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58・そして、事態は加速する

 1944年6月28日、ドイツの公式記録によると、ヒトラーは独ソ停戦を模索していたという。


 もちろん、この独裁者が自ら頭を下げる様な性格であるはずもなく、ソ連側に接触する前にクレムリンを攻撃し、いつでも殺せるという脅迫の後に停戦交渉を始めようとしていた。

 クレムリンを攻撃して相手を怯えさせ、有利な条件で速やかに停戦を行い、しかる後、ハンガリー・ルーマニア枢軸とトルコの対立に対応する。

 そういう工作が進行していたとされる。


 だが、実際に6月30日に接触したドイツ側使者はただただ罵倒されて帰って来るしかなかった。


 28日夜に決行されたクレムリン攻撃によって、あろうことかスターリンの所在する至近に爆弾が着弾し、側近数名もろともスターリンを壁の下敷きにしたのだという。

 翌日のモスクワはまだ事態を把握しておらず、通常通りの戦場であった。


 30日には指揮官級へとスターリン死亡が知れ渡り、意見が二分される。しかし、ドイツから接触があったと知るや、反独で意見が集約され、徹底抗戦が続けられることとなった。


 ただし、スターリン爆殺事件によってソ連は分裂し、モスクワを死守する一派と、南部において枢軸、トルコと戦っている一派、更には東部において疎開工業地帯を運営する一派が独自の動きを始めていた。


 この事から、ドイツと反スターリン派が共謀して彼を暗殺し、モスクワ一派を葬り去った後に停戦するという密約があったと盛んに唱えられている。


 事実として、ドイツの公式記録を参照した多くの人物が「あり得ない」と口をそろえることになる。


 というのも、ドイツがソ連と停戦し、しかる後にハンガリー・ルーマニア枢軸とトルコの調停を行うなど夢物語だったからだ。


 独ソ停戦となれば、ドイツ軍のトルコ駐留は理由を失う。


 さらに、ハンガリー・ルーマニア枢軸への影響力も大きく低下する。


 当然だが、ソ連と戦争状態に無いドイツ海軍が黒海に居座る理由も無くなる。


 この様な状態でどのように調停を行うのだろうか?


 実際に起こった経緯をみえれば、独ソ戦が継続し、ドイツ軍が黒海、トルコに展開していたからこそ両者はヒトラーの声に耳を傾けた。


 こうして、トルコはクリミア半島へは渡らない。ハンガリー・ルーマニア枢軸はドニエプル川で確実に停止するという合意がなされる事になる。

 冗談でヒトラーがクリミアの景勝地ヤルタに別荘を建てて両者を監視すると言い出したことから、俗にヤルタ合意と呼ばれる協定が成立した。


 この協定に従い、トルコはコーカサス侵攻は継続するが、黒海での活動を低下させた。


 こうして、直近の緊張を緩和させることでドイツは自分の戦争にのみ集中できるようになる。


 その反面、ドイツの公式記録は事実であり、ドイツの攻撃を察知した暗殺グループが攻撃に紛れてスターリンを暗殺したとする説も根強くある。


 事故ないしソ連内部の犯行であれば、それもそれで説明がつく。


 通説の様にドイツとソ連内部が通じていた場合、南方一派がハンガリー・ルーマニア枢軸がドニエプル川で停止したのちにモスクワを支援する部隊を送るのはおかしいからだ。


 結果として、モスクワが陥落することなく、反独でソ連は再度結束して戦争を継続している事は歴史的に見れば疑う余地がない。


 ただ、結束した理由がドイツとの密約が無かった事を証明しない根拠は別にも存在する。


 1944年7月2日、モスクワでの混乱と英国の情報収集や東ロシア独自の情報筋からスターリン死亡を知った東ロシア首脳部はソ連侵攻を決定し、8月8日をもってソ連へと宣戦布告、侵攻を開始する。


 この東ロシアの行動が、スターリンの死去によって分裂したソ連指導部を結束させたと言われており、必ずしもドイツとの密約が無かった事を、ソ連の結束が証明しているとは言い難い面がある。


 それはさておき、東ロシア軍の侵攻計画なのだが、ノヴォニコラエフスク、ソ連名ノヴォシビルスクを目標に進撃する事とされていた。


 だが、この地域は明らかにソ連が重層陣地を敷いて来ると予想できる場所であり、航空偵察も事前に幾度も行われた。


 その結果、予想以上にこの周辺が工業化されるとともに重層防御がなされている事から、バイカル湖北岸から後のバム鉄道の路線をなぞるように迂回する経路も採用された。


 だが、こちらも困難が伴う事が予想され、更に、ブラーツクにも守備隊が居ることも確認されていた。


 こうして、東ロシアの侵攻はその開始からかなりの困難を極めることになったが、幸いな事に、九八双軽の後継として開発された軽爆撃機「天龍」は誉を双発で搭載する高速機で、ソ連軍の迎撃を受けることなく攻撃を繰り返し、東ロシアの侵攻を助けることになった。


 だが、それでも侵攻作戦は容易ではない。


 この作戦に投入された戦車はその大半が九八式や二式中戦車で、何とかT34の相手が可能という性能でしかなかった。

 幸いな事に、ソ連軍もT-34-85やIS2と言った戦車は極東方面にはほとんど配備していなかった。


 そのため何とか1945年6月にはタイシェトまで達して一息つけることになったが、その頃にはコーカサスとモスクワ以外の戦線は戦闘が行われておらず、徐々に強力な戦車が出現し始めていた。


 その状況を見て、ようやくまともに動くようになった新型戦車、四式中戦車、東ロシア名T-44が戦場に投入される。


 もうずいぶん前から開発が行われていたのだが、これがなかなか完成しなかった。


 砲軸スタビライザーは砲を一定方向に常に指向し続ける能力を持つ装置で、後の射撃システムの様な目標にピタッと照準したまま行進間射撃が行えるような上等なモノじゃない。


 だが、日露製戦車は九八式まで砲塔バスケットを設けていなかったので、バスケット無しでこの装置を組み込んだところ、とてもではないが砲塔乗員が付いて行けなかった。


 急いでバスケットを備えた砲塔を設計し直すことになったが、そこでまた問題が発生した。


 結局、車体側もやり直さないといけなくなり、二式中戦車とは別の車体を新たに開発しなおして、バスケット付き新型砲塔を搭載したので1年以上無駄に費やしてしまっている。


 だが、それは悪い事ばかりでは無かった。


 ステレオ式照準器という、水上戦闘艦では当たり前に装備する測距儀装備の射撃方位盤の戦車搭載型なのだが、これがまた難物で、一応完成していたバスケット無しの試験車両でステレオ式照準器の試験を続けていたのだが、当初は故障ばかりでマトモに動かなかった。


 こっちの改良、改善にもやはり1年以上を要し、1944年に四式として制式化されてなお、その改善作業は続けられ、まともな量産車が部隊へ配備されたのは1945年春の話だった。


 それまでは試験車両による改良作業と一応完成している戦車による兵員教育が主に行われていた。


 兵員教育は故障の修理や原因究明も課題の内という事で行われ、そんな訓練後に量産車に乗ったクルーたちは故障もせずに動く照準器や砲軸スタビライザーに感動していたほどだ。


 この四式中戦車の実戦投入でソ連戦車全てが旧式化した。


 四式は1500mからでもほぼ正確な砲撃が可能だが、従来の照準器しか持たないソ連戦車では、この距離は相当なベテランでなければ弾を当てることは不可能だったからだ。

 

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