただのなんだのと。

 おれがやったことと言えば、一族合議制で優柔不断な筑後守に、ワンマン経営を押し付けて、織田に降伏させたこと。

 筑後守の言葉は、ワンマン経営を貫いている表れだったのかもしれず、それがかえって一族の反発を招いた。

 それでもって、あいつらは、まだ織田に抗戦の構えでいるとき、三好の援軍を頼りにしていたわけなのだ。

 となると、三好三人衆が後ろで糸を引いている可能性は高いのだ。

 優柔不断なあいつらが、三好三人衆の後ろ盾を契機にして、筑後守を追い立てたのは間違いない。

 おれは、震えながら信長を見上げる。

「お、お、おそらく、つ、通じてます。み、三好に……」

 気付いたときにはぶん殴られていた。吹っ飛んでいた。

「存じていたのかっ! 貴様はっ!」

「い、いえっ! それはわからなかったッスけどっ、む、謀反を、起こしたってあれば、あいつらは三好を後ろ盾にしないと出来ないような連中ッスっ」

「くうっ」

 と、聞いたこともない呻きを信長は上げた。顔を真っ赤に染め上げ、拳を握り締め、肩を震わせ、半ば涙目で、おれを睨みこんでくる。

 殺される、と、おれは観念した。

「貴様――」

 信長は声を言葉にするのもやっとのようであった。

「これが、これが、どういうことか、貴様は、わかっているのか」

「お、お、小谷攻めは、ちゅ、中止ってことッス」

 信長は、小刻みに、二、三度、うなずいた。

「わかっているなら、いいだろう。貴様を目付役にしたなんぞ、本圀寺のための建前だ。貴様ごときがそれさえ知っているなら十分だ。誰も端から期待なんぞしてねえ」

 そうは言ってはくれても、信長の鬼のごとき形相は本心とも思えず、おれはしょんぼりとしてしまう。

「竹っ! 菊っ! 各陣に招集の早馬を放てっ!」

 陣幕の向こうの小姓連中に声を放ったあと、信長はしばらく陣幕に染め抜かれた織田木瓜の家紋を睨みつけていたが、ふいに疲れ切った顔を浮かべ、どっかりと落ちるようにして床几に腰を下ろした。

 おれは相変わらず這いつくばっている。

「も、申し訳ございません」

 信長は何も応えずに目を瞑っていたが、

「クソッ!」

 草鞋で地面を蹴飛ばして、土埃を舞わせた。


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