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試練

 今、辰巳とジャドック、そしてミルイルの目の前には一体の魔獣がいた。

 大きさは牛の二倍以上あるだろうか。魔獣としてはそれほど大きい方ではないが、それでも大型魔獣と呼べる範疇の魔獣である。

 辰巳たちから20メートルほど離れた岩の上に寝そべるその姿は、いっそ優雅と呼んでも差し支えない。

 (まだら)(やま)(ねこ)。それが目の前の魔獣の名前だ。

 全身は淡い灰色。そして斑山猫という名前が示すように、その身体のあちこちには黒に近い濃い灰色の斑点がある。

 姿形としては、地球の豹に似ているだろう。体色こそ灰色系だが、模様の形も似ていなくはない。

 だが、大きさはの方は豹どころか虎よりも大きい。その巨大な口は、人間の首など一口で食いちぎるだろうし、その鋭い鉤爪もちょっとしたナイフのようだ。

 これまで辰巳が対峙した魔獣では、大雪蜥蜴が一番の大型だった。だが、それとは全然比べ物にならない。

 そして何よりも特徴的なのは、金色に輝く双眸。

 その金の双眸に見つめられた途端、辰巳は身体の奥からあるものがじわりじわりと湧き上がってくるのを感じた。

 それは、恐怖だ。

 これまで感じたことのない、途轍もない恐怖。

 身体の内側が、しゃくりしゃくりと何かに齧り取られるような感覚。

 身体の内側に、冷たい氷の柱を押し込まれたような感覚。

 身体の内側から、何かが溢れ出しそうになる感覚。

 どれとも似ていて、どれとも似ていない。そんな未曽有の感覚が、辰巳の全身にのしかかっていた。

 知らずがちがちと歯が鳴り、今にも膝が砕けそうになる。辰巳がこの場から逃げ出さなかったのは、偏に恐怖のあまりに身が竦んでしまったからに他ならない。

 これが……これが本物の魔獣というものか。

 恐怖という鎖で身体を雁字搦めに縛られながら、それでも頭の一部では冷静にそんなことを考えてもいた。

 生物としての階位が違いすぎる。魔獣という絶対強者に比べれば、人間など何とひ弱な生き物だろうか。

「う……ぐぅ……」

 ちらりと目だけを動かして隣を見れば、ジャドックもまた、真っ青な顔色で小刻みに震えている。

 彼──あえて「彼」と呼ぶ──ほどの戦士でも、目の前の魔獣から感じる恐怖には抗えないようだ。

 武器を構えた四本の腕がぶるぶると震えているのは、決して武者震いではない。

 と、そこでつんと彼の鼻を異臭が刺激した。

「あ……ああぁぁ……」

 ジャドックの向こう側にいたミルイルが、恐怖に耐えかねて立っていられなくなり、べしゃりとその場で尻餅をついていた。そして、その彼女の周りには異臭を放つ水たまり。

 どうやら、恐怖のあまり失禁してしまったらしい。

 だが、そのことを辰巳は笑うつもりはない。いや、笑えない。彼もまた、今にも失禁してしまうのを必死に堪えているのだから。

 それぐらい、恐怖という魔物に取り憑かれていただろうか。

 ふと気づいた時、それまで感じていた恐怖が綺麗さっぱりと消え去っていることに気づいた。

「あ……」

 ようやくそれだけを口にして、周囲をきょろきょろと見回す辰巳。そして、それまで魔獣が寝そべっていた岩から、魔獣の姿が消えていることにようやく気づく。

「…………逃げた……? いや、見逃してくれた……のか?」

 全身から一気に力が抜け、辰巳はその場に崩れ落ちた。

 おそらく斑山猫にとって、辰巳たちは歯牙にもかけないような存在なのだろう。

 こうして、辰巳たちの初の本格的な大型魔獣の狩りは、見事に失敗に終わったのだ。




「タツミさんたちもかなりの依頼を(こな)してきましたからね。ここらで大型の魔獣に挑戦してみてはいかがですか?」

 それは、〔エルフの憩い亭〕の女主人である、エルからもたらされた言葉だった。

 新しい年を向かえ、本格的に暖かくなってきた。

 王都近郊の森の中でも、数多くの野生動物などが姿を見せるようになり、それを餌とする小型の魔獣も時折姿を見せたりする。

 そんな小型の魔獣たちは、魔獣狩りたちに恰好の獲物である。

 もちろん辰巳たちもそれらの魔獣を狩りに出かけ、少なくない戦利品を持ち帰っていた。

 それまでは市販の革鎧や武器だった辰巳たちの装備も、魔獣の素材を得てより強力なものへと変わっている。

 特に辰巳たちが身に着ける防具の一部には例の大雪蜥蜴の皮が用いられており、防御的にはあまり意味がないものの、その事件を切欠にチームを組んだ辰巳とジャドックとミルイルにしてみれば、ちょっとした記念品(エンブレム)とも言えるものだった。

 そんな辰巳たちに、ある日エルが声をかけた。

 何でも、王都の近郊の森の中で大型の魔獣を見かけたという情報が入ったらしい。そして、その姿形からその魔獣が斑山猫と呼ばれる魔獣であることも確認されている。

「実は、魔獣狩りの間にはちょっとした伝統がありまして。この斑山猫を狩ることができて、初めて一人前と認められるんです。まあ、言ってみれば通過儀礼や洗礼のようなものですね」

 この〔エルフの憩い亭〕に集う魔獣狩りたち、その中でも熟練者と呼ばれる者たちは、皆この試練を潜り抜けてきたとエルが説明してくれた。

「カルセも……その魔獣に挑んだのか?」

 辰巳は、隣でちょっと心配そうな顔をしている妻に問う。

「はい……私も、かつては挑んだ経験があります。いえ、一定の技量を持った魔獣狩りならば、誰もが挑んだ経験があるでしょう」

 それはつまり、一人前と認められるためのテストなのだろう。

 ならば、辰巳たちが避けて通る理由はない。

「俺は挑戦してみようと思うけど……どうする?」

「タツミちゃんが決めたのなら、アタシは黙って従うのみよん」

「ええ、それで一人前と認められるのなら、私も是非挑んでみたいわ」

 どうやら、仲間たちもやる気のようだ。

「旦那様……斑山猫狩りは、旦那様たちが一人前と認められるための試練ですから……私は同行できません」

 カルセドニアが済まなさそうな顔で、辰巳に告げた。

 これが辰巳たちの試練であるのならば、既に試練をクリアしているカルセドニアが同行しないのは当然の流れだろう。

「うん、分かった。カルセは家で待っていてくれ」

「はい。旦那様たちのご無事を祈っております」

 辰巳たちはその後、エルから数日分の保存の効く食糧などを買い込むと、装備を確認して意気揚々と試練──斑山猫狩りへと出かけて行った。

 辰巳たちの背中が〔エルフの憩い亭〕の扉の向こうに消えた時、カルセドニアとエルは顔を見合わせ、ふうと大きな溜め息を吐く。

 と、そこへ一連のやり取りを見ていたらしい、この店の筆頭魔獣狩りの一人であるリントが困った顔で近づいてきた。

「タツミたち、武具や食糧の準備をしただけで、斑山猫狩りに行っちまったのか?」

「はい。それはもうやる気満々で。最近、タツミさんたちは、小型が相手とはいえ狩りに成功ばかりしていましたからね」

「ああ、そういう時期は誰にも一度はあるもんだが……あいつらはちょっと調子が良すぎたな」

 エルやリントの言う通り、辰巳たちは調子良く狩りを(こな)していた。それどころか、三人で組んで今日まで狩りに失敗したことがない。

「まあ、そのための斑山猫狩りなんだけどよ……《聖女》さん、あんたにゃ気の毒だが、今回のタツミたちの狩り……間違いなく失敗だな」

「はい。私も……旦那様たちが失敗して帰ってくると思います」

 寂しそうな顔をするカルセドニア。そんな彼女を見て、リントは苦笑を浮かべる。

「あんたの気持ちも分かるが、ここは我慢してくれ。これも魔獣狩りの掟みたいなもんだ。それに斑山猫は追い詰められない限り反撃してこない魔獣だから、あいつらが怪我をするようなこともないだろう。ま、今のあいつらじゃあ、斑山猫を追い詰めることなんてできないだろうがな」

 リントの言う「魔獣狩りの掟」によって、カルセドニアは今回の狩りには余計な口出しができない。

 失敗すると分かっている狩りに辰巳を行かせることは、彼女としては不本意なのだ。

 だが、それも今の辰巳には必要なことでもある。それが分かっているからこそ、カルセドニアは辰巳に何も言わなかった。

「ま、仕事に失敗して落ち込んで帰ってくる旦那を、新妻として優しく慰めてやるんだな」

 リントが、がはははと豪快に笑う。どうやら、ちょっと沈み気味の雰囲気を吹き飛ばそうと気を利かせているつもりらしい。

「私も、何か美味しいものでも作ってあげましょうか」

 おそらく、辰巳たちが帰ってくるのは早くても明日以降だろう。広い森の中で一体の魔獣を見つけるのは、決して簡単ではない。

 足跡や食べ残し、または落とした糞などから少しずつ魔獣の居場所を探し出さなければならず、それは熟練の魔獣狩りといえども、よほど運が良くない限り時間のかかる作業なのだ。

 おそらくは落ち込んで帰ってくるであろう辰巳を、どうやって慰めようか。カルセドニアは、そんなことを考えながら〔エルフの憩い亭〕を後にした。




 ぱちぱちと燃える薪を、ジャドックが枝先で突いて若干かき混ぜる。

 新たに空気が供給された炎は、一瞬だけ大きく燃え上がって周囲に火の粉を散らせた。

 その炎を、辰巳とジャドックは何も言わずにじっと見つめている。

 不意に辰巳は顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回した。

「…………ミルイルは……?」

「ミルイルちゃんなら、近くの水場よ。察してあげなさいな」

 そう言われて、辰巳も思い至る。彼女は汚れた身体を清めているのだろう。

「……一人で大丈夫かな?」

「正直、あまり誉められた行動ではないけど……今だけは仕方ないわ」

 間もなく完全に日が暮れる時間帯。そんな薄暗い中、一人で行動するのは危険である。それでも、彼女の心情を慮るのなら、今は一人にしてやるべきだろう。

「……魔獣って……本物の魔獣って、あんなに恐ろしいものなんだな……」

「正直、アタシも舐めていたわ。これまで、それなりにいろいろと戦いを経験してきて、恐怖を克服したつもりだった。でも…………あの魔獣を見た時に感じた恐ろしさは、初めて実戦に出た時なんて比べ物にならないわ……」

 辰巳とジャドックは互いの顔を見ることもなく、踊る炎をじっと見つめたまま言葉を交わす。

「……エルさんが言っていたように、あの魔獣を狩ることが一人前の証なら……」

「……これから先、もっと恐ろしい魔獣と対峙しなくちゃいけないってことよね……」

 今日辰巳たちが出会った斑山猫。辰巳たちの心に強烈な恐怖を刻み込んだあの魔獣は、所詮は一人前と認められる証でしかない。それはつまり、もっと恐ろしい魔獣が他にもたくさんいるということである。

 ジャドックの言うように、これからも魔獣狩りを続けていくということは、そんな斑山猫以上の魔獣と戦わなくてはならないのだ。

 だが正直言って、そんな自信は斑山猫を見た後の辰巳たちにはまったく湧いてこない。

 このまま魔獣狩りを続けられるのだろうか。そんな思いが辰巳たちの胸にはある。

 辰巳の場合は魔獣狩りはあくまでも修行の一環であり、将来の夢はカルセドニアと同じ魔払い師になることだ。

 だが、大雪蜥蜴の時のように〈魔〉は魔獣に取り憑くこともある。〈魔〉が取り憑いた魔獣は、より恐ろしい脅威となるだろう。

 そんな恐るべき敵と、果たして戦うことができるだろうか。

 辰巳は暗澹たる思いを胸に抱きながら、それ以降は何も言わずにじっと炎を見つめていた。


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