36・そして、新たな時代が動き出す
豪州騒乱事件がひとまず終息して帰途についた日本軍。
海軍艦艇にとって、これまで取るに足らないと思っていた海上警備隊のちっぽけな警備艦が俄かに注目されることになった。
船団護衛に随伴した警備艦は既にレーダーが常備されている。
航路監視装置とか電波船舶探知機などの名称で、いく種類かの周波数の装置を用途ごとに呼称しているが、いわばレーダーだ。
そんな警備艦が出港直後から巡洋艦の監視員ですら見逃すような暗闇でさえ、すぐに反応して不審な船に接近したり、豪州近海では船団の管制まで行っていた。
さらに、公式には日豪は交戦していない事になっているが、地上でも上空でも交戦が行われている。
俗に小競り合いという奴だ。
警備艦は一部の優秀なパイロットくらいしか発見できないような遠距離で飛行機を発見して警報を出した。
それも一度や二度ではない。
当然、それもレーダーで見つけたからだ。
海軍も知らない訳ではない。
瀬戸内では管制センターや海峡周辺に浮かべたレーダーピケット船からの航路指示や接近警報を受け取っている。
だが、あくまで航路管制用の機械という認識でしかなかった。
ところが、豪州派遣でその性能を目の当たりにする。
訓練されたごく一部の優秀な見張りやパイロットとそん色ない事を小さな警備艦の乗組員がやってのけている。
だからと言って、警備艦の乗組員が海軍のパイロットや見張りほどの遠視や夜目がキクのかというと、そんなことは無かった。優秀なのは電波だった。
そこで、海軍も試してみようかという気になる。
そんな3月、第四艦隊事件が起き、嵐に突っ込んだ艦隊が複数の衝突事故を起こしてしまう。
この事故がきっかけとなり、衝突防止装置として、軍艦へのレーダー搭載が本格的に動き出すようになる。
そんな中、山東半島で打撃を受けて引き上げていた南京政府軍が有ろうことか上海を攻撃してくる。
反英日を唱えて上海租界を無差別攻撃してきたことで、日本軍がまたぞろ出動する事態となった。
8月に始まった戦闘は10月まで続き、日英軍は上海包囲軍を更に外から攻撃するため、9月24日に金山衛に増援部隊を上陸させ、南京政府軍の背後から攻撃を加えると、混乱をきたした南京政府軍は徐々に撤退していった。
この事件の際、上海租界にたいする爆撃が複数回行われ、米国人にも多数の犠牲が出たのだが、ルーズベルトはその責任を日英にあると主張していた。
攻撃した機体が米国製で、南京軍の銃火器がドイツ製な事は、この際どうでも良いのだが。
もちろん、米国内でもルーズベルト批判が無いわけではない。
だが、その勢力をたどると満州系の企業や人物であったり日本に縁のある人物に行き当たるのでは、この頃の米国では信用されるはずがなかった。
当然ながら、英国もそんな米国への不信感を募らせていく。
そして、ロンドン条約の延長協議が行われるのだが、米国は海防重巡の保有数をさらに増やして遼東半島や上海への配備する事を公然と主張しだす。
当然、日英へのけん制である事は間違いない。
そのうえで日本には戦艦や軽巡の削減を求めるし、英国には米国も同量の艦艇数保有に同意するように求める。
当然、そんなものを受け入れる理由がない。
さらには、日米安保の破棄をちらつかせてきた。
曰く、大陸情勢について、山東半島や上海騒乱など、日英の共同出兵が続いているが、それが米国の脅威であり門戸開放の障壁になっているのだという。
英国は自国権益を侵す南京政府を信用しておらず、北京政府を支援している。それは日本も同じで、米国の満州派も同様だった。
もちろん、南京政府とその基盤となる財閥にパイプを持つルーズベルトや上海グループにとっては邪魔で仕方ないし、脅威なのは確かだろう。
1935年内に行われた協議では平行線をたどり、翌年1月。
全く内容が相いれないと米国が脱退を表明した事でロンドン条約はその効力が失われることになった。
それと前後してヒトラーによる再軍備宣言が行われ、その中で海軍軍備について2万t29ノットを誇る中型戦艦を建造しているという話が飛び込んでくる。
これに対抗するには12インチ砲以上を備え、同等以上の速力、11インチ砲に耐えられる防御力が求められる。
つまるところ、海防重巡などお呼びではなく、2万5千tクラスの中型戦艦が必要になるという、フランスの新型戦艦辺りを建造していくというような話を平賀さんがジェーン年鑑にまたぞろ寄稿したらしい。
いわば、重巡無用論だ。
「米国が飛びついて艦艇建造資源を戦艦に振り向けてくれれば幸いなんですが」
などと言っている。
そして、1935年11月には二宮において自主制作されていたH型16気筒エンジン搭載機が初飛行した。
全金属製、低単葉翼、引き込み脚という構成で、日本初が揃った機体だったわけだ。
当時はまだ複葉機で400km出かねていた時代。そんな中でいきなり430kmを記録し、1936年には450kmを出すに至る。
さっそく陸軍が興味を示して評価試験を行い、いきなり採用となったのは当然と言えば当然か。
小山さんがかなり翼の設計に苦労したらしいが、自動制御可能なフラップを装備しているので機体が大柄な割に旋回性能がよく、搭載予定の機関銃も陸軍の評価が高かったらしい。
搭載予定の機関銃って?
どうやら南部さんが開発した50口径機関銃との事だった。
聞いてみると、史実ドイツで開発されたMG131機関銃を参考に、東ロシアで採用されている12.7mmロシアン弾の弾頭を用いた短小弾として開発したらしい。
いや、それってパクリやないの?
だが、南部さんによると、東ロシアのチート冶金技術ウォッカ風味の技術を用いているので、MG131よりもソ連系の軽量機関砲シリーズに似ているだろうとの事だった。
どうも、重量はMG131より重くなり18kgで、日本陸軍の採用したホ103よりは5kg軽いという。
ちなみに、東ロシアには見せしめ的な差別をルーズベルトから受けていたシコルスキーという人がやって来たとかで、ロシア系技術者もまだやってくるかもしれないとの事だった。
シコルスキーってヘリの人だったような?




