蠢動
かん、という乾いた音が、早朝の住宅街の一角に響く。
そして、その音は一度だけではない。かん、かん、かんと一定のリズムを保って何度も響き渡る。
かと思えば、突然リズムが乱れることもある。一定以上も間が空いたかと思えば、かかかかかんと連続で聞こえる時もあった。
その音の正体は、木と木がぶつかる音。
鍛錬用の木剣と盾、そして木製の棍がぶつかり合う音だ。
木剣を操るのは、もちろん辰巳。そして、棍を用いているのはカルセドニアだった。
場所は彼らの家の庭。彼らの家の庭はかなり広く、武器を振り回して鍛錬するスペースが十分にある。しかも、片隅には小さな厩舎まであるが、今はそこで飼われている騎乗用の動物はいない。
いわゆる後方職であるカルセドニアだが、これで武器を用いた接近戦もそれなりにこなせる。少なくとも、現時点では辰巳よりもはるかに武器の扱いは上だろう。
そのカルセドニアの手の中で彼女の身長ほどの棍がくるりと回転し、ひゅんひゅんと空気を切り裂く音が響く。
そして、棍の先端が複雑な軌道を描きながら、木剣と盾を構えた辰巳へと襲いかかる。
足元から掬い上げるような棍の軌道を何とか読んだ辰巳は、身体とその軌道の間に盾を滑り込ませた。
盾の上からでもはっきりと分かる重い衝撃。その衝撃に耐えるため、辰巳は下半身に力を込めて踏ん張る。
だが、辰巳の盾の表面を棍で強かに打ち付けたカルセドニアは、再び棍をくるりと回転させると、今度はその先端を槍のように突き出してきた。
その速度に反応しきれない辰巳。それでも何とか木剣で防御を試みるが、一歩間に合わない。
棍の先端が辰巳の右肩を痛烈に打ち付けた。
「ぐっ!!」
辰巳の口から苦悶の声が思わず漏れる。だが、右肩に走る激痛を堪えつつ、辰巳は左手に装備した盾をカルセドニア目がけて思いっ切り突き出した。
だが、盾を用いた殴打は虚しく空振る。電光の速度で棍を引き戻したカルセドニアは、その棍を支点にして空に舞っていたのだ。
丁度、棒高跳びの要領である。もちろん、助走が僅かなので棒高跳びほどの高さは飛べないが、それでも辰巳の攻撃を躱すには十分だった。
そして、上空からがら空きの彼の脳天に、縦回転を利用した棍の一撃が振り下ろされる。
脳天に迫る一撃を感じ取った辰巳は、何とかその一撃を躱そうと必死に首を捻る。
振り下ろされた棍は辰巳の耳を僅かに掠り、彼の左肩を強打した。
辰巳は痛みに木剣を取り落とし、その場に踞る。そんな彼の様子を見て、カルセドニアは慌てて辰巳に駆け寄る。
「も、申し訳ありません! 思わず力が入りすぎてしまいました! す、すぐに治療しますから!」
踞る辰巳の傍らに跪いたカルセドニアは、すぐに治癒魔法の詠唱を始める。魔法が完成すると同時に、辰巳の肩から激痛が嘘のように消え去った。
「あー、くそ。まだまだカルセには敵わないなぁ」
「いえ、旦那様もかなり上達されました。旦那様が強くなったので、私も手加減が難しくなってきて……つい力が……」
申し訳なさそうに告げるカルセドニア。もちろん、二人は喧嘩をしていたのではなく、単に早朝の鍛錬をしていただけである。
まだまだカルセドニアに一方的にあしらわれることが多い辰巳だが、それでも彼女の言葉の通りかなり強くなった。手加減が難しくなったというのも嘘ではないのだ。
この分では、辰巳がカルセドニアと接近戦の技量で肩を並べるのは、それほど遠くはないだろう。
「しかし、相変わらずカルセの棍……ってか、杖術は変幻自在だよな」
日本のとある杖術の流派には、「突けば槍、払えば薙刀、持たば太刀。杖はかくにも外れざりけり」という言葉がある。
使い手によっては杖術は如何様にも変化するものであり、決して剣や槍に劣る武器ではないなのだ。
左肩以外にも治癒魔法を施したカルセドニアは、立ち上がると落ちていた辰巳の木剣を拾い、それを彼へと差し出した。
「どうしますか? まだ続けます?」
「もちろん。今度こそ、カルセドニアに勝ってみせるからな!」
「はい、その意気です」
二人は武器を構えて対峙する。そして、挨拶代わりに互いの武器を軽く打ち合わせると、そのまま再び激しく武器をぶつけ合っていった。
それは飢えていた。
もう長い間、食事にありつけていない。
それは飢えで消滅するようなことはないが、それでも飢えを満たすのは今のそれには何よりも優先されることだった。
ふらふらと──いや、ふわふわと密生した木々の間を漂いながら、それは食事を探し求めた。
何日も何日も。木々の間を漂いながら、自分の飢えを満たす存在を探し求めていた。
そして。
そして、とうとう見つけた。
木々の間に巨大な身体を横たえていたモノ。ソレもまた、激しく飢えていた。
「飢え」という激しい欲望──生存本能に基づいた、生物が持つ最も強い欲望の一つ──を抱いたソレに、それはゆっくりと近づいていった。
標的に近づいたそれは、じわりじわりとソレの中に侵入する。
途端、激しい欲望がそれを襲う。「飢え」という強烈な欲望が、それを激しく揺さぶる。
欲望がじわじわとそれの内側を満たしていく。それの飢えを満たしていく。
久しぶりに味わうその食事に狂喜しながら、それは更に欲望を啜り上げた。
だが、いくら欲望を啜り上げても、ソレの欲望は途切れることがない。ソレが抱えた「飢え」は、それ程までに強烈だったのだ。
一気に満腹になったそれは、尚も溢れ出る強烈な欲望に喜びのあまりに打ち震えた。
この強烈な欲望は、いつまでも自分を満足させてくれるだろう。そして、この強烈な欲望を更に刺激して、もっともっと美味な食事──欲望にありつく。
そう考えたそれは、湧き上がる「飢え」という欲望を刺激してやった。
ぶるり、とソレの巨体が震えた。そして、それまで青かったソレの眼が、禍々しい赤へと変化する。
強靭な顎を動かし、そこに生えている鋭い牙をがちがちと打ち鳴らす。
巨体に比べると小さな、だが鋭い鉤爪を備えた脚が忙しなく動き、巨大な羽が大気を打つ。
ぶん、と空気を震わせて、その巨体が空へと舞い上がる。細く長い尻尾をゆるやかにしならせながら。
全身を黒い鎧で固めたソレ。赤く染まった巨大な眼が「飢え」を満たすためのエサを空から探し求める。
上空を我が物顔で飛んでいたソレは、眼下の密林の中に巨大な獣がいるのを見つけた。
巨大といっても人間からしてみればの話であり、ソレに比べたら手頃な大きさのエサでしかない。
がちがちと牙を打ち鳴らしつつ、ソレ──人間たちが飛竜と呼ぶ存在は、上空から一気に急降下してその獣へと襲いかかった。
下から鋭い軌道を描いて、カルセドニアの棍が辰巳の木剣を打ち上げた。
もう何度も見てきたカルセドニアの棍の軌道。次の彼女の棍は、槍となって自分の胸を狙うだろう。
辰巳は頭上へと跳ね上げられた右腕に力を込め、予測通り自分の胸へと迫る棍へと上から下へと木剣を振り下ろした。
木剣は棍が彼の胸を捕えるより早く棍を迎撃、その軌道を逸らせるのに成功する。
だが、カルセドニアもその動きを予測していたのか、素早く棍を引き戻すと、再び突きの体勢に入った。
突き出された棍が最高速に達する前に盾で迎撃する。そう選択した辰巳は、カルセドニアが棍を突き出すよりも早く彼女へと踏み込んだ。
距離を殺されて勢いが乗りきらないカルセドニアの棍。その棍が辰巳の盾に激突する。
そして棍が盾の表面に到達した瞬間、辰巳は盾の表面の角度を巧みに変化させて棍の切っ先を上方へと逸らすことに成功した。
そして、更に一歩。辰巳はカルセドニアへと踏む込む。
棍の間合いは剣よりも広い。そのため、あと一歩踏み込まなければカルセドニアに剣は届かない。
たかが一歩、されど一歩。この一歩を詰めるのが、今の辰巳にはまだまだ難しい。
だが今、彼女の棍は上方へと流れている。その隙を突いて辰巳はその一歩を踏破し、遂に己の剣の制空圏内にカルセドニアを捉えた。
しかし、カルセドニアとて黙ってはいない。上方へと流れた棍を無理に引き戻すことはせず、逆に流れを利用して棍を回転。先程とは逆側の先端が、下からひゅんと空気を引き裂きながら辰巳を襲う。
足元から顎先へと伸びてくる棍の軌道。辰巳はその軌道をしっかりと把握した。伊達にこれまで何度もカルセドニアと鍛錬を繰り返してきたわけではないのだ。
辰巳は右手の剣で下から襲いかかる棍を迎撃。かん、という甲高い音と共に、木剣と棍が激突する──かと思われたが、何故か辰巳は顎に衝撃を食らった。
「…………え?」
木剣と棍が衝突する音はなく、顎に衝撃だけがある。それはつまり、辰巳の剣を掻い潜ったカルセドニアの棍が、辰巳の顎に打撃を与えたのだろう。
そう思った辰巳は、顎の痛みを我慢しつつ目の前のカルセドニアを見る。
しかし、当のカルセドニアは目を白黒とさせながら、自分が手にしている棍をじっと見つめていた。
先端部分が途中ですぱりと斬り落とされ、三分の二ほどの長さになった棍を。
「あ、あれ……?」
辰巳もまた、彼女の棍を見た。先程自分を襲おうとしてた棍の先端は、まるで鋭い刃物で断ち落とされたように切断されていた。
どうやら、その斬り飛ばされた棍の先端が、勢い余って辰巳の顎に激突したらしく、問題の先端部分は彼の足元に落ちていた。
「え、えっと……?」
「こ、これって旦那様が……?」
「い、いや、いくら何でも木剣で『斬る』なんて真似、俺には無理だけど……?」
互いに顔を見合わせながら、それでもよく分からないといった表情の二人だった。
その時だった。
ぴしっという小さな乾いた音がどこかから聞こえたかと思うと、突然カルセドニアの上半身の服に斜線が走った。
今、二人とも鍛錬中ということで、動きやすさを重視した服を着ているが、鎧までは身に着けていない。
そのカルセドニアのごく普通の衣服。そこに斜線が走り、そこから僅かに彼女の白い肌が覗く。
顔を赤らめつつもそれを凝視してしまったのは、辰巳もやはり年若い青年だからだろうか。最近ではすっかり見慣れた──決して『見飽きた』ではない──妻の肌だが、まだまだ夫の興味を引きつけるらしい。
そして斜線が徐々に大きくなると、遂には服の内側の内圧に負けて、カルセドニアの双丘がぽよんとまろび出た。出てしまった。
「ひょええええええっ!?」
「う、うわわわわわっ!?」
これに慌てたのは、カルセドニア本人よりも辰巳の方だった。
なんせここは自宅の敷地内とはいえ、誰からも見ることができる庭なのだ。幸い、時間帯が早いこともあって近所を歩いている人は少なく、辰巳たちに注目している者もいなかった。
それでも、いつ誰に見られるか分かったものじゃない。愛する妻の肌を見ていいのは自分だけという小さな独占欲から、辰巳は慌てて彼女の胸を隠した。
己の両の掌で。
それは丁度、正面からカルセドニアの胸を二つとも鷲掴みにする形だ。もちろん、辰巳は意識して行ったわけではない。あくまでも、慌てて思わず「やっちまった」のである。
「……………………………………あん」
妻の口から艶っぽい声が零れた時、辰巳は自分が何をしているのか悟った。
早朝の自宅の庭で、露出させた妻の胸を揉みしだいている。端から見たら、今の辰巳はそう見えるに違いない。
はっきり言って、言い逃れできないくらいアウトな状況であった。
「う、うわわわわわわわわっ!!」
更に慌てた辰巳は問答無用でカルセドニアを横抱き──いわゆるお姫様だっこ──で抱え上げると、全速力で家の中へと駆け込んだ。
この時、辰巳に抱かれたカルセドニアの顔は真っ赤だった。
だが、果たしてそれは胸を露出させた羞恥ゆえの赤面だったのか。それとも、夫に抱き抱えられた嬉しさからなのか。
それを知るのは、本人ばかりである。




