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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七、二章 決死戦を越えろ
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大望、決壊

 天筒山は一日で陥落した。

 敵方の奮戦に、大手口から攻め上がったサンザ、赤母衣黒母衣は苦戦したようだけれども、搦手から侵入した児玉勢と沓掛勢が切り崩し、サルの木下勢やゴンロクの柴田勢も攻め上っていって、守将の朝倉中務大輔は金ケ崎山に逃げ込んだ。

 戦闘も止んだ夕暮れ、おれはこっそりと天筒山の城郭に入る。

 回廊を行けば矢じりがそこかしこに突き刺さっており、首無し死体も散見できる。

 戦闘中に降伏してきたと思しき朝倉勢の何個もの足軽組が、織田の兵卒たちに囲まれながらおれと入れ違いに山を下りていき、どの顔も夕闇の中に陰ってくたびれていた。

 おれの沓掛九之坪勢は二の曲輪で腰を休めていた。

 クリツナから下馬したおれに、とある足軽組頭が声をかけてくる。

「殿。なんだか腰をやっちまったって聞きましたけれども」

「い、いや。大したあれじゃない。まあ、ゆっくり休め」

 失態を追求されないうちにそそくさと離れていき、兵卒たちの中にハンザの姿があったので、手招きして呼び寄せる。

「あ、殿」

 と、黒鉢兜を被ったハンザがかちゃかちゃと小走りにやって来て、

「腰はよろしいのですか」

「う、うん。大したあれじゃない。ところで、太郎はどうした」

「若君は戦果報告のため丹羽様とともに本陣に向かわれました」

「そ、そう。死傷者はあんのか」

「死人のほうは出ておりません。負傷者は数名おりますが、手傷を負った程度でございます」

「そうか」

 すると、鉄砲隊の組頭と話し込んでいた早之介が、兜の下からふいにこちらに目を向けてきて、おれの姿を確認した途端、眉をひそめる。

「もういいぞ」と言ってハンザを追っ払うと、おれは逃げようとして鉢巻きが口輪を取るクリツナに歩み寄っていくけれども、

「殿」

 と、吉田さゆりん早之介がかちゃかちゃとやって来る。

「な、なんだ」

「お具合はいかがでしょう」

 さゆりんは鼻先を突き上げて、お澄まし顔でいた。

 おれはぼそぼそと抵抗する。

「具合も何も、言わなくたってわかってんだろうが。皮肉か、この野郎」

「鉄砲隊はある程度の成果を上げましたが」

「ある程度の成果?」

 足軽組が白兵戦を展開する直前、鉄砲をぶっ放して何人かを殺傷し、敵方の出足をくじいたらしい。

「その程度かよ。そんなんじゃ鉄砲を無償で譲り受ける口実にはならねえ」

「存じております。ただ、殿はその目で見ておられなかったので、念の為に報告したまでです」

「おれのこの体であんな沼地を進めるはずがねえだろうが。そんな侮蔑した目で物を言うんじゃねえ」

「日頃から鍛錬を欠かさなければあれしきたやすいはずでは」

 生意気な男装小娘はくるりと背中を返して、鉄砲隊の連中のもとへと歩いていく。

 クソが。

「クリツナ」

 おれは唇をへの字に曲げて、のんびりと首を垂らしているだけのクリツナを睨みつける。

「お前がな、勝手に退却しなけりゃ良かったんだ。この駄馬。あれぐらいのぬかるみも進めねえだなんて」

「何を言ってんだ。無理に決まってんだろ」

 と、クリツナを代弁してきたのはねじり鉢巻き。

 クリツナはおれを小馬鹿にするようにしてあくびをかく。

「クリが駄馬だったら、旦那はどの馬にも乗れねえよ。嫌なら乗らなくたっていいんだ」

「冗談に決まってんだろうが」

「冗談には聞こえねえけどな」

 おれは溜め息をつき、革手袋の右手でクリツナの鼻面を撫でる。

 左衛門尉だってのに、何事もうまく行く気がしねえ。

 日がすっかり暮れたころ、マリオと太郎が本陣から天筒山にやって来て、明朝から金ケ崎山を攻撃するとのことで、兵卒を連れて下山する。

 馬を並べてマリオが言ってくる。

「どこにおったのだ、簗田殿。腰をやられたと聞いたゆえ、太郎を代わりに軍議に出してしまったぞ」

「出来のいい息子なんで、それでいいッス」

 嫌味のつもりだったのだが、マリオは鈍感なのか理解しておらず、天筒山攻めでのあらましを話してきた。

 サルとゴンロクが無類の活躍だったらしく、将兵合わせて四百人近くを討ち取ったらしい。

 桁違いの殺人の数に、おれは目玉を硬直させてしまう。

「そ、そんなの、だって、児玉や沓掛の連中が切り崩したからッスよね」

「それもあるが、柴田殿や藤吉郎だったからというのもある」

 おれは吐息を震わせた。

 なんてことだ。

 まさか、おれへの嫉妬心が長じて武勇を発揮したわけでもないだろうが、よりにもよって大活躍したのが、おれが小馬鹿にしたあのサルと、おれの大嫌いなあのゴンロクだなんて。

 ゴンロクの野郎、間違いなくおれに嫌味か皮肉を吐き垂らしてくるに違いねえ。火縄銃を百丁も揃えなくたって、敵方を討ち取れるのだ、なんて。

 それに、最近は、いくさともなれば、サルばかりが活躍してやがる。南伊勢のときだってあいつは支城を一つ落としているし、但馬でも木下勢だけで敵方を退散させたらしいのだから。

 上洛戦以降、おれもそれなりに手柄を立てているが、そんな手柄がかすむほどの、サルの無敵ぶり。

 官位を貰ったのが恥ずかしいぐらいになってくる。

 だいたい、口八丁手八丁で手柄を立てているのはこのおれで、詐欺師のはずのサルがいくさの武功で名を高めていくというこの現象。

 半兵衛だな――。

 クッソっ。

 半兵衛をサルの与力にしてやったのは失敗だった。てか、おれの家来にすれば良かったんだ。

 どうして、おれはあのとき半兵衛を手下にしなかったのか。

 後悔先に立たずとはこのことだ。




 翌日、信長本隊の馬廻衆や長ヒゲ佐久間の部隊が金ケ崎城に攻めかかり、昼前には終わった。

 水源を失っていた朝倉勢は士気が落ち込んでおり、守将の朝倉中務大輔が将兵たちの命と引き換えに開城降伏を申し込んできたので、一乗谷からの援軍が来る前に敦賀郡をさっさと支配しておきたい信長は降伏を受け入れたのだった。

 ほぼ無傷に近い金ケ崎城の本丸曲輪に諸将が召集され、軍議。

「敦賀の東端、疋田ひきだ城からも降伏の使者が参った。これにより、我らは敦賀全域を押さえた」

 いつものようにサンザが情勢を説明し、わずか二日間で敦賀郡を支配してしまったのだから、諸将のどの顔ものどかであったが、

「朝倉を叩き潰す」

 信長が唸り上げると、わずかながらに緊張が走った。

「物見によれば」

 と、サンザが大地図を示しながら続ける。

「ここ木ノ芽峠に朝倉方は一千近くの兵を備えている。兵の数に大差はあれど、我らの全軍が展開できるような地形にはない」

「渓谷に埋伏している恐れもありますな」

 と、長ヒゲ佐久間が言った。

「先発隊を差し向けてはいかがでしょうか」

 とは、ゴンロク。

 サンザが信長に顔を向けると、信長は視線の先を十兵衛に据えた。

「明智十兵衛。貴様はこの地を良く知っているな」

「何度も往来しております」

「二千を分ける。先陣として木ノ芽峠に攻めかかれ」

「かしこまりました」

 そうして、信長はサルに目を向けたのだが、

「恐れながら」

 と、割って入ってきた人がいた。

 デブの三河守だった。

「上総介殿、明智殿と共に行くは、拙者ども三河勢でいかがでしょうか」

 烏帽子形の兜を被っている三河守は、目玉をくりくりとさせて、下膨れの口許を若干緩ませている。

「本日と、昨日のいくさでは暇をもてあそぶばかりでございました」

「ならば」

 信長がそううなずいて、三河守は頭を下げる。

 十兵衛と三河守の出陣は明朝となり、佐久間やゴンロクは部隊を引き連れて敦賀郡の寺社や、各集落に織田の支配下になったことを告げて回る役目、他の主だった連中は金ケ崎で待機となったが。

 毎度のように置き物として座っているだけにはいかないおれは、大机に身を乗り出した。。

「お、恐れながら、おやかた様」

 信長は上げかけていた腰を止め、おれに視線を寄越してくる。

「あ、あっしにも、十兵衛殿や三河殿とともに先陣のお役目を」

「なにい」

 信長が眉間に皺を寄せると、長ヒゲ佐久間やおれを嫌っているらしき林佐渡が眉をひそめ、ゴンロクは失笑し、坂井右近や西美濃三人衆などの他の織田の諸将は顔を見合わせて、松永弾正のジジイなんかはとぐろを巻くような視線でおれを見つめてくる。

「うつけが」

 信長は、たったそれだけでおれを一蹴し、議場から出ていってしまった。

 隣のマタザから溜め息の声が聞こえてき、おれはがっくりと首を垂らす。

 差し出がましいとはわかっていたが、なにせ、軍議のさなか、ずっとサルがほくそ笑んでおれをちらちらと見やってきていたのだ。

 おれが首を垂らしたときも、

「牛殿は何を考えているんだぎゃあか」

 と、にやにやしながらつぶやいたのである。

「何を出すぎた真似を。身の程を知れ」

 長ヒゲ佐久間が吐き捨てながら議場から出ていく。

「身の程ではなく恥を知ってもらいたものだな」

 ゴンロクが追随すると、ウザノスケが筋肉ダルマの頬を緩めながら言う。

「致し方ない。この野良牛が恥も身の程も知れるわけがないゆえに」

「口がすぎるぞ、内蔵助」

 マリオがたしなめると、ウザノスケは、はいはい、といった感じで立ち去っていく。

「血気をはやらせるな、牛殿」

 サンザが言う。

「焦ってもろくなことはない」

「そもそも、お前は何を焦っているんだ」

 と、マタザが顔を向けてきて、おれは睨み返す。ぼそぼそとつぶやく。

「マタザ殿があっしにケチをつけたからでしょうよ」

「そういう奴は死ぬぞ」

「マタザ殿に言われたくないッスね」

 おれは苛立ちながら議場の広間をあとにした。




 翌日、時折、綿のような白い雲が陽の光を遮り、金ケ崎山のふもとから眺める敦賀湾は、湖のようにして波が穏やかだった。

 海から風が吹いてくる。季節の風というよりも、海岸特有の混ざり気のない風であった。

「先陣を申し込んだなんて、自分ってものをよく考えてみいや」

 声の届くような周囲には誰の姿もないので、さゆりんは鎧兜の男装でありながら、声だけは小娘でいた。

「あんたはいくさで手柄を立てるような男じゃないやろが。官位だってそういうつもりであんたにくれたわけじゃないやろ」

「それはともかくとしても、鉄砲隊を活躍させねえと、一万貫を払わなくちゃならねえだろうが。あと一年だぞ」

「あきらめるんやな」

「なんだと」

「若君もあきらめとるわ。一万貫は用意できないわけでもないって、この前、言っておった。あきらめているってことや」

「ふざけんなっ!」

 おれが怒鳴りつけても、さゆりんはびくともせずにじっと睨み上げてくる。

 兜の袖から垂れ流している髪が潮風を浴びて大きくなびいている。

「戦功を立てるだなんて、あんたの柄やないんや」

「柄じゃなくたってなんだって、やらなくちゃならねえときはあるだろうが」

「それはあんただけの話やろが」

 雲間から太陽の光が差し込んできて、さゆりんはまぶしげに瞼をしかめた。

 黒い兜で陽光を砕くままに言う。

「あんただけの勇ましさで、沓掛と九之坪の兵卒たち三百人を殺す気なんか。兵卒だけやない。半左衛門も、若君もそうや」

「なんでお前は負ける前提で考えているんだ。勝てるかもしれないだろうが」

「勝てるかもしれない? かもしれないであんたはいくさをやっとるんか? 兵卒はあんたの駒じゃないんや」

「んなことはわかってんだよっ! だけどおれは武将だっ!」

「わかっとらんわ、阿呆。いくさは銭勘定とは違うんや」

「お前こそ知った口叩いてんじゃねえ」

「話にならんわ。若君に説教してもらったほうがええで」

 さゆりんが顔を背けて立ち去っていってしまう。

 ものの、一度、足を止めて、振り返ってきた。

「あんた、よく考えてや。あんたは自分が死なないとでも勘違いしとるみたいやけど、このいくさでも、池田でも南近江でも、よお死んどるんやで」

「んなことはわかってるって言ってんだろ」

「わかっとらん。そこかしこに転がっている死体にはそいつだけの人生やないんや。あんたも考えてみいや。あんたのその蛮勇で、若君を死なせたらどうするんや。嫁も娶ったばかりなんやろ。子も産まれるんやろ。若君を死なせたら、あんたはどないして嫁や赤子に説明するつもりなんや」

「それは覚悟の上だろうが。太郎だってよ」

「あんたは覚悟できてんのか」

「できてるさ」

「ほんなら、あんたは愚将やな。息子を死なせて、自分は生き残れる覚悟だなんて」

「そんなのただの揚げ足取りだろうが!」

 さゆりんは冷ややかさだけを残して、去っていった。

 たった一人、おれは潮風に吹かれる。草鞋で蹴飛ばした土埃はさらわれていった。陽の光はまた雲に隠れ、海を囲う山々は影になった。




 太陽が水平線に傾きかけて、またぞろ軍議であった。

「三河殿と明智殿の先発隊は木ノ芽峠前に着陣したが、手勢では一両日中に攻略するのは難儀だとあり、また、朝倉方一万の援軍が一乗谷を出立、越前府中に入っているとの物見の報せである」

 サンザの言葉を皮切りに、どのようにして峠越えを果たすか諸将は論争した。

 織田は三万の軍勢とはいえ、地の利は敵方にあるし、山間の狭地に一万もの援軍を投入されると越前地方に侵攻するには厳しくなってくる。

「越前府中に集結しつつある朝倉方だが、天筒山が落ちたとあって、諸将の足並みが揃っていないようである」

 越前府中から木ノ芽峠まではどれぐらいの距離なのか、木ノ芽峠とはどのような地形なのか、敵の大将は誰なのか、夜襲するべきか、敦賀でじっくり構えるべきか、そんな意見が諸将の口をつく中、おれはようやく野戦のときが来たとひそかに心躍らせていた。

 峠の狭い場所だったら三段撃ちを――。

 けれども、それをやりたいと言うと昨日みたいに白けた空気になりかねないので、論争は重臣たちに任せて、胸のうちでは出陣出陣と唱える。

 そうしたら、話がちょうど区切られたとき、サルが信長に向けて顔を覗かせた。

「おやかた様。おりゃあを行かせてくださいだぎゃ」

 おれは焦った。またもやサルだけに手柄を立てさせるわけにはいかない。

「お、おやかた様っ、あ、あっしもお願いしますっ」

 サルとおれがでしゃばったので、諸将は白けたが、

「なんだぎゃ、おみゃあ。三百人ばかしの手勢で抜かすんじゃにゃあだぎゃ」

 白けた空気を意に介さず、サルはおれに目玉を剥いてくる。

「三百人ばかしだって、鉄砲隊がありますっ。絶対にお役に立てるはずですっ」

「おやかた様っ!」

 立ち上がったのは黒母衣衆のウザノスケ。

「こやつらごときでは話になりませぬ! 馬廻衆とともに拙者が黒母衣を引き連れて切り崩して参りまするっ!」

「峠に騎馬が役に立つかえっ!」

「そうだっ! 鉄砲だっ!」

「静かにせいっ!」

 サンザに雷を落とされて、おれとサルとウザノスケの三人は火花を散らしながらも腰を落ち着ける。

「まったく」

 長ヒゲ佐久間からつぶやきが漏れて、マリオが信長に顔を向ける。

「とにかくは、木ノ芽峠を制圧するには明朝にでも、明智殿、三河殿を増援しなければなりませんでしょう。朝倉方が揉めている中、援軍の到着前に一気呵成に攻め上がるべきかと」

「そうだな」

 と、信長は初めて口を開き、床几から腰を上げた。

「サル、それと牛。夜明け前に出陣しろ」

 おれは躍り上がるように腰を浮かせた。

「承知いたしましたっ!」

「おやかた様っ! 拙者はっ」

 ウザノスケがあわてふためいて切れ細の瞼を見開いており、おれは笑ってしまいそうになる。

「山間の小径に余計な兵はいらねえ。桶狭間になりかねん」

 ウザノスケがしょんぼりとして腰を下ろし、おれとサルに眼光を飛ばしてくる。

 負け犬ならぬ負けゴリラの悔し紛れのしように、おれとサルは口許を緩めてせせら笑う。

 ついに鉄砲隊の出番だ。

 十兵衛とデブの三河が先に下調べをしているのだから、さゆりんが言うような蛮勇でもねえ。

 昨日はおれをうつけと一蹴してきた信長が、今回は応じたのだから、勝機はあるってことだ。おれがただ単にでしゃばっただけの話じゃねえんだ。

 サルが勝手な行動を取りそうだから、軍議が終わったその足で半兵衛に相談しねえとな。鉄砲隊の三段撃ちを活用させろって。

 と。

「恐れながらっ」

 陣幕をめくってクローザが入ってきた。言葉のわりには恐縮するような素振りもなしに、諸将の顔に目もくれず、どこか切り迫った様子でかちゃかちゃと真っ直ぐに信長のもとに歩み寄っていく。

「なんだ」

 クローザは信長の足下に片膝をついた。

 そうして、事務的に冷たいだけのクローザらしくもなく、信長をおそるおそる上目にうかがいながら、一通の書状を信長に差し出した。

「小谷城、藤掛善右衛門殿より早馬が」

「なに?」

 信長は書状をひったくるようにしてクローザの手から受け取ると、ばさりと紙を広げ、視線の先を文面に落とした。

 何事か――、という具合で、諸将は口を閉ざして信長をじっと見つめる。

 小谷の藤掛善右衛門――。

 おれは聞いたことのある名前に振り返る。

 浅井新九郎殿のもとに輿入れしたお市様に随行し、そのまま小谷城に入った織田一門の武将だったような。

 あっ、と、おれは声が出そうだった。

 信長が瞳孔を開いたまま、まだ、何も口にしていないにも関わらず、おれは血の気が引いていった。

 おれは何をやっていたんだろう。

 歴史は変わってなんかいねえ……。

 ぐしゃっ、と、信長が書状を握りつぶし、わなわなと震え出した。拳を握って瞳孔を広げたまま、まるで一人の世界で孤立しているかのようにどこか一点を見下ろしており、そのさまはこれまでに一度も見たことのない信長だった。

 自信と野心に満ち溢れ、常に若々しくほとばしっているおれたちの親分は、そこにはいなかった。

 おそらく、そんな信長を目の当たりにしたのは、諸将も同じだったろう。

 長ヒゲ佐久間が撫でるような声でうかがう。

「い、いかがされましたか、おやかた様」

「九郎左。北近江にあるだけの物見を放て」

 と、絞り出すような声を出すと、クローザは「承知っ!」と叫んで議場を駆け足にあとにしていく。

 皆、呆気に取られていた。

 おれだけは震えていた。

 くたびれた亡霊のようにして床几に腰を下ろし、信長は恨みつらみがこもったかのような瞳で諸将を睥睨していく。

 やがて、言った。

「退却だ」

「なっ!」

 二十数名の将たちは、一挙、ざわついた。

「な、な、なにゆえっ」

「藤掛殿はなんとっ」

「ま、まさかっ、備前殿がっ」

 その声に、信長は瞳孔を目いっぱいに広げ、歯を剥き立てながら唸った。

「そうだ。支度をしている」

 その形相は地獄からひねり出てきた化け物みたいだった。

「そんな馬鹿なっ! 備前殿はおやかた様が義弟にてっ! お市様の婿殿ではございませぬかっ!」

「文の差し出し人はその市だっ!」

 親分の咆哮に議場はしんと静まり返る。

「まずい」

 つぶやいたのは長ヒゲ佐久間。

「それがまことであれば、朝倉と浅井の我らは挟み撃ちに」

「び、備前殿は、は、謀ったか」

 ゴンロクが狼狽していると、坂井右近が反論する。

「朝倉と共謀していたならば、天筒山が落ちる前に出陣するはずです」

「各々方」

 静かにそう言って、視線をぬうっと持ち上げてきたのは、弾正のジジイだった。

「今、そのようなことを申していても致し方ない。状況を把握するのが先決であり、疑いようがあるのならば、すぐにでも退却の支度を整えるべきだ」

 これまでに軍議では一切の発言がなかったというのに、稀代の大悪党の異名を取る弾正ジジイの冷たい語気には、凄味さえあった。

 サンザが分厚い唇を結んでいる。マリオが沈んだ色の瞳で信長を見やる。おれの隣でマタザが震える吐息を長々とついた。

 林佐渡が信長にたずねる。

「まことにお市様でございますか」

「間違いねえ」

 すると、信長は顔を真っ赤に染め上げて、大机を割らんばかりに大きく叩いた。

 激高する親分に皆が肩を跳ね上げる。

「市が俺にこんな文を寄越してくる理由が、他にねえだろうっ! ここでこんな文を寄越してくるとは、何者かに吹き込まれているはずもねえっ!」

 信長はまったく冷静でなかった。おれをボコるときよりも冷静でなかった。越前の大地図が広げられた大机にしがみつくようにして、拳を叩いたままに、目は血走ってさえいた。

 お市様の優しいお顔が脳裏をよぎる。

 どんな思いで、お市様は手紙を書いたのか。

 やっちまった。

 おれはやっちまったのだ。

 あの新九郎殿が信長を裏切るはずないと決めつけていたおれの目は、まったくの節穴だった。

 どうして万が一にもそれを避けるような努力をしなかったのか。

「この状況だと」

 と、弾正ジジイだけが平然とした悪党ヅラでいる。

「朝倉方と謀ったようにも思えぬ。木ノ芽峠の先発隊に知らせるのは明朝でよろしい。朝倉に勘付かれてはならぬ。軍勢も動かしてはならぬ。闇に紛れて上総介殿だけでも手勢を従えて退却すべきだ」

「しかし、敦賀を放棄するのかっ!」

 ゴンロクが声を張り上げる。

「たわけっ」

 佐久間が叱りつける。

「浅井が我らを裏切ったとあれば、東近江の東山道は遮断されるのだぞっ。岐阜にどのようにして帰陣するのだっ。ここでいくさをしている暇などないっ」

 マリオがうなずいた。

「左様。ただちに京に戻り態勢を整えなければ。敦賀を失っても、南近江を失うわけにはなりません。浅井方が南近江まで攻めかかるとなれば、伊勢に抜ける道も断たれ、我らはついに岐阜に戻れなくなりまする」

 すると、サンザが言った。

「おやかた様、殿軍しんがりを」

「おりゃあがやりますだぎゃっ!」

 待ってましたとばかりにサルががばりと腰を上げ、今度はでしゃばっても空気は白けない。皆が皆、口許を切り結び、視線を逸らすようにして誰もがサルを見ていない。

「ここはおりゃあにお任せくだされだぎゃ。おりゃあが皆々方を京に無事に戻しますだぎゃ」

 緊迫した気配の中で、サルはむしろ笑みをたたえている。

「大船に乗ったつもりで皆々方は帰陣されてくだされだぎゃ」

 この野郎、大法螺吹きやがって。この期に及んでまだ手柄を取りに来ていやがる。

 負けじとおれも立ち上がった。

「おやかた様っ! あっしにも、殿軍を務めさせてくださいっ!」

「な、何を申しておるかっ!」

 床几の椅子を蹴飛ばしかねない勢いで腰を上げたのはマリオだった。

「や、簗田殿は殿軍の意味をわかっておるのかっ!」

「よいではないか」

 ゴンロクが不敵に笑いながらマリオに目玉を剥いて見せている。

「やりたい者にやらせるのが鉄則ではないか。五郎左」

「しかし、沓掛勢はたった三百――」

「簗田殿が名乗り上げるのであれば、拙者も参じましょう」

 池田筑後守だった。角ばった頬を緩ませておれに笑んできているが、織田の人間でもない筑後守の名乗り出に、諸将はざわつき、顔を見合わせ、あるいは目許を固く結んでいるおれや、鼻を突き上げているサルを見やり、戸惑いというか、悲愴というか、哀れみというか、なんとも形容しがたい眼差しを注いでくるのだった。

 そんな目を向けてきたところで――。

 歴史どおりに動いているんなら、おれの勝ちだ。サルが名乗り出たんなら、サルは死なねえ。殿軍だろうとなんだろうと負けやしねえ。

 大いに揺らいでいる議場の気配のうちで、ただ一人、信長だけが鬼のような形相で押し黙っており、サンザがうかがう。

「おやかた様。木下勢二千、池田勢三千、沓掛勢三百、よろしいでしょうか」

 信長は血の涙でも流さんばかりの目の血走りようでただただ拳を震わせていたが、

「そうしろ」

 と、獣の呻き方で吐き捨てる。

 そうして、ゆらりと立ち上がると、諸将を睨み回していき、覇気の潰えた小さい声で言った。

「俺は一足先に抜ける。兵卒たちには決して漏らすな」


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