菊池家お家騒動から見た肥後情勢 その3
菊池武包。
彼の菊池家継承の背後には既に大友家の影があった。
大友家が何時頃から菊池家乗っ取りを考えていたのかというと、wikiの記述を見るならば、大友家中の事情からというのが透けて見える。
それを載せてみよう。
この頃、大友氏でも代替わりがあり、永正12年(1515年)に義鑑が家督を継ぐが、先代(親治・義長)の院政のような状態が続いていた。過去に大友氏は相続で内紛が長引いた歴史があるなか、家中では若き義鑑の相続への不満が高まり、更に義鑑の弟・菊法師丸(後の大友重治)を擁立しようとする勢力もあったため、義鑑とその後援者は菊法師丸を菊池氏に入嗣させて、肥後に勢力を伸ばすと同時に宗家の安泰も図ろうとした。大友宗家の家督に未練がある菊法師丸は、菊池氏の家督は望んでいなかったが、永正15年(1518年)に義長が死して義鑑が独り立ちすると、これを断れるような情勢ではなくなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%8C%85
軽く年表をまとめてみよう。
永正8年 (1511年)
菊池武経 菊池家家臣団との対立の果てに出奔。
分家の詫摩武包が重臣の隈部親氏・長野運貞・内古閑重載の3名に奉じられ、宗家を継ぎ肥後守護となる。
永正10年 (1513年)
元菊池武経である阿蘇惟長が薩摩国島津家の支援の元、阿蘇家当主阿蘇惟豊を攻撃。
阿蘇惟豊は逃亡し、阿蘇惟長が阿蘇家を掌握する。
永正12年 (1515年)
大友義鑑が家督を継ぐ。
永正13年 (1518年)
朽網親満の乱。勃発
永正14年 (1517年)
甲斐親宣の支援を得た阿蘇惟豊が逆襲に転じて阿蘇に侵攻。
大敗北を喫した惟長・惟前父子は、全てを失い薩摩へと逃亡。
永正15年 (1518年)
大友義長。父・親治に先立ち死去。
永正16年 (1519年)
朽網親満の乱。鎮圧。
永正17年 (1520年)
菊池武包。大友家の圧力を受けた菊池家臣団によって追放。
大友重治が菊池義宗と名を変えて、菊池家当主となる。
大永3年(1523年)
菊池武包が旧臣と共に玉名郡に落ち延びていたが、筒ヶ嶽城(現・熊本県荒尾市府本)で挙兵。
大友・阿蘇連合軍によって敗れ、肥前国に逃亡。
大永4年 (1524年)
大友親治。64歳で死去。
書いて気づいたが、この時期の大友家は朽網親満の乱が勃発しており、その背後には大内家の影があった。
更に厄介なのが、大友義鑑の家督継承は、大友義長や大友親治が存命中なのにも関わらず不満が出て朽網親満の乱が発生したと考えるべきで、ものすごく不穏当だったというのが分る。
肥後情勢は大友家によって左右されるが、同時に大友家家中の混乱がこの肥後情勢を動かしていたと見る事ができる。
更に運が悪かったのが、大友家と同盟関係なあった阿蘇家がこの時お家争いで動けない状況であり、阿蘇惟豊は大友家に従属化の方向に舵を切る事になる。
彼の娘の嫁ぎ先が入田親誠なのは前にも書いたので覚えている人もいるだろう。
こうして、大友家の都合で振り回された菊池家は、案の定大友家の都合で滅ぶことになる。
その人物の名前が菊池義武。
大友重治や菊池義宗という名前でもあった、大友家一族からの人物である。




