48・そして、事態は転換の準備に入っていく
1940年4月1日、そんな冗談みたいな日に始まったこの世界の第二次世界大戦。
膨大な軍事援助を受け取ったハンガリーは弱ったソ連を叩くために侵攻を開始した。
だが、この行為はソ連側の動きに対する過剰反応から出ていた。
ソ連はポーランド侵攻後、一部の軍を南進させていた。
ハンガリーからすれば、それは自分がチェコスロバキアから得たルテニアやカルパチアを狙う動きに見えただろう。
そして、ルーマニアもその動きに危機感を持った。当然、ソ連の狙いはベッサラビアだと危機感を募らせたからだ。
そして、両国は利害の一致を見、トランシルバニアの問題を棚上げにしてソ連と戦う道を選んだ。
ソ連にとってはベッサラビアは独ソ中立条約の秘密協定で取得を約束されていた。
だが、そのドイツと同盟を結んだハンガリー、ルーマニアがベッサラビア奪取に動くソ連軍へと攻撃を仕掛けてきたのだ。
ドイツの裏切りを疑うなという方がおかしい。コレがドイツの裏切り以外の何に見えただろうか?
当然のこととして、未だポーランド領域の完全支配すら怪しいドイツに対し、ソ連は宣戦布告を叩きつける。
ドイツにとってはたまったものではないが、成り行き上仕方がなかった。
そして、実のところ戦力については心配がない。米国との技術協定によって、技術提供と交換に数千両という戦車、万に達する貨物車を米国から導入する事が決まっていた。
次々送り込まれる戦車の数がとても膨大なため、訓練や部隊編成が間に合っておらず、この頃のドイツ軍は混乱の渦中にあった。
4月2日の時点で何とかポーランド鎮圧部隊の展開は始まり、ハンガリーを抑える部隊の編成を終えたところであった。
そう、降って湧いた宣戦布告にこれら部隊が何とか対応できたという状態だった。
対するフランスの場合、ソ連の宣戦布告に勢い開戦を決めはしたものの、準備が整っているわけではない。
東部戦線では早くもポーランドを西進するソ連軍とそれを防ぐドイツ軍の戦闘が始まっていた。
ふんだんな武器を持ったハンガリーも勢いよく戦闘を行っていた。史実バルバロッサ作戦との大きな違いは、ハンガリーやルーマニアは自国の求める安全圏からソ連軍さえ撃退できるならば、あまり深く攻め込む気が無かった事だろう。
ポーランド戦線は体勢を整えたドイツ軍がソ連軍を抑え、押し戻していく。
十分な数のⅢ号戦車を得たドイツ軍にT26やBT7と言った軽戦車は敵ではなかった。
順調に押し返し、8月にはポーランド分割線を超えた。
ハンガリー、ルーマニアも所期の目的であったドニエストル川流域に達して守勢に入っている。
そんな時、西方ではフランスがベルギーに対して軍の通行を要求して拒否されたことから、ベルギー侵攻が始まる。
以前は味方であったはずのフランスから攻められるベルギー。独仏もすでに直接の交戦を始めており、8月中旬にはドイツ軍もベルギーへと侵攻、挟み撃ちを受けてベルギーは9月には消滅してしまう事になった。
フランス側から攻勢を開始した事もあって、ドイツ軍は攻めきれない。
さらに、フランスには英国からの援助も入っている。
まあ、中身は英国製戦車ではなく、日本の八九式や九五式なんだが。
生産が追い付かない分を英国からの援助で補いながら、何とか戦線を押し上げようとするフランス。
で、米国だが、一応中立を宣言している。と言っても、ドイツへの支援を止めるつもりはないらしいのだが。
そして、英国からの批判に対して、英国もフランスを助けていると言い返す泥仕合を続けている米国。
米国としては未だ戦いたくなかった。
何といっても、日英の意向や満州派の思惑もあって対日戦争時に鹵獲された艦隊は旅順に止め置かれたままだったからだ。
戦力の回復も出来ていないのだから、さすがにすぐさま対英戦争など出来ない。
こうして、大西洋を挟んでにらみ合う米英を余所に、欧州の戦争は更なる展開を見せていく。
10月には英国の協力を得たフランス軍がノルウェー北方へと至り、ナルビクを占領してしまう。
ドイツ軍の行動は一歩遅れ、護衛としてやってきていた戦艦ダンケルクとの交戦で引き返さざるを得なくなるが、オランダ、ノルウェー南部へと侵攻して占領してしまう。
米国から多大な供給を受けるドイツ、ハンガリー枢軸は何の心配もなく対ソ戦を遂行し、フランスをも抑えていた。
当然、こんな中で行われた米大統領選挙である。
ルーズベルト景気に沸くアメリカにおいて、彼が続投を表明すれば遮る者など居ない。
満州派が盛んにルーズベルトの悪行を訴えるが、無理だった。
そんな選挙戦の最中、欧州から逃れた難民たちがシベリア鉄道によって東へと押し寄せ、いつものように東ロシアへと渡って来た。
彼らはリトアニアにある日本大使館で日本へのビザを発給された者たちだった。
ドイツがいつものように日本が不法出国をほう助したと喚き散らしていたが、日本にとってはもう、日常でしかない。
シベリア鉄道でイルクーツクまで達した彼らは、東ロシア鉄道によってウラジオストクや大連へとやって来た。
だが、ここで問題が起きた。
南満州は米国が支配しており、ドイツからの要請もあって「不法出国者」を摘発、強制送還するように要請が来ていたのだ。
米官憲が満州線を乗り継いでやって来た者たちを拘束した。最初の拘束は7月の事であった。
だが、拘束者たちは誰もドイツには強制送還されない。
満州に居る米国籍の3割が日系、大半の白人が反ルーズベルト派。そう、拘束までは実行したが、移送船の手配も付かなければ、鞍山駅から先の移送列車の都合すら付かない。まったく米政府の指示が履行されない状態になっていた。
そして、多くの満州派や日本が手配した「収容所」へと移送される人々。
ウラジオストクから新潟や舞鶴へと渡った者たちも、そこで途方に暮れた。
米国が自分達を犯罪者としてドイツへ突き返そうとしていると知ったからだ。
日本にも多くを受け入れる土地も無いので、東ロシアと協議してテーハン北部に土地を確保し、彼らをその地へと送り届けた。
全く米国からの送還が無い事を不審に思うヒトラーではあったが、米国が極東で飼い殺しにするのならそれでも良いかと、あまり気に止めた様子はなかったらしい。
この重大な情報は米本土では報じられることもなく、知るものは少なかったが、それでも民族ネットワークで情報が拡散されていく。
1941年を迎える頃には西海岸の港から満州を目指す人々が鈴なりになった船が何隻も出港していく事になった。




