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菊池家お家騒動から見た肥後情勢 その2

 阿蘇惟長は阿蘇家の当主であった。

 阿蘇家というのは阿蘇神社の大宮司の家で、阿蘇神社の荘園を背景に武家化した家でもある。

 その為、平家や北条家が組み込もうと企み、南北朝でも双方から手が伸びるなど内紛が絶えない家となっていた。

 文明17年(1485年)に阿蘇家のお家争いに菊池家と相良家が介入した一大合戦馬門原合戦によって阿蘇惟憲が阿蘇家の家督を握ると同時に、菊池家と阿蘇家の力関係が逆転する事になる。

 永正元年(1504年)、先代の当主菊池能運が嗣子無くして死去したが、彼の遺言によりはとこにあたる菊池政朝が養子となって14歳で菊池氏の家督を継ぎ名を菊池政隆と改めたのだが、政治基盤は決定的に弱体化していた。

 このあたり、wikiにある程度詳しい記述があったので、それを載せることにする。



 永正元年(1504年)、まだ若かった菊池能運が戦傷がもとで急逝すると、菊池重安の遺児である菊池政隆が養嗣子となって後を継いだが14歳と幼く統治は覚束なかった。阿蘇惟長はこの菊池氏の内紛に付け込み、菊池氏重臣らと謀議して菊池政隆を廃嫡して自らが肥後守護職へなる野心を逞しくしていった。

 城氏・赤星氏・隈部氏ら菊池氏重臣22名は、永正2年(1505年)9月15日、菊池家から当主で肥後守護職の菊池政隆を排除して阿蘇惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。

 阿蘇惟憲・阿蘇惟長親子はこれを受けて重ねて密議し、阿蘇惟長は肥後への勢力拡大を図る豊後国の大友義長とも結託し、後援の内諾を得て、菊池氏の重臣達にさらに圧力を掛けた。

 すると、12月3日、菊池家群臣84名による連判状が届き、阿蘇惟長を迎い入れる準備は全て整えられた。阿蘇惟長は大宮司職を弟・阿蘇惟豊に譲り、自らは隈府城に入ると「菊池武経」と名乗って菊池氏の家督を相続し、肥後守護職も簒奪した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E7%B5%8C



 ここで、ポイントなのは、大友親治も阿蘇惟憲がまだ生きているという事。

 つまり、実質的な菊池家への政変を主導したのは、大友親治も阿蘇惟憲という二人の強力な肥後人脈が背景にある。

 また、大友親治の息子である大友義長の正室が阿蘇惟憲の娘という所も抑えておく必要がある。

 これについては、菊池政隆の追放理由が『まだ幼く』という記述に注目してほしい。

 統治において、特に裁判がらみで判決を強制する実行力も権威も菊池家に無くなった時、大友家という武力と阿蘇大宮司を抱える阿蘇家の権威を菊池家臣団は菊池家当主よりも選んだという事である。

 この時点で、菊池家は大友家と阿蘇家の傀儡と化したのだが、大友家と阿蘇家の関係は対等だったのかという疑問が出る。

 おおまかな勢力で話をすると、大友家は豊後国と筑後国の守護であり、大雑把な石高(慶長の検知)で言えば豊後が41万石と筑後が26万石で67万石という大身であるのに対して、阿蘇家の石高は肥後国阿蘇郡を中心とした10万石以下の勢力しかない。

 にも関わらず、この関係の初期はかなり対等の関係なのではないかと考えている。

 理由としては、大友親治が元々肥後国松野家に養子として入った後で大友家当主になったというのがあるのと、大内家とそれに繋がっている国内国人衆への宗教的権威を期待したのではと思っている。

 当時の大内家は、その経済力を背景に豊前国や筑前国の寺社の復興を支援していたのを覚えているだろうか?

 これらの宗教的権威はこの時期の大名は無視するわけにもいかず、それに代わる宗教的権威というのはあるに越したことはない。

 大内家や反大友家の国人衆を抱えて粛清から当主の座についた大友親治にとって、その正当性を担保する宗教的権威は喉から手が出るほど欲しかったのではないかと私は考えている。

 とはいえ、この大友家と阿蘇家の同盟は時が下がるに連れて対等から従属に変質する。

 その証拠は、大友家重臣入田親誠に阿蘇惟豊の娘が嫁いでいる事から分かる。

 先代が大名家に嫁いだのに、次代が一門衆重臣とはいえ家臣格に嫁いでいるという事実はそういう見方もできるという訳だ。

 ここで、大友二階崩れの配役の一人である入田親誠の名前が出た事を覚えておいてほしい。

 

 話がそれたが、この大友家と阿蘇家による菊池家の簒奪は当初はうまくいったのである。

 そして、互いの力関係から大友家の影響力が大きくなるに連れて、大友家主導に変質してゆき菊池武経の追放が画策される。

 その次の駒は菊池武包。

 散々作者を悩ませ発狂させた詫摩家出身である。

 阿蘇惟憲の死亡時期がわからないのが結構困るんだが、阿蘇惟長と阿蘇惟豊の兄弟争いが発生した永正8年(1511年)には死んでいるのかな思ったり。

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