コラム 託摩鑑秀
託摩鑑秀という人物がいる。
この人物、大友義長条々に出てくる名前だったりする。
大友家研究の第一人者である外山幹夫氏の『大友氏の分国法』 https://ci.nii.ac.jp/naid/120002740621 に、全文と解説があるので、そこから引用すると、この人物に大友義長の妹が嫁いだと書かれている。
で、だ。
託摩の系図と菊池家の系図を出してみよう。
託摩家系図
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takuma_k.html
菊池家系図
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kikuti_k.html
……ない。
託摩鑑秀という名前そのものがないのである。
私が発狂したのは言うまでもない。
今回、これを書くにあたって、大友家と菊池家の関係が思った以上に深いのにも関わらず、その全貌がものすごく見通せないのだが、分かっている資料で考察すると、この時期の大友家は肥後国の縁戚関係が凄く濃くなっている状態だった。
大友親治
大友家18代当主。
肥後国の松野家に養子に入っている。
その時の嫁が菊池一族の木野親則で、大友家当主になる大友義長と託摩鑑秀に嫁いだ女を生む。
大友義長
大友家19代当主。
彼の嫁が阿蘇惟憲の娘で、彼女の兄弟に阿蘇惟長 (後の菊池武経)
と阿蘇惟豊(大友家加判衆入田親誠の正室)が居る。
彼女が大友家当主となる大友義鑑と菊池家当主である菊池義武を生む。
大友義鑑
大友家20代当主。
託摩鑑秀の偏諱『鑑』の字は彼からとられている事に注目。
大友義鑑の名乗りは、大永4年(1524年)3月と分かっており、託摩鑑秀はそこまで生きていたという訳で、永正17年(1520年)の菊池武包の追放劇後にこの名前になったという事は注目に値する。
大友家による菊池家の乗っ取り。
そのキーパーソン足り得る超重要人物。
私はそう結論づけたのだが、この人物がどこにもないのだ。
発狂したくなる理由は分かっていただけただろうか。
さらに厄介なのが、託摩家自体が『大友家分家』の託摩家と『菊池家分家』の託摩家の二つに分かれている訳で、この託摩鑑秀がどっちの託摩家なのかがわからないという救いのなさ。
まぁ、あてがないわけでない。
大友家分家の託摩家の系図に託摩貞秀という名前がある。
後ろの名前が『秀』で改名したのではというのが一番楽な推察である。
こういう風に考えると、大友家は菊池家介入というか肥後政策にものすごく力を入れていたというのがわかる。
にもかかわらず、菊池義武を入れた事による菊池家乗っ取りが失敗に終わったのはどういう理由なのかと、大友家分家と共に菊池家分家の託摩家の没落が資料として見つからないために、全体像に不思議な霧がかかっている感じになっているのだ。
このため、このエッセイのテーマである大友二階崩れにおいて、大内家の反対側にある肥後人脈がこのざまなので、当時書くにあたって何度頭をかきむしって発狂したか……
おまけ
ちなみに、歴史群像シリーズ特別編集『戦国九州三国志』に河合秀郎氏が、『大友義鎮の母親が阿蘇惟憲の娘』という説を披露してくれている。
大友家と阿蘇家の関係からありそうな話ではあるとはこれを書いている時点では思っていたりする。
とはいえ、大友晴英の大内家猶子という事を考えると大内家と大友家の血脈も闇が深いわけで。
おまけのおまけ
探るたびにちらちらと見かける嫌なワードがありまして。
『託摩文書』。
つまり託摩家の歴史書なのだろうが、当然原文は漢語なのだろうなと……読みたくねぇというかめんどくさいなぁ。しかもWEB公開されていなさそうだし。
ここの研究が進むことによって、大友二階崩れがさらに解明されると信じながら研究者にこっそりとエールを送るものである。
え?お前が調べないのかって?
いや、私、ちょっとお嬢様とかで忙しいし……




