表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七章 新たなる舞台
104/147

番外編 君をのせて(前編)

 はた迷惑な百年である。

 応仁の乱という中央政権の分裂抗争は、全国各地に争いの種をばらまいた。

 それから百年。

 土地は荒廃に相次ぎ、残酷な殺戮は日常とされている。

 なぜ、戦乱時代と化しているのか、多くの人々は理解できていない。

 情報というものは伝聞のみであった。それらの伝聞を考察するだけの知識も乏しかった。

 民衆という大部分の人々が世情をかろうじて知り得ているのは、自分自身が住まう村の領主が、隣の村の領主と敵か味方かどちらなのか、その程度だったろう。

 ゆえに、いくさ場に駆り出される者たちは、いくさの理由などよくわかっていない。とにかくは生きるためにいくさ場で殺人を犯す。報酬などないので強盗する。

 女子供はわけもわからないまま殺されてしまう。もしくは息子や夫の無事をただただ祈るばかり。

 

 しかし、歴史書を読みあさっているようなある程度の知識階層や、もしくは、百姓から足軽大将に登り詰めるような勘の鋭い男は、戦乱がなぜ起こっているのか、ほのかに理解していた。

 古い秩序が腐ったために、世の中は新しい秩序を自然と求め出した。そのひずみが今の戦乱時代である。

 鎌倉街道を進む箕笠を被った少年もそう解釈している。

 やがては――いつのことになるかはわからないが――、この世は新しい秩序のもとで泰平のときを迎える。

(その一端を担いたい)

 少年は太郎という。

 呼び名でしかない。

 しいて言えば、「尾張国春日井郡児玉庄出身の太郎、もしくは簗田牛太郎の小姓の太郎」だ。

 姓名など持つ必要がない。おおやけに自分自身を名乗ることもない身分ゆえだ。

 一とか二とかの数字のようにして、太郎として区別されているだけである。

 そんな、「児玉の太郎」が、天下泰平の一端を担いたいなどとは、いささか野心がすぎる。

(違う。たとえ、足軽一兵卒であれ、一端は一端なのだ)

 だそうだ。

 齢十四、少年とも子供ともつかないくせに強情である。

 腰には短刀を一振り帯びている。笠を前のめりに傾けながら、つんのめるようにして歩く。袴の上裾を取り、脚絆に覆われた足を急かしている。

(何をあわてているんだろう)

 ふいに気づいて、太郎は足の歩みを緩める。

 心地を落ち着かせるようにして笠のひさしを取り、頭上を仰いだ。

 分厚い雲に覆われている。雪の降りそうな――。



 太郎の主人、尾張国沓掛城主の簗田牛太郎が蒸発して、はや三ヶ月が経とうとしていた。

 竹中半兵衛の住まう菩提山に向かう、年の暮れまでには戻ってくると、太郎だけには言い残していったが、新年はとっくに迎えていた。

 なんら音沙汰はない。

 殺されてしまったのではないか。

 と、城内の奉公人たち、城外の百姓町人、従えている足軽兵卒たち、誰をも問わず、皆がそう噂している。

 織田の一武将として、ひそかに美濃斎藤方の調略に身を投じているがゆえ、城に不在でいることはこれまでも多かったが、それにしても三ヶ月は長すぎたのだ。

 殺されてしまったのではないか。

 やがては言い残されていた太郎でさえ、心慌ただしくなった。

 不安の日々に耐えられず、城の誰にも告げずに(おそらく、子供の自分が探しに出かけるなどと反対されるだろうから)、こうして清州に向かっている。

 緩めていた足は、また、気ぜわしくなってしまっている。

 吐く息の白さは、おおきく膨れては消え、熱を含んでは消え、寒けし街道をつばめのようにして、一人、突っ切っていく太郎の様子は、何か孤独である。

 父は生まれたときからおらず、母は五年前に死んでいる。

(自分はおそらく、旅のやくざ坊主か、野盗の種なんだろう)

 町娘の母がそうしたならず者たちに犯されたすえに出来た物と、太郎は自身を見ていた。

 父はいくさで死んだと母は生前言っていたが、あとは何も教えてくれなかった。

 旅の者が女に手を出すのは珍しくない。

 幸いであったのは、太郎の顔形は母にそっくりであったことと、所領主の丹羽五郎左衛門が目をかけてくれたことだった。

 読み書きができ、武芸にも学問にも通じているのは、丹羽五郎左に指導されたたまものである。

 けれども、なぜ、丹羽五郎左ともあろう殿様が、母のもとを出入りしていたのだろうか。

 母は丹羽五郎左の妾だったのでは。

(まさか。丹羽様はそういう御仁ではない。そもそも、母さんはただの町娘であったのだから)

 丹羽五郎左に沓掛城へと連れてこられたのは八歳のころだった。

 見送る母は言った。

「太郎。今日から母のことは忘れなさい。太郎は簗田様のためだけに働きなさい。たとえ母が死にそうになっても、決してここに来てはいけませんよ。簗田様のためだけに太郎は命を預けるんですよ」

 あれきり母の顔は見ていない。死に目にも会っていない。

(母さん)

 肩で息をせき切りながら、太郎はどこかにいるであろう母親に訊ねる。

(殿は本当に死んでしまったのでしょうか)


 主人の清州宅にやって来た。

 常日頃から政務を怠けている主人のことだから、周囲の心配などおかまいなしに寝転がっているかもしれない。

 と、淡い期待とともに板戸を開けてみたものの、居土間は死んだようにして静かだった。

 ここを訪れたような形跡も見当たらない。

(やはり菩提山に行ってみないことには――)

 いかんせん、菩提山は西美濃である。木曽川を渡り、敵地のまっただ中を進まなければならない。

 さすがにためらう。

(殿が生きているという噂だけでもあればいいんだ)

 あばら家をあとにした。

 入り日は雲が遮っている。伏し沈むようにして明るみがうしなわれていく。

 織田の惣領、上総介が小牧山に拠点を移したことで、家臣の大半も清州を出ていったが、調略活動にせわしい牛太郎と同じく、木下藤吉郎の宅もまだ清州にあった。

 編笠を外して玄関から声をかけると、藤吉郎の女房の寧々が出てきた。

「木下様はご在宅ですか」

「不在ですが――」

 寧々は上がりかまちに膝を揃え、訝しげに太郎を眺めてくる。

 昔に会ったきりの太郎を、誰なのかわかっていないようであった。

「拙者は簗田牛太郎の小姓です。お久しぶりでございます」

「あらっ。太郎ちゃん?」

 悟ったなり、勝ち気に尻上がりの眉を寧々はひょいと跳ね上げて、餅のような頬を緩ませた。

「もう。どちら様かわかりませんでした。すっかり大きくなられて。どうされたのですか、お一人で。沓掛からいらっしゃったのですか」

「はい。木下様が殿の動向を存じているのではないかと思って」

「そう」

 と、寧々は目許に陰をしのばせる。

 あいにく藤吉郎も牛太郎の居場所を探している、何も知らない、と。

「左様でございますか。もし、殿がお訪ねするようでございましたら、皆が心配しているとお伝えしていただけませんか」

「ええ。もちろん」

「お邪魔しました」

 太郎は頭を下げ、踵を返す。

「こら」

 ふいに寧々が声を尖らせた。

「日はすっかり暮れてしまいましたよ。どちらに行かれるのです。まさか、こうしてお屋敷をお回りするつもりですか」

「いえ。殿の別宅に帰ろうと。明朝に沓掛に帰ります」

「あらそう」

 それならば、今晩は泊まっていきなさいと寧々は言う。今は誰も手入れをしていないあばら家で夜を過ごすぐらいならと。

「お夕飯も馳走しますわ」

 太郎は一度断ったが、寧々は聞かなかった。節介焼きのようである。

 けれども、太郎は寧々が嫌いじゃない。むしろ、好きだった。藤吉郎の宅に来たのも、どこかで、彼女に会えたらいいなと淡く思ってもいたのだった。

 恋というほどおこがましい思いでもないが、彼女の飾り気のない明るさは、孤独な太郎を自然と温かみにいざなってくれる。

 小者や女中たちと共に囲炉裏を囲う中には、木下小一郎という藤吉郎の弟がいた。

 小人の藤吉郎に似ず、背が高くて瓜実型の面立ちに笑みが映える若者で、

「そんなにやきもきしたって、どうせ簗田殿は生きているさ」

 年齢は太郎より一回りは上、太郎からすれば兄のような朗らかさで言ってのける。

「うちの兄さんだってそうだけど、簗田殿もそう、都合のいい人ってのはなかなか死なないもんだよ」

「都合がいいというのはどういうことなんですか?」

「まあ、そうだね、兄さんや簗田殿の下で働いている連中からすれば、あれだけ迷惑をかけてくれるってのに、とんとんと出世するところかな。それでいて傲岸不遜な顔をするのさ。お前らがメシを食えているのは俺のおかげだろうって。都合が良すぎるじゃないか」

「はあ」

 小者も女中も、そうして寧々も、小一郎のよくわからない理論に同意するようにして笑った。

「憎まれっ子世にはばかるってね。まあ、簗田殿は兄さんほどひどい人じゃないけれど、どこか似ているよね」

 言われてみればそんな気がしないでもない。


 小姓の身分でありながら、太郎は客間一室を寝床に与えられた。

 燭台の火は消さずに、夜着にくるまって、火の明滅にほの暗い天井をぼんやりと眺める。

 時は戦国乱世――、とは思えないほど、寧々も小一郎も、それにつられて木下家の小者の人々も、一日を愉快に過ごしているようであった。

 ああいうふうに、一家の主の軽口を平気で叩けるのも、実は藤吉郎の器量なのではないかと思う。

 昔、藤吉郎に言われたのを思い出す。

「でもな、そういうもんだぎゃ。この世はそういうもんなんだぎゃあぞ。頑張ったって報われにゃあときもあるんだがや。ほんでも、そういう悔しさがあるから、次もまた頑張ろうって思うんだぎゃ」

 牛太郎は、藤吉郎を事あるごとに悪く言う。

 何度も煮え湯を飲まされたのは事実だろう。藤吉郎は万が一にも善人ではない。

 ただ、あの人は、ひたむきというか、人には持っていない輝きをたずさえているような。

 もっとも、それは牛太郎からも感じられる。

 天下泰平の一端を担う、だなんて、藤吉郎も牛太郎も考えていないだろう。彼らはただがむしゃらに生きている。

 そんな藤吉郎に惹かれて木下家の人々の明るみがあるのだとしたら、自分はとても小賢しい人物だと太郎は感じてしまう。

(一端を担うだなんて、たかが拙者がどこかで偉そうじゃないか)

 戸の向こうから寧々の呼びかける声がして、太郎はあわてて飛び起きた。どうぞと招くと、板戸を開いて、朗らかな微笑みを見せてくる。

「ごめんなさい。もう、お休みでしたね」

「いえ。考え事を」

「考え事?」

 寧々は太郎の前に腰を下ろして膝を揃えてき、首をかしげながら太郎を眺めてくる。

 太郎が視線を伏せていると、ふふ、と、笑った。

「小一さんの言うとおり、牛殿は生きておられますよ。あなた様は昔、柴田様のお屋敷に単身殴りこんだそうね。そんなあなた様のことですから、美濃に入って探しに行こうとしてしまうでしょうけど、それはおやめなさいね。牛殿は生きてらっしゃるんですから」

「はい。承知しています」

 寧々は太郎の総髪の頭を撫でてきた。

「それではお休みなさい。考え事などやめて」

「あの」

「はい?」

「皆さんは怖くないんでしょうか。殿もそうですが、木下様も危ない橋を渡っていて、今もどこかで危険と隣り合わせかもしれません。小一郎様や寧々様のおっしゃることもわかるのですが、そんなに都合よく生きていてくれるのかと」

 上げかけていた腰を戻して、寧々は吐息を長やかについた。

「それはもちろん怖いですよ。だからって、探しに行っても仕方ありませんでしょう?」

「はい」

「それに不安ばかりに襲われるのをうちの殿は求めておりません。牛殿とてきっとそうですよ。俺に任せろ、四の五の言うなと牛殿はきっと言うはずです」

「そうでしょうか」

 太郎が眉をひそめて、寧々は笑う。

「そうですよ。さあ、お休みなさい」

 太郎が寝そべると、寧々は太郎に夜着をかけてきた。それがとても恥ずかしくて、目をつむったら、

「怖くなったらいつでも遊びに来るんですよ」

 と、言いながら寧々は燭台の火を吹き消した。

 母親みたいで素敵な人だと太郎は思った。




 小一郎や寧々の言葉を素直に受け入れて、太郎は沓掛に戻ってきた。

(そうだ。殿が死ぬはずがない)

 ほんのわずかの勇気を得て、足取りは穏やかである。もとより子供である。

(きっと、半兵衛様の庵で怠けているだけなんだ)

 しかし――。

 分厚い雲が依然として空を覆っている。冷ゆる大手門をくぐるとき、太郎は千代と、その友人のあいりとすれ違って、再び一抹の不安を覚えた。

「あれ? 太郎ちゃんじゃない。どこに行っていたの? いなくなったってみんなが心配していたよ」

 眉根をすぼめながらの千代は、つぶらな瞳にどこか儚げな色を示した。

 沓掛にやって来たときは騒がしいだけだった彼女も、牛太郎が消えてしまってからは成りをひそめている。

(そうだ)

 千代の姿を視界にして、太郎は気付いたのだった。

 牛太郎は千代をいたく気に入っていた。

 太郎からすれば、こんなあざとい女のどこがいいのだか牛太郎の好みを疑ったが、それはともかくとして、千代の言うことならなんでも聞いていた牛太郎が――、女の尻ならこの世の果てまで追いかけていきそうな牛太郎が、彼女を置いて三ヶ月近くも戻ってこないとは信じられない事態なのである。

「千代さん。まことに殿は一度も沓掛に帰ってきていないのですか。内密に逢瀬を重ねているのではありませんか」

「そんなわけないじゃない」

 と、千代は目許をきつくしめ上げ、睨むようにして太郎に視線を返してくる。

「それであれば内密になんかしないわ。あなたみたいな危ない真似をする人が出るんだから。太郎ちゃん。そんな格好をして、簗田さんを探しに出かけていたんでしょう?」

 太郎は何も答えずに顔を背け、大手門をくぐっていく。

「無駄よ」

 冷たい声を吐き捨ててきたので、足を止めた太郎は千代に疑念の視線を注ぎながらのっそりと振り返った。

「簗田さんは亡くなったのよ」

 太郎はかっとなって千代に歩み寄る。

「どうしてそんなことを言うんです。千代さんは殿の亡骸でも見たって言うんですか」

「いいえ。でも、そうじゃない。ずっと帰ってこないんだから」

「千代さんにどうのこうのと決めつけられる殿じゃない」

「たとえ生きていたとしても太郎ちゃんが探してどうなるの。探すなら探すでみんなに言うべきよ。黙ってどっかに出かける人だなんて私大嫌い」

 珍しく語調を荒らげた千代は言うだけ言って背中を返してしまい、城下の長屋のほうへ歩いていってしまう。

(なんなんだ)

 肩で髪を揺らしていきり立っている千代の背中を太郎は睨みつける。

 あいりが戸惑っていることに気付いた。

 千代とともに朝に夕にと城の奉公にやって来ている彼女は、白目より黒目ばかりが目立つ奥ぶたえの瞼と薄い眉を尻すぼみにさせつつ、太郎に頭を下げてくる。

「も、申し訳ございません。千代さんは決して悪気があるわけでは」

「いえ。こちらこそお見苦しいところを」

 太郎は会釈を残すと、城内に入っていった。

「どこに行っていたのですか。心配しましたぞ」

 本丸館で箕笠を外していると、祖父江勘左衛門がやって来た。

 牛太郎の不在中(と言っても、在席していても不在のようなものだが)、丹羽五郎左に城内の差配を任されているのは山内伊右衛門である。ところが、彼も彼で不出来な青年なので、伊右衛門の配下で元は岩倉城の家老でもあった祖父江勘左衛門が城内の奉公人頭のようなものだった。

「申し訳ございません。清洲の木下様に用があり」

「まことにそれだけですか」

「はい」

 四畳一間の小姓部屋に戻ってくる。

 脇差しの短刀を抜き取って、吐息をつきながら刀掛けに置く。

 火は燭台に灯しただけだった。火鉢の薪はそのままにして、太郎はじっとして眉間に皺を刻みこむ。

 自分に正直すぎるほどのあの牛太郎が、千代のいる沓掛に帰ってこないのは、よっぽどのことである。

(都合のよい人が都合よく生きられるほど戦乱の時代がなまやさしければ、誰も苦労しない)

 もちろん、太郎が何かをしたところで、何かが変わるわけではない。

 でも――。

 火の明かりの影ろいが太郎の脳裏にぼんやりとよみがえらせる。

 たゆらにかたむいていく太陽、その光が清州の門前町の西空に広らかに渡っていた。

 柴田屋敷をあとにして太郎は帰路についていた。

 それを探すのは牛太郎である。

 焦燥に駆られたようなあのときの牛太郎の表情が太郎には忘れられない。まるで、迷子になった我が子を探しているような表情をしていた。

 太郎は、あのころに仕立ててもらった小袖を取り出す。

 牛太郎と同じ反物を使った藍染めの小袖だが、あれからすっかり背丈も伸びてしまっていて今は着られない。

(殿が死ぬだなんてありえない)

 太郎は瞼を拭うと、押し潰れそうな気持ちを晴らそうと思って、風に当たろうと外へ出た。

 ふたがる城内には火が点々とかかげ上がっている。大手門は閉ざされていたが、通用口から外へ出る。

 すると、夕暮れに顔を合わせたあいりが門番の兵卒に何か頼みごとをしていた。

「どうかされましたか」

 太郎が問うと、あいりが城内に落とし物をしたのだと言う。

 瞼のふちをうっすらと濡らしていた。

くしを落としてしまって」

 よほど大切なものと見えて、あいりを招き入れる。

「今日、あいりさんがどこで働いていたかを辿っていけば、見つかるはずでしょう」

 出入りの奉公人が夜分の城内を勝手に巡るのははばかれるので、太郎はあいりに付いて回った。

 目当ての物は広間の片隅に置かれてあった。

 櫛を拾うというのは、苦死に言葉をかけて縁起が悪い。誰もが拾わず、蹴飛ばして隅に追いやったのかもしれない。

「すぐに見つかって良かったですね」

「ありがとうございます」

 櫛を胸に掻き寄せながら、あいりは何度も頭を下げてくる。

 夜道は物騒なので送っていくと告げると、あいりは一度遠慮したが、

「ちょうど、風に当たろうかと思ったのです」

 太郎は少年ながらに気障にはにかんだ。

「そちらは誰かの形見なのですか?」

「形見ではないんですが、明智を発つとき祖母が道連れに持っていってほしいと」

 そう言うと、かしこまっていたばかりのあいりは、目を細めながら恥ずかしげにうつむいた。

 彼女のいたいけな仕草がささくれだった太郎の心に甘く染み入ってくる。

(可愛らしい人だな……)

 彼女とは城内でよくすれ違う。見向きもしなかったと言えば語弊がある。上昇志向ばかりの太郎は、――おなごに馬鹿に振り向いている牛太郎を蔑視するのもあってか、道草ついでの春の野のような景色には目を向けてこなかった。

 火皿の小さな明かりだけ。

 ほの暗さのうちにも彼女のわずかながらの微笑みは彼女の優愛さに彩られている。

 うっかり見とれている自分自身に太郎が気付いたのは、目を丸めていたあいりが再び違った趣旨を持ってうつむいたからだった。

 火皿を手にする太郎はあわてて館の外へといざなった。

 大手門へと向かうあいだ、太郎の胸は妙に騒いだ。気障に振る舞ったあいつはなんだったのか、伏し目がちに行く先の足下を凝視し、いっさい口をきけないでいた。

 あいりのほうが大人だった。実際、太郎よりも一つか二つは年上である。

「千代さんはあんなことを言っていましたけれど、ご容赦ください」

 と、真っ白な息を吐き、さきほどまでの可憐さはあいりの表情からは消えている。

「千代さんは賢い人なので、難しいことを考えているんです。おなごは運ばかりしか頼るものがないって。他の人の運に翻弄されるときもあるから、特におなごは気をつけなさいってみんなによく言うんです」

 やかましいだけの千代がそんなことを言っているとは意外であった。

 しかし、千代の考えとは、突き詰めると、勝ち馬には乗って、負け犬には見向きもしないというものだろう。

「でも、千代さんの言うことは間違っていないと私は思うんです。いくさが起きたら私たちにはどうすることもできません。千代さんや私だけじゃなく、父や母を亡くした子はたくさんおります。だから、簗田様が明智の者をこうして沓掛に連れてきてくださってとても感謝しています。千代さんだって簗田様には死んでほしくないんです。太郎さんにも死んでほしくないんです。だから、あんなことを言ったんです」

 大手門の通用口から城外に出て、門番に彼女を送っていくと伝えて、太郎はかがり火の松明を取った。

 夜道をあかあかと染め上げながら、肩を並べて長屋に向かう。

(運か――)

 と。ふいに「きゃっ」と、声が上がって、隣であいりが転げようとしていた。

 咄嗟に松明を放り捨て、彼女を抱え上げる。

 常日頃から鍛錬を欠かさないし、足軽兵卒たちともたまにやり合っている彼は、さすが機敏であった。

 けれども、

(あ――)

 と、彼女を抱えておきながら、いまさらこの童貞は目を泳がせる。

 まして、腕に触れている何もかもが柔らかくてびっくりしてしまう。彼女の体もさることながら、綿の詰まった小袖も、ただの麻でしかないその生地も、ほのかに漂ってくる匂いも。

 戸惑いを隠すようにして太郎はわざわざ声を大きくさせる。

「だ、大丈夫ですかっ」

「ごめんなさい」

 松明の火に照らされて、路上にくぼみがある。あいりはつまずいてしまったようだった。

 とはいえ、温かい物を触れているこの腕をどうすればいいのかわからない。

 とりあえずは声を大きくするしかない。

「す、すいませんっ。拙者がちゃんと照らさなかったばかりにっ」

「いえ。とんでもございません」

 あいりは背中を起こす。ものの、顔をしかめた。

「大丈夫ですか」

「はい」

 しかし、彼女は顔をしかめてばかりで、そろそろと太郎が腕を引いていっても、立っているばかりでいた。

「すいません。くじいてしまったみたいで」

 懸命に歩こうとしても、眉間に皺を寄せながら右足を引きずる。

 余韻が濃すぎて太郎の頭は真っ白になっていたが、急に、なんだか取り憑かれてしまったかのようにして、瞼を大きく広げた。

「な、長屋まで、しょ、背負しょこないますっ」

「えっ、でもっ」

「わ、わ、悪くしたらいけませんっ」

 言葉と眼球の動きが合っていない、とても、ちぐはぐな様子であった。自分で言ったくせの狼狽ぶりは頓珍漢とんちんかんでさえある。

 それでいて誠意のようなものを太郎は眼差しでもってあいりに向けるのである。

 あいりは太郎の鼻息の荒さに目を丸めていたが、ややもすると、少し愉快げに、はにかみながらうなずいた。

 途端、太郎はのぼせ上がった。彼女が頬を淡く打ち赤めたのをこの童貞は目の当たりにしてしまったのだ。

 目玉を凝り固まらせながら無言のまま彼女の前で腰をかがめる。「ごめんなさい」と一言添えて彼女が太郎の首に腕を回してくると、女の柔らかいものを背中で受けてしまって、いっそう太郎は火照った。

 右手に松明を取り、左手は拳にしてあいりの尻を支え、背負う重みと温もりが、味わったことのない幸福感のとどろきを彼の胸に伝えてくる。

「ごめんなさい。落としたり転んだり」

「い、いえっ」

 声音を素っ頓狂に上ずらせると、ずり落ちそうになったので、腰を跳ね上げて背負い直す。すると、あいりが落ちまいとして強くしがみついてくるのだが。

(まずい……)

 胸が高鳴って止まない。

 されども、二人の闇のうつつを降りみ散りばみ塵芥ちりあくたが撫でてきた。

「あっ」

 と、あいりが見上げる。

「雪が降ってきてしまいました」

 足を止めて、太郎も彼女と同じところを眺める。

 光のない空からあるかなきかにやって来る小雪は、ゆるるかな松明の火のうちへ溶けていく。

「どおりで寒いわけだ」

「そうですね」

 しかし、彼女の真っ白な吐息は、どこか愉快げな声とともに膨らんでいる。

 太郎は再び歩み出すも、思いははつらつとして胸を熱くさせていく。

 この小僧、何を言うか、寒いわけがないのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ