悲愴する実感
「なんだぎゃ、おみゃあ。おりゃあが名乗り出るたびに追随してきやがって」
「追随しているわけじゃない。たまたまッスよ」
「丹羽殿じゃにゃあけど、おみゃあは殿軍の役目がわかってんのかえ。生きて帰れるのは万が一だぎゃあぞ」
「んなわけないでしょうよ。藤吉郎殿が名乗り出たんなら」
すると、サルは鼻で笑う。
西日の沈む敦賀湾に向かって小便をし終えたサルは、並んで小便していたおれがチンコをふんどしにしまい込むと、右手を差し出してくる。
「触ってみんかえ」
「は? 手を洗ってないでしょうよ」
「震えているだぎゃろうが」
たしかに、サルの右手は小刻みに震えていた。
「酒の飲み過ぎッスか」
「たわけ。恐ろしいんだぎゃ。後悔しているんだぎゃ。殿軍の役目だなんて口から先についちまっただぎゃ。いまさらだぎゃ」
「嘘でしょ」
おれはサルをじっと見つめた。
サルは黄色い歯を見せて笑ってはいるけれども、目玉がかすかに泳いでいる。
「嘘でしょ」
「おみゃあもうつけなら、おりゃあもうつけだぎゃ」
「嘘でしょ」
サルは笑ったまま何も答えず、おれの横をすり抜けて、館の議場へかちゃかちゃと小さな背中で歩いていってしまう。
何をそんなに弱気でいるのか、謎である。
信長に続いて諸将のあらかたは金ケ崎山を下りており、議場に残ったのは筑後守とサル、おれ、それに殿軍の表情を見届けるサンザのみであった。
「さて、いかにしてお味方を逃がすか」
燭台の火が揺らめく中、すっかり閑散としてしまった広間で、筑後守が笑い声を含ませながらつぶやく。
サルもそうだが、筑後守も、自嘲するような笑みを浮かべ続けているのだった。口を真一文字に結んで意気込んでいるのはおれぐらいのものだった。
「とりあえずは主だった与力や家臣を集めましょうかえ」
そういうことで、呼び集めてくることになったのだが、議場をあとにしようとしたおれはサンザに呼び止められた。
「牛殿。藤吉郎に遅れを取りたくないゆえ、殿軍に名乗り出たのだろう」
「ち、違います」
「正直に申せ。藤吉郎はいくさの手練れ、築州は池田の棟梁ゆえに存亡を賭けたいくさ場を経験しておる。お主は負けいくさに出くわしたことがなかろう」
「そ、そうかもしんないッスけど、べつに足を引っ張るような真似は」
「負けいくさで血気をはやらせるな。いいか。命を粗末にするな」
「はい」
おれは不満を覚えながらもうなずいて見せ、議場をあとにしてクリツナにまたがる。
「なんで、旦那だけ残ってるんだよ」
「いいから行け」
ねじり鉢巻きが首をかしげながら、松明の火をかかげて口輪を引いていく。
夕焼けの残り火が金ケ崎の山の木々に溶け込んでいき、それとともに闇がしんとして浸っていく。
サルも筑後守も、まるでこの世の終わりのような顔つきでいる。サンザなんかはおれが死にに行くとまで決めつけている。
新九郎殿の裏切りで、確かにおれたち織田勢は一転して窮地に転げ落ちたかもしれん。
だからって、そんなに絶望視するほどのもんか。
サンザの言うようにおれは今までに負けいくさに参加したことがない。全部が勝っている。
それでも、人生の負けいくさなら何度でも経験してきたんだ。
殺されかけたことなんて何度もあったんだ。
サルの手下には半兵衛だっている。
新九郎殿が裏切ったから、いくさには負けたかもしれねえ。
けれども、勝負には負けていねえんだ。
まだ、負けちゃいねえんだ。
山を下りて、すっかり日も暮れた夜道を自陣に戻っていくと、同じ方向を目指しているマリオの馬上の姿があった。
「簗田殿か」
松明の火に照り上がるその表情は、厳しくありながらも、どこかで沈んでいるような瞳の色であった。
「どうしたんスか」
「先に京に戻られるおやかた様に太郎が付いていくことになった」
「えっ。太郎が一人でッスか」
「馬廻の者が数名と塙九郎左衛門、前田又左衛門、佐々内蔵助、松永弾正、それに太郎だ」
側近のクローザ、親衛隊のボスであるマタザやウザノスケ、その面子に弾正ジジイや太郎が入っているのは、ものすごい違和感である。
「どうして太郎が」
「太郎は元はおやかた様の側にあった馬廻であるし、武勇にも長けている。それに馬も速い」
まさか、殿軍から太郎を引き離すためにマリオが推薦したんじゃ。
「それはおやかた様の直々のご指名なんですか」
「そうだ」
きっぱりと言いつつも、マリオは一切、おれに視線を寄越さなかった。
――。
まあいい。マリオの親心なら、おれも親心だ。
朝倉みたいなザコを相手に万が一にも死ぬはずねえが、親分の護衛は名誉なことだ。のちのち、太郎の将来のためにもなる。
「お主は存じていないだろう」
山を下りると、マリオがふいに言った。
各部隊の陣地の至るところにかがり火が燃え立っており、日が暮れても、夕暮れのように明るかったが、クリツナが響かせる馬蹄は、かっぽら、かっぽらと、星空に吸い込まれていくような静けさをたずさえている。
「存じていないって、何がッスか」
おれはマリオの横顔に視線を刺し込むが、マリオは前方だけを見据えており、おれと話しているというよりも、自分で自分に言い聞かせるような側面があった。
「一昨日の天筒山攻め、森傳兵衛殿が討ち死にされたのだ」
「えっ? それって」
おれは呆然として兜の下のマリオの横顔を見つめる。
「森傳兵衛殿って、サンザ殿の、ご嫡男の、ですか」
「左様。一番槍であったが、血気はやって深入りしたそうだ」
「嘘だ」
「かような虚言をついでどうする」
「だって、サンザ殿はそんなことは一言も。そんな素振りはまったく」
「森殿が皆の前で涙を流すと思うか。森殿がいちいち知らせると思うか」
突き刺すような視線をマリオが向けてきて、おれは思わずクリツナのたてがみに視線を落としてしまう。
風になびいて、柔らかいそれはそよいでいる。
「ご嫡男は十九。これが初陣よ」
おれは言葉を失った。
次男坊の生意気カツしか会ったことがない。
サンザは息子の話なんてしないし、長男坊がどういうやつだったのかも知れない。
けれども、手綱を取るおれの手は小刻みに震えた。
サンザが執拗におれをたしなめてきていたのは、そのためなのだろうか。
知らなかったのはまさかおれだけなんだろうか。
あんたは覚悟できてんのか、という、さゆりんの言葉がよみがえってくる。
おれは覚悟できてんのか?
沓掛九之坪勢が陣笠を鍋にしてメシを食っている自陣に戻ってきて、兵卒たちから離れたところに太郎を呼びつける。
マリオとおれが並んでいるからか、太郎は黒兜の下の表情に怪訝な陰を忍ばせている。
「何か不足の事態でもありましたか」
山から下りてきた諸将の様子にただならぬ気配を感じ取っていたらしい。
マリオがブラシヒゲを揺らす。
「退却だ」
「え――?」
太郎は目を点にした。薄い唇をわずかに開いたまま、マリオを眺め、そうしておれに顔を向けてくる。
「な、なにゆえですか」
「浅井備前が織田を裏切った。お市様から早馬が届いたのだ」
「えっ」
と、マリオを見つめたまま固まってしまう。
「どういうことか、お主であればわかるであろう」
「し、信じられません」
「おやかた様は今晩、わずかな手勢だけを連れて秘密裏に敦賀から抜ける。太郎、お主はおやかた様のご指名によりその一人に選ばれた。すぐにでも妙顕寺に参上しなされ」
「え。い、いや――」
大いに戸惑っていた。おぼつかない瞳の動きには、普段の口うるさいときの生意気さもない。いくさのときに見せている引き締まりもない。
少年とも青年ともつかぬ、十八歳の若者――、そこにいるのは、ただのおれの息子の太郎だった。
「なにゆえ拙者が」
「馬廻のときにはおやかた様のお側をお守りしていただろう。それにお主が跨るのは織田随一の駿馬だ」
「皆々はいかがされるのですか。いつ、軍勢を引き払うのですか」
「明朝だ。しかし、これは誰にも伝えてはならぬ」
「父上は」
と、おれに顔を向けてくる。
おれは黙って見つめ返す。
すると、太郎はおぼつかないばかりでいた目の色を次第に硬直させていき、やがて、眉をひそめるのだった。
「まさか、殿軍を名乗ってはいないでしょうね」
十年も一緒にいれば、わかるらしい。
ここ最近のおれが鼻息を荒くしていたことも。
今のおれが感情を整理できず、複雑怪奇な表情でいるのも。
「父上」
「藤吉郎殿や池田筑州殿とともに殿軍だ」
海から吹いてくる夜風がかがり火の焔を大きく揺らし、太郎は瞳孔を開きながら、睨むようにしてマリオに目をくれた。
マリオは両目を閉じながら、うなずいた。
「どうしてですっ!」
太郎がおれに詰め寄ってくる。おれの両腕を握ってくる。揺さぶってくる。
「事の次第をわかっておられるのですかっ! まさか、三段撃ちで敵方を退けられるとでも考えているのですかっ!」
「そうだ」
「何を言っているんですかっ! 何を馬鹿なことを言っているんですかっ! 敵方は一万の援軍だというじゃありませんかっ! それにつけて浅井備前の兵まで敦賀に来たとき、たかだか百丁ぐらいの鉄砲隊が何になると言うんですっ!」
言われれば言われるほど、時間が経てば経つほど。
サルやサンザやマリオの悲愴ぶりを目の当たりにするほど。
おれは取り返しのつかないことをしてしまったと後悔し始めている。
だからと言って自分から信長に宣言したことを撤回できるわけもなく、おれは喚き散らすしかない。
「やってみなくちゃわからねえだろうっ! 出るとこ出なかったらいつ出るんだっ!」
「何を訳のわからないことを――」
「お前らみてえに最初っから死ぬ死ぬって決めていたらやっぱり死ぬだけだっ! だけどなっ、おれは死なねえっ! お前はおやかた様を無事に送り届けることだけ考えていりゃいいんだっ!」
「簗田殿」
と、マリオが唇の前に人差し指を立てている。
おれは熱っぽい吐息を長々とつきながら、太郎の両手を振り払う。
「これから軍議だ。お前を相手にしている暇なんざねえ」
太郎の脇をすり抜け、さゆりんのもとへ向かう。すると、太郎が追いすがってきて、おれの腕を握って引き止めてくる。
振り返れば、太郎は真っ直ぐな目でおれを見上げてくる。
「拙者も残ります」
「お前はおやかた様の護衛だって言ってんだろうが」
「そんなの、父上が死んでしまうじゃありませんかっ!」
おれは再度振り払う。
目玉を剥いて太郎を睨みつけ、唸るように吐き捨てる。
「いいか。おれは今まで一度も死んだことはねえ」
「何をおっしゃっているのか……」
おれは思わず笑ってしまう。自分でも何を言っているのだかわからなかった。
唖然呆然を通り越して、もはや魂が抜けかかっているような太郎の肩に手を置く。
「太郎。おれが親父で悪かったな」
「何を言っているんです」
「わからん」
「わからないことは言わないでください」
「とにかく、道中、血気はやって突っ込んだりするなよ。赤ちゃんが産まれるんだからな」
「血気はやるのは父上じゃありませんかっ!」
「ぐだぐだ言うんじゃねえ。決まったことはもう決まったんだ。失せろ。とっとと妙顕寺に行け」
太郎を軽く突き飛ばしたおれは、マリオに視線を向ける。
マリオが口許を結びながら無念そうにしてうなずけば、踵を返し、おれは足早にさゆりんを捕まえに行った。
太郎と同様、若いハンザは動揺しかねないので、さゆりんだけを金ケ崎山に連れていく。
動揺しているのはおれなのかもしれんが。
馬には跨がらず、風の通る夜道を肩を並べて歩んでいく。
「説教しねえのか」
松明を手にするさゆりんは、おれから殿軍の話を聞いて「ああそう」と言ったきり、ずっと沈黙していた。
「おい」
「したところでしゃあないやろが。考えるんは、どないして生還するかだけや」
そう言って、兜の袖から垂れる髪を風にそよがせ歩きながら、さゆりんは明かりに染め上がる道筋をじっと見つめる。
人は決心したとき、行く手だけしか望まないのだろうか。
おれの手下だというのに、さゆりんの静かなる眼光におれの立ち入る余地はない。
背後から馬蹄の轟きが聞こえてきて、振り返る。
漆黒の馬がほの暗い闇を裂いて出てきて、おれとさゆりんの前に首を振り上げながら止まった。
「早之介」
と、ひらり、下馬してき、太郎がさゆりんに詰め寄っていく。
「拙者はおやかた様とともに先に抜けることなった。父上は死ぬつもりでいるが、どうか、皆を無事に帰してほしい」
さゆりんは頭を下げた。
「承知しております。必ずや、殿をお連れ帰ります」
「すまない」
太郎は跳ね飛んでいるクロスケにまたがり、おれに物言わぬ一瞥をくれたあと、赤黒の鞭をしならせ、来た道を戻って消えていった。
馬蹄も聞こえなくなり、さゆりんが猫目の瞼をおれに向けてくる。
「若君は覚悟ができているようや」
顔を背け、おれは金ケ崎山への夜道を行く。
闇の果てから敦賀湾のさざ波を聞く金ケ崎城の議場には、見届け人のサンザの他、サルの与力の蜂須賀クマ六、半兵衛、それに弟の小一郎、池田筑後守の手下の池田四人衆のうちの二人がおり、おれは吉田早之介だけ、極秘裏だけあって皆が主要な家臣しか連れて来なかった。
ヘタレ弥助やゼニゲバ瀬兵衛などは池田で留守を預かっており、従軍していないらしい。
「左衛門太郎はどうしたんだぎゃ」
「おやかた様の護衛で先に京に戻ることになりました」
「そうかえ。きゃつがおればちっとは楽だったかもしれんけどな」
ともかく、軍議だった。
サルも筑後守も手下たちにはすでに状況を説明しており、
「浅井と朝倉が共謀しておるという最悪の事態を想定しておかなければならん」
と、クマ六が開口一番に言った。
「捕獲した朝倉の兵卒によれば、越前府中から敦賀までは日の出から日の入りまでかかる」
「すでに府中から出陣したという報せは?」
早之介が低い声を響かせて、諸将はいちようにしてサンザに目を向ける。
「ない」
と、サンザは首を振った。
「しかし、それは一昨日までの状況だ。今日、昼中にでも府中を出ていれば、遅くても木ノ芽峠の手前までは進んできておる」
「浅井方は?」
「わからぬ。お市様の文によれば、支度をしているというだけだ」
「とにかくだぎゃ、明朝には展開できるようにしておかなくちゃならんだぎゃ。朝倉は北から、浅井は東から、どっちも防いでおかにゃあと全軍が退却できんだぎゃ」
「ならば」
と、池田筑後守が兵棋の駒を手にして、地図の上に置いていく。
「ここ金ケ崎に一軍を、疋田城付近に一軍を置かねばなるまい」
池田四人衆の一人がうなずいた。
「おやかた様がおっしゃるとおり、朝倉方は天筒山の奪還に掛かってくるはず」
「木ノ芽峠の先発隊には時間を稼いでもらうしかあるまい」
池田四人衆のもう一人が言い、たいがいの将はうなずいた。
おれはというと、ただじっとして、黙っているだけだった。
弱気でいたサルも筑後守も、軍議が始まれば額に汗水を浮かばせて、その目は滾るようにぎらついている。
それでいて、冷静だ。
クマ六も、小一郎も、池田四人衆も、さゆりんも、信長のもとに手紙が届いたときの阿鼻叫喚の織田家中の重臣たちとは違う。
腹を括った者たちの静けさというか。
そんな気配に当てられて、おれは心持ちが定まらない。
ただ単に鼻息が荒かっただけの自分が、ここではもはや浮ついているような、そんな感覚。
けれども、浮ついている――のではないだろうが、一人だけ、静けさとはまったく無縁の怪しい気配を醸し出している男がいた。
「各々、話にならぬ」
半兵衛は口端を歪めながら、黒く濁った眼差しを面々に流してくるのだった。
半兵衛を知らない池田の家臣が眉をしかめる。
「なに?」
半兵衛は澄ました笑みを浮かべながら、鼻先をすうっと持ち上げた。
「最悪の事態を想定しておらんではないか。朝倉と浅井が示し合わせ、時を同じくして敦賀に侵入してくるとなったら、金ケ崎に籠もっていては殿軍は一人とて生還できぬ」
池田の家臣が眉間に皺を寄せ、半兵衛を知っている人間たちも、半兵衛のダークサイドぶりにいちようにして顔をしかめた。
「木ノ芽峠で時間を稼いでもらえばよろしいだろう」
「浅井が敦賀に入れば、木ノ芽峠の先発隊は挟撃される。見殺しにするか」
「致し方ない。我らの役目はいかにして――」
「そういうわけにはいかん」
半兵衛が言葉を遮り、池田の家臣は思わずといった調子で舌を打つ。
「明智十兵衛はともかく、我ら織田とすれば、徳川三河をここで見殺しにすると、大局はよりいっそう深刻をきわめる」
「半兵衛の申す通りだぎゃ」
サルが援護すると、池田の家臣は吐息を唸らせながら背すじを立て、腕を組む。
「だけんども、おみゃあ、話にならぬとか申して、策はあるのかえ」
「これを負けいくさだの退却戦だのと考えるから話がおかしくなる」
半兵衛はそう言ってくつくつと笑いながら、澄み上がった二重のまぶたかで諸将を眺め回していき、兵棋の駒を手に取ると、急に、バチンッ、と、叩き置いた。
「我ら木下勢は朝倉方を笙川にて迎え撃つ。して、池田勢は疋田にて浅井を迎え撃つ」
半兵衛の案はこうだった。
明朝、十兵衛と三河勢の先発隊を木ノ芽峠から退却させる。
池田の家臣が発案したように、金ケ崎城に籠もっての殿軍が常套手段であるから、木ノ芽峠を越えてきた朝倉方は天筒山、金ケ崎山に攻めかかるはず。
しかし、金ケ崎城はもぬけの殻であり、木下勢は朝倉方が着陣した側面を急襲、混乱に乗じて笙川へと引き返していき、川を挟んで再び戦闘する。
「我らが対岸に渡るさいに使う舟橋を切り離さず、そのまま並べておく。朝倉方は渡河するさい、舟橋に群がるはずであり、そこに密着した軍勢を迎え撃って叩く」
そこで時間を稼ぎ、織田本隊が三方郡へと退いた報を受けて、殿軍も一斉に退却する。
「日暮れまでに、三方と敦賀を隔てる、関の峠まで辿り着ければ、敵方は追っ手を向けてこない。つまり、日暮れまでは防がねばならん。敵兵一人たりとも関の峠に連れてきてはならんのだ」
「しかし――」
池田筑後守が言う。
「野戦で一万の軍勢を相手にするのか。お主らがたった二千の兵で」
「計略を尽くせば敵わぬ輩ではない」
半兵衛は続ける。
菩提山の所領主である自分は、浅井方をよく知っている。浅井方が北近江に散らばっている全軍を召集するには早くても三日はかかる。
「小谷から敦賀までは丸一日かかる。お市の方が早馬を放った時を逆算すれば昨晩だ。浅井備前の側におるお方であれば、早くに察したに違いない。浅井方が敦賀に着陣するのはどんなに早くとも明日の暮れ。朝倉方さえかわし切れば、浅井方と向かい合うことはない」
ただし、念の為に東敦賀は押さえておく。
「恐れながら、竹中殿」
「なんだ、吉田とやら」
「舟橋に敵の進路を作るのであれば、我ら沓掛勢の火縄銃百丁を迎撃地点の最前に配置してください」
おれは、ハッ、として、さゆりんを眺め見た。
半兵衛に拷問されたのを思い出しているわけじゃあるまいし、さゆりんは喧嘩腰の目つきで半兵衛を見据え、半兵衛はダークサイドに堕ちた瞳をさゆりんにひたりと据えている。
「待てだぎゃ。何を申しているんだぎゃ、おみゃあは」
「そうだ。何を申している、お主」
サルに続いて目を見開いたのは蜂須賀クマ六。
「百丁の火縄銃で何ができる。むやみに兵を殺してどうする」
「恐れながら、我らには弾が尽きるまで、四六時中射撃する戦法がございます」
「ほほう。簗田殿が百丁もの火縄銃を調達するなど、どおりでおかしいと思ったが、お前、その戦法とやらはなんだ」
「拙者が殿の考案した三段撃ちです」
早之介が答えれば、皆がおれに視線を向けてきた。
サルも小一郎もクマ六も、池田の連中も眉をひそめ、
「なんです、三段撃ちとは」
と、興味一辺倒の半兵衛の眼差しに、おれはたじろいだ。
この期に及んで三段撃ち……。
生きるか死ぬかで汗を伝わらせている連中相手に三段撃ちを説明しろっていうのか……。
しかし、さゆりんはおれを見つめてくる。
――時代を変えるんやろう。ここでやらな、いつやるんや。
「じ、実戦ではまだやったことがないが――」
おれは震える手つきで兵棋を並べ、それを三列の鉄砲隊に見立てて、弾込め、点火、射撃を説明していく。
「ここ一年、訓練をしてきた。おれはこれがいくさの仕方を変えると思っている。けれど――」
「おもしろい」
おれの不安を半兵衛の笑いが遮った。
そうして、半兵衛は研ぎ澄まされた視線をサルにゆらりと運んでいく。
「木下殿。いかがか。実戦では試したことのない簗田殿の賭けに乗るか」
「愚問だぎゃ」
サルは腕を組んでいき、両の瞼を閉じてしまう。
それもそうだ。一か八かの賭けなんて、薄氷を踏むようなこんないくさ場でお披露目するわけにいかねえ。
が。
サルは瞼をくわっと開けてきた。
黄色い歯を覗かせながら、言った。
「乗らねえわけがねえだぎゃ」
議場はしんとして静まる。
間口から忍び入ってきた風が燭台の火をそよがせ、皆々の影も大きく揺らめく。
おれは、サルが目玉から活として放っている危うさに、息を呑んで、ぞっとしてしまう。
「牛殿は桶狭間を導いた強運の持ち主だぎゃ」
「い、いや――」
「築州殿、よろしいですかえ」
「よろしいも何も、朝倉方を迎え撃つのはお主たちであって」
そう言いつつ、筑後守はおれに向けて角ばった頬を緩ませてきた。
「わしには簗田殿に反目する理由はござらん。むしろ、後押ししたい。わしの目を覚ませてくれたは簗田殿だ」
「いやっ、でもっ」
おれは焦って腰を浮かしたが、それより先にさゆりんが立ち上がっていた。
「我ら沓掛勢の三段撃ちにより、敵方は泡を食って怯みますでしょう。拙者が殿が、死に物狂いで手に入れた火縄銃百丁の威力、皆様にお見せします」
そうしたら、サルが大きく笑い上げるのだった。
「にゃっはっはっはっ! 牛殿が秘策を引っさげておっただぎゃっ! こりゃ、勝ちいくさだぎゃっ! なあっ、牛殿っ!」
豪快な大声を放つものだから、呆れというか、感化されたというか、どいつもこいつも頬を緩めてしまっており、なにせ、その気配は悲愴を通り越えた悲壮なのだから、おれは背中から腕から体中に寒気が走った。
そして、寒さがおれを震わせる。
朝倉ごときに負けるはずがない。信長は信長であり、サルはサルなのだ。
でも、おれはおれなのか。
おれはやれるのか。
夢に描いていたものが目の前にやって来たけれども、おれは甘く見すぎていたのだろう、細流が大河と成ったその先は、生死の行方を賭ける途方なき大海原だった。




