二階崩れで粛正された他紋衆たち
肥後がらみはもう少し語る必要があるのだが、ひとまず最大のポイントを先に語っておく。
大友二階崩れにおいて粛正された他紋衆は以下の四人。
小佐井大和守 (鎮直?)
斎藤長実 (斎藤鎮実の父)
津久見美作 (実名不明)
田口鑑親 (田口新蔵人、田口蔵人佐)
この時、私が取った手段はグーグル先生で検索した事だった。
順番に一人ずつ見て行こう。
『小佐井大和守』だが、検索では有効なワードが出て来なかった。
では『小佐井氏』で検索をかけるとこんなのを見つける。
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc01306.pdf?file_id=4820
どうやら奉行である事は間違いが無い。
『奉行』なのである。これ重要。
上の資料でそのまま残りの三人も軽く解説しよう。
斎藤長実は鎌倉から下向した『下り衆』と呼ばれる譜代格の一人。
津久見美作は奉行人連署状に名前があるからこちらも『奉行』と仮置きしておこう。
田口鑑親だが、田口氏を調べる必要がありググるとこんなHPを見つける。
https://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014020500899/
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc08004.pdf?file_id=6790
どうも田口氏は元は水軍衆らしい。大友家滅亡後は帰農して庄屋として過ごすというストーリーだが、資料の時枝領は豊前国、今でいう所大分県宇佐市に当たる。
で、私が衝撃を受けたのがこいつ。
https://www.furushoiin.jp/data/img_data/download/20170915155934pdfsxfilx6592.pdf
おい。ちょっと待て。田口氏は大友家三大氏族の田原一族の出身だと!?
この時の私の衝撃たるや……これで大友家の転生仮想戦記の重要キーパーソンが決まったのだからと自分語りはこのあたりにしておこう。
この資料は本当に面白く、他の氏族も紹介してみよう。
小佐井氏
津久見氏 藤原姓氏族
斉藤氏 藤原姓氏族
田口氏 田原一族
ここまでしても小佐井氏が出て来ない。
で、『小佐井氏 豊後』で検索をかけてつらつらと……やっと当たりを見つける。
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E4%BD%90%E4%BA%95%E9%83%B7-3104107#goog_rewarded
ああ。なるほど。大佐井郷と小佐井郷という地名か。
で、ここでその地名の領主の名前を見つける。
地頭肥前国御家人草野次郎経永
大体この手の苗字は、その領主が地名の苗字を名乗る事が多い。
念のためこの草野経永を検索してみよう。
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%89%E9%87%8E%E7%B5%8C%E6%B0%B8-1071477
鎌倉時代の人間か。ならばその一族が土着してというのは当たらずとも遠からずだろう。
私の中ではひとまず小佐井氏は草野一族という事にしておく。
小佐井氏 草野一族
津久見氏 藤原姓氏族
斉藤氏 藤原姓氏族
田口氏 田原一族 (大友一族なのだが限りなく敵視されているいずれ語る予定)
大友義鑑時代は大友家の戦国大名化が進み、大名権力の強化が図られた時代である。
それは最高意思決定機関である加判衆を同紋衆で握るという悲願があり、その悲願は大友二階崩れ後の大友義鎮の代になって成立する。
大友義鑑は死ぬ前の遺言に『同紋と他紋の数は同数にしろ』と言い残すぐらいこの席は大事だった。
それでもその後の大友義鎮の加判衆では同紋4:他紋1と遺言を無視する形になっている。
という訳で、質問だ。
どうして、大友義鑑は大友義鎮を推していた他紋衆を殺したのか?
どうして、大友義鎮は大友義鑑の遺言を無視して同紋衆を優遇したのか?




