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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七、二章 決死戦を越えろ
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貫け。己を

 軍議はさらに続いた。

 織田の全軍が笙川しょうかわを渡り終える頃合いと、殿軍しんがりが陣地構築する頃合いを、サンザとすり合わせる。

 木ノ芽峠に着陣している十兵衛宛てに事のあらましを伝える手紙を書きしたためる。

 鉄砲隊を防備するための柵を築こうとも半兵衛が発言し、その他もろもろある程度の決心がつくと、笙川の迎撃地点を決めるとなって、クマ六と小一郎、それにさゆりんが、先に金ケ崎山を下りた。

 そのあいだ、おれはずっと一言も喋れないでいた。

 皆が皆、自分の意見を忌憚なく発言していたが、おれだけは傍観者に化してしまっている。

 意見というのは無いし、いくさのあれこれがわからないし、それどころか、冷静になって思案するのもできない。

 おれはおののいているのだった。

 床几にじっとして座っていたが、気分は、サルや半兵衛、さゆりんたちにしがみついているようなものだ。

「ここで生きれば大手柄だな」

 筑後守がうそぶけば、サルは天井を仰ぎ、

「にゃあ……」

 と、言ったきり何かをぼんやりと眺めた。

 おれは席を立つ。

「厠へ」

 尿意なんかもよおしていない。

 館の外に出て、得体の知れない空気から逃れたかった。

 殺伐としているのでもなく、意気込んでいるのでもなく、決意や、不安や、覚悟や、恐怖や――、ありとあらゆるものがないまぜになった、ほの暗い漂いにおれは耐え切れなかった。

 どうして。

 おれは、それなりに自負していた。おれは何度も修羅場をくぐり抜けてきたはずだった。

 桶狭間のときだって。

 調略のために美濃を歩き回っていたときだって。

 武田信玄に命を狙われても逃げてこれたのだ。

 池田城では投獄されたところから、たった一人でひっくり返したのだ。

 その日、そのとき、いつも、不安や恐怖に襲われて、それでも踏み出してきたのだ。

 何事も克服してきたのだ。

 だが、今、味わっている不安や恐怖は、これまでに感じてきたものと、種類がまったく違う。

 なにせ、おれが今まで切り抜けてきた修羅場とは、たった一人で突っ込んでいった修羅場だった。

 寄せては返す海のさざめきが聞こえてくるとともに、春のものとも夏のものとも定まらぬ生ぬるい夜風が吹いてくる。

 ここは、越前国敦賀郡金ケ崎。

 たった一人で突っ込んでどうにかなる場所ではない。

 下手を打てば、全員を死なせてしまう。

 頭上を仰げば夜空は晴れていたが、月もなければ、星はかすみがかっている。

 あの日、発ったとき、岐阜はどんな星空だったろうか。

 まだ、冬だった。澄み渡っていたはずだった。

 厳しい寒さに嫌になっていたはずなのに、今は岐阜の冬空が恋しい。

 たいがい後悔しているのだ。

 その季節がやってくると、次の季節を待ちわびて、次の季節がやってくると、その次の季節を待ちわびる。

 あれだけ憧れていた季節も、思ったより暑かったり、寒かったり、つまらなかったり――。

 過ぎ去った季節をもう少しは味わっておけば良かったなどと。

「どうした、牛殿」

 歩み寄ってくるのはサンザだった。

 おれはうつむいてしまう。

 吐露してしまう。

「サンザ殿のおっしゃった通り、あっしは血気はやっていたうつけだったようです。正直、岐阜に帰れるかどうか、今は怖いです」

「そんなものだ」

 サンザは笑った。

「だが、お主には絶好の機会なのだろう? あれだけ強情を貫いていた火縄銃を発揮するための」

「いまさら恥ずかしいッス」

「何を言うか、たわけが」

 サンザは縦長烏帽子だけの兜を被っていないおれの頭にゲンコツを打ち落としてくる。

 おれは頭をかかえてうずくまる。

「いって……」

「忘れたか。陽気の発するところ金石もよく透おす。精神一到何事か成らざらんのだ」

「飾ってあるッスよ。うちの広間に」

「存じておる。お主と梓の祝言のときに見かけた」

 闇のうちでサンザは白い歯を見せてきていた。

 頭をおさえながら上目に睨みつけていたおれであったが、サンザのその笑みに、頭の痛みもなんだか染み入ってきてしまう。

「貫け。己を」

「はい」

 おれが腰を上げると、サンザは分厚い手で肩を叩いてきた。

 おれはしみじみと感じながらも、訊かずにはいられなかった。

「こう言っちゃなんですが、あっしは聞いたんです。ご嫡男が討ち死にされたって。でも、サンザ殿は、どうして、そんなに強いんスか。あっしは聞くまでまったくわからなかったッス」

 すると、サンザは微笑を浮かべ、吐息を長やかにつくと、諭すように言うのだった。

「わしは強くなどない。ただ、武士なだけだ。お主は違うのか?」

 おれは唇を噛んだ。

「誰だって怖い。後悔もする。嘆く。悲しむ。見ただろう、あのおやかた様を。普段は豪気でいるおやかた様でさえ、あの取り乱しようなのだ」

 だが、と、言葉を繋げながら、サンザはおれの目を真っ直ぐに覗きこんでくる。

「男というものは、その立場を貫かなければならぬ。貫くために、もがき苦しみ、血みどろになっても、這いつくばって立たなければならぬ。おやかた様はおやかた様の立場に、わしはわしの立場に、そして、お主は簗田左衛門尉という立場に立つのだ。そのためにお主は戦うのだろう。だったら、貫け。死ねとは間違っても言わん。ただ、貫いてみせろ」

「はい」

 いい大人のくせにやけに素直になってしまったおれであり、いい大人のサンザに返せる言葉はそれだけだった。




 拝啓 梓殿


 いくさの前に孫ができると聞きました。

 つねひごろより太郎は間の悪い息子です。

 もっとも、あいりんもそんなところだったのでしょう。

 あっしが孫だなんて、どうにも実感が湧きません。

 いや、梓殿がお祖母様というのも、どこか笑ってしまいます。

 しみじみ思うのは太郎はもうそんな年齢なのかと。

 てっきり、いつまでも子供の太郎だったのですが。

 またぞろ太郎に叱られるところでした。

 すっかり春は残りの花に。ここは敦賀の夜です。


 敬具 政綱




 寝付けない敦賀の夜だった。

 戦国時代にやって来てからこれまでの、ありとあらゆる出来事を思い出すばかりだった。

 特に梓殿のことばかりを思った。梓殿との出来事ばかりに振り返っていた。

 しかし、振り返るにしても、あの人とのあいだにはたくさんの出来事がありすぎる。

 おれが巡らせる記憶の映像は、ホームビデオでもないのだから、あのころを思えばそれはふいに途切れてまた違うときを思い出し、それもまた曖昧な記憶となっていて、また違うあのときを思い返す。

 けれども、記憶が一貫して通ずるのは、どの梓殿もおれの愛しい梓殿であることだ。

 デザイアになっていたときも、鬼神になっておれをボコボコにしたときも、今はもうすべてが愛しい。

 おれが岐阜を出るとなると、梓殿は毎度言っていた。聞き飽きたぐらいに、毎度、毎度。

 無茶だけはしないでおくれ、と。

 彼女のすがりつくような表情が、おれの胸をしめつけさせる。

 怖い。

 梓殿を残していくのが怖い。

 すぐに機嫌を損ね、なかなか許してくれない彼女のことだ、おれが死んだとあらば、延々と泣き続けてしまうかもしれない。

 ずっと、寂しい思いでいるはずだ。

 梓殿を残して死にたくはない。

 つまり、おれは覚悟なんてできていなかった。

 自分は死なないと思っていた。戦国時代に来る前からずっとそうだった。

 テレビのニュースで殺人事件が報道されても、ぺしゃんこになった自動車がモニターに映し出されても、大地震で町が焼け野原になっていても、原子爆弾がキノコ雲を作っていても、死体が転がっていても、おれには関係のない死の世界だった。

 人とは違う、何か特別な力が自分だけに働くものだと無意識ながらに妄信し、死というものはおれの死ではないと、錯覚していた。

 ただ単に実感したことがないだけ。

 そんな半端な感覚で戦国武将をやっていただなんて、愚かにもほどがある。

 梓殿がおれの出立のたびにあれだけしつこく、さゆりんがあれだけ口やかましく、太郎があれだけ怒り狂っていたのは、みんな、この時代に産まれて生きてきて、死を身近に知っているからだ。

 一方で、おれはというと、殺人を目の前で何度も見てきたというのに、どれだけ鈍いことやら。

 身近な死を知らなかったからだろうか。

 サンザの息子が討ち死にしたと聞いて、サンザのあの達観してしまった表情を目の当たりにして、おれは初めて身近な死を知ったのだろうか。

 死は誰にも振りかかってくるものだと。

 いまさら――。

 まるで言葉を覚え始めた赤ちゃんみたいだ。ようやく戦国武将をやり始めようとしているようなものだ。

 ひたひたと歩み寄ってくる死を感じ取れば、背すじが震え、頭の中が真っ暗になって、なんの覚悟もできていない。

 死ぬってなんなのか。

 痛いのか、苦しいのか、見ていた世界はどうしてしまうのか。

 真っ暗になってしまうのか。

 梓殿に好きだと伝えたくても伝えられないのだろうか。さゆりんと罵り合えないのだろうか。太郎と喧嘩できないのだろうか。

 今までの思い出は、今ここにある気持ちは、どこに行ってしまうんだろうか。

 おれはそんなこともわからずにテメエの勝手で突っ込んできやがったわけだ。

「駄目だ」

 茣蓙から起き上がり、おれは闇を見つめ、呼吸を荒げながら、一人つぶやく。

「駄目だ。まだだ、まだ、おれは」

 死ぬわけにはいかねえんだ。

 何もわからずじまいで死ぬわけにはいかねえんだ。

 おれは闇雲に右手を探ると、刀を握りしめ、刃物を鞘からおもむろに抜いてきた。

 光の失われた掘っ建て小屋で、おれが両手で握る真剣は、闇さえも裂いてしまうかのような粛然とした反りで立っている。

 ところが、いつもはおれの一部となって脈打つくせに、柄から伝わってくるのは、おれをあざむくような白々さだ。

 本当に天下に名高い刀工がこしらえたものなのか、やっぱりどこぞのボンクラがこしらえたものなのか。

 どちらにせよ、こいつはただの刃物のくせに、命を粗末にしない人間は好かないらしい。

 小憎たらしいほどの。

 おれは口許を歪めて笑う。

「テメーにはわからねえだろうが、おれには知る必要があるんだ」

 そう。たった一人でやって来たならば、死を知る必要はないかもしれん。

 けれども、もはやおれは、いつぞやみたいに一人じゃない。

 死んだらどうなってしまうのか。

 いずれは死ぬのにどうして生きるのか。

 おれの勝手でたくさんの人を巻き込んでしまったならば、生死の行方に納得できないまま、死ぬわけにはいかない。

「おれに買われたテメーはそれに付き合う必要がある」

 おれは腰を上げ、刀を鞘におさめると、掘っ建て小屋の外に出る。

 兵卒たちが地べたに寝転がって、あるいは膝を抱えて首を垂らしており、かがり火の薪の割れる音が、はっきりと聞こえてくる静けさだった。

 かすむ星空。

 もしや、この夜空には、光り輝いていない星もあるかもしれない。

 真っ暗で、冷たくて、宇宙の闇に飲み込まれている星が。

 そういう星があるのかないのかの判断は、おれの人生において、永遠に不可能だろう。

 だが、判別することだけが理解の手段ではないはずだ。

 夜空のあそこの暗いところはなんなのか、自ずと知れていくだろう。

 自分がなんなのか、わからないなりに追い求めていけば。

 貫け。己を。

 成功や失敗があったとしても、それはきっと正解か間違いかではなく、歓喜も後悔も自分を確固たる自分として存在させるための試練にすぎない。

 勝利か敗北かは、試練に耐えられるか耐えられないかだ。

 宇宙の闇に飲み込まれてしまう運命であったとしても、おれたちがどうしてここにいるのか、おれには知る必要がある。

 血みどろになって、這いつくばってでも、おれはおれとして起き上がらなければならないんだ。

 そう思えば、何も怖くない。

 貫く道は一つしかないのだから。

 興奮がほとばしるとともに緊張が体をこわばらせていくので、おれはゆっくりと息を抜いていく。

 と。暑くもなく寒くもない鮮やかな風が、おれの吐息を抱えるようにして運んでいくのだった。

 気がつけば、ねじり鉢巻きと寄り添うようにして寝そべっていたクリツナが四肢を起こしている。

 寝ぼけたふうに首を垂らしながらも、おれをぼんやりとしたつぶらな瞳で眺めてきている。

「クリツナ」

 呼びかけると、のそのそと歩み寄ってきて、おれの顔に鼻面を押し当てる。撫でこすってくる。

「悪かったな、駄馬だなんて言って」

 舌で頬を舐めてくるので、おれはクリツナの鼻面を抱えて撫でていく。

「明日、おれを生かして帰してくれ。おれたちはまだ死ぬわけにはいかないんだ」

 クリツナは首を振りながら、前脚で地面を掻き鳴らす。




 深かかった夜空が白んでいくとともに、そこかしこに広がっていた織田勢の陣はあわただしくなった。

 笙川で夜通し下調べをしていたさゆりんがやって来て、挨拶をするのでもなく、ただ一言、ぎらついた猫目で囁いてきた。

「ぬかりなくやったで」

 おれはうなずく。

 ハンザを呼び寄せる。

 瞼をこすりながら、具足を鳴らして小走りに駆け寄ってきた。

 太郎が消えているから、すでに何かを感じ取っていたらしく、口許を絞り上げながらおれを真っ直ぐに見上げてくる。

 日はまだ山の向こうにも出ていない。

 明け暗れにまたたく星のもと、物々しさが、風に漂っている。

 おれは言った。

「浅井方が織田を寝返った。太郎はおやかた様の護衛で一足先に敦賀を抜け出た。全軍退却、おれたち簗田勢は木下勢、池田勢とともに、殿軍だ」

 ハンザは一度は息を呑んで瞼を広げたものの、特に喚き散らすのでもなく、早之介をちらりと見やったあと、息を震わせながら再度おれを見つめてくる。

「朝倉方は早くても昼前、峠を越えて敦賀に入ってくるだろう。けれども、すでに評定は立っている。やれるか、ハンザ」

「はい」

 おれは口許を緩めた。

 機嫌を損ねると脱走するくせに、おれよりか一回り以上も若輩のハンザの顔つきは、迷いや不安に揺らいでいたおれなんかが及びではないぐらい、濁りない決意である。

「各々、組頭を集めてこい」

「承知しました」

 ハンザが寄り集まっている兵卒たちへ駆けていくと、

「鉢巻き」

 と、手招いた。

「クリツナにたらふく食わせておけ」

「ああ。わかった」

 すでに察していたのだろう。クリツナに餌を食わせながら、腹帯を締めていく手つきは心なしかいつもより丹念である。

 ほどなくして、二十人弱の足軽組頭たちと、八人の鉄砲組頭たちが、年寄りから若いのまで、わかっているのかわかっていないのか、だらだらとした足並みで集まってきた。

「殿が直々になんですか。いくさですか」

 と、若いのがほっぺたをぼりぼりと掻きながら気だるそうにして言う。

「そうだ。退却だ。殿軍だ」

 すると、連中の顔つきに一挙に緊張が走った。あくびをしていた年寄りは口を開けたままに固まった。

「殿軍……」

 と、増兵の折、組頭に昇格した奴は、そうつぶやきながら、隣の組頭を見やる。

 沓掛入城時からずっと組頭を張っている中年の奴は、分厚い唇をきつく結び、生気の入った眼光でおれを見据えてくる。

「ここに着陣するとき、渡ってきた川があったろう。そこで朝倉方を迎え撃つ。味方は木下勢二千だ」

「敵はいくつなんですかえ」

「一万」

 皆、言葉を失った。

「殿。本気で言っているのか」

「ああ。冗談じゃない」

 三十人弱の組頭たちは、陣笠を被って刀を帯びて、具足姿に身なりはほぼ一緒、とはいえ、背丈はばらばら、親子ぐらい年が離れている者もあれば、当然、顔形も十人十色である。

 ただ、忸怩たるものを噛み締め、皆が皆、一緒の面構えであった。

「申し訳ない。殿軍の役目は仰せつかったんじゃない。おれが名乗り出たんだ」

 すると、古い組頭の一人が、鼻で笑った。

「またですかい」

「またってなんだよ。殿軍は初めてだぞ」

「だいたい付き合わされる。なあ?」

 そいつに求められて、隣の奴は腕組みをしてうなずいた。

 そうすると、一人、また一人と、その口から笑いが漏れてき、殿軍というものを理解していないのか、それとも勇猛なのか。

「どちらにしろよ、一万つったって百姓の寄せ集めだろう。俺たちの中には百姓の小倅もいるが、つっても、野良仕事なんか知らねえで槍ばっかり握っている連中だ」

「むしろ、やり甲斐がありますよ」

「おい。お前んところよ、今度は手柄を横取りすんじゃねえぞ」

「横取りなんかしてねえよ」

「横取りしようとしてんのはお前んところだろ。お前んところの九之坪の若い衆。すぐに茶々入れてきやがって。どうにかしろ」

「なんだと。言いがかりか」

「やめなされ!」

 と、ハンザが制し、この期に及んで喧嘩を始めようとしていた連中は口をつぐむ。喧嘩を眺めていた連中も呆れて笑う。

「喧嘩は沓掛に帰ってからするように」

「若殿はどうしたんですか」

「おやかた様をお守りすべく先に脱しました」

 ハンザが答えると、連中は騒いだ。

「なんだい! 岐阜のおやかた様は先にとっとと逃げおおせたってのかい!」

「自分は命惜しくて脱出かよ」

「逃げおおせたんじゃない」

 さゆりんが声音を低く響かせて、連中を睥睨していく。

 恐れられている吉田早之介に睨まれて、組頭たちは視線の先を伏せる。

「近江の浅井方が我らを寝返ったという一報が届いたのだ。今、ここで敦賀を退却しなければ、我らは自領に戻れなくなるのだ」

「浅井が裏切った?」

「浅井って誰?」

「あそこのだよ。平べったい海の近くの殿様。箕作山のときに一緒に上洛したぜ」

「あすこの海は浅いのか? だから浅井って名乗ってんのか?」

「そういう土地がどっかにあるんじゃないんですか」

「浅井だか朝倉だか朝メシだか、なんだかよくわからんがね」

「そういや、朝メシ食ってねえや」

「とにかく、我らのお役目は織田全軍を無事に京にまで逃すことだ。そのために敵方を食い止めなくてはならない」

 そう言いつつ、さゆりんは川沿いで戦うあらましを組頭たちに説明していく。

「ゆえに、鉄砲隊、日頃の訓練の成果を出す日だ」

 さゆりんに視線の先を向けられて、鉄砲組頭たちは背すじを伸ばす、あるいは大きく息を吸う、あるいはうなずき、瞳の色を焦がし始める。

「我らの名を天下に轟かせろ」

 さゆりんの言葉にこくりとうなずいた。

「殿軍は先陣とともにいくさの華です」

 組頭たちを見回しながら、静かな口調で放つのはハンザ。

「お味方のために命を賭して戦うわけですから、これほどの名誉はありませぬ。尾張簗田勢、一人一人の名を天下の至るところに響かせるための好機なのです」

 東の山の連なり、明けの明星が姿を現している。

 ――。

 どうやら、おれがとやかく言わなくても、太郎がいなくても、さゆりんやハンザが取りまとめてくれ、組頭たちもいくさ場を駆け抜けてきた者どもとして、覚悟なんてとうの昔に出来上がっているようだった。

 もちろん、死の覚悟ではないかもしれない。

 けれども、各々それぞれの覚悟が出来ている。

 よくわかっていなかったのは、このおれだけだったのかもしれない。

「今日一日、頼むぞ、お前ら」

「殿に頼まれなくたってやってら!」

 いつも憎まれ口を叩く野郎が騒ぐと、連中はいちようにして笑う。悲壮でもない、単純かつ少年のような笑い方で。

「お前らがおれに頼まれなくたってやるのは当然だろうが! 今日は特別に頼んでやってんだ!」

 おれは騒ぎながらクリツナにまたがり、あとのことはさゆりんとハンザに任せて、サルの陣に向かう。

 街道には騎馬武者が引きも切らずに飛び交っており、明けもどろの影のうちですでに退却を始めている部隊も見受けられる。

 口輪を取る鉢巻きがつぶやいた。

「なんだか、大変なことになっているな」

「そうだな」

 木下勢の陣にやって来ると、ここもやはり矢継ぎ早に飛び交う怒号のもとで支度を進めており、小一郎がおれを見つけて駆け寄ってきた。

「簗田殿! 池田勢はすでに陣を払いました! 小六殿や半兵衛殿はすでに防御線を構築しており、我らも笙川に移ります!」

「藤吉郎殿は?」

「あすこに!」

 小一郎が指さした先、雑兵に担がれて、黒糸の陣羽織のサルがちょうど乗馬していた。

「藤吉郎殿」

「なんだぎゃ。おみゃあか。ずいぶんとすんなりした顔つきじゃないかえ」

「あっしの手勢は笙川に移動しているんで」

「そうかえ。――小一郎っ! 全軍に伝えっ! 笙川に移るだぎゃあぞっ! くれぐれも他の諸勢に紛れて逃げるんでにゃあぞ!」

 小一郎が目許をひたと据えてうなずく。

 彼が駆けていったあと、ややもして、進軍太鼓が鳴った。

 乾いた刻みが湿った風に乗っていく。

 光に帯びた峰々の空から赤い太陽がゆっくりと姿を現してきて、次から次に立っていく槍の穂先が、至るところで朝日をきらめかす。

 サルの兜を飾り立てる鉢形立物も、金色に輝いた。

 軍勢が金ケ崎山を背中にし、進み出す。

「木ノ芽峠の十兵衛殿と三河殿は?」

「夜明け前に早馬が飛んで来たがね。物見によれば、敵援軍は木ノ芽峠の手前まで来とるようだぎゃ。明けとともに退くけども、引いては防いでを繰り返して時間を稼いでくれるそうだぎゃ」

「そうスか」

 進み行く先を陽の光が染め上げていく。

 草花は風と光にそよぐ。水を引き入れたばかりの田んぼが小さな波を立てている。

 流れいく香りは若芽の息吹に薫り立ち、季節のうちに澄み入っている。

 サルが笑った。

「なんでだぎゃろうな。墨俣のときもそうだったけども、不思議なもんで、おみゃあといると何事もできるような気がしてくる」

「そりゃそうでしょう。いつもは足を引っ張り合う成り上がり者同士なんだから」

「ほんだら、今度も大手柄を立てて、いっそう成り上がるだぎゃ。おみゃあよりも上等の官位を頂戴してやる」

「フン。その前にヒルモを返してくんないッスかね」

「何を言っているのだかよくわからんだぎゃ」

 おれもそうだったが、サルもそうだったろう。

 減らず口を叩き合っていると、引っ掴み合いあって転げ回りながらもここまでやって来た道のりが、自然と思い返され、突っ張っていた気が和らいでいく。

 それこそ本当に、何事もできないわけがないと、胸のうちは落ち着きをもって高揚してくる。

 進軍先を望むように見据えながら、笑みをたたえたままの口でサルが言う。

「尾張の野良猿と野良牛が、乾坤一擲けんこんいってき、天下の一番勝負だぎゃ」


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