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コラム 少弐冬尚滅亡に絡む大友家と竜造寺家の関係

Twitterのまとめと加筆

 佐賀の戦国史さん@sagasengokuが呟いていた『「少弐冬尚が、龍造寺隆信の謀略で自害に追い込まれた」 が否定されていた』はアップデートしていなっかたのですごく驚いている。

 で、その滅亡ににかなり大友家の影が見えると言われて二度びっくりである。

 何が起こったんだと軽く調べてみた。

 ツーダラダッタ@nanpoubananaさんがこのあたりの年表をまとめてくれていたので、引用・加筆させてもらおう。


天文14年 (1545年)

 竜造寺一族が馬場頼周の讒言によって粛清。

 竜造寺一族は筑後国柳川城主・蒲池鑑盛の元に逃れる。


天文15年 (1546年)

 竜造寺家兼が蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵。

 馬場頼周を討って龍造寺氏を再興。

 復興後竜造寺隆信 (この時は胤信)に後を託して死去。


天文16年 (1547年)

 竜造寺隆信。主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放。


天文17年 (1548年)

 竜造寺隆信。竜造寺家家督相続。家中乱れる。


天文19年 (1550年)

 二月 大友二階崩れ 大友義鑑没。

 七月 大内義隆より山城守敷奏。一字拝領し竜造寺隆信と名乗る。

     慶誾尼。鍋島清房の所に押しかけ後室となり鍋島氏を親戚に組み込む。


天文20年 (1551年)

 大寧寺の変 大内義隆没。

 土橋栄益謀反。竜造寺隆信は筑後国柳川城主・蒲池鑑盛の元に逃れる。


天文23年 (1553年)

 正月 一万田鑑相粛清。

 七月 蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵。土橋栄益を討ち旧領回復。


天文23年 (1554年)

 菊池義武粛清。攻めたのは戸次鑑連。

 大友義鎮が肥前国守護に任じられる。


弘治3年 (1556年)

 小原鑑元の乱。


弘治3年 (1557年)

 四月 大内義長没。大内滅亡。攻めたのは毛利元就。


弘治3年 (1557年)

 七月 秋月文種の乱。


永禄元年 (1558年)

 第一次門司城合戦。大友家VS毛利家。


永禄2年 (1559年)

 竜造寺隆信や千葉胤連に攻められ勢福寺城で少弐冬尚自害。少弐滅亡。




 こうやって調べてみると、少弐冬尚の滅亡までに、北部九州の情勢が激変しているのが分る。

 また面白いのが、竜造寺家が少弐家の外様なのに権勢を誇ったので、讒言を受けて粛清されたが、同時に大内家や大友家が手を伸ばしていたという事だろう。

 筑後国は大友家の守護国であり、蒲池鑑盛は土橋栄益の謀反の際には大友義鎮の許可を得て竜造寺隆信を助けているのは注目していいだろう。


https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34623_20130321113942.pdf 566P


 で、年表を眺めて疑問が湧いたのだが、天文16年に勢福寺城から追放しているのに、永禄2年に自害しているのが勢福寺城という事は、少弐冬尚は勢福寺城に帰っている訳で。

 調べてみたら少弐家重臣の江上武種が奪還していたらしい。

 少弐滅亡の前に大内滅亡があり、この時の大内は大友と同盟関係を結んでいた形である。

 大内を宿敵として大友家と組んでいた少弐はハブられる理由があり、大内が滅んだ事で大友にとっての存在理由がなくなった少弐を潰したという所なのだろうか。

 竜造寺隆信の視点から見ると、肥前国守護家だった少弐冬尚を見限った時点で、大内家か大友家の庇護下に入る必要があり、情報が限られていた時点で大友二階崩れで家中が混乱していた大友家よりも大内家につくよなぁ。

 誰が大寧寺の変で大内義隆が討ち取られると思うよ。

 おまけに、大友晴英が大内義長として大内家を継いで大友家と大内家が同盟関係になるなんて。

 ただ、これは竜造寺隆信にとってはプラスに働いた。

 大友家には大内家と戦っていた少弐家と組む必要がなくなったからだ。

 結構大きいのかなと私が思ったのは、天文23年の大友義鎮の肥前国守護就任。

 これで、少弐家は肥後国守護家という格すら失う形になったからだ。

 大友家の肥前国統治政策の変化は間違いなくここであり、この時に大友家側についていたのが竜造寺隆信だった。

 歴史ってのは面白いなぁ……


 最後にこのあたりのブログを紹介しておこう。


一次史料に見る永禄年間の大友氏・龍造寺氏の関係とその推移

 http://sagasengoku.seesaa.net/article/464671140.html




おまけ

 これを書いている時に顎を外さんばかりに驚いた事実。

 http://www.ed.oita-u.ac.jp/kykenkyu/bulletin/kiyou/yagi34-1.pdf


 おいちょっとまて。

 一万田鑑相と共に討たれた服部右京亮って、『御屋形様ヲチ』って伯父だと!?

 まったく話が変わってくるんですけどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!

 系図確認しないと……orz

佐賀の戦国史さんTwitter @sagasengoku

ツーダラダッタさんTwitter @nanpoubanana

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― 新着の感想 ―
[一言] つまり九州一の美人と噂の叔父の嫁欲しさに…? wikiで奈多夫人みたら注釈の欄に田北某先生と書いてあってびっくり。 これ先祖はやっぱあの田北さんでしょうかね?
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