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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七、二章 決死戦を越えろ
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敦賀侵攻

挿絵(By みてみん)

 連なる山々と、琵琶湖の西岸線とのあいだを縫うように進軍していく。

 一日目には近江国高島郡に宿し、二日目には山間の街道を進んで若狭国遠敷郡おにゅうぐんに入った。

 ここ遠敷郡では、若狭国の十数名の豪族が一同に集まり信長を出迎えたというのだから、織田の威光が天下に降り注ぐことに疑いなき進軍であった。

 軍議で、信長が腕組みをするかたわら、サンザが言う。

「すでに木下勢が三方郡みかたぐんに着陣しており、謀反者の武藤上野介は我らに降った」

 諸将はそれとなく顔を見合わせる。

 大机を取り囲んでいるのは、織田の重臣、中堅どころ、その他に普段は見かけない面子もある。

 明智の十兵衛であったり、松永弾正のジジイであったり、去年に筑後守という官位を頂戴した池田八郎三郎こと池田筑後守であったり。

「しかしながら、先ごろの禁中御修理、武家御用の参内の触れ状になんら音沙汰を示さなかった朝敵がある」

「越前朝倉だ」

 信長が口を開き、諸将は静かにうなずいた。

 京に諸大名が集まったにも関わらず、朝倉だけが来なかったという話を先日ちらっと耳にした。

 あの武田信玄でさえ、デブの三河守を通して信長の天下静逸の祝辞を送ってきたにも関わらず。

 サンザが続ける。

「明日には三方郡、明後日には敦賀郡に入る。敦賀にて徳川三河殿と合流し、天筒山に攻めかかる」

「恐れながら、おやかた様」

 と、顔を乗り出したのはゴンロク。

「小谷の浅井備前殿は参られませぬか」

 浅井新九郎殿は、やはり昨年、備前守を叙官していた。

 信長は笑う。

「浅井は朝倉とは盟友であったため、配慮してやっている。新九郎からも面目ないという使者は来ている」

 佐久間が余裕綽々というふうにうなずく。

「まあ、敦賀を占めれば朝倉も我らに降るのではありませぬか」

「フン」

 軍議が終わり、持ち場に戻ろうとすると、池田八郎三郎こと筑後守に呼び止められた。

 頬の角ばった輪郭を笑みで緩めながら歩み寄ってくる。

「正七位を頂いたそうで」

「これはどうもわざわざご丁寧に。築州殿には遠く及びませんが」

 いやはや、近頃はこればかりである。

 今後の渉外活動に役立つだろうとサンザが言っていたとおり、武門の名誉職なる左衛門尉とは素晴らしい。

 まあ、筑後守と社交的な会話をしていた今しがた、弾正ジジイが見向きもせずに通り過ぎていったが。

 南伊勢の陣中で、おれをあれだけ責め立ててきた織田の面々も、今では文句の一つもつかない。

 人差し指を突き刺して罵ってくれたいものである。

 ゴンロク、林佐渡、そして、ウザノスケ、おれはテメーらみてえな田舎武者とは違うんだ、と。

 おれは天下の簗田左衛門尉なのだ。

 筑後守と別れると、浮かない顔をして歩いている十兵衛が視界に入ったので、声をかけた。

「どうしたんスか。青白い顔をして」

「ああ、これは簗田殿。このたびは左衛門尉の任官おめでとうございます」

 おれはにやつきを押さえながら、大きくうなずいて謝辞をあらわす。

「そんなことより、十兵衛殿、どうしたんスか」

「いや、まあ――」

 十兵衛は苦笑しながら言う。

 越前朝倉を攻めるのは忍びないものだと。

「十兵衛殿は朝倉に世話になっていたんでしたっけ」

「ええ。世の流れとはわからないものです。まさか朝倉殿が公方様に反目するとは。朝倉殿を征伐するなど、あのころ、拙者は思いもしませんでした」

「胸中お察しします」

「これが戦国乱世ですかね。いや、もはや乱世も終わりかけておりましょうか」

 十兵衛と別れ、ねじり鉢巻きの手でクリツナに跨る。

 乱世も終わり――。

 天下の簗田左衛門尉とはいえ、このまま終わってしまってはどうかというのもある。

 歴史が変わってしまったと思われるこの先、どのような展開が待っているのか意図できないが、それなりにいくさをしてもらわないと火縄銃の威力を試す機会がない。

 一万貫を払わなくちゃならなくなる。

 自陣に戻ってきて、軍議で伝えられたことを太郎やハンザ、吉田さゆりんに話した。

「もしかしたら敦賀に入ったら朝倉も降伏しちまうかもしれねえけど、降伏しなかったら天筒山っていうところを攻めるらしい。早之介。鉄砲隊は活躍できんのか」

「天筒山が、どのような山城かわからないため、なんとも申し上げられませぬが、殿が思い描いているような勲功を上げるのは厳しいでしょう」

 おれは軽く舌打ちした。

「城攻めばっかだ」




 三日目には三方郡に入り、四日目には朝倉領の敦賀郡に侵入して、徳川三河の三河勢と合流した。

 若狭国から越前国に移動する進軍の中、おれの心はすでに今回のいくさから離れていた。

 どうすれば鉄砲隊の活躍の場を設けられるか、もしくはどうやって一万貫を返済しようか、考えごとばかりだった。

 こうなったら、左衛門尉の名を駆使して、計略を使い、どっかと野戦にしてしまおうか。

 それは大掛かりすぎるな……。

 どっかに好機は転がっていないもんだろうか。

 軍議で予測されていた通り、朝倉勢は天筒山で籠城態勢らしい。それもそうだ、三万の大軍を前にして打って出てくるはずがねえ。

 越前国に広がる山々の連なりの一角に天筒山はある。金ケ崎山という峰と一体になっている。

 どちらも背丈の低い山だ。

 金ケ崎山のほうは群青に色濃い敦賀湾に張り出しており、この二峰が敦賀郡一帯に睨みをきかせ、朝倉方の前線基地らしい。

 天筒山と金ケ崎山を攻め落とせば、越前の山々のその先にある朝倉本拠地に繋がっていく。

 敦賀郡を支配できるか否かは、朝倉攻めにおいて重要な部分だそうだ。

 信長は天筒山金ケ崎山の正面、妙顕寺というところに本陣を構えた。

 またぞろ、軍議に召集される。

 妙顕寺とやらに向かう途中、サルを見かけた。

 おれはクリツナを小走りに走らせて、にやにやしながら駆け寄っていく。

「どーもー。藤吉郎殿」

 陽気に声をかけると、馬上のサルはちらっとだけおれを見やって、何も反応せずに前方に視線を戻す。

「三方郡ではさすがッスねえ。武藤上野介とかいう奴を調略したんスかね」

「なんだぎゃ。調略なんかしてねえだぎゃ。きゃつが勝手に降伏してきただけだぎゃ。どうせ知っているくせに」

「いや、知らねえッスよ」

 へらへらと笑っているおれに対し、サルはフンと鼻を突き上げる。

「いくさっちゅうのに間抜けヅラだぎゃ」

「ずいぶんと不機嫌じゃありませんか? どうしたんスか?」

「おみゃあの顔なんか見たくもねえんだぎゃ。近寄るなだぎゃ」

 サルはおれに前歯を剥いて山猿みたいに威嚇してくると、馬丁に馬を早く走らせろと語気を荒くし、逃げるようにして先に行ってしまう。

 奴は、おれが左衛門尉に任官したのが相当気に入らないのである。

 先日のお祝い会でもおれが任官したと聞いた途端、三分後にはいなくなっていた。

 妙顕寺の辺りからは、波の穏やかな敦賀湾がよく見て取れる。磯の匂いが風に乗ってくる。

 雲一つない空は春の霞に乳白色で、海を湾曲させている山々も青く滲んでいる。

 海はいいなあ。

 戦国時代にカメラがないのが口惜しい。あずにゃんに写メでも送ってやりたいものである。

「ここに両立している金ヶ崎山と天筒山がある」

 軍議でサンザが大地図に棒きれを差す。

「守将は朝倉一門、朝倉中務大輔である。我らの敦賀入りは当然、一乗谷(朝倉方の本拠地)に伝えられているはず。援軍が来ることは必至。これらの城は早急に攻め落とさねばならん」

「良策はあるか」

「恐れながら」

 十兵衛が声を上げた。

「拙者は天筒山をたびたび訪れたことがございます」

「申してみろ」

 十兵衛は大地図の前に立ち、棒きれで差し始めた。

「天筒山の搦手は沼地であります。ゆえに敵方は搦手の守りをおろそかにしております。さらに、天筒山の水源がこちらにあります。これを堰き止めれば、天筒山の兵たちは士気を失うはずです」

「もう一個の金ケ崎山はどうする」

「天筒山が落ちたとあれば金ケ崎山は街道口から孤立します。戦意を失うはずでしょう。ゆえに金ケ崎山よりも天筒山に総力を注ぐべきかと」

 おれはしらっとした気持ちになる。朝倉攻めは忍びがたいだなんて青白い顔をしていたくせに、十兵衛は活き活きとしているのだから。

「いいだろう」

 信長はうなずくと、

「又左、内蔵助、三左、天筒山の大手口から先陣を切れ」

「承知っ!」

 と、隣のマタザがでかい声を出して、おれは顔をしかめる。

「サル、ゴンロクがその後に続け。搦手に回るのは五郎左、それと牛」

「えっ」

「なんだ」

 信長に唸り声を上げられて、おれはあわてて首を振った。

「い、いえ。申し訳ございません」

 牛、じゃなくて、おれは左衛門尉なんだが……。

 信長が去っていって軍議はお開きとなり、サルとウザノスケが睨み合いを続けている中、赤装束のマタザが、

「牛」

 と、顔を向けてきた。

「お前、しくじるなよ」

「急になんスか。あっしがいくさでしくじった試しなんてないッスよ」

「好事魔多しと言うだろう。お前は任官してからどうも浮ついているからな」

 おれは眉をしかめた。

「浮ついてなんかいないッスよ。それにあっしを牛って呼ぶのはやめてくんないッスか。ちゃんと左衛門尉っていう官位があるんスから」

「フン。牛は牛だ」

 マタザは腰を上げるとつまらなそうな顔で本陣をあとにしていく。

 チッ。マタザの野郎。お祝い会でも不機嫌だったからな。嫉妬してやがる。

 しかし、嫉妬しているのはマタザだけではなくて。

 長ヒゲ佐久間やゴンロクといった重臣たちはすでにいなくなっているが、まだ残っていた中堅どころの織田の諸将はおれに冷ややかな視線を向けてきているのだった。

 さきほどの、「自分は牛じゃなくて左衛門尉だ」という発言が嫉妬を招いているらしい。

「簗田殿は任官されましたか」

 と、目をくりくりとさせて下膨れの顔を覗かせてきたのはデブの三河だった。

「あ、そ、そうなんス」

 けれども、二十名弱はいる諸将からの妬み嫉みの嵐がすさまじいので、おれは席を立ちながら、

「三河殿のお手をわずらわせないよう頑張ります」

 そそくさと議場を退出していく。

 さすがに迂闊な発言だったか。

 サルやマタザが不機嫌になっているのは構わないが、付き合いのない連中が持っている嫉妬心は憎悪になりかねん。

「どうした。そんなにあわてて」

 境内でクリツナにまたがろうとしていたら、声をかけてきたのはマリオだった。

 そうか。マリオと一緒に搦手攻めだから打ち合わせをしないといかん。

 マリオと馬を並べて、妙顕寺から自陣へと戻っていく。

「なんだか、皆さんあっしを見る目が冷ややかッスね」

「致し方ない」

 マリオはおれの成り上がりを大して気に留めていない様子である。まあ、これしきで嫉妬しているようであったら、沓掛城主として体たらくなおれに付き合ってこなかっただろうが。

「周囲の目よりも、おやかた様のご期待に応えられるかどうかだ。無茶は禁物だが、明日はそれなりの功績を残さんとな」

 磯の香りをわずかに乗せた風がクリツナのたてがみをさらりとなびかせる。

 期待。

 嫉妬。

 おれには無縁の言葉だったはずだが。




 その夜、腰の大小だけを外して、縦長烏帽子に具足姿のままでいるおれは、掘っ立て小屋の中でぼんやりとした恐怖に襲われていた。

 岐阜で平和な日々を送っていたころの不安と似ている。

 けれども、今は不安というよりも、怖い。

 信長からの期待。

 織田諸将からの嫉妬。

 生真面目な表情から見せてきたマタザの鋭い眼光。

 拾阿弥を斬り捨てたときの、昔の野蛮人のマタザじゃなくなっているからこそ、あの目は脳裏から離れない。

 マタザが大人になったように、気づけばおれも変わった。

 振り返ってみれば、おれが手柄を立てた桶狭間のときも、箕作城攻めのときも、弾正から九十九髪茄子を強奪したとき、池田筑後守を説得したとき、すべて、時の流れの赴くままに流れていたら、そこに行き着いていたような結果であった気がしてくる。

 もちろん、おれがやったことだ。

 おれが必死になってやってきたことだ。

 ただ、何かが違う。

 あのころの緊張や、不安とは、ひと味違った恐怖がおれに湧いてきている。

 火縄銃百丁をイマイから借り受けて、信長に時代を変えると宣言したためだろうか。

 時の流れの赴くままではなく、おれが無理やり自分の道をこじ開けようとしているからだろうか。

 左衛門尉という官位が妙に重い。

 冷静に考えれば、おれの身の丈に合っていないような。

 でも、もう逃げ出せない。伊那谷でさゆりんに裏切られたあと、引きこもっていたようなことはできない。

 おれは掘っ立て小屋から出る。

 沓掛勢の兵卒たちは、かがり火のもとで寝転がっていたり、首を垂らして眠っていたりする。

 夜空をあおぐと、無数の星が春の宵に溶けるようにしてまたたいている。

 星はどうして光っているのか。

 宇宙のことなんて何も知らないが、おそらく、この無数の星には、太陽みたいに自分で光っている星もあれば、地球や月みたいに、太陽の光を浴びて照り輝いている星もあるのだろう。

 怖い。

 もしや、この夜空には、光り輝いていない星もあるかもしれない。

 真っ暗で、冷たくて、宇宙の闇に飲み込まれている星が。

 見つめれば見つめているほどわからなくなってくる。

 夜空のあそこの暗いところはなんなのか。

 自分はなんなのか。

 おれはたまに自分がわからない。

 マタザの言う通り、おれは浮ついていただろう。

 ところが、マタザに言われてしまって、おれの感情の針は一挙に反対の極性に触れてしまって、こうして、怖くなっている。

 そこの真ん中になれないのだろうか。

 それとも、生き急いでいるためなのか。

 おれはあずにゃんが不安になっていたとおり、何かに取り憑かれているのか。

 どうすればいいのかわからない。いつも、いつだって、一人になるとわからなくなってくる。

 梓殿に会いたい。

 かちゃかちゃと歩み寄ってくる具足姿があって、目を凝らすと、太郎だった。

「父上、どうされたのですか」

「いいや。お前こそ何をやっているんだ」

「いえ。特に」

 太郎はおれの顔をじっと見つめたあと、なぜか二、三度小さくうなずいて、息を細長くつきながら視線の先を逸らしていく。

 いつもの生意気な太郎らしさのない顔つきだった。

「どうした。何かあったのか」

 すると、太郎は口を結び、おれの胴丸辺りを見つめる。

 重大な出来事のようでもなかったが、悩み事のようでもあった。

 腰には刀の大小とともに赤黒の鞭を差している。

「実は」

 と、太郎は視線を持ち上げてきた。

「京を出立する直前にあいりから文が届き、子を身ごもったと」

「なんだよ――」

 おれはほっとして肩から力が抜けた。

「なかなか言い出せずにおりまして。申し訳ございません」

「どうして。いいことじゃないか」

「父上と母上にはまだ――」

 おれは笑ったあとに、吐息をつき、そうしてまた笑った。

「そういうことを気にするな。あいりんにも言っておけ。だいたいおれも梓殿も年なんだし。そもそもおれと梓殿の子供はお前だ」

「ありがとうございます」

 恥ずかしくなってきたので、おれは掘っ立て小屋の中に戻った。

 生意気な太郎は大嫌いだが、素直な太郎もあんまり好きじゃない。

「そういうもんだろうな」

 おれは茣蓙の上に寝転がり、瞼を閉じる。

 感情の針に真ん中ってものは無いのかもしれん。

 けれども、太郎とあいりんのあいだに赤ちゃんが産まれるともなれば、おれはいよいよ逃げ出せなくなるわけだ。

 おれが奴らを背負っているのなら、落とさないためにも、やらなくちゃならんってことだ。

 大それたことでも。




 翌朝、妙顕寺からの法螺貝の鳴りとともに、開戦した。

 天筒山の大手口にサンザの部隊と、赤母衣、黒母衣の親衛隊連中が攻め寄せていく。

 沓掛勢はマリオが率いる児玉勢に付いて搦手に回っていく。

 が、敦賀湾を正面にして、天筒山の裏手というのは、予想以上の沼地であった。

 人の背丈よりも高い葦の草が生い茂っており、水は引いているのだけれども、足の脛まで覆ってしまうぬかるみは、田んぼよりもひどい。

 まさか、底なし沼なんじゃねえのか。

 周囲の兵卒どもを見ていると、踏み出す一歩さえにも難渋している。踏み出すというよりも、眉間に皺を寄せながら、足を引っこ抜いている。

「皆の衆っ、あわてるな!」

 クロスケにまたがりながらの太郎が兵卒たちを励ますものの、当の太郎もクロスケが首を上下左右に振って暴れており、

「クロっ! 落ち着けっ!」

 叱っても、凶暴馬は三白眼を血走らせ、涎を振り撒いて、馬の耳に念仏である。

 クロスケがいきり立っているのは、天筒山から聞こえてくる太鼓半鐘の鳴りや怒号のためではなく、自由のきかない沼地を進まされていることに対して怒っているようである。

「鉄砲隊!」

 後ろから吉田さゆりん早之介の声がした。

「決して銃を落とすな!」

「旦那っ!」

 クリツナの口輪を取りながらのねじり鉢巻きが叫ぶ。

「もう駄目だ! どんどん深くなっていく! クリツナも進めねえ! クリツナは置いて、先に行ってくれ!」

「駄目だ」

 おれはぼそっと呟く。

 たしかに、前を行く二千の児玉勢の部将たちは次から次に馬を乗り捨てていっているが、おれは駄目だ。

「そんなこと言ったら、旦那はここで立ち往生だぞ!」

「下りましょう! 父上!」

 太郎がクロスケから下馬してしまう。口輪取りの雑兵にクロスケを連れて自陣に引き返すよう告げている。

「駄目だ」

 おれはぼそっと呟く。

「父上っ!」

「先に行ってろ。兵卒たちを連れて先に行ってろ」

「何をやってんだよ旦那っ!」

 と。鉢巻きが騒いでいるせいなのか、さすがに怒ってきたのか、今までおとなしかったクリツナも凶暴馬のクロスケみたいにして、たてがみを大きく振り乱し、首を上下に入れ込み始めた。

「駄目だっ! おれはクリツナに乗って行くんだっ!」

「殿っ!」

「ハンザは太郎に付いていけっ! 太郎を護衛しろっ!」

「旦那も下りてくれってっ!」

「うるせえっ!」

 だって、おれみたいなデブがこんなズボズボの沼地を進めるはずがないじゃないか……。

 下りたら絶対に埋まってしまい、それこそ一歩も前に進めなくなってしまうじゃないか……。

「おれは手柄を立てるんだ! ここで手柄を立てなくちゃならねえんだ!」

「殿っ! 何を申されておるのですっ!」

 と、早之介もすでに下馬しており、率いる鉄砲隊と一緒になっておれに追いついてきてしまった。

「手柄を立てるのならば御大将も来てください!」

「だから行くっつってんだろ!」

「ならば下馬してくださいっ!」

「無理だ!」

「いい加減にしてください!」

 早之介は堪忍袋の緒が切れてしまったようで、おれをクリツナの上から引きずりおろしてくる。ねじり鉢巻きと一緒になって引きずり下ろしてくる。

 おれは沼地にべちゃっと転げ落ちた。

 早之介と鉢巻きの手で沼地から起こし上げられるが、思った通り、足がズボズボと沈んでいく。

「お前らは何もわかってねえなっ! おれをもう一度クリツナに乗せろっ!」

「栗綱は任せたぞ、栗之介」

「ふざけんなっ!」

 騒いでいたら、泥濘の中で縛りつけられているような両足のバランスが取れなくて、両手を突いて倒れてしまう。

「殿!」

「そんなこと言ったって動けねえんだよっ! 早く助けてくれっ!」

 沼地で四つん這いになったまま吠え立てるも、吉田さゆりん早之介は兜の下の猫目を困惑させながら辺りを見回し、天筒山を見上げる。

「もういいっ。栗之介! 殿のことも任せたぞ!」

「おいっ!」

「若君に続け!」

「ふざけんなお前らっ! おれを引っこ抜けっ!」

 と、おれの両脇を追い越していく鉄砲兵卒に怒鳴りつけるものの、すでに二歩も三歩も先を行っている早之介が振り返ってきて、

「殿は腰を悪くされたのだっ! 栗之介に任せろっ! 構うなっ!」

「ふざけんなっ!」

「もういいだろうよ、旦那」

 ねじり鉢巻きが脇を抱え上げてきた。

「あとのことは太郎に任せろよ。べつに旦那が行ったって変わりゃしねえんだし」

「おい、なんだ、それ。おれは沓掛勢の大将だぞ」

「大将なのに進めねえじゃねえか」

「だから、クリツナに乗せろっ!」

 ところが、なんと、クリツナが方向転換しており、雑兵に連れていかれるクロスケのあとに続いて、勝手に退却し始めていた。

「おいっ! クリツナっ!」

 クリツナは耳を立てたが、尻尾を一度振っただけで、無視して歩いていってしまう。

 そうして、沓掛勢に顔を向ければ――、生い茂る葦の草の向こうになってしまって、姿形が見えなくなってしまっていた。

「旦那。太郎に任せれば大丈夫だろ。旦那も引き上げるしかねえ」

 ねじり鉢巻きの表情が切り迫っているほどに、おれの情けなさがおれ自身のうちで浮き彫りになっていくようでいて、おれは半べそをかいてしまう。

 期待。

 嫉妬。

 不安。

 そんなものをいちように解決させるはずだったこのいくさ――。

 武門の名誉職の左衛門尉。

 そんなおれを明確にするためだったこのいくさ。

 ただ単に、おれの情けなさのいくさだった。



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