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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七、三章 征野、果てしなく
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新緑のみぎり

 織田は試練を迎えようとしている。


 浅井備前守の裏切りにより、織田勢が敦賀から引き上げてくるこの間、甲賀山中に身をひそめていた六角承禎が、南近江で放火を働いたのである。

 事態の収拾は一刻を争った。


 五月一日、上総介は京に戻っている。多くの公家衆から見舞いの言葉をかけられた。

 三日、殿軍が京に帰還。

 六日には、若狭国の仕置きを終えた丹羽五郎左衛門も舞い戻り、全軍が京に整った。



「よくやった」

 二条城大広間にて、上総介が決死の殿軍を務め上げた藤吉郎と牛太郎に掛けた言葉はそれのみであった。

 が、すでに徳川三河守や明智十兵衛から、笙川の激戦を聞いていた上総介である。

 堺会合衆の今井彦右衛門に火縄銃一千丁の調達を命じたのだった。

 これにより、今井彦右衛門は、牛太郎とのあいだに取り交わした一万貫の約束手形を放棄したのだが、それはともかく――。

 上総介は、浅井・朝倉が京に進出したときの押さえとして、大津近くの宇佐山に城を築くよう森三左衛門に命じる。

 のち、自らは、五月九日、岐阜帰陣のため二万の軍勢とともに京を発った。



 かつて、観音寺城を追われた六角承禎は、甲賀の土豪や半農半兵の地侍などを従えて蜂起していた。

 それら軍勢は江南へと北進。落窪城おちくぼじょう周辺に兵を集結させる。

 さらに、浅井備前の援軍が鯰江城なまずえじょうに入った。

 湖岸では一揆が引き起こる有り様となっている。


 岐阜を空けておけない上総介であった。

 南近江山中、蒲生郡の豪族たちに安全を要求し、近江から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと繋がる千草街道に進路を取る。

 このとき、西美濃三人衆の一人、稲葉彦四郎を一揆の制圧に向かわせる。

 六角承禎への対策としては、永原城に佐久間右衛門尉、長光寺城に柴田権六を置いたのだが――。


挿絵(By みてみん)


 亭主殿


 心地のよい風が吹く日和、庭に鳥が参るようになりました。亭主殿や太郎もおらず、馬どももおらないので、小雀がよく馬屋でさえずっております。

 亭主殿は敦賀の夜をいかがお過ごしでしょうか。

 わらわたちは、つつがなく暮らしておりますが、あいりが子を身ごもって、貞も年かさゆえ、女中を一人、増やすこととしました。

 かつ・・という、齢が三十二の、貞の従姉妹の娘にて、姉上の身の回りに仕えていた者ですが、姉上も倅殿が大きくなって、身軽になったとおっしゃってくれたので、お言葉に甘えて頂戴しました。

 かつは寡黙なおなごでございますが、働き者でございます。亭主殿も優しくしてやってくだされ。

 それにしても、敦賀とはいずこの地なのでしょう。

 家の者が皆、知らないので、おねね殿やおまつ殿にも訊ねてみましたが、やはり、わからずじまいです。

 遠いところなのでしょうか。

 亭主殿と太郎、それに配下の者たちのご無事を御仏に祈りながら、お帰りをお待ちしております。

 なにとぞ、ご無理はなさらぬよう。


 梓




 帰京して手紙を受け取って以来、おれは返事を書けずじまいであった。

 敦賀郡の退却戦から二十日ぐらいが経っている。

 信長とともにおれたち沓掛勢も岐阜への帰路に着いていたが、六角がゾンビのようにして復活してしまったために足止めを食らい、それなら鈴鹿の山越えと相成ったわけだが、沓掛勢は長光寺城というところにいる。

 最悪の事態だ。

 連中を早く沓掛に帰してやりたい。

 死んだ奴の家族にどうやって説明すればいいかわからないから帰りたくない、という卑しさも持ちあわせているが、それでも、兵卒たちはくたくたなのだ。

 それでいて、六角ゾンビの相手もしなくちゃならない。逃げ出す奴が出てきたっておかしくないんじゃないか。

 しかし、太郎の目はぎらついていた。敦賀から先に脱したときよりも、さらに。

 退却の折、信長のそばに付き従っていたため、親分の機嫌の悪さが伝染してしまったのか、それともマタザやウザノスケみたいなDQNどもと一緒にいたので感化されてしまったのか。

「松永弾正のジジイに変なことを吹き込まれなかったか」

「いえ。弾正殿は無駄なことを一切口にしませんでしたし、弾正殿が近江高島の朽木弥五郎殿を調略していなければどうなっていたことか」

 敦賀からの退却路、高島郡の朽木弥五郎という奴が、浅井新九郎殿に通じている可能性があったらしく、そこを弾正ジジイが単身乗り込んで、朽木を説得したらしい。

 おおかた、自分の命惜しさのために調略したのだろう。

 決して信長のためにやったことじゃない。

 現に弾正ジジイは奈良に引っ込んでしまった。信長のためなら、ゾンビ退治にも出陣しろって話じゃないか。

 まあ、池田筑後守も北摂津に引っ込んでしまった。

 おそらく、この混乱に乗じて、またぞや、三好三人衆が四国から乱入してきそうだから、弾正ジジイも池田筑後守も畿内の守りを固めなくちゃならないってわけだろうが。

「それにしたって、おかしいと思わないか。今までどおりならゴロザ殿と一緒に京に残ったっていいじゃねえか。それを、ここで、あんな奴と一緒に」

 というと、マリオは、若狭国の仕事を残しているために京都に駐在している。

 おれはゴンロクの傘下になってしまっているのだ。

「こちらのほうが理に適っているのだから仕方ないではありませんか。なにしろ、父上の奥方は、柴田様の妹御なのですから」

「おれとゴンロクの仲が悪いってのはおやかた様だって知っていることだろうが。誰かが余計な口出しをしたんじゃねえのか」

 おれはそいつがゴンロク自身だと思っている。ゴンロクが信長に依頼したんじゃないかと。

 なにしろ、瀬田を渡ったあとの陣中での軍議のさいに、沓掛勢をゴンロクの下に組み敷くと信長が初めて言ったのだが、そのとき、ゴンロクは嫌な顔を一つもしなかったのである。

 敦賀での退却戦にて、鉄砲隊が大活躍したのを耳にしたあの野郎は、それをテメエの手柄のために利用しようと企んだに違いねえ。

 おれが妹婿だっていう口実もあるわけだ。

 信長が、褒美代わりにと、火薬や弾丸を大量に補填してくれたが、六角方相手に三段撃ちを使う気はさらさらない。

 あれだけおれを虚仮にしてくれた野郎の手柄取りに利用されてたまるか。




 長光寺城の山から眺める景色は、五月雨に霞んでいた。

 二年前に陥落させた箕作山やきぬがさ山が、雨の向こう、黒ずんだ緑となって濡れている。

 浅井方が兵を入れたという鯰江なまずえ城とやらは、愛知川の対岸に位置しているらしく、二年前にあちら側に陣取っていたのは織田勢だったというのに。

 浅井新九郎殿が裏切るというのは、歴史の流れからするとわかっていたわけだが、こういうことになろうとはおれは予想できていなかった。

 そもそも、どうして、新九郎殿は信長を裏切ったのだろう。

 信長が、浅井の盟友である朝倉に攻め入ったからと、大半の将は見ているが、おれはどうも腑に落ちない。

 たったそれだけで、あの新九郎殿がこうも牙を剥いてくるものなのだろうか。

 それとも、これが戦国乱世というものなのだろうか。その人の人間性や、情などは、大きすぎるうごめきの中に飲み込まれてしまうのだろうか。

 おれとて、もはや、飲まれてしまっている。

 百人もの手下を犠牲にした敦賀でのいくさから、まだ一ヶ月も経っていないというのに、あのときの怒りや悲しみ、後悔は、降りしきる雨が泥としていくかのように、心の奥底に埋没している。

 今、おれは早く岐阜に帰りたい。早く生き残りたい。

 残酷な出来事は忘れたい。

 純粋な欲望が、敦賀でのいくさを昔のことにしてしまっている。

「帰りたければ帰ってもいいんだぞ」

 おれが言うと、隣のさゆりんは顔を持ち上げきて、兜の眉庇から雨しずくを二、三滴ほど垂らした。

 猫目の瞼を切り上げて、きつく眺めてくる。

「どこにや」

「六角は甲賀の連中を連れているんだろ」

「私とは関わりのない上忍家の者や。それやなくても、帰るところなんてあらへん」

 おれは吐息をついた。

「なんなん」

「そういう、突っ張った声を出すな」

 ふもとの景色に背を向けて、おれは曲輪の縁から陣屋へと戻っていく。

 勝手かもしれないが、敦賀以来、さゆりんが沓掛勢の将であることがとても嫌である。

 敦賀に死んでいった百人には大変申し訳ないが、さゆりんがいつああいうふうになってしまうか考えると胸苦しいのである。

 だって、あいつが馬から落っこちたとき、おれとクリツナがいなかったら死んでいたじゃねえか。クリツナが吹っ飛ばさず、おれが斬り殺さなければ、さゆりんの体こそが右と左に分かれちまったじゃねえか。

 もちろん、さゆりんは、おれがそんなことを言っても聞く耳を持たず、簗田勢の武将をやるのだろうが。

 と。草鞋のままに陣屋に足を掛けたところ、

「どうされました、オヤジ殿。浮かない顔をして」

 背後から生意気な声が聞こえてきたので、足を止めた。

 糠雨をいとわずににたにたと笑っているのは、佐久間理介とかいうマタザ系ゴリラである。齢十六のガキである。

 背丈がおれと同じぐらいのマッチョだが、おれとまったく似ていないのは、往年のマタザのようにして、イケメンなところだ。

「おれはお前のオヤジじゃねえ。その呼び方はやめろ」

「左衛門太郎殿のオヤジ殿ではありませぬか。出来の良い左衛門太郎のオヤジをやっているオヤジ殿」

 色白の肌に目立つ赤い唇を、にやにやと歪めており、つまり、このクソガキはおれをバカにしてオヤジ殿だなんて言っちゃってくれているわけだ。

 バカが。

 おれは無視して陣屋に上がり込み、手ぬぐいで甲冑のあらかたを拭うと、腰のクニツナとアケチソードを外して、刀掛けに置く。

 文机を引っ手繰ってきて、硯に墨を入れる。

 ようやく、梓殿への返事を書く気になれた。生意気クソガキをボコってもらおう。

 しかし、理介のクソガキは自分の家のようにして陣屋に上がり込んでき、おれの前にどっかりとあぐらを組む。

「おい。なんだテメー。びしょびしょだろうが。ちゃんと拭けコラ」

 手ぬぐいを放り投げると、理介はにたにたと笑うままに甲冑を拭いていく。

「今からな、お前のその生意気な行為を梓殿に言いつけてやるからな。フン。お母さんにさんざん怒られろ、バカが」

「おふくろは俺にとやかく言いませぬ」

「ほう。お母さんに甘やかされたからテメーはそんなに生意気なんだな。だったら、梓殿に折檻させてやる」

「何を。叔母上とて女ではありませぬか。オヤジ殿は女に頼らなければ、俺すらも叱れませぬか?」

「叱ってるだろうが。それをテメーが言うこと聞かねえからだろうが」

「ならば力ずくで叱ればよいではありませぬか」

「ナメてんのかこの野郎。テメーがいくら腕白だからってな、おれに拳の一発でも入れてみやがれ。テメーを織田に居れなくしてやる」

「よく言いますね。叔父御にも長老にも忌み嫌われているオヤジ殿が」

 相手にしてられん。

 おれは筆の先を墨につける。

 顔立ちが梓殿にどことなく似てしまっているこのバカは、それもそのはず、梓殿のお姉さんの倅なのである。

 梓殿のお姉さんは、長ヒゲ佐久間の従兄弟の佐久間久六郎という人に嫁いだそうで、こいつが長老と言ってなかば小馬鹿にしているのは、佐久間一族の家長である長ヒゲ佐久間のことで、叔父御はゴンロクなのである。

「オヤジ殿は女のような字ですな」

 理介はいちいち覗きこんできて減らず口だが、どうやらこいつが生意気なのはおれに対してだけではない。

 太郎から聞いたところによると、長ヒゲ佐久間やゴンロクに対してでも同じ振る舞いだそうだ。

 こいつの親父さんの佐久間久六郎殿は、二年前の初めての上洛のときに病気で死んでしまい、一応ながらこいつが跡を引き継いだのだが、去年頃、長ヒゲ佐久間が手に負えず、ゴンロクに押し付けたらしい。

 それでいて、この前の天筒山攻めの折、ゴンロクの制止も聞かずに勝手に敵方に突っ込んでいったらしく、ゴンロクが太郎に曰く、誰に似たのだか、左衛門太郎のように振る舞ってもらいたいものだ、と、こぼしていたそうで。

 おれが長ヒゲ佐久間やゴンロクに忌み嫌われている以上に、このバカは一族の爪弾き者なのである。

「オヤジ殿の耳に入れようと考えて参ってやった次第ですが」

 クソガキがたいそらぶっているが、おれは無視し、理介をボコってくれるよう筆で書き連ねていく。

「永原城の長老から伝令が届き、六角方が押し寄ってきても籠城策を取るつもりですよ」

「だから、なんだ。それでいいだろうが。おやかた様が岐阜に戻る道中、敵を引きつけておいて何が悪い」

「たかだか百姓風情に籠城ですか?」

 筆を止め、そして、放り投げた。

 おれが睨みつけた理介の瞼は、少年の幼さ、女のように澄み上がった目許に支えられて黒玉の瞳、しかしながら、血気で目尻が切れ上がっている。

「お前な。百姓風情って、指揮しているのは甲賀の地侍とか浅井方の将だろうが。槍を持ったら誰だって必死なんだぞ。むしろ、兵卒なんかよりも必死かもしれねえんだからな」

「こんなところで足止めを食っているならば、早々と蹴散らすべきですわ。おやかた様は岐阜に戻れば、浅井・朝倉と決戦を仕掛けるに違いありませぬ」

「お前みたいなバカは相手にしてられん」

「叔父御に注進するべきです」

「おれの言うことなんか聞くはずねえだろうが。太郎の言うことなら聞くかもしれねえけどな。太郎に言え。どうせ反対されるだろうがな」

「左衛門太郎殿は耳を貸してくれなかったのですわ」

 おれは鼻で笑い上げた。

「なら、命の無駄遣いをしようとしているのはテメーだけだろうが。おれにお願いしたところで無駄だ。よく考えろ」

「それでも金ケ崎で殿軍しんがりを務めた男ですか?」

 理介はにたにたと笑いながら、瞼を見開いて挑発してくる。おれは溜め息をつき、書き上げる途中の手紙を折りたたみ、梓殿に告発するのは保留してやることにした。

「殿軍を務めた人間だからだ。おれはお前の言うことに聞く耳なんて持たねえ。とっとと出てけ」

 理介はおれとしばし睨み合ったが、舌打ちをつきながら腰を上げ、かちゃかちゃと陣屋から去っていった。




 その二日後、六角方が長光寺城まで押し寄せてきたのだが――。

 かつて、おれと梓殿の祝言の間際、迎え役うんぬんでおれの屋敷にやってきたことのある、ゴンロクの甥っ子のイスケの親父、吉田次兵衛が、軍議にて深刻な顔つきで報告した。

「水源が断たれました」

「何っ?」

 上座の床几にどっかりと腰を据えていたゴンロクは、たちまち顔を青ざめさせて、どういうことだと次兵衛のオッサンを問いただす。

 長光寺城は井戸水がないので、搦手の谷に櫓を立てており、そこから桶を吊るして水を汲んでいた。

 今日になって水を汲もうとしたら、谷底の川が干上がっており、おそらく、六角方の手の者が上流で堰き止めてしまったのだと。

「残りの水は、あちらに並んだかめの中身のみです」

 次兵衛が指差した先、おれや太郎の他、ゴンロクの手下ども七、八名が顔を向けると、広間続きの庭先にはご丁寧に大瓶が三つ並んでいる。

 雨が降っているなら雨水でも――、と、言いたいところだが、糠雨はすっかり消え失せており、空はのんびりと白い雲を泳がせているのであった。

「柴田様。あれしきでは三日も持ちません」

 と、太郎が言えば、ゴンロクは眉間をしかめ、唇を噛みしめる。

 すると、末席に加わっている理介が、待ってましたとばかりに瞼を広げた。

「左様。水源を失ったのならば、叔父御、打って出なければなりませぬぞ」

「何を抜かしておるか、たわけ。敵の思う壺だ」

「あれは壺ではなく、水瓶ですがな」

「黙れっ!」

 ゴンロクがブチ切れたが、理介は鼻を鳴らして意に介しておらず。

 おれはどっちもどっちに冷ややかな視線を向けるだけ。

 ゴンロク主体の軍議でおれが発言したところで、ゴンロクは逆を言うだけだ。

 おれは一切口を開かずに、常に置き物となっているだけだった。

 ゴンロクもゴンロクで沓掛勢への指令はおれではなく、太郎に伝える。

 おれはもはや空気である。

「とにかく物見を走らせろ。次兵衛、水が堰き止められている訳を探れ」

「かしこまりました」

「叔父御。物見を走らせると申したって、城は敵方に囲まれているではありませんか」

「理介。お主は黙っておれ」

「左衛門尉殿も打って出るべきだとぼやいておりましたよ。義兄に欠けているものは勇敢という二文字だとも」

 理介のバカが何かをほざいているので、おれはあわてて腰を上げる。

「おいっ!」

「なにい?」

 ゴンロクがすかさず髭面の形相を真っ赤にし、せっかく空気になっていたというのに、おれは両手をとにかく振って弁明するしかない。

「そんなこと一言も言ってないッスよっ。言うわけないじゃないッスかっ。理介の野郎が勝手に言っているだけッスよっ」

「申していたではありませんかあ」

「この野良牛が……。殿軍を果たしたからと言って調子に乗りおって……」

「言ってないッスよっ! あっしだって籠城するべきだって言ったんスよっ!」

 しかし、柴田勢の諸将は、常日頃からゴンロクに吹き込まれているのかどうか、おれを疑うような冷めた視線を送ってきている。

 太郎でさえ、おれがいつもゴンロクの悪口を叩いているせいか、苦虫を噛み潰したような顔つきでいる。

「勘弁してくださいよっ! あっしは無実だっ!」

「わしが気に食わぬなら、お前が一人で打って出ればよかろうがっ!」

「だから言ってないって言ってんじゃないッスかっ!」

「そうだっ。そうするべきだっ。左衛門尉殿、俺と二人で打って出ようではありませんかっ。こんな腰の引けた連中たちとともにやっていられませんぞっ」

 こんなときにだけ、図々しくも左衛門尉殿だなんてかしこまりやがって――。

「クソガキっ! ふざけんじゃねえっ!」

 怒髪天突き抜けて、おれは理介に駆け込んでいって右ストレートパンチを繰り出してやった。

 が、ひょいっとかわされてしまい、そのまま、おれのデブ体型はイケメンゴリラに担ぎ上げられて庭先へと放り投げられてしまう。

 理介のバカは狙っていたのかどうか、おれは瓶のうちの一つに激突し、

「あっ!」

 と、諸将が立ち上がって声を立てるも、時すでに遅し。

 水瓶はごろりと倒れた。しかも、綺麗なドミノとなって、三つすべてが倒れてしまった。木蓋が外れ、貴重な水がだくだくと流れ出た。

「み、水がっ!」

「は、早う起こせっ!」

 諸将があわてて広間から駆け出てくる。瓶を起こしていく。

 おれは無表情で両手を上げ、無罪を表明する。おれは悪くない。理介のせいだ。

 しかし、ゴンロクは拳を握ってわなわなと震えている。

「は、半分もございませんっ」

 吉田次兵衛の悲痛な声を受けて、諸将は溜め息をつく。おれを睨み、理介を睨み、ゴンロクの顔色をうかがうも、筋の細長い鼻を突き上げながら、理介が得意げに笑う。

「左衛門尉殿のせいで無くなってしまった。これは叔父御、早急に打って出なければなりませぬな」

「うつけがっ!」

 ゴンロクは鬼の形相で理介をぶん殴り、どかどかと庭先に駆け下りてくると、おれに突進してくるので、

「あっしは無実ッスよっ!」

 後ずさりしながら両手で塞いだが、ゴンロクが血走り目で放ってきた右フックに吹き飛ばされた。

「もはやどうにもならんっ!」

 ゴンロクは発狂しており、自分の体ぐらいはある水瓶を馬鹿力で持ち上げてしまい、地面に叩きつける。割ってしまう。破片と水が一挙におれに飛んできて、おれは逃げ惑う。

「うつけどものせいでっ!」

 大猿の親玉みたいにして真っ赤な髭面で瓶を次から次に叩き割ってしまうと、

「今日の水さえも無くなってしまったわっ! 打って出るしかなくなったわっ!」

 もう、何かのたがが外れてしまったみたいにして、笑いながら吼え上げていた。




 ゴンロクが発狂した直後、六角方から使者がやって来て、将兵の命と引き換えに長光寺城を明け渡すよう勧告してきた。

 使者は、水源を失ったからもはや籠城できないだろうと、したり顔であり、ゴンロクの怒りに火を注いだ。

 ゴンロクは鬼のような顔つきで、さきほど水のぶち撒けられた庭先を指差し、

「水などようあるわ。今日は暑くなりそうゆえ、水を打って涼んだところだ」

 と、意地を張った。

 使者はゴンロクの言葉を信用してしまったらしく、首をひねりながら長光寺城の山を下りていった。

「夜襲だ」

 夕刻の軍議でゴンロクは目を血走らせて言う。

「どこぞのうつけどものせいで、負けるにせよ、籠もるにせよ、どちらにせよ死ぬしかなくなったのだ。お主ども、生きたいのなら張り付いている六角方を蹴散らせ」

 そういうわけで兵卒たちを連れて、火もかかげずにひそひそと山を下りていき、評定で決められた通り、かがり火のもとで休んでいる敵方目掛け、沓掛勢の鉄砲隊が火蓋を落とす。

 突如として一斉射撃を食らった敵方は大いに混乱し、足軽兵卒を従えて突っ込んでいった太郎が掻き乱した。

 太郎が跨るクロスケは、クリツナ同様、怪獣のような暴れようであり、涎をまき散らしながら敵兵を蹴飛ばしては踏み潰し、頭で跳ね上げて吹き飛ばし、馬というより、殺人動物であった。

 しかも、そこに跨っているのがおれではなくて、太郎なのだ。

「我こそが簗田左衛門太郎よっ!」

 実に優雅に槍をくるくると回しながら、穂先で斬り裂き、槍柄でぶん殴り、

「撃ていっ!」

 早之介の掛け声とともに援護射撃が繰り出され、

「お主らなど物の数にも入らんっ!」

 敦賀のいくさで一回りも二回りも強くなってしまったハンザが次々と薙ぎ倒していく。

 さらに敵方にとって想定外だったのは、髭むくじゃらのゴリラがとてつもなく怒り狂っていたことだった。

 理介の嘘を信じてしまっているのか、見境を失って猪武者と化してしまったゴンロクは、自らが槍を取って敵方に突っ込んでいき、大将のそれに兵卒たちが奮い立たないわけもなく、

「舐め腐りおってっ!」

 と、槍を振っては首を撥ね飛ばし、槍を突いては頭蓋を貫いてしまうゴンロクのブチ切れようの前には、どんな猛将も霞んで見えた。

 ゴンロクが最前に立っているので、おれも仕方なしにクリツナを暴れさせていたが、

「臆病などと誰が言ったかっ! わしは柴田権六ぞっ!」

 ゴンロクの怒号が聞こえてくるたびにおれは震えてしまう。

 そもそも、臆病だなんて、理介の嘘のうちでも言っていないというのに。

 当然ながら、ゴンロクには梓殿と同じ鬼神の血が流れているわけで、どうやら、社会に適合するための制御装置が外れてしまうと、デザイアと似たようなものになってしまうらしい。

 ゴンロクをけしかけた張本人である理介も、馬上で槍を振るっては、

「どうしたっ! それしきのことで我らに適うと思ってたかっ!」

 返り血を受けつつ白い歯を見せて笑ってしまっており、やはりデザイア一族、だったら、こいつらが敦賀の殿軍を務めれば良かったじゃねえかと半ば腹さえ立ってくる無双ぶりであった。

 たちまち、長光寺城を包囲していた六角方の手勢は散り散りに逃げおおせてしまい、敵方が烏合の衆であったとかではなく、まったくもってゴンロクの怒りの気迫がそうさせてしまった。

 これは、早急に梓殿に手紙を出さなければなるまい。

 ゴンロクが理介の嘘のせいで勘違いしているからどうにかしてくれと。



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