59・そして、事態は新局面を迎える
1945年8月、日露軍は大量に四式戦車を投入して一気にソ連軍を撃破し、クラスノヤルスクを確保した。
しかし、前線の進撃こそ驚異的なのだが、全く補給が追い付かなかった。
東ロシアは補給について楽観視していた。
侵攻した先は元々自分たちの国であり、そこに住む住民も自分たちの臣民であった。
確かにそうだったのだろう。だが、それは30年近く前の話だ。すでに多くの世代は帝政時代を知らない。
なんなら、帝政時代の生活について悪い思い出や悪口しか聞いていない。
そんな人々が素直に東ロシアに協力するだろうか?
東ロシアは多くの避難民を受け入れて来た。
その事が侵攻に際して大きな自信になっていたのだが、それはまったく現実と異なるものであった。
ソ連の思惑は、国内に東ロシアシンパを残さない事だった。
反ソ、親露思想を持つ者はことごとく処刑するか東ロシアへと送り出していた。
そのため、ソ連邦シベリア地域には東ロシアシンパがほぼ居なかった。
根こそぎ反乱分子、不満分子を掘り起こし、そして、東ロシアへと追い立てたのだから当然だ。
もし、地下に潜るような勢力があった場合、もっと侵攻は楽に行われていただろう。それはもう、東ロシアが描いたように簡単にノヴォ二コラエフスクまで到達できていたかもしれない。
しかし、現実はそう甘くなかった。
イルクーツクを越えると全く現地での支援が得られない。
東ロシアにとっては解放戦争だったが、現実の光景はまさに異民族への侵略と変わりないモノだった。
そのため、進めば進むほどに警備部隊を切り離して行かざるを得ず、クラスノヤルスクに至った頃には新たな増援なしにはこれ以上の侵攻が不可能なまでに規模が小さくなっていた。
だが、その状況を変える出来事が起きる。
9月11日、日本軍は空挺部隊を投入してオイラト=トゥーラを占領。さらにアルタイ山脈を縫って降りてきた戦車部隊が22日にはそこへ合流した。
そして、ソ連軍がシベリア鉄道に沿って西進する東ロシア軍に備えるために、ビイスクの防備が手薄なうちに占領する事に成功した。
こうして、10月を前にしてソ連軍へ二正面での作戦を強要した。
とにかく生き残っている有能な指揮官をモスクワ正面かクラスノヤルスク方面へと差し向けているソ連軍に、更にビイスクを守るような指揮能力は残っていなかった。
こうして新たな作戦のために部隊の配置変更を無秩序、無計画に乱発したために既存の防衛線は意味を失い、12月を迎えることなくノヴォ二コラエフスク周辺のソ連軍は東ロシア軍や日本軍に各個撃破されていく事になった。
だが、東ロシアの進撃もここまでだった。
その話をするためには、少々話を戻す必要がある。
1944年11月、米国ではマッカーサーらの努力のおかげで大統領選、連邦議会選が行われることになった。
この選挙で大統領となったのはトマス・E・デューイだった。
彼とマッカーサーは一つの難問を抱えていた。
ルーズベルトによって完全に分解寸前にまで至ったアメリカ合衆国をマッカーサーは力で強引にまとめていた。
デューイはそこに力ではなく政策で纏めようとした。しかし、そうなると、力で抑えている不満が噴出しかねない。では、どうするか?
すでに米国には反中感情が渦巻いている。
南京政府とルーズベルトがつるんで悪行三昧であったと、その内容はかなり肥大化して米国民の間にひろまる状態で、東洋人を排除する動きが加速していた。
特に南部では黒人やメキシコ系までもがとばっちりを受けた事に対する反感を持っていた。
そのあおりを受けて日系人の多くは南米や西豪州へと新たな移民先を求めて旅立っていった。
こうした動きを利用して、不満分子、不穏分子を南京政府にぶつけてしまおうという提案をマッカーサーが行った。
そして指揮官として指名されたのが、カリフォルニア軍を指揮していたジョージ・パットンであった。
戦犯であるはずの人物だが、彼は単にバトルジャンキーなだけだった。思想的にカリフォルニア軍に身を投じたわけではなく、単に戦う場所が欲しかっただけだった。
そんな彼を、アイゼンハワーを介して紹介されたマッカーサーは、会ったその場で指揮官とすることを決めたという。
彼が選ばれた理由は、バトルジャンキーという、今回の作戦に好都合であったこと、更に、彼を引き入れることで本来ならば反発するであろう勢力をも取り込めると踏んだからだった。
1945年1月24日、大統領に就任したデューイはすぐさまマッカーサーに対してチャイナバスターズの編成を命令し、3月には早くも第一陣が米国を発つことになった。
マッカーサーは戦闘部隊の編成を部下に任せ、アイゼンハワーやパットンら幕僚や部隊指揮官を引き連れて2月初旬には早くも大連入りしている。
そして、俺のところにコンタクトを取って、日支戦争の資料や支那の地理情報を求めた。
さらに日本軍による周辺地域の偵察も要請してきた。
この頃になっても米兵の多くは南京政府に拘束されたままであったため、奪還作戦を計画しているのだろうと快諾して各地の偵察を行わせた。
それら情報を得たマッカーサー司令部は部隊の到着待たずに作戦計画を練り始め、3月22日に第一陣12万人が続々大連にやって来たと同時に作戦が発動された。
まずは演習がてら、租界の保護を名目に上海へと上陸して占領、さらに杭州へも上陸して簡易桟橋を建設して大型貨物船の荷下ろしを可能にする。
そして、6月にやって来た本隊24万人をもって侵攻を開始した。
その侵攻作戦がまた常識を覆して、南京方面へは歩兵を主力とした部隊のみを差し向けて圧迫するのみで、主力は杭州から舟艇や装軌車両を中心とした部隊によって南昌へと電撃戦を展開、7月21日には南昌を占領し、揚子江岸の九江へ出て、河川交通を遮断した。
この間に杭州や上海周辺には大規模な飛行場まで建設して毎日陸揚げされる航空機が並べられていった。
そこに並べられたのはP‐51やA‐26といった欧州でもおなじみの機体群であった。
そして、この頃までの地上軍が用いていたのは南京軍と同じM3、M5中戦車であったが、9月ごろからは新たにT34の影響受けた傾斜装甲を取り入れたM7中戦車やティーガーに触発されて開発していたM10重戦車へと置き換えられていく。
米軍の破竹の快進撃によってさらに武漢、長沙も手中に収め、揚子江流域を完全にそのコントロール下に置いた。
その上で南京へと攻撃を加え、10月12日、南京を攻略したが、南京政府首脳部は逃亡した後だった。
その後、北京政府を支援するために米軍は北上し、残った南京政府軍を撃破していく。
だが、11月20日、南京政府首脳部と共産党指導層が新国家建国を宣言した。
だが、さらに話をややこしく。内陸部でソ連が主導して東トルキスタン共和国が建国される。
ここにソ連は物資だけでなくソ連軍も投入して支配地域拡大を目指してきた。
すでにソ連はコーカサスがトルコとの戦場となっており、新たな油田を探していた。そして、カザフスタンの東方に瀝青の山があるという話を聞き及んだ。
そうなると放っておく訳がない。北方で進撃を続ける日露軍への牽制にもなり、上手くすれば新たなエネルギー取得が叶う。
こうして、ソ連軍による支那内陸部での東進という事態に、日露軍は前進を止めざるを得なくなる。
1945年も師走だというのにものすごく混乱していた。
モンゴルからソ連勢力を追い出したと思ったら、そのすぐ隣でソ連系勢力が暗躍している。
これ以上西進するよりも、まずは防備を固めることになった。
シベリアの主要協業地域はノヴォ二コラエフスクとオムスク。
そのうち一つを占領した事でソ連の力を削げたとしてオビ川を境に進撃を停止した。
そして、東トルキスタン情勢を窺う事になる。
ここは場所が厄介で、北京政府や旧南京政府と共産勢力が立ち上げた西安政府も領有権を主張していた。
ソ連は西安政府との共闘姿勢を見せていたので北京政府と米軍による西安侵攻が行われるが、彼らは蘭州へと逃げだし、ソ連との本格的な共闘を図った。
このため、モンゴル防衛を考慮して東ロシア軍がモンゴル南西部へと展開、日本軍もそれに帯同し、北京政府へ派遣している義勇軍が内蒙古へと進んでいた。
しかし、それ以上戦線を進めることが出来ずに膠着してしまう。
問題の原因は欧州での戦争終結であった。
1945年10月にはフランスが音を上げてドイツとの停戦に走り、ソ連もそこに相乗りして11月28日に停戦、そこから正式に講和交渉が行われ、12月10日には正式に講和が成立した。
フランスはアルザス、ロレーヌを失うが、ほぼ第一次大戦前の位置に戻しただけで済んだ。
ソ連はバルト海への出口を完全に失い、カレリアも失った。
結局、ハンガリー・ルーマニア枢軸はこの合意でドニエプル線を確保したのだが、すぐさま内紛を初めてしまう。
蚊帳の外であったトルコは未だソ連と交戦中だが、ドイツ軍が撤退すると急激に弱体化していく。
そのため、東ロシア軍が停止して以後、シベリア方面のソ連軍も一部が東トルキスタン入りして西安政府と共に米軍や北京軍との交戦に入り、そこで戦線が膠着した。
日露はこの情勢を見て、ソ連と接触、ソ連と東ロシアに正式の国交も無ければ、双方承認もしていないが、戦争については停戦が成立し、オビ川線を暫定境界とすることが決まった。




