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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七章 新たなる舞台
105/147

番外編 君をのせて(後編)

 眠れぬ夜を過ごした。

 困惑のあまり汗までかいていた。

 あいりの顔ばかりが浮かんでしまうのである。

(これじゃ殿のことなんか言えないじゃないか)

 恋というものがあるのは知っている。

 藤吉郎の女房の寧々に抱いていたものこそ恋なのかもしれないと太郎なりに思ったときもあったが、それは恋じゃなかった。

 今、この小僧が襲われている狂おしさはとてつもなかったのである。

 これはいけないと思って、太郎はとりあえずながら、

観自在菩薩かんじいざいぼおさ行深般若波羅蜜多時ぎょおじいはんにゃあはあらみったあじ――」

 夜着を力いっぱいに抱き締めながら精一杯に般若心経を唱えた。

 一心不乱になって雑念を払おうと努力する太郎であったが、翌日、本丸館の廊下を磨いている千代とすれ違うと、気になっていたので訊ねた。

「千代さん。今日はあいりさんは来てらっしゃらないのですか」

 手足を止めていた千代は、つぶらな瞳をじいっと太郎にこしらえてくる。

「いいえ」

「左様ですか」

 一礼を残して立ち去る。

 かしこまった彼の後ろ姿を千代の視線が疑い深く追いかけていたが、太郎は気づいていない。

 人のしようには目を光らせるというのに、自分のこととなれば脇が甘い。

 牛太郎の居室の掃除に勤しむ。

(あいりさんは歩けないのだろうか)

 掃除を終わらせると、館の外に出た。

 朝から降るか降らずか定めなき雪であった。積もりこそせず、曲輪のうちをぬかるませている。

 武具庫にやって来た太郎は、鍵を差して錠前を外し、分厚い戸板を力いっぱいに押していく。

 中は、具足や槍、矢じりがしんとして並んでいる。火打ち石の火花を油に落とし、火皿をかかげ上げながら奥のほうへ向かう。

 書物は奥の棚に積み上げられていた。目当てのものを探し出し、白く真新しいままの紙をめくっていく。

 中身は中国唐代の孫思邈そんしばくが著した医学書がもとになっているということだが(孫思邈は五百年以上も前の人物であるし、書物を引用者が不明ゆえに怪しいものだが)、丹羽五郎左が清洲城の蔵書から拝借したものをここに写したのは太郎である。

(打ち身や捻挫は確か――)

 生地黄しょうじおうを細かくついて患部へつけ、一日に十回、交換する。

 または、大豆二升を水五升で煮詰め、この汁に澄んだ酒を六、七升混ぜて一日で飲み干す。

 と、ある。

 武具庫を閉ざし、兵糧庫に向かう。ここも鍵を差し込んで錠前を外し、分厚い板戸を力いっぱい押していく。

 味噌の匂いに充満する内部は俵に括られた穀物や銭貫文が所狭しと並んでおり、奥をあさっていけば生地黄があった。

 兵糧庫を閉ざし、館に戻る。

 広間の前を通ったとき、燭台の油を取り換えている千代とすれ違った。太郎の視界には入っていなかったが、千代の視線が疑い深く追いかけていることには相変わらず気づかない。

 小姓部屋で黙々と膏薬作りに励んだあと、竹簡と紐を携えるとともに、長屋の区割り表を手にして、またぞろ館の外に出た。

 箕笠で頭と肩を覆い、通りすがりの中年の小者がどこへ出かけるのだと語気を荒くしてきたが、

「知人が怪我をしてしまったので、これを渡しに行くだけです」

 竹簡と生地黄の入った袋をかかげると、小者は納得して太郎を見送る。

 雨雪とあってか、城下の通りを往来する人はまばらである。無風だが、びた景色は寒々しい。

 明智庄の女子供が住まう長屋は城下の外れにある。

 去年の秋ごろに城主牛太郎が丹羽五郎左の目を盗んで急遽建造した代物である。とはいえ、土壁に囲われ、板葺き屋根を石や丸太で押さえているだけの家大工が適当にあつらえた粗末な作りである。

(あいりさんの住まいはどこだろう)

 区割りを眺める。指でなぞって探していくと、あいりの名があったが、その隣に記されている名に眉をしかめてしまう。

 一部屋を千代と二人で住んでいるらしい。

(まあ、あの人は城にいるから)

 区割りと長屋を見比べながら進んでいくと、あいりの長屋の戸の前までやって来て、太郎は拳を軽く戸を叩こうと――して、その手を止めてしまう。

 胸がうずいた。途端に緊迫してしまった。

 思い出したかのようにして箕笠を外し、咳払いをして、声の調子を整えたあと、戸を叩いた。

「た、たのもお」

 はい、と、中から彼女の声がして、太郎の背すじは跳ねた。

「城の小姓の太郎でございます」

 えっ、と、声が上がった。

 そういえば、彼女は足を痛めているのだった、と、太郎は戸に手をかけ、入ってもよろしいか訊ねる。

 どうぞ、と、おぼつかない調子で返ってきたので、太郎は唾を飲み込んでから戸を開けた。

 寒さからか窓を閉めきっているせいで、屋内はほぼ暗い。なぐさめ程度の火が居土間をぼんやりと染めているだけであり、右足を引きずりながら歩み寄ってくるあいりもほとんどが影だった。

「あ、いや、そのままで結構でございます」

 太郎はあいりを制しながら中に一歩だけ踏み入り、携えてきたものをかかげて見せた。

「城にいらっしゃらなかったので、念のためと思い、膏薬を持ってまいりました。袋の中身を痛むところにあてがって、これで縛りつけてください。日に十回は交換すれば、三日で治るそうなので」

「え――、わざわざ」

 袋や竹簡を居土間にそろりと置くと、あいりはその場に膝をついて、頭を下げてくるのだった。

「申し訳ございません。わざわざ」

「いえ。とんでもございません。拙者が足下を照らしていなかったばかりに」

 ということで、用は済んだ。

 が、太郎はなかなか帰りたがらないでいる。

 昨晩の触れ合いとは打って変わって離れた距離からの交わりである。あれほど密着していたのに、なかなか残酷な距離である。それと比例するかのようにして、互いの会話は杓子定規の気がしてならなかった。

 慕情の温もりはなくて、土間の冷たさだけが暗がりとともに太郎の前には広がっている。

 何か、気の利いたことでも言いたい。

「あれえ、太郎ちゃんじゃない? どうしたの?」

 はっ、と、して、振り返ると声の主は口許に笑みを浮かべていた。

「い、いえっ。特に」

 太郎はそそくさとして長屋をあとにしようとする。しかし、千代がすうっと立ち塞いでくる。

「特に用もないのにどうして私の家に来るわけ?」

「そ、そういうわけではなくて、あいりさんが足を痛めたので膏薬を持ってきただけです」

「へえ。そう。あいりちゃんが足を痛めたってどうして知っているのかしら」

 千代はふふんと笑いながら、今度はあいりに視線を向けるのだった。

「昨日、あいりちゃんは一人で帰ってきただなんて言ってたよねえ」

 そうして、また、太郎に視線を戻してくる。

「もしかして、太郎ちゃんと一緒だったってこと?」

 千代は目を輝かせてにたにたと笑っている。とんでもない人に知られてしまった。

「違う。違うんです。拙者はただ、昨晩、あいりさんが城内に忘れ物をして、それで夜道は危ないからと送り届けただけです」

「そ、そうですっ。送っていただいただけですっ」

 と、後ろであいりもあわてている。

「私はいいと思うけど?」

「えっ?」

 何を言っているのか意味不明なので目を丸めると、千代は笑みを絶やさずに言うのだった。

「太郎ちゃんとあいりちゃん、お似合いじゃない」

 太郎は沸騰した。

「なっ」

 顔を真っ赤にさせた途端、

「それじゃ! お邪魔しました! ごゆっくり!」

 千代は笑いながら走って出ていき、雨雪の中もいとわずにぺたぺたと草履を鳴らして城のほうへと去っていく。

「い、いや――」

 太郎が振り返ると、暗がりでその表情がはっきりと判別できないものの、あいりはいたたまれない気配でうつむいていた。

 脱兎のごとく逃げた。

 おなごの扱いなどとんでもない、恋ですら未経験だった太郎には重たすぎる空気であった。




 小姓部屋にじっと正座して、まだらにうねるこの心持ちをどうにか整理しようと太郎は瞑想していた。

 こうして一人で思い悩むほか、彼に手立てはない。

 兄弟姉妹は当然ながらいないし、小者から将に至るまで沓掛城で勤めている者といえば年かさの男たちばかりだし、口さがない足軽兵卒たちに相談を持ちかけるなどとんでもない。

 ゆえに、物の理解のすべてを個人で完結しようとするから、思考が偏屈になってしまうきらいがある。

(いったい、どうなってしまうのか。あいりさんに夢中になるばかり、堕落してしまうんじゃないか)

 たかだか恋でこの有り様である。

(そもそも、どうして膏薬を届けたんだろう。千代さんに渡せばよかっただけじゃないか。どちらにせよ千代さんにからかわれたかもしれない。けれど――)

 長屋に出向いたのは彼女会いたさのためだったとして、彼は自分自身を卑しんだ。

 薬にかこつけて、彼女に会いたかっただけだった。

 名無しの太郎の分際で、天下泰平の一端を担いたいなどと大それた志向を描くような少年である。彼は日頃から課しているのだった。清らかさなり、正しさなり、それこそ漢と書いて男と読ませるための矜持を強く抱いていた。

(それをおなごごとき、いや、己の恋心に惑わされて己でいられなくなるだなんて)

 そもそも、と、太郎は思う。

 主人牛太郎の生死が判明できぬ中、自分は何をしているのだろう。

(千代さんとて、まるで殿のことなんか忘れたみたいに)

 他人の運に翻弄されてはいけないと千代は言っているらしい。

 間違ってはいない。

 自らは自らの足で立たなくてはならない。

 しかし、牛太郎に運がなくなったからと言って、たとえ後ろ髪を引かれるような思いであったとしても、未練を断ち切るために彼を死んだと済ませてしまってよいのか。

 千代なら構わないかもしれないが、自分はそうと考えてはならないと、太郎はもう一度言い聞かせるのだった。

(殿は生きている。そして、自分は殿の小姓なのだから、殿のお側に付いてなければならないんだ)

 とてつもないこじつけだったが、致し方ない。

 小僧の太郎はそうでもしなければ恋の当惑から逃げられなかったのである。

 人は、むやみな行動でしか自分自身を計れないときもある。


 翌朝、太郎は沓掛城を発った。

 菩提山を目指す。

 しかし、蛮勇のために鼻息を荒くしながらも、彼は一度郊外まで出てきて、一旦城下に戻った。

(死ぬかもしれないから)

 長屋を訪ねる。

 怖いもの知らずだった。あいりにせめてもの思いを残しておきたい。昨日あれだけ狼狽したくせ、今ばかりは英雄色に一辺倒でいる。

 もしくは乾いた千代の心に見せつけたかったのかもしれない。

 あいりと千代は朝餉あさげをとっていた。

「殿を探しに出かけますので」

 突然、箕笠に手甲脚絆で現れて、出し抜けに言うのだから、あいりも、さしもの千代も口を開けていた。

「申し訳ございません。あいりさんと千代さんには伝えたく」

 太郎は己に率直に、生真面目に、それこそ漢なのだと信じるがままに静かな落ち着きを払っていたが、むしろ、彼の様子が静かであれば静かであるほど滑稽であった。

 狂ってしまったか、と、千代なら思っていた。

 あいりは太郎の馬鹿正直ぶりを真摯に受け止めて、困惑に眉をすぼめながらも瞳を潤みで焦がしていたが、千代はこの世のおぞましさでも目の当たりにしているような眉のしかめようであった。

「どうして?」

 千代の言葉の調子は静けさのうちに現実的であった。

「簗田さんを探しに行く? どこに? だからあいりちゃんにだけは伝えたかった? 何を? 勝手な子ね。伝えられるほど困るだけよ」

 思いのほか厳しい千代の言葉に太郎は戸惑ってしまう。

「必ず殿と一緒に帰ってきます」

「そう」

 千代はため息をついた。

「でも、危ないです。どちらに行かれるのですか」

 あいりが顔をのめらせながら追いすがるような視線を向けてきて、太郎は言う。

「拙者には思い当たるふしがあるのです。それに拙者はやっぱり殿のお側にいなければならないと考えたのです」

「ご城主様を信じてお帰りをお待ちになるのも太郎さんのお務めではないのですか」

 太郎はうつむく。が、視線を持ち上げて、まっすぐに言った。

「そうしなければならないんです。ありがとうございました」

 太郎は頭を下げると、踵を返した。

 少年が偏屈な思考をこじらせたすえのナルシシズムとしか言いようがない。もしも、これが今生の別れとならなければ、太郎は将来、これを大いに悔やむことだろう。

 ただ、乱世にあって死が身近なのも事実だった。

 太郎よりも千代やあいりたちのほうが理解していた。

「太郎ちゃん」

 と、千代が呼び止める。

「運がない人は死ぬわ。そういう人たちが生きるには運が来るのをおとなしく待つだけ。迎えに行ってはならないの」

「だからと言って殿を死なせてしまうのですか」

「死んでいなかったら帰ってくるはずじゃない」

「もし、そうだとしても、はっきりさせなければなりません」

「簗田さんが生きていたら帰ってくる。死んでいるから帰ってこない。はっきりしているじゃないの」

「あてがあるんです」

 太郎は長屋をあとにした。




 鎌倉街道を西上する。

 運がないことに雪が本降りであった。沓掛を発ったころは細かいべた雪であったが、今ではすっかり綿毛のようである。

(積もるなあ……)

 いよいよ出発したらこれなのだから、運がない。

(自分は迎えに行ってはならないのかな)

 道中、千代の言葉を振り返る。

 運がない人間は死ぬ。

 千代がそこばかりにこだわっていたのは、彼女の境遇からだろう。

 南近江で生まれた彼女だが、物心ついたときにはすでに父をいくさ場で失っていたらしい。もしかしたら、彼女の記憶には残っているのかもしれない。母に手を取られ、住み慣れた土地を離れて、東美濃の地に移り行くときの、心細さが。

 父母がいないというのは、あいりも同じらしい。

 太郎も違いないが、彼女たちとはっきり違うのは、いくさで失ったかそうでないか。

 まして、明智庄は斉藤方の内部抗争が飛び火して、滅ぼされたのである。

(あの千代さんの怒りようは、生死に命を賭けるようなことを憎んでさえいた)

 雪はしんしんと降り積もる。

 行けども行けども人気ひとけはなかった。

 運がよかったのは、動いてないと思われた木曽川の渡し舟に客を待つ船頭の姿があったことである。

 文銭の入った巾着袋を見せながら、

「行けますか」

 そう訊ねると、太郎と同じようにして笠箕を被り、彫像のようにして舟の縁に腰掛けていた船頭は、太郎をちらと見やってき、少年一人の太郎にしばらくは訝しんでいたものの、

「ああ。だが、渡し賃は普段の三倍だ」

 と、無愛想に右手を差し出してきた。

「おいくらですか」

「六文だ」

 太郎は文銭を払い、舟に乗り込む。

 長い竿を川底に突き刺して、舟が進み出す。

 折からの雨雪で水かさはわりと増えていたが、雪が大した量になってきたのは朝からであった。激流というわけでもなく、舟のかたむきもゆらめくぐらいであった。

「こんな雪なのに、舟を出しているんですか」

 船頭は何も答えない。綿雪を吸い込む鉛色の川波に向けて、竿を黙々と操っているだけである。

 空も、対岸も、真っ白になっている。

 凍てつく景色の中で、川だけがうごめいていた。

「世の中には、こんな日に限ってわざわざ出歩くような、あんたみたいな人がいる」

 と、船頭はつぶやいた。

 いまさらの返答に太郎が見上げると、笠の下で船頭の表情は川の荒筋に立ち向かうようにして切り結ばれている。

「そういう人がいるっちゅうのに舟を出さねえときたら、渡し舟なんざあってもなくても同じだ」

「私の他にも、今日は何人かを渡したのですか」

「あんた一人だ」

 対岸の桟橋に下りて、太郎は頭を下げた。

 船頭は太郎に見向きもせず、また、竿を立てながら、鉛色に荒い木曽川を戻っていく。

 大粒の雪にまだら模様の景色の中へ、船頭は舟とともに吸い込まれるようにして消えていく。

 彼の姿がなくなっても、太郎は桟橋に立ち続けて、しばらくは今来た舟路を不思議な思いで見つめていた。

 墨俣に入ったときにはすでに日が暮れかかっていた。

 光のあるうちにと、この開けた土地で木陰を探し求め、枯れ木を集めてき、備えてきていた火打ち石と硫黄を塗った付木で火を起こす。湿ってなかなか起きないので、箕をむしって種にした。

 辺りは暗闇に染まっている。

 雪は小降りになっていたが、依然として吐く息は白く、炎に手をかざしていても寒い。

 齢十四ばかりの少年がたった一人――。

 けれども、彼は孤独を感じていなかった。そうしたものを感じるには年頃が幼いのかもしれないが、それでも、何かにいざなわれているような思いに浸っていた。

 それは、もしかしたら、自分自身にかもしれない。

(たしかに千代さんの言うように)

 運を迎えに行ってはならないのかもしれない。でも、切り開かなければならないものでもないだろうか。

 自分が自分であるならば。

 例えば、あの船頭のように。

 と。ぼんやりと火を見つめていると、雪を踏み鳴らす音が届いてきて、太郎は顔を持ち上げた。

 その足音と、呼吸の具合からして、四人はいる。火を焚いているせいだろう、近づいてくる。

(うかつだった……)

 墨俣は織田領ではない。

「おい」

 その声に視線の先を定めれば、暗闇の中に人影があった。向こうは明かりとなるものを何一つ持っていなかった。

 闇夜に目が慣れていると見える。

 焚き火の赤みを跳ね返して、きらりと光る物がある。

(逃げると思う壺かもしれない)

 と、太郎は脇差しを抜いた。

「なんだあ」

 白い息が吐かれた。

「そんなもんでやろうってのか」

 雪闇に覆われて、太郎には向かう相手の姿がはっきりと定まらない。相手から遠ざかるように後退していき、焚き火を正面にする。

 火の明かりが当たる中に相手はじりじりと誘い込まれてきた。

(野盗か――)

 四人の見てくれがそうだった。

「わっぱだ」

 と、四人のうちの一人が言うと、一人がくつくつと笑う。

「おれがいちばん最初な」

「はあ? お前、この前もいちばん乗りだったじゃねえか」

 死姦するつもりでいるらしい。

 子供とあなどっているそうで、隙だらけであった。

 瞳孔をくわっと開けたとともに、太郎は飛び込んだ。

 人を斬ったためしはない。ところが握り締める短刀は自然として一人の喉笛を掻き切った。

 真っ赤なものが噴き上がり、氷雪に染み入っていく。

 太郎の頬にも付着して、それは生温かくて、臭い。

 首を掻かれた男は前のめりにして膝から崩れ落ちた。

「テメーェッ!」

 また一人が激昂しながら刀を振りかざす。

 その動きは緩慢このうえなかった。

 男の懐に入り込んだ太郎は、胸を一突きする。

 転瞬、短刀を引き抜くと、血潮がどっと噴いて太郎は顔面に浴びた。

 太郎は残った二人に目玉だけをぎらっとひるがえした。

 一瞬にして二人の男の人生を終わらせてしまった少年に、野盗の二人は刀を構えながらも後ずさりする。

「運がなかったな」

 と、むしろ、太郎は笑っていた。

 彼の肩からゆらりと立ち昇る湯気は、狂気のあらわれだった。

 野盗の二人は尻込みした。

 と、太郎の短刀は続けざまに襲いかかっていった。ものの見事に二閃だった。刃先のすべてが急所を掻き取っていた。

 ついさきほどには欲情していた者どもが、命乞いをする間もなく、太郎の足下に血みどろとなってあわれに伏している。

 残心、朽ち倒した物を見つめていたあと、刀身の血を振り払って鞘におさめていく。

 鍔が鯉口と打ち合って鳴ると、急に太郎の瞳から狂気が失せていく。

 起こった現実をまざまざと知る。

(殺す必要があったか……)

 いや、殺さなければ殺されていた。

 でも、彼らと太郎にはなんの因果もない。

 太郎が人を殺めるにはまだ早すぎただろうか。

(こいつらにも、母なり子なりがあったかもしれない……)

 彼らが弱すぎたのかもしれない、しかし、人を斬ったためしのない太郎が四つの命をもののわずかのあいだに切り裂いてしまったのは、無類の腕達者であろう。

 それでも、心には追いついてはいなかった。

 太郎の気は沈んだ。




 孤独だった。

 生死の境目を突き抜けたにも関わらず、孤独だった。

 初めての殺人は太郎にとってなんら意義を持たないものだった。

 殺さなければ殺されたという理論が成立しているとはいえ、上昇志向はなはだしい太郎からしてみると、無意味だった。

 本当は無意味なのだ。

 為政者でもないかぎり、何も生み出さない。

 殺し殺され殺し合うその事実は、空虚であり、あさましくもあり、惨めであり、ただただ人の血の生臭さだけで後味の悪さを伝えてくる。

(天下泰平の一端だなんて――)

 そんなもの、人が生きていくにおいては、実のところちっぽけすぎないだろうか。

 なんのために生きているのか不明だから、そういう高尚な目的をかかげ上げるのだろうが、それを貫くには太郎は孤立しすぎていた。

 あらゆる目的が空虚であるのは、孤独に生きてしまうがためだ。

 当たり前のような暮らしをたまには見返さなければならない。

 誰かがいるから、自分はいるのだろう。

 それを思い知ったとき、感じ入ったとき、初めて人生の目的に実がともなってくるのだ。

(あいりさん……)

 と、一人ぼっちの太郎は、思う人を求めた。

 勇気づけてもらいたい。

 そして、彼女という目的を持って生きてみたい。

 けれども、太郎は、三途の川の水先人のような木曽川の船頭に舟を渡してもらった以上、進まなければならなかった。

 寒い。

 空は真っ青に染まっているというのにひどく寒い。

 地表を覆った白さが両の足を冷たく固めていた。

 鏡のような青空のもと、積雪に色を等しくして並んでいる西美濃の山々はまるで墓標のような静けさだった。

 雪原のそこかしこで、陽光に当てられた結晶が輝いている。

 ゆるやかな風は清浄に澄み渡っている。

 ざくざくと雪を踏んでいく太郎の他に、驚くほど人の姿はなかった。

 もしくはうつむいてばかりの彼の視界だから、見て取れなかったのか。

 血の匂いがこびりついている。

 昨年の夏にこの辺りにやって来た太郎であったが、景色が雪で一変してしまっており、立ち並ぶ山々のどれが菩提山なのかわからないでいた。

(わからない)

 不安に駆られながらも、とりあえずは南に行くと、やがて、遠くの集落から来たらしき人影がこちらに歩いてくるのが見えた。

 老婆である。視線を足元に伏せ続け、何事かを呟いている様子である。

「す、すいませんが」

 すれ違いざまに呼びかけると、太郎の姿にいっさい気付かないでいた老婆は、ふいと足を止めた。

「菩提山とは、どれになりますか」

 訊ねたとき、老婆は始めて顔を上げた。と、太郎の姿を確かめたなり、老婆は腰を抜かして雪道に尻持ちをついてしまう。

「お、お助けっ。ご容赦くだせえっ」

 老婆は肩をひどく震わせながら這いつくばって、太郎の足でも舐めるかのごとく、鼻面を雪に埋めてしまう。

「ち、違いますっ。拙者は旅の者でしてっ。菩提山を知りたいだけなのですっ」

「ぼ、菩提山は、あ、あの、あの山でございます」

 老婆は顔を伏せたまま、連なる山々の一つを指差した。

「ありがとうございます」

 太郎は頭を下げ、踵を向けたが、

「鬼――。鬼じゃっ」

 その声に振り返ると、老婆はよたよたと転げながらも、太郎から一目散に逃げていく。

 痴呆だろうか、と、太郎は思ったのだが、鬼という言葉が気にかかって頬に手を当ててみると、乾いた血糊が指先に付着していた。

 昨晩の返り血だった。

 塞ぎこもるあまり、そのままで来てしまっていた。

(鬼だなんて――)

 太郎は雪原の中に水路を見つけ、そこに走っていくと冷たい水であわてて顔を拭う。

 目が覚めるような、それでいて体のすみずみにまで突き刺さるような冷たさであった。

(何をやっているんだろう)

 老婆が教えてくれた菩提山を目指しながら、太郎の吐息は重い。

 たかだか老婆にまで逃げられてしまうだなんて。

 心細い。

(殿……)

 もしも、菩提山にいなかったら、自分はどうすればよいのか。

 生きていなかったら、太郎はどうすればよいのか。

「殿」

 声に出すと、涙が湧いて出た。袖で拭いても拭いても涙がこぼれた。

「拙者は、殿がいないと何もできないみたいです」

 枯れ木の枝から雪がさざれに落ちてくる菩提山の道を登る。

 牛太郎がそこにいてほしいとひたすら思う。

「あんな目に合うんだったら、身の回りの世話をする奴なんていらないッスよっ!」

 と、男色を毛嫌いする殿。

「太郎。あそこに背の低い奴がいるだろ。ああいう大人には絶対になっちゃ駄目だからな。見てみろ、あいつ、女の子のお尻を見ているだろ。な? バカだろ」

 と、自分だって同じくせに藤吉郎を悪く言う殿。

「赤と黒はないな。太郎、そんなんじゃ女の子に振り向いてもらえないぞ」

 と、自分を棚に上げる殿。

「なんでだよおォっ。おれが何したって言うんだよおォっ」

 と、女に罵られて泣きわめく殿。

「探したんだぞ、バカ野郎! イエモンとかソフエに訊いてもわかんねえって言うしよっ! 何、勝手に家出してやがんだ、バカっ!」

 と、目玉を大きくして怒っていた殿。

 どうしてこんなにも思い出されるのか。

 思い出すのは死んでしまったからじゃないのだろうか。

 嗚咽を漏らしながら道を中腹まで登ってきて、竹中半兵衛の庵の庭に辿り着いたときには、太郎はなかば勝手に絶望してしまっていた。

 が。

 太郎はその場に棒立ちして唖然とした。

 牛太郎がいた。遊んでいるのだろうか、なんの意図でそうしているのだろうか、見るもあわれな刀捌きで短刀を振るっていたのだった。

 夢中というより、ただ手を振るって、その刃先を追っているだけのふざけた顔つきで。

 誰彼の心配も意に介していないような牛太郎の適当さを呆然と眺める太郎は、涙も乾き、すっかり怒りが込み上げた。

「殿!」

 腹立たしさのあまりに吠えた。

 牛太郎は刀を下ろす。なぜか、ぼけっとしたあとにこちらに視線を向けてきた。

 して、ようやく、牛太郎の表情はこわばっていき、太郎の唇は震えに震え、短刀を投げ捨てた牛太郎は積雪を踏み込みながらつんのめるようにして駆け込んできた。

「おいっ! どうしたんだよっ!」

 息を切らしながら、大きな掌で両肩を押さえられて、その温もりに太郎は安堵の涙をぼろぼろと瞼からこぼしつつも、怒りの眼差しで牛太郎を睨み上げるのだった。

「どうしたもこうしたもありますかっ! 拙者は殿が死んだかと思ってしまいましたよっ!」

 太郎はその場に膝から崩れてしまう。

 脇を抱き起こされ、牛太郎は太郎の顔を覗き込んでくる。

「おい、なんだそれっ。お前、誰にやられたんだっ。大丈夫なのかっ」

 こちらの気も知らずにのうのうと生きていた牛太郎が腹立たしい。

 けれども、牛太郎が寄越してくる心配げな眼差しが、太郎を孤独じゃなくさせた。

 太郎は牛太郎の大きな体に抱きついて、もう一人ぼっちになりたくはない、そんなことを純粋に思いながら、泣きじゃくるのだった。







 突然に文を差し出し驚かれていますでしょうが、お伝えしたきことがあったため、ご容赦ください。

 拙者は、今、京におります。

 父上が母上にお伝えしているでしょうから、あいり殿もご存知かとは承知しておりますが、公方様の御所の造営のために父上や皆とともに夏の初めごろまでは精を出さなければなりません。

 しかしながら、夏までには帰れるはずでしょう。

 今年は百日紅の花を見られそうです。

 先日、父上から鞭を頂戴しました。赤と黒の模様の漆塗りの高級そうなもので、いったいどこからそのような銭が出ているのか疑わしくてなりませんが、今回ばかりは拙者は何も申せませんでした。

 父上は、拙者がまだ幼かった時分、拙者に赤と黒の鞭を買い与えると約束してくださったのです。

 拙者はそれをまったく忘れておりましたが、父上は覚えてくれていたそうでした。

 不都合なことは忘れてしまう父上ですが、拙者との昔の約束は父上からすると不都合ではなかったようです。

 とても嬉しく思いました。父上と過ごした幼い時分がありありと蘇ってくるものでした。

 また、こうして父上との間柄をあいり殿にお伝えするとは昔は夢にも思わなかったことです。

 美濃攻めのいくさも終わり、明智の人々も沓掛から帰られ、拙者は簗田家の養子となって、父上とともに岐阜に移り住んで以来、あいり殿とはもうお会いできないのではないかと思う日々でありました。

 しかしながら、あいり殿が当家に奉公するとなったとき、拙者は千代殿が言っていたのをついつい思い起こしてしまいました。

 運を迎えに行ってはならないと。

 もしかしたら、あのころのように拙者がむやみに気を急かさなかったから、あいり殿は来てくれたのでしょうか。

 それでも、今回ばかりはお迎えに上がりたい所存です。

 沓掛に降ったあの雪の日から今までずっとあいり殿をお慕いしておりました。

 父上も承知してくださいました。

 もう、あのころのような愚かな真似はいたしません。

 拙者と夫婦めおととなってください。


 永禄十二年弥生

 広正



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